NHK広島 核・平和特集

広島の26歳 主婦「やすこ」1945年8月1日~15日のツイート

2020年12月25日(金)

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NHK広島放送局では、被爆75年のプロジェクトとして、原爆投下・終戦の年(1945年)の社会状況や当時の人々の暮らしを、3つのTwitterアカウントで発信してきました。
ここでは、広島の主婦「やすこ」の1945年8月1日~15日のツイートをまとめて掲載しています。8月6日は原爆が投下された日、8月15日は終戦を告げる玉音放送があった日です。
「やすこ」さんは当時26歳。新婚の夫「つぐお」は出征し、おなかには初めての赤ちゃんが宿っていました。8月当時は、広島の郊外で病院を営む夫の実家に疎開中でした。
※戦争の時代の社会状況を伝えるため、当時の日記などにもとづき掲載します。

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【1945年8月1日】 6:04
晴。八月に入りました。急に夏らしく今日も暑さが厳しくなりそうです。八幡様の妻の会に、お姉さま方といってきます!

【1945年8月1日】 15:17
歯医者から戻り、掃除や洗濯をして、今は東京の親戚へ宛てた手紙をかき終えたところです。今日は東京からも、つぐおさんからもお手紙が来ました。皆様お元気のようでまづまづ安心。さて、アイロンかけを終わらせましょう。

【1945年8月1日】 16:29
お義母さまは、夕方から二葉の里のおばさまのところへ泊りに行かれました。伸生さんがいよいよご入隊されるのでお見送りに。
私は、夕飯の準備を始めます!

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【1945年8月2日】 0:02
夜、手術の最中に空襲になりました。解除されたと思ったら、また空襲。
こんな夜にも、お産はあります。お義父さまは産科医なので、人一倍に責任があるのです。


【1945年8月2日】 0:44
忙しかった…。手術が全部終わってからお義父さまにご飯を差しあげ、その後に私達もばたばたと口に入れ、それから医師会の用事を済ませて……今やっと、ようやく眠れます。

【1945年8月2日】 6:15
今日も晴れ 暑くなりそう。今日は朝食の後歯医者へ行ってきます。
行きがけに東京へのお手紙も出さなきゃ。

【1945年8月2日】 13:32
お義母さまが二葉の里からお帰りになりました。先ほどから寝不足なのかフラフラするので、しばらく寝ようと思います…

【1945年8月2日】 20:03
昼間少し寝たおかげですっかりよくなりました!つぐおさんへ送る荷物の用意ができたのでこれから小包を作ります 送る途中で無くなったらまずいので小包を二つに分けて、とりあえず今日は一つだけ作りました。

【1945年8月2日】 20:29
今夜は涼しい風が吹いているので、気持ちがいいです

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【1945年8月3日】 5:59
曇り空です。朝のうちにつぐおさんへの小包を出して、歯医者に行く予定です。

【1945年8月3日】 14:05
喜久子さんと一緒に雑巾がけもでき、掃除がはかどりました。お義母さまは今日も廣島に用事で行かれたので、私がお義父様のズボン下を直しておかないと。

【1945年8月3日】 22:29
今朝つぐおさんへ小包を出しましたが、つぐおさんへの手紙をまた今夜も書きました。最近は暑さも厳しく、夜になっても蒸し暑い。更にうるさい蚊と、跳ね回るノミに攻められて不快でたまらない

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【1945年8月4日】 3:59
おはようございます。梅林へ切符を買いにいくために、早く起きました。いってきます!

【1945年8月4日】 7:06
家に帰る道すがら。
とても印象に残る風景をみました。
さて、朝食とします!

【1945年8月4日】 11:59
つぐおさんに小包とお手紙を出し、廣島へ出かけるお義母さまのお手伝いをし、掃除やら洗濯やらをして。色々とあるので今日は歯医者はやめにします。

【1945年8月4日】 12:00
お義母さま、最近は毎日出かけていって、お忙しそう。
私は少し疲れた!午後はゆっくりしましょ!

【1945年8月4日】 17:07
ゆっくりしましょ、と言いましても、やはり用事はありました
医師会の仕事をして、夕食のしたくをお手伝いして、そして晩御飯のあとも医師会の仕事が忙しそうです。

【1945年8月4日】 20:59
今朝は本当にきれいな景色を見ました。その中を歩くのは幸せな気持ちでした。

【1945年8月4日】 21:00
夜明けの清々しい空気を快く感じながら、
月見草の続く道を歩いてゆくのは楽しかった!
だんだん空が明るくなって月が消え、
東の方が美しく紅色に染まって、
大きな太陽が昇り始め、
家に戻った頃にはもう赫赫と照りつける日ざしは汗ばむくらいでした

【1945年8月4日】 21:59
今日は随分と暑かったので、お湯で体を流して体操!さっぱりしました!

