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【チエノバ12月】松本俊彦さん「安心して"死にたい"といえる社会を守るためには」

2017年11月06日(月)


松本俊彦さん「安心して 死にたい といえる社会を守るためには」


自殺系サイトを悪用した座間市の事件、本当に悲しいです。

「死にたい」と誰かにつげる行為には、「死にたいくらいつらいが、このつらさが少しでもやわらぐのであれば、本当は生きたい」という意味が込められています。

そして、安心して「死にたい」といえる社会、あるいは人とのつながりこそが、人を自殺から守るのです。

自殺系のサイトや掲示板がいけないと結論するのは、待って欲しい。

まず考えるべきなのは、安心して「死にたい」といえる安全な場所を死守するにはどうしたらよいのかではないでしょうか。

松本 俊彦(精神科医)

 

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 2017年12月7日(木)夜8時生放送[再放送:14日(木)昼1時5分]

【特設サイト】自殺と向き合う / #8月31日の夜に。
相談窓口はこちらからご覧いただけます。【テーマ別情報】自殺

コメント

内定後に希死念慮が抑えられない時期があり,この時に「死にたい」と言える環境がどこかホッとすると感じた.死を考えるまで辛い状況であり,その時には自分の力でどうすることもできない状況だと追い詰められてしまい,「死にたい」という感情が湧き上がることがよく分かった.
現状,社会は「死にたい」という言葉に対して適切に対応できていないと感じている.「信頼してほしい」と言われたので内定先の人事の人たちに「追い詰められたように感じて死ぬしかないかなと思った」と言ったところ,内定取消しの旨を言われた.この発言に対して弁明の余地も与えてくれなかった.「働けません」とも言われた.私自身,希死念慮が抑えられない時期を経たからこそ,努力して対処できるようになった.その努力をすべて否定された気がしてとてもつらい.もう少し,優しい社会になってほしいと思う.

投稿:わし 2018年02月10日(土曜日) 12時38分

どうしようもなくなった時に、「しにたい」と検索します。
自分ではSNSに本当の気持ちを書くことはできないけれど、ネットに書かれているたくさんの「しにたい」という書き込みを見て、かわりに言葉にしてくれているような気持ちになることがあります。
自分と同じ気持ちや状況の人が居なくても、誰かの書きこみを読んでいると、自分では言葉にできないくらいごちゃごちゃした心が少し落ち着く気がします。

何を話せばいいか分からないから、自分の相談をすることはできないけれど、誰かの書きこみを読んでやり過ごせる日がある。
それが正しいかは分からないけれど。

「しにたい」と書きこむことが規制されるとしんどいのと同じくらい、「しにたい」って検索して電話相談の案内しか出てこなくなったら、しんどいと感じる人もいるように思う。

投稿:のら 2018年01月31日(水曜日) 06時12分

自殺サイトは要らないです。

恨み辛みをこのようなところで書くと、
それを拡大再生産してしまう。
それこそ本人にとって害悪なんじゃないかと思うのです。

死にたいと吐ける場所は必要かもしれない。
でも書いているうちに自分の考えが悪くなるくらいなら
書かずに瞑想でもしていた方がいい。

せめて自分の生き死にくらいは自分勝手にさせて欲しい。
生きようが死のうが、どちらも選択じゃないですか。
誰のせいでもない。自由に死ぬことは、自由に生きることだ。


投稿:死にたいさん 2018年01月15日(月曜日) 23時53分

悪意の人には抵抗できるかもしれない。でも善意の人には…。抗えば抗うほど自分が惨めになる。
「あなたらしく」って言うけれど、私を私らしくいさせてくれないのはなぜ?
「苦しい」「死にたい」「助けて」が言えないのは、私に勇気がないからじゃない。言わせてくれないからでしょう?