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【1945年8月5日】 6:00
晴れ 今日も一日がんばります

【1945年8月5日】 13:11
お掃除や台所のお手伝い、医師会の用事も次々と出てきて忙しい!

【1945年8月5日】 20:00
堀場のお姉さまたちが廣島へ、建物疎開の当番に行かれたので、人手が足りず多忙を極める一日でした…。出産に向けての用意も色々しなくてはならないのに、毎日忙しくてなかなか手が回らない

【1945年8月5日】 22:01
あ、動いた!
おなかの赤ちゃんが動くのが最近分かるようになりました。また動いた。
元気に育っている証拠かしら?

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【1945年8月6日】 5:59
晴。暑くなりそう。

【1945年8月6日】 7:29
警戒警報が解除されました。朝から慌ただしいことです。
さて、朝食にします。

【1945年8月6日】 8:18
ものすごい光 地響き、家が揺れて 電気の傘やガラスがふきとんで

【1945年8月6日】 8:19
とにかく お義母様 子供たちに布団をかぶせなき

【1945年8月6日】 8:22
少しおさまった…? ひとまずは全員無事

【1945年8月6日】 8:34
お義父様や お義姉さまたち ほかの子供たちも無事 ひとまず家族に負傷者なし

【1945年8月6日】 8:36
でも、またすぐに次がくるかもしれない 気を緩めてはいけない…

【1945年8月6日】 8:37
来るべき時が、遂に来たのかもしれない。

【1945年8月6日】 8:39
怖いくらい静か…

【1945年8月6日】 8:40
え?あれは何?雲?
南…南の方角。
ピンク、紅、空色、紫の濃淡の雲が激しい勢いで湧きかえっている。
いったい何が…

【1945年8月6日】 8:43
診療所や洗面所、二階の窓ガラスはめちゃめちゃ。雨戸はそりかえってる。押し入れの天井は、吹き上げられて。土壁とほこりがおちて、畳の上はザラザラ。…どうなっているのでしょう。

【1945年8月6日】 8:45
みんなで手分けして掃除をしなければ

【1945年8月6日】 8:48
トラック?何やら騒がしい

【1945年8月6日】 8:50
トラックが来てる?けが人を運んできた様子
二十名ほど、ガラスで裂傷を負った方々
こんなに一度に来られたら、手当が間に合わない

【1945年8月6日】 8:53
義兄様方も先だって出征され、ここにお医者様はお義父さまお一人、看護婦六名に付添婦三名しかいないのに

【1945年8月6日】 8:54
私もお手伝いしなくては

【1945年8月6日】 9:14
お義父さまと看護婦さんは手術室に入られました。
手の空いている家族で手術場の外を。各々ができることを手伝うしかありません

【1945年8月6日】 9:17
トラックには人、人、人。二十名ほどでしょうか。
…中に一人だけ、傷のなさそうな少年がいたけれど、すぐに気が狂ったように暴れて死んでしまった。
廣島でいま なにがおこってるの…?

【1945年8月6日】 9:19
患者でいっぱいの待合室にダラダラと血が落ちる。真っ赤に染まったシャツ。直視できない。

【1945年8月6日】 9:20
廣島の街の二、三里四方は滅茶苦茶に潰れて、大火災になっているとのこと。
大やけどの負傷者が多数。潰され焼かれた人は数知れないそう。
けれど詳しくは誰も分からない、要領を得ません。

【1945年8月6日】 9:22
みなさんが口をそろえて直撃弾を受けたと
住所も方角もみんな違うのに、何故?

【1945年8月6日】 9:24
一体どれほどたくさんの爆弾が落とされたの?
これからも落ちるの?

【1945年8月6日】 9:30
二台目のトラックがきた

【1945年8月6日】 9:34
黒い?
え?これ


【1945年8月6日】 9:39
衣類が...裂けて、焦げて
何かぶら下がってる

【1945年8月6日】 9:42
皮がはげてる
赤いのは?真皮?赤身が見えてる!

【1945年8月6日】 9:45
これが…やけど?

【1945年8月6日】 9:59
負傷者を満載したトラックが次々と
歩いてくる負傷者も
歩けそうもないけが人も国道をぞろぞろ

【1945年8月6日】 10:02
打撲、裂傷、火傷
もう待合室に、病院に入りきらない

【1945年8月6日】 10:28
五色の入道雲。赤黒い煙。空は嫌な色に曇っている。

【1945年8月6日】 10:30
来るべきものが遂に来た

【1945年8月6日】 13:29
次々とトラックがやって来て、そのたびに患者がどんどんと増えていく。
待合室・診療場、分娩室までもう人で溢れて、玄関も、門からの砂利にもごろごろと横たわっている。

【1945年8月6日】 13:31
自動車小屋、タンクの下まで
患者がうなって、わめいて、泣いて
…受付も追いつかない

【1945年8月6日】 13:40
この人たちを全員、お義父様一人で診るの…?! 
ああ、ここにもっとお医者様がいれば…お義兄様や、つぐおさんがいれば…

【1945年8月6日】 13:41
つぐおさん……!!!

【1945年8月6日】 13:42
看護婦さん、水をください… やかんが空…。ああ、お茶を汲んでこなきゃ……

【1945年8月6日】 16:00
またトラック。
乗っている人は火傷が多く。
皮が一皮べろりとはげてぶら下がって
このトラックで来た人は、血を流したり、うみをもっていたり…目もあてられない。

【1945年8月6日】 16:00
膿んでいる体はおよそ二倍に腫れてしまって
顔…顔などは大きく醜くなって。二目とみられない様だわ。
打撲傷、裂傷も、もう見慣れてしまった

【1945年8月6日】 16:02
台所に行ってお茶を沸かします。
皆さんが炊き出しをしている。家族、子ども達のご飯も支度しないと…
こんなにたくさんの人へどうやってご飯をあげたらよいのでしょう。
もうどこもかしこも戦場のよう。

【1945年8月6日】 19:14
日が暮れてきた。電気がつかないため、提灯をともします。夜中に来る人の目印に玄関にも。

【1945年8月6日】 19:59
南の空が…廣島の街が燃えている
すさまじい炎
燃えてる竜が、のたうちまわっているかのよう

【1945年8月6日】 21:29
空襲警報。え……また…?この状況でどう………

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【1945年8月7日】 1:59
先ほどまで診療なさっていたお義父さまが休まれた様子。
明日も続くでしょうから、私たちも少し休むことに。

【1945年8月7日】 2:11
体がだるい。発熱しているみたい…

【1945年8月7日】 2:24
二葉の里も潰れて焼けたらしい
皆様はどうなったのでしょう

【1945年8月7日】 2:24
あそこには私たちの荷物が。両親が用意してくれた大切な花嫁道具があったのに
とうとう取りに行かない中に焼けてしまった
まぁ、あの様に醜いけがをしないですんだと思えば…
だけど、いるものばかりだった…本当に残念なことをした

【1945年8月7日】 2:30
つぐおさんのいるところで同じことが起こっていませんように

【1945年8月7日】 4:52
昨晩からの熱が下がらない。37度3分

【1945年8月7日】 4:53
体が重く思うように動けず、苦しいが寝ていられない。

【1945年8月7日】 5:11
え?もうお義父さまが処置なさってる?
いや、昨夜から休んでいらっしゃらないのだわ

【1945年8月7日】 5:29
小さな子ども達にこのような状況は見せられない。
赤ちゃんのいるお義姉さま達を病院で働かせるわけにもいかない。
まだ動ける私が頑張らなくては。