投稿:ぴよこ 2018年01月12日(金曜日) 22時56分

私も、絶対に安心して死にたいと言える場所は必要だと思います。なぜなら、まず家族には、特に親には言えないしかといって自分1人で抱えていたら頭の中を「死にたい」という言葉が占領していってどうしようもなくなるからです。どこかでその言葉を吐き出すだけで心の中に少しスペースができるのに、それすらできなくなると苦しくて辛くて……とりとめのない文章になってしまいましたが、私は先生の意見に賛成です。

投稿:ひまわり 2018年01月10日(水曜日) 17時45分

なんか論点は違うかもですが、僕はただひたすら必死で一生懸命に努力を毎日しています。でも発達障害で能力が低すぎて、世の中にとって不必要な人間です。死にたくはないけど、死なないと迷惑。世の中にとって生産性もなく、世の中の役にたてない僕のような人間はたくさんいる。皆が邪魔だから死んでってのが本音。だから生活保護なんかも受けてる人を否定をするし、障害者支援などを僕が受けたとしたら、税金で生きやがってグズが。今すぐ死ねよ。ってなるのが世の中。昔のように終身雇用とかなら時間をかけて世の中に返すってこともできたかもしれない、その頃もきっと障害者はいっぱいいた。今のように即戦力を求める世の中では人に時間をかけて育てたりしない。だから社会から溢れた不必要な人間はどんどん増える。皆でそういう社会を選んだんだから、安楽死でも法律で定めないと僕のような無駄な人間が死ぬ勇気もなくのうのうと生き続ける。今回起こった事件はそういう話な気がする。死にたいじゃなく、死ななければならない。迷惑をかけてしまうから。誰かに生きてていいよって言ってほしい。でも言われたところで現実は違う。死なないといけない。でも生きたい。この繰り返し。社会が優しいだけで本当は解決する。でもそんな国じゃない。だからもっともっと起こる。これからずっと。もっともっと。

投稿:しんり 2017年12月21日(木曜日) 21時21分

私の幼馴染が、この事件に巻き込まれました。
衝撃の大きさは計り知れず、この先いつ乗り越えられるのか、なぜこんな結果になったのか、この気持ちをどこにやればいいのか、今はまだ何もわからない。
彼女がこの世の中に対して主張したかったこと、苦しんだこと、助けを求めていたこと、崖の端まで追い詰められていたこと、私は捉えることができませんでした。
残された家族、友人、今まで彼女に関わってきた者は、この事件の背景をどのように理解すればいいのか、分からない。
でも、彼女が確かにこの世に生を預かり、ちゃんと生きていたこと、私たちが忘れることは絶対にありません。
なぜ若者に自死を思い起こさせるまで、生きにくい社会を作ってしまったのか、我を失うまで働きづめの方達を電車のホームで見ていると、この人たちも悪いわけではないし、この気持ちの行き場はどこにあるのだろうかと思う。
本来の在り方を忘れてしまった人間は、他人を無意識に追い詰めていることを知って、未来の子供達のために思考を働かせてみてはどうだろうか。

投稿:麻 2017年12月14日(木曜日) 13時51分

小中学校のころは死にたいと言うことを口には出してはいけない、助けを求めてはいけないと思っていました。しかし、高1になり自分の我慢の限界になり、SNSに自分の気持ちを吐き出すことが唯一の助けでした。高3の今も、ただ、分かってほしい。だだそれだけなのです。もちろん、助けほしいですけど、多分無理だと思います。だから、一緒に共感してほしいだけなのです。

投稿:カナメ 2017年12月13日(水曜日) 15時13分

「死にたい」と願う意思を強引に「生きよう」と変えさせること自体が横暴なのではないでしょうか?
私は中年へ差し掛かってから診断された発達障害者です。
幼い頃から家庭・学校・社会というあらゆる場で嫌悪や疎外の対象とならざるを得ませんでした。
しかも今思えば発達障害が故に「どうしたら普通に周りへ順応できるのか」すら分からず飲み込めず、この世が根本的に生き地獄なのです。
障害者同士であっても諍いにぶち当たり平穏に生きられる術も場も無いのです。
そもそも発達障害自体が、どうしても「欠点の集合体」を生む原点でしかないからです。
けれども現実に日本では発達障害者でも生きる以外の選択肢を認めてくれません。
死を全否定する社会通念しかありません。
でも生きること自体が苦しく絶望しか味わえない発達障害者には廃人という惨めな末路しか想像できません。
発達障害者に限らず自殺願望者を本当に救いたいのであればオランダなどみたいに安楽死を合法化させることしか方策は無いと当事者としても考えています。
早く『死を選ぶ人権』も肯定されてほしいです。
そうすれば反って安易な自殺願望は減ると思います!