【1945年8月7日】 5:40
亡くなられた方は運び出され、たずねてきた家族に連れて帰られた人もいる。

【1945年8月7日】 5:41
昨日手当のできなかった人がまだ70人余りもいる。
夜中に歩いてきた人もいる。

【1945年8月7日】 5:42
負傷者は昨日より幾分か減ったように思う。
朝の光が待合室の中に射しこんでいる。

【1945年8月7日】 6:47
また人が増えてきた。
門から玄関の間は、罹災者と、たずねる家族が続く
往診依頼も来ているが…

【1945年8月7日】 8:53
罹災者は次々押しかけ、トラックも次々と人を運んでくる
受付、炊き出し、やることはいくらでも。
人手がいくらあっても足りません

【1945年8月7日】 9:00
待合室は勿論の事、診療場も玄関も門から玄関までの砂利の上まで重傷者でいっぱい
重傷者たちは主屋の居間にまで侵入するほど…

【1945年8月7日】 9:01
「先生に往診してもらわれんでしょうか」
ここに医者は一人。お義父さまが行けるはずがない。
朝からもうなんど断っただろう

【1945年8月7日】 9:11
死者は次々運び出され病院裏の河原で焼かれる。
嫌な臭いが立ち込めている
戦場…病院も、炊事場もどこもかしこも戦場のよう

【1945年8月7日】 10:14
こんなときにまた空襲警報

【1945年8月7日】 10:42
泣き面に蜂。
また廣島が機銃掃射でやられたと皆が噂している。

【1945年8月7日】 12:55
今日だけで百人余りの患者が押しかけて大変な騒ぎ。
もう薬もほかの材料もなくなった。それでも次々にトラックが来て、何十人もどんどんと増えていく。もう、できることが何もない

【1945年8月7日】 13:00
一緒に受付をしている清ちゃんが、トラックから患者を降ろそうとする救護班と大声で怒鳴り合って…ついに、うちではもう何もできないと受付を断った。
本当にもう、できることが何もないのだ

【1945年8月7日】 13:33
さっきあれだけ断ったのに、またトラックが患者を運んで来る。
もう限界なんです!と言っても、「じゃあ他にどこにもってけえ言うんじゃ!!見殺しにせえ言うんか!」と怒鳴られる。

【1945年8月7日】 13:50
庭に行くと先ほど断った重傷者が勝手に降ろされ放置されている。
どこの誰かもわからない。生きているか死んでいるかもわからない。

【1945年8月7日】 18:00
「新型爆弾じゃないか」との噂が流れている
確かに、今までの焼夷弾や爆弾とは様相が違う

【1945年8月7日】 18:00
白い火傷は二倍くらいにぱんぱんに腫れあがる…この白いのは脂肪層が見えてるそうで、赤い火傷より深く酷いらしい…

【1945年8月7日】 18:01
火傷の腫れ方がただ事ではないため、手当が済んだものでも片端から死んでいく
この様子では軽い人でも、傷が癒えるかわからない…

【1945年8月7日】 18:04
受付を断っているはずなのに、庭に負傷者が増えている。
救護トラックに放置されたのだ。動かない者がほとんど。

【1945年8月7日】 19:50
お義父様はずっと休んでいらっしゃらない。大丈夫だろうか。
手当はいまだに終わりが見えない。

【1945年8月7日】 21:56
今日もすべての人の手当をすることはできませんでした。

【1945年8月7日】 21:57
手当ができなかった人の中には、トラックを下ろされたところで自動車小屋やタンクの下で屍体となったもの、待合室で死んでいたものなどは十人以上。

【1945年8月7日】 21:59
ようやく明日、緑井国民学校の救護所に、病院にいる負傷者が全て移されるらしい

【1945年8月7日】 22:01
「あれ」は警戒警報解除後の突発時で、敵機は爆音を消して降下してきた。全然予告なしのことだったので、被害は一層に甚大だった。

【1945年8月7日】 22:02
ピカっと光ったのとたたきつけられたのと、同時に火事が出たのも、家がつぶれたのも、自分の衣類がさけて燃え出したのも、皆同時なのだから防ぎようもない。

【1945年8月7日】 22:03
家の中にいたりして、下敷きになったものは打撲傷を負ったかわりに火傷はなく、戸外で白い光にあたったものはひどく火傷を負っている。

【1945年8月7日】 22:04
思うに敵は新兵器をつかってみたのだろう。そのために今まで廣島を残しておいたのかと思うと全く口惜しい。

【1945年8月7日】 22:05
とにかくひどいことをされたものです。
上陸を迎え撃つことなど、この分では望まれない。上陸してくるより先にこちらが全滅してしまう。一刻も早くのるかそるかで出撃しなければ。

【1945年8月7日】 22:06
一体これからどうなるのか考えていると心境がどうにかなりそうで、いてもたってもいられない。

【1945年8月7日】 22:29
眠るに眠れないのです。つぐおさんはどうしていらっしゃるかしら。

【1945年8月7日】 22:30
折尾のつぐおさんへも、東京の実家へも、無事をお知らせしたいし、今度の爆撃の特徴を知らせたいけれど、郵便も不通でどうすることもできない

【1945年8月7日】 22:31
私は無事ですから、つぐおさん、お父様、お母様、弟たちも、どうかどうか、みんな無事でいてください…

【1945年8月7日】 23:00
相変わらず発熱…熱が三十七度台より下がらない

【1945年8月7日】 23:01
あの、受付を断った負傷者たちはどうなっただろうか。
可部の救護所に運ばれただろうか。

 

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【1945年8月8日】 3:13
また目が覚めてしまった。ああ…

【1945年8月8日】 3:33
夢を見ては覚めて、ちょっとした音にもハッとしてしまう。

【1945年8月8日】 5:47
まだ熱は三十七度台。

【1945年8月8日】 8:06
今から緑井国民学校へ、村人総出で負傷者を移動します。

【1945年8月8日】 14:12
ようやく、運び終わった。
元通りとはゆかないがどうやら片がついた。
お義父さまは救護所に行かれ、引き続き診療されるようです。
ここ三日で三百人くらい受け入れたかしらと皆で話す。

【1945年8月8日】 14:35
今朝とは一変して静かだ。がらんとした待合室。
診察場も、分娩室も、廊下も、玄関も、主屋の居間も、あの汚れやシミだけが残っている。
あの臭いがこびりついている。

【1945年8月8日】 16:31
大掃除をしましょう。
畳も上げてきれいに。
元通りに。

【1945年8月8日】 18:24
家族みんなで掃除をしていました。一心不乱に。
そろそろ夕飯の支度をしなくては。

【1945年8月8日】 18:28
電気がつき、モーターが動き、水が出るようになり。幾分便利になりました。

【1945年8月8日】 18:39
薪を取りにお勝手を出ると、もう夕暮れだというのに古川の河原で屍体を焼いている。あちこちで立ち昇る煙。
人を焼く臭いだけは、どれだけ掃除をしても消えない。

【1945年8月8日】 18:39
私の体からも、この三日間の臭いがする…お風呂に入りたい。
お風呂を沸かそう。

【1945年8月8日】 21:06
久しぶりの入浴。さっぱりした。
さっぱりしたけど後ろめたくもある

【1945年8月8日】 21:13
二葉の里のおばさまはお怪我だけで済んだそうです。
どの程度のお怪我か心配ですが、ひとまずは良かった。

【1945年8月8日】 21:14
だけどおばさま方は全焼とのこと。焼けた私たちの荷物のことを考えると気が滅入る。
両親の形見になるものもあったのに。

【1945年8月8日】 21:15
郵便はまだ不通でつぐおさんと連絡が取れない…廣島のことを知って、きっと心配なさっている。
早く無事を伝えたい。

【1945年8月8日】 22:29
休もうと横になったら空襲警報!
また「あれ」が来るかと思うと恐ろしい。

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【1945年8月9日】 1:59
警報が鳴った気がして目が覚めた。
嫌な汗。疲れているのにうまく眠れない。

【1945年8月9日】 4:30
夜中、うとうと夢ばかり見た。
休んだ気がしない。かえって疲れた。

【1945年8月9日】 5:59
晴れています。起き上がろうと思ったのですが、体がどうにもだるくて…。もう少し横になっておきます。

【1945年8月9日】 8:11
歯が痛いので、どうにか起き上がって歯医者へ行ってみましたが、今日もまだお休みでした。先日の空襲の影響でしょうか。

【1945年8月9日】 9:05
警戒警報だわ。動悸がして体がかたくなる。また爆撃があったらどうしたらいいの??

【1945年8月9日】 10:14
熱が相変らず下がりません。お腹の赤ちゃんに何かあったら…私のせいだわ。
だるくて、まったく今日は動く気になれません。また布団で休んでおこう…。

【1945年8月9日】 16:15
目が覚めたらこんな時間!こんなに寝たのは何日ぶりでしょう。いくらかすっきりとしたような気持ちがします。

【1945年8月9日】 21:41
熱がまだ下がらなくて…。どうしよう。
お腹の赤ちゃんへ悪い影響を与えただろうと思うと、泣きたくなる。
あんな…あんな惨い状況にこの子を巻き込んでしまって、このまま何かあって無事に生まれてこれなかったらどうしよう。

【1945年8月9日】 22:12
まさか、東京や九州へもあの爆弾を落としはしないだろうか。家族やつぐおさんのところであのような地獄があるかもしれない…。敵は次の手をどのように打つのでしょうか。

【1945年8月9日】 22:14
もう心配で心配でたまらない。つぐおさんにこの子を見せられないままに離れ離れに死に別れてしまうことがあるでしょうか。無事に三人そろって会うことができるでしょうか。
私の体はどうにかなってしまわないでしょうか。あぁ本当に不安。