投稿:シャレコーベ 2017年12月13日(水曜日) 13時57分

ほとんど毎日死にたいと思って自傷をしてしまいます。
リアルで会っている友達は私の本当の気持ちは知りません。
友達が信用出来ない訳ではないのですが、友達に死にたいなんて言ったら否定されると思います。なので、SNSで自分の気持ちを吐き出しています。SNSに吐き出していないと今の自分が壊れそうです。

投稿:フレイア 2017年12月12日(火曜日) 14時18分

僕は自殺しようとしている人を止めようとは、もう思いません。

ただ、僕が今までに得てきた情報を明るく伝え、それでも行くのかどうか、一つの選択肢を作ります。

そして、その人が出した答えを尊重したいと思います。

今なら、それができるような気がします。

投稿:賢太 2017年12月12日(火曜日) 00時16分

辛いことはないけど長生きしたくないので死にたい人もいます。
死にたい人が辛い悩みを抱えてる人間ばかりだと思わないでほしい。

投稿:匿名 2017年12月09日(土曜日) 21時08分

死にたいという言葉、使ってもいいのだと思うのですが、それ以外の言葉や表現方法を持つべきです。本人だけに責任を押し付けるつもりは、ないのですが、日本の知識偏重、理性偏重の教育が問題なのだと、思います。自分の考え、感情を表明する方法を学ぶべきです(ポジティブな感情もネガティブな感情も。)。今の教育だと下手したら、個人の感情など放られっぱなしです。
 もっと、教育にアートやクリエイティブな側面を入れるべきなのだと思います。
 あと、心の拠り所を持つことだと思います。それは、適切な人との出会いかも、知れないし、何かの創作活動かも、知れないし、運動かも知れません。自殺願望で頭や感情が支配され、正常な状態に戻って来にくくなる前のケアが特に大事だと思います。

投稿:やっくん233 2017年12月07日(木曜日) 20時56分

夫を自死で亡くしました。夫は、学生時代に自殺に傾きかけた人を支える活動をしていましたから、電話相談などの情報は知っていたはずです。より良い医療経済を考える仕事に就き、過労により心を病んでしまいました。人一倍頑張り屋の彼は、それを隠し通し、1人力尽きて自らこの世を去ってしまうという選択をしてしまいました。本当に絶望に陥った時は手遅れなのだと思いました。そこに至る前、社畜として死ぬのかな、鬱じゃないと思うんだけどね、なんて冗談を耐えている段階で、もっと危機感を持っていなければいけなかったと後悔しています。周りが頑張れと励ますほど苦しくなっていく彼を、どうしたら救えたのか。自殺は身近な大切な、頑張り屋で真面目で誠実な人に起きるのだという認識がなされるべきです。昨今の新聞、テレビ報道ではそこのところの報道に欠けているように感じます。注目を浴びた電通事件、座間事件などをきっかけに、社会全体の大幅な意識改革が必ず必要です。それが被害者と残された遺族のためになり、これからを生きる人にとっては後追い、模倣犯を減らすことに繋がるのではないでしょうか。

投稿:R 2017年12月07日(木曜日) 20時43分

ただ聞いて欲しい時があります。わかってくれる人に。

投稿:いきもの 2017年12月07日(木曜日) 20時15分

今回の事件とsnsについて。私は、実際に、ツイッターやネットの掲示板で「死にたい」と呟いたことがあります。今でもたまに苦しくなるとネットに吐き出します。それは、家族や友達に言えないから。言ってはいけない言葉だから。悲しませること、怒らせること、困らせることを知ってるから。だから、ネット上に助けを求めるんです。私のことを知らない誰かが、sosを拾ってくれて、話を聞いてくれたり、優しく声をかけてくれる。それがどんなに限界まで追い詰めた心を癒し、支えてくれることか。幾度となく自殺を考えた私が生きてこられたのは、ネットで共感し、話を聞いてくれる人がいたからです。
でも、今回の事件で、亡くなった人がいることも事実です。ネットという世界はとても便利だが、怖い。最後の心の叫びが、このような最悪な形で悪用されたことはとても憤りを感じるし、悲しいです。この事件で考えて欲しいのは、「死にたい」と叫ぶことが悪いのか、ネットに書き込むことが悪いのか?いや、そうじゃない。ネットの中にしか居場所がなくなるほど、孤独にしてる社会全体の雰囲気。また、ネットに吐き出すことができるなら、そのネットの中でどのようにしてその声を拾い上げ、悪用させずに安心して呟ける場をいかにして作っていくかが大事だと思う。私は、今、沢山の人や団体が、掲示板やメール相談、電話相談を行なっていることを知っている。とても安全で、救われてる人も沢山いるだろう。私は、そんな人たちの活動がもっともっと、認知されていくべきだと思う。私もそんな活動がしていると知ったのは、いろんなところをいろんな検索方法で必死に探したり、たまたま友人やネットの人に教えてもらったからだ。ほとんどの人がそんな場所があることをしらない。だから、もっと、死にたいと思う人が、ツイッターで一緒に死ぬ人を求める前に、いろんなあなたの話を聞いてくれて、助けてくれる場所があるということを知ってもらいたいし、そんな場所が増えていってほしいと思います。リアルでもネットでも、どうか、弱音を吐いても許し合い、助け合える世の中となりますように。そして、こんな事件が二度と起きないことを願います。

投稿:ひまわり 2017年12月06日(水曜日) 14時27分

生きていて楽な人なんてきっといない。
みんなが自分でいっぱいいっぱい。

死にたい、を拾ってあげたくても、できないひとだってきっと多い。
そんな良いひとに深い傷を負わすような「死にたい」なら、私は飲み込む。

拾い上げてから消えてしまうより、何でか判らない方が、きっとダメージは少ないから。


現実世界で「死にたい」を繰り出すことは、自分がしたその選択でその人を、傷付ける可能性が高い。

でもSNSなら?

見る人の、自由。選択は自分でなく、相手がするものとなる。

助けてあげたい、とそう思う人が、何かしてくれるかもしれない。そう、彼女らは思ったんじゃないだろうか。


危ないんだ、そう示すことは大切なんじゃないだろうか。

だったらどうしたら良いのかなんて、私には分からないけれど。

投稿:今際 2017年12月06日(水曜日) 00時44分

「死にたい(くらいに辛い)」と安心して言える社会である前に弱音を吐いて許される社会にしたいと思う。
弱音を吐く者=ダメなヤツ=敗者、という烙印を捺されるて排除される世の中は辛さに耐える者には優しくない。だから「死にたい」まで追い詰められる。

「死にたい」になる前に「辛いよ」と弱音が吐けたら、誰かに「そうだよね」って受け止めて貰えたなら、死にたくなる日はそうそうやって来ないと思う。

平気なふりをして強がって頑張っていた頃の私は実際にはとても弱くて脆かった。人からは「えらいね」「強いね」と評価されていても嬉しくもなく、弱音を吐く人に対して心では「その程度で」と思っていた。

弱音を吐いて泣き明かす夜が増えた今のほうが、そうできる今の私のほうがあの頃よりはるかに強くなっている。弱音を吐く人も受け止められるし、弱音に対して「その程度で」と突き放す人のことも許せるようになった。突き放されても「この人も余裕がないだけ。何かに耐えて辛いのかもしれない」と思えば無駄に傷付くこともなくなった。死にたくなるほど追い詰められることも少なくなった。

弱音を吐いて泣き明かしたらまた立ち上がれる。人はそういう生き物だ。
弱音を受け止めてくれる誰かの存分が人を強くする。それが人間社会の大切な機能だ。
そうでなければ人が社会を形成する意味はないと思う。

投稿:ふう子 2017年12月04日(月曜日) 23時02分

「死にたい」と言える社会を作っていくことは、不可能に近いと思います。「死にたい」と周りに言えば「あの人はいつも病んでいる」、「そういう考え方しか出来ない」、「構ってほしいだけ」、「あの人はめんどくさい」、「あなただけが辛いのではない」等と思われて、余計に生きづらくなります。