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【1945年8月10日】 2:59
警報!避難します。

【1945年8月10日】 5:59
今日も晴れ。ここ数日、家の用事が全くできなかったので山ほど溜まっています。今日こそ片付けないと。

【1945年8月10日】 9:30
どうにも歯が気になるので歯医者に行ってみたけれど、やはり休みでした。
役場に寄って帰ります。

【1945年8月10日】 13:00
役場でもらった用事を済ませているうちにもう昼です。
家のことをやらないと。

【1945年8月10日】 16:29
午後はお義母さまのお手伝いをしました。リュックサックに名前を書いたり、手術着を洗濯して直したり。
まだまだやることがたくさんあるけれど、続きは明日。

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【1945年8月11日】 00:00
久々に親戚皆で集まり賑やかな話をしました。思い出話に花が咲き、本当に賑やかで。お開きにしがたく、こんな時間になりました。

【1945年8月11日】 0:18
横になるとお腹の赤ちゃんが動くのがよくわかる。
よく動くようになった。
赤ちゃんが生まれる頃世の中はどんなになっている事だろう。
授かってよかったのだろうか…

【1945年8月11日】 0:19
昨日の大本営発表で満州、朝鮮がソ連に侵攻されたとのこと。いよいよ本土決戦が近づいてきた…。
そのためにつぐおさんは折尾にいるのだから…

【1945年8月11日】 4:44
夜半に目が覚め、前途を色々と考えると余りのことに途方に暮れて…考えこんでいるうちにもう朝です。

【1945年8月11日】 9:24
今日も晴れです。歯がうずくので、どうしても歯医者に診てほしくて行ってみたけれど、やはり今日も休みで駄目でした。
帰ってたまった洗濯をして、アイロンがけしなくちゃ。

【1945年8月11日】 10:12
警報!

【1945年8月11日】 16:39
炊き出し米や、隣組一括の立て替え米や、罹災者の応急米を、取りに行ったり預けたり。夕方までかかったので、結局家のことは何もできなかった。

【1945年8月11日】 16:44
やる事はたくさんあるのに、こんな事では一向にできない。
今後も度々空襲があれば本当に何の用もできない。

【1945年8月11日】 21:59
敵はまた長崎へあの新型爆弾を使用したとか…廣島と同じく長崎もまた壊滅か。
この調子でやられると日本の都市はたちまちなくなってしまう。

【1945年8月11日】 22:00
私たちの国はこれからどうなるのだろう

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【1945年8月12日】 7:04
朝から警戒警報…。今、解除になりました。今日も晴れ。立秋を過ぎたというのに、まだまだ厳しい暑さ…

【1945年8月12日】 8:39
この間からの衝撃やら疲労やらでご飯が少しも美味しくありません…今朝も少ししか食べられなかった。お腹の赤ちゃんの分まで食べなきゃいけないのに。困ったものです…。さぁ、後片付けをしなくては…。

【1945年8月12日】 10:10
このところ一日に何度も警報が出たり解除になったりして、以前は「緑井は大丈夫だろう」とすましていたけれど、もうそうもいかない。
警報の度に家事を中断し避難。全く気忙しいことになりました…。 

【1945年8月12日】 13:07
これからお義父さまの散髪をして、そのあとは診察着や布団カバーのアイロン掛けをします

【1945年8月12日】 21:15
毎月十二日はつぐおさんとの記念日。
結婚して一年十ヶ月。
いつものようにつぐおさんにお手紙を書きたいけれど、郵便が通じていないのでどうしようもありません…

【1945年8月12日】 22:00
満州でも激戦中とのこと、東北地方も大空襲を受けた様子。弟たちが学童疎開している、鶴岡や日光も危なくなってきた…。

【1945年8月12日】 22:00
つぐおさん、東京のお父さま、お母さま、弟たちや親せきの皆さん…。
離れていると、空襲の度にどうだったろうかと心配になります。

【1945年8月12日】 22:09
勝ち抜く日まで、また会える日まで、みんなが無事で生き残ってほしいと、いつもいつも思う。

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【1945年8月13日】 5:59
今日もよく晴れています。何となく疲れがとれなくてだるい…。今日も用事はたくさんです。

【1945年8月13日】 8:31
熱もあるみたい…。でも、これからつくろい物をして、お義父様の医師会のお仕事を手伝います。

【1945年8月13日】 17:47
だるくてだるくて…。午後は石鹸を切って箱に詰めたり、鼻緒を作ったり、お使いに行っただけで、洗濯ものも掃除も怠けてしまいました。これではいけないのだけれど…。