投稿:風の子三太郎 2017年12月04日(月曜日) 07時26分

死にたくてたまらない時、居場所がないと感じた時、生きていても価値がないとしか思えない時、自傷行為を繰り返してきました。生きていくための行為がエスカレートして自分では止められなかったです。絶望しか抱けない、家族に「死にたい、もう疲れた」と言えば、病院に連れていかれ隔離され入院させられました。自傷行為をしていれば、「こんなことを入院中にしないで」と約束させられました。それから、「死にたい」って言ってはいけない言葉なんだと思いました。今まで耳を傾けてくれる医師には出会えませんでした。大量服薬をして自殺未遂に終わったこともありました。誤嚥性肺炎を起こしましたが、死ぬ事はできなかった。「死にたい」と訴えれば、また始まったとしか思われない、話はスルーされて終わります。「死ねないくせに」と思われるんでしょう。それが悲しいです。

投稿:莉子 2017年12月02日(土曜日) 23時47分

鬱の治療中ですが、パニック発作も出てしまい、PTSDもあるようです。治療も上手くいっているとはいえません。が、精神科の先生に死にたいと、言えば、死んじゃダメだよ。と優しく言ってくれます。内科の先生も、胃痙攣が精神的な物と分かっていても、この日に発作を起こした事を前回、言い忘れました。と、言っても、そうだね鬱で寝込む3日前だからね。と、優しく言ってくれます。あの時先生が死んじゃダメだよと、言ってくれたと思い出すと涙が出てきますし、内科の先生なのに私の状態をしっかり診ていてくれています。死んでもいいと思っているのは、自分だけだと感じます。自分のPTSDの闇と闘うのは自分ですが、先生達が助けてくれている事を思い出して生きています。

投稿:ちんちゃん 2017年12月02日(土曜日) 02時03分

安心して「死にたい(くらいに辛い)」と言える社会、の前に「弱音を許す社会」を作りたい。
弱音を吐く者=弱い人間として弾かれない社会であれば「死にたい(くらいに辛い)」まで追い詰められることも少なくなると思う。

実際に私は弱音を吐けるようになって強くなってきている。弱音を吐かずに強がって「凄い人だね」と評価されていたときよりも散々泣いて弱音を吐く今のほうがメンタルは丈夫になった。

辛くなったら弱音を吐いて、泣き明かしたらまた立ち上がれる。人間ってそんな生き物だと、社会のみんなが知っていればもっと生きやすい世の中になると思う。

投稿:ふう子 2017年12月01日(金曜日) 23時02分

今の日本で「死にたい」と思ったことがある人は多いと思います。しかし、それを人に打ち明ける人は少ないと思います。その背景には、日本においてメンタルヘルスの問題がタブー視されているような偏見があるからです。また、そのようにタブー視されているのは、メンタルヘルスについて多くの人が誤った考えを持っているからだと思います。オーストラリアでは2000年からMind Mattersという包括的学校精神保健プロジェクトが開始され、全国中学校・高校の7割以上で導入されているそうです。このMind Mattersプロジェクトでは生徒の精神的健康度を向上させるともに、精神疾患についての正しい知識を普及することを目的として進められています。日本においても、学校教育カリキュラムの中で、メンタルヘルスの問題について扱い、思春期の時期など悩むことや、死にたいと思うことは決して異常なことではないことを伝えたり、実際に生徒同士で相談するロールプレイを行ったりして、悩んだらいつでも教員や周りの生徒に相談できる体制を整えることが大切だと思います。また、家庭内でも子どもが親に相談できるように、保護者を対象に、子どものこころの問題についてメンタルヘルスリテラシー教育を行うことも重要だと思います。
今の日本社会では、「死にたい」と思いながら生きている人も多い中で、「死にたい」という気持ちが分からない人も多く、そういった気持ちが分からない人々は、恐らく「死にたい」と思う人に対して、自分が理解できない気持ちを持っているという点で「怖い」という感情を抱いているのではないかと思います。
学校教育の中で、「死にたい」と思う人が世の中に一定数いることや、そういった気持ちを持つ人から、もし「死にたい」ということを相談された時、どのように対応するかというデモンストレーションを中学校~高校にかけて行うと良いのではないかと思います。
本当に健康であるためには、身体だけでなく心も健康でないといけないのに、今の日本は心の問題についての対策が各国に比べてもだいぶ遅れています。
メンタルヘルスに対する正しい知識を一人一人が持ち、社会全体の偏見をなくすことが、「死にたい」気持ちが社会で受容されるための一歩になるのではないかと思います。そのためには、教員養成カリキュラムの見直しなども含めて、学校精神保健を改善することが必要だと思います。