【1945年8月13日】 23:17
ソ連は綏芬河、東寧、ハイラル等まで侵攻して来た様子。空襲も大分受けたらしい。関東地区へは五百機が襲来したのだとか…。こちらにもまた来るのでしょうか。

【1945年8月13日】 23:22
死ぬのなら、三人一緒に吹き飛ばされてしまうのならいい。
別れ別れになって、この間の人たちのような火傷をして、醜い姿になって死ぬのはどうしても嫌。

【1945年8月13日】 23:25
赤ちゃんがよく動く。
赤ちゃんと、赤ちゃんのお父ちゃまと、三人になるまで、三人揃うまで無事でいたい。

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【1945年8月14日】 5:59
晴れ。

【1945年8月14日】 7:59
お義姉さまと子供四人、喜久子さん、登喜ちゃん、堀場のお義姉さま、清ちゃん、信ちゃん、元ちゃん、武ちゃん…と、総勢十二人で、荷車を引いて山へ薪木を取りに行きます。
お盆なのでお墓参りもしてきます。

【1945年8月14日】 11:00
見晴らしの良い場所から廣島方面を見た。
なにもなかった…。
見えるはずのない廣島湾がきらめいていた。

【1945年8月14日】 11:00
本当に、ほんとうに、すべて燃えてしまった……。

【1945年8月14日】 15:59
薪木取りから帰った後は洗濯物を済ませて、昼ご飯のあとちょっと休めました。
これからお風呂炊き、夕飯の準備です。
夜は鼻緒作りができるといいな。

【1945年8月14日】 21:00
お盆なので、家族で集まって葡萄酒を飲んだり、桃を頂いたりしました。
久しぶりで、おいしかった。

【1945年8月14日】 22:59
こうして賑やかに暮らして居ると、毎日毎日忙しく経っていくけれど、こうしていて結局どうなるのだろう。六日の空襲のように、いつどういうことが起こるか解らない。

【1945年8月14日】 23:04
戦争の前途を思ったら、本当に悲しくなる。
京都や二葉の里で暮らして居た時のことなどを次々思い出して、空襲管制の暗闇の中で涙がひとりでに流れてくる。

【1945年8月14日】 23:09
つぐおさんはどうしていらっしゃるか…。
郵便もいまだ途絶えている。つぐおさんへ送った小包も、一体どうなったろう。

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【1945年8月15日】 5:59
晴れ。雲の様子に、少しだけ秋を感じます。

【1945年8月15日】 7:20
本日正午に重大な放送があるとのこと…。昨夜もラジオで知らせがあった。

【1945年8月15日】 10:36
重大な放送とは何でしょう。お掃除や洗濯をしながらも、朝からそのことで頭がいっぱいです

【1945年8月15日】 11:53
親戚の皆さんもラジオを置いた部屋に集まってきました。天皇陛下は何をおっしゃるのでしょうか…。落ち着かない。

【1945年8月15日】 12:37
なぜ…

【1945年8月15日】 12:38
なぜ!!なぜ最後の一人になるまで戦わないの…!!

【1945年8月15日】 12:40
日本は遂に、米、英、ソ、支の四か国に対し降伏した。降伏した……。日本は、負けたのだ……

【1945年8月15日】 12:41
涙がぬぐってもぬぐってもあふれ出る 胸が張り裂けそう

【1945年8月15日】 12:42
八年に渡る長い戦いは一体…今日のこの日のために苦しくも続けられたと思うと…

【1945年8月15日】 12:43
逃れることのできない運命のような予感はしていたけれど、それがこんなにも早く来るなんて こんな日が来てしまうなんて

【1945年8月15日】 12:47
悲しい 口惜しい…くやしい…!!!