投稿:もも 2017年12月01日(金曜日) 21時39分

私は子供に自殺された親です。
今回の座間の事件は本当に心苦しいです。
アパートの外見や間取り…ロフトで縊死で
亡くなった…子供の亡くなった環境に余りにも
酷似しています。
報道される度に苦しくてたまりません。
死にたい思いを抱えた人間も苦しいと思います。
遺された者も同じくらい苦しいということを
忘れないで欲しい。
死にたいと思うあなたは一人じゃない。
絶対に一人じゃない。
と言うことを。

投稿:雨音 2017年11月29日(水曜日) 22時56分

本当に生きたいという意味を込められているのは全てではない。
死に方が分からない。
そういうのもある。
ただ死にたいとか言える場所がなくなるのは別。
自殺を起こすかもしれないから、事件になるから、それで死にたいとか言葉が何も言えなくなって聞けなくなったら、それで苦しくなる人も増えるから。
死にたいの理由も知らなくてダメだよって、それは違う。

投稿:しーかな 2017年11月29日(水曜日) 13時09分

【チエノバ・ご意見募集!】松本俊彦さん「安心して"死にたい"といえる社会を守るためには」の記事を読んでの感想です。

ツイッターの複垢で自殺防止運動をボランティアで個人活動しているMikuと申します。
私も死にたがりでしたが今は前向きになったのでそういう活動をしています。
他にもそういう方々はいますが、ツイッターで自殺防止運動をしている方々はあまりにも少ないです。
こういうのは本来は精神科、心療内科等の医療スタッフ、報道系や映像関係、行政、または神社仏閣などプロの方々が非営利で組織を立ち上げてSNSで活動されるべきではないのでしょうか?
毎日まいにちツイッターのハッシュタグを使って「自殺」「死にたい」「集団自殺」「自殺オフ」等をつけたツイートを沢山私はお見かけしますが、あなた方はこの問題について実際きちんと確認されたことあるのでしょうか?

ちなみに私は売れない新人画家なので、その道のプロではありません。
でも死にゆく人が本当にヘルプを出しているのなら見ていられないと、ただ自分の正義感だけでbotも活用しながら活動しています。
もっとこのことについてはハートネットの方も真剣になっていただきたいです。
正直言って新人画家がなんでこんなことしないといけない事態になっているのかすら意味がわかりません。
取り上げるだけで終わらず、もっと真摯にこの問題について活動していただきたいです。

投稿:Miku 2017年11月28日(火曜日) 20時34分

どうしたら安心して死にたい気持ちを吐き出せる社会を守っていけるか、分かりません。
でも死にたいを言える場は必要だから、皆が死にたいを共有しようと意識することは大事だと思う。独りだけで死にたいを吐き出すから悲しいことになってしまったけど、共有すればひとりじゃないって気付けて踏みとどまれるかもしれない。

投稿:スポンジ 2017年11月27日(月曜日) 09時51分

本当にその通りだと思います。
「死にたい」くらい苦しいのに、それを安心して
言葉にできない環境。また、それを本当に、心から
理解してくれない周囲。それを感じると、言う気さえ
なくします。

私のように、自殺未遂をして、そのつけで
苦しむ人が一人でも減りますように。

投稿:8273 2017年11月24日(金曜日) 18時07分

私は、正直この事件があり、ニュースになっていて観たり、聴いたりするのがしんどかったです。
でも、今だから言えるのは、本当にSNSは難しい。
簡単に信用してはいけない。とは思いつつ、学校に行きながら苦しんでいる時には、SNSで出会った人に悩みを相談している時期もありました。
「死にたい」は本当に死にたい理由ではなく、生きていて苦しい。
でも、そんな吐き場所が無くなったら、言えなくて、怖くて尚更大人が信じれなくなる。周りの人が信じれなくなる。そうした悪循環の結果、本当に死にたいに繋がってしまう。つまり苦しい事を言えなくなってしまいます。
SNSで呟くことによって助けられた人も沢山悩まされた人もいると思います。
このままでは、この事件に合い、亡くなった方の気持ち等はどうなのでしょうか。
何か大人にSOSを発したかった。のでは無いでしょうか?
私はそう思っています。
死にたいと思う気持ちや言葉に罪は無いそう思います。
むしろ、無感情の方が大変だと思います。
簡単に死なれたり殺されるのは嫌だけど、それが現状で、辛い心をお察し出来ればと思います。
嫌がる人もいるとは思うけど、出来るなら私に出来ることがあれば何かしたい。
そう思いコメントしました。

投稿:ゆうか 2017年11月23日(木曜日) 10時48分

死にたいほど辛い気持ちが吐き出せる場は必要ですが、『死』そのものの軽視もひどくなったと思います。簡単に死という言葉を使うこどもたち。それを諫められない大人たち。少しの不満で『死にそー』と言う人ほど、死ぬほどの苦しみや痛みを知らないな…と日々感じます。

自分の弱みを誰でも知れる場に晒す時点で、標的になると警告する機能は必要ではないでしょうか。

これからも弱者の隙に付け入る人はいなくならないと思います。物理的な日常での人との出会いより、遙かに簡単で頻度高く知らない人と出会えるSNSは、使い方を間違えると自動車並に危険なモノと成長してるように思います。

車の商店街暴走と変わらない、使用者の判断一つでたくさんのいのちが奪われる機会に繋がると、今回の事件で証明されました。

規制ありきではないですが、性善説に依らない強制力はSNSに必要と思います。個人の人格・嗜好性に対しての安全設計は限界がありますから。


投稿:tomo@morningroad 2017年11月23日(木曜日) 10時18分

本当は「つらい、助けて」と言いたいのに、助けを求めたり頼ったりできない人が絞り出した言葉が「死にたい」ではないかと思う。弱音を吐く人を「甘えだ」とか「自己責任で何とかせよ」などと糾弾して切り捨てる社会では声をあげることなどできない。
声をあげても助けを得られることはなく、むしろ非難されるのではないか?という当事者の諦めから、リアルの社会では口をつぐんでしまってネットで犯罪者の標的にされてしまうという悲劇に繋がってしまったのではないだろうか。
人は誰でも弱さを持っていて、助けを求めることは恥でもなんでもないこと。助けを求める声を社会全体で引き受けて解決していこうとする姿勢を誰もが持つこと。社会としてこのような共通意識をもつことで当事者は助けを求めやすくなるのではないだろうか。

投稿:レモン 2017年11月23日(木曜日) 02時13分

「死にたい」と安心して言える場所。あぁ、そうかもなぁと思いました。気軽に衝動で吐き出せるツイッターは、便利ですが不特定多数のコメントに晒されます。静かにブログを開設したとて、今度は誰もその情報を拾ってはくれません。死にたいって呟ける、そして生きてていいんだっていう励ましを貰えるコメントが飛び交う、そんな閉鎖的なSNSコミュ二ティがあったら良いなと思います。もしあるのであれば、もっと広めるべきだと思います。
論点、合ってましたでしょうか…?お読み頂きありがとうございました。

投稿:あやか 2017年11月23日(木曜日) 00時17分

僕は、うつ病を13年間患い続けています。この病気の辛さは、なかなか理解してもらいにくいものだと思います。症状が悪くなると本当に苦しくて「死にたい」と思ったりしてしまいます。これは自分ではコントロールできなくなるほどの苦しさです。
そんな苦しい日々を過ごしていたのですが、何年か前にツイッターを始めてみて、本音を呟ける救いを得ました。少し気持ちが楽になるのです。僕はもう中年なので、直接「死にたい」という言葉は選びませんが、それに近い苦しみをつぶやく時もあります。それだけで救われてる人が実際にいるのです。その苦しみに「いいね」してくれる人も、コメントくれる人もいます。すでに素晴らしい繋がりが出来ています。ごく一部の悪意ある利用者のせいで自由を規制されるのは間違いでしょう。それは解決ではなく一時的な逃避に過ぎないのではないでしょうか。