【1945年8月15日】 13:16
天皇陛下はこれ以上国民が傷つくのを見るのにしのびないと仰せになった

【1945年8月15日】 13:17
この御仁慈の前に、国体を護持する事が許されるだけでも感謝しなくてはならない

【1945年8月15日】 13:18
でも、それでも…八年に渡る、私たちの苦しい日々は、一体、いったい…

【1945年8月15日】 13:22
なぜ…?なぜ!?どうしてなの…

【1945年8月15日】 13:27
みな呆然としてしまっている。お義父さまも涙を流していた。私もやることがあるはずなのに、体に力が入らない…

【1945年8月15日】 17:13
何も手につかない。
余りの事に皆、茫然として成す所を知らず。私も今日はただ、午後の半日を無為に過ごしてしまった
子どもたちがお腹が空いたと言っている。
夕飯の支度を始めないと。

【1945年8月15日】 17:27
本土決戦はもうない。
廣島の爆撃とソ聯の参戦が遂に敵の上陸を待つことを許さなかった。

【1945年8月15日】 17:30
原子爆弾の威力。持てる物資、資源の偉大さ。
私どもは今日のこの煮えかえる様な胸の中に、このことを強く強くやきつけておかなければならない。

【1945年8月15日】 17:34
北海道、本州、四国、九州のみを残して、多年の努力の結晶である朝鮮も満州も台湾までも、皆かえさなければならない。
満州、台湾は日本の食料の要…これではこの先酷い飢饉になるでしょう
※注 当時の社会状況を伝えるため、被爆されたご本人の日記や、取材にもとづいて掲載します。

【1945年8月15日】 17:36
政治と経済の自由を与えられるという事も、奴隷化しないという事も、どの程度の事までなのか…
これまでも敵の支配を受けた国は数知れず、いざとなったら日本も、どんな非道いことを言い出されるか解らない。

【1945年8月15日】 17:41
軍は武装解除され、軍需に関するすべての事業は停止され、軍需でない産業に従事させられるという話で、日本は丸腰になってしまう。これではますます何をされるかわからない。

【1945年8月15日】 18:53
これからどうなるのでしょう
今後世の中がどういう風に変わるか皆目見当もつかない

【1945年8月15日】 18:55
悲しい
悔しい
心許ない
情けない
腹立たしい
恐ろしい
虚しい
涙が止まらない

【1945年8月15日】 21:54
あぁ情けない。敗戦国となったことの情けなさ。
これからは、ただ、おごれる敵の、思う通りにならなければならない。本当に情けない。

【1945年8月15日】 21:58
あちこちが爆撃でやられ、廣島のように壊滅した。
このように手も足ももがれてしまっては、日本は十年や二十年は身動きも出来まい

【1945年8月15日】 22:09
しかし日本が負けるなんて…。昨日まではまだ、一筋の望みがあったものを。
残念。実に何という残念な事だろう。まるで納得がいきません。

【1945年8月15日】 22:09
三千年の光輝ある歴史に黒点を印した。私ども国民の責務は大きい。

【1945年8月15日】 22:12
しかし、どう責務を果たせるのでしょう。
国の富も、力も何もかもを失った今、私どもにはどうする事も出来ない。
隠忍自重、再起の日を子や孫の時代に念じて、努力するほかは、ないのです。

【1945年8月15日】 23:02
つぐおさん…。
これまでの度々の九州の爆撃が心配。もしも、ご無事でいて下さったとしたら、
また、元気なお顔を見せて帰ってきてくださるはず。

【1945年8月15日】 23:03
でも、また一緒に暮らせることは嬉しいけれど……
帰っていらっしゃるお心の中を思うと……
何とも言われない心地がする。
日本のために、最後まで力を尽くすおつもりだったのに、このようなお帰りになるとは…。

【1945年8月15日】 23:25
東京の親戚たちも、今日まで無事でいてくれたとしたら、まずまず有難い。
でも、軍人としてこれまで尽力した、弟の英ちゃん昌ちゃんの心中を思ったら……
何といったらよいのか、察するに余りある。

【1945年8月15日】 23:32
首相を務められた小磯の伯父様も、生きてはいらっしやれまい。
「やっちゃん、やっちゃん」とかわいがって頂いたのに。

【1945年8月15日】 23:43
あれを思いこれを思い、思い余って、また涙が流れてくる。

【1945年8月15日】 23:50
今日の悲しい日永久に忘れまい。

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※1945年当時の日記などをもとにTwitterで伝えてきたこのプロジェクトの目的は、戦争の記憶が薄れつつある中、若い世代に被爆体験を継承し、戦争の時代の社会状況についてリアリティーをもって伝え、考えていただくことにあります。
「やすこ」のモデルは、1945年当時、広島の主婦だった今井泰子さん(26)です。広島ゆかりの若い世代が今井さんの日記を読み、その味わいを大事にしつつ、現代の感性を加味し、想像を膨らませて作成しています。日記のほかに当時の新聞や関係者への取材なども参考にしてます。時間は、日記などをもとに推定。必要に応じて注釈をつけます。