投稿:赤いハゲ 2017年11月22日(水曜日) 22時13分

いまの世の中、権力や政治的都合、世間体でしか物事を考えないため本当に「死にたい」と思っている人の意見をまともに聞き入れず、その気持ちを傷つけるようなことが普通に起こっています。
「死にたい」人だって、本気で生きているのです。その気持ちを踏みにじったり、ばかにしたりすることは言語道断です。
「死にたい」人にとって、社会こそが生きることの妨げになっています。
自分や社会と一人で闘っているのです。
それを受け入れ、共に歩もうと手を差し伸べる。そして「死にたい」人の気持ちに寄り添うような社会。これこそが「死にたい」人の命を救うことにつながると思います。

投稿:まーたく 2017年11月18日(土曜日) 21時56分

私は、この事件の被害者の方のお気持ちを思うと本当に本当に悲しいです。
お若い年齢で死にたいと思いながら悩んでいたこと、そして、見ず知らずの男に
残虐に殺されてしまったこと。
1人でも死にたいと思う方が少なくなって欲しいです。
そのために、いま、自分ができることを考えています。
心からご冥福をお祈りします。

投稿:すたー 2017年11月13日(月曜日) 00時48分

私はいろいろな辛い経験をしてきているので
いろんな人の心に寄り添うことが出来ます。

なので役に立つことができるかなと
ネットで「死にたい」「自殺します」という書き込みを見て
話せそうと思ったら話しかけています。

話していくと打ち解けて
こちらの話を聞いてもらうこともあります。

書き込みを見つけた時、
「自殺はいけない」「周りが迷惑するだろ」のような
安易な返事は何の意味も持たないと思います。

結局はリアルで1対1で話すように会話をすることが大事ではないでしょうか。
ネットに救いを求めるのはリアルで話せる場がないから。

本当は現実で繋がれて話せる場があればいいのだけれど
現状無いのであれば
やはり自殺サイトやSNSは必要だと思います。


それから、私が話しかけていると
横から入ってきて
「でも心理学では」「マズローがどうたら」と言って
繋がりを断とうとする人がいます。

その後見ていても、その横から入ってきた人は
フォローせず責任を取りません。

そういう、マニュアルマニュアルになってしまって
人々が息苦しくなっているのも
あるのではないでしょうか?

投稿:マロン 2017年11月09日(木曜日) 19時52分

安心して死にたいと言える場所の必要性わかっていただけない人がいるんだ、と参考になりました。
死にたいと思わなくていい社会を目指す、とは聞こえがいいですが
他者の心を誘導できるわけではないのに。
そしてさまざまな理由があって心が揺らぐことは誰しもあるのに。
例えば太宰治に自死なんて考えなくて済むような環境を、
と考えて一体どれだけのことが「社会」にできるでしょう。
社会は理不尽で、生まれ落ちた環境での不遇もある。
その理不尽不遇に対して社会としての改善は必要です。
その1つとして人間だから心があってそれが揺らいだ時、
ぽつりと気持ちを吐露してそれを悪用される。
そんなことが起きないように「安心して死にたいと言える場所」が必要なのだと思います。
死にたいなんて思わない心を持つ人がいるように、
死にたいと思う心を持ってしまう人がいてもいい。
人のありようの寛容があってもいいのではないでしょうか。

投稿:まど 2017年11月09日(木曜日) 12時39分

サイトでの記事を拝見しまして、本日授業でこの「座間市で起きた事件を受けて」高校生のみんなはどうしなければならないのかということについて話し合いました。

一番驚いたのはどのグループも、このハートネットTVのような番組について興味を持ったことです。
私は以前より色々な番組について口頭や映像で紹介したことはあるのですが、そのいつもと違い今回はいつやっているのかなどの質問が多くありました。また、同時にNHKは周知不足だという意見や、NHKだけでなく他局でも取り上げるべきだなどの意見もありました。
多くの子が求めている内容の番組ということだとわかり、今後も周知に努めようと改めて感じました。

また、話し合いの結果に関しては、多くのグループにあった考えは・個人の気持ちを吐き出す場所の必要性・SNSとの付き合い方の再考・小中高など学校での教育の見直しでした。
また、あるグループでは加害者の方に対しても意見を出していて、このような人を生み出さない社会づくりはどうすればと考えていました。

私も今回の授業を通して、生徒たちには何でも言える親友や家族のありがたみを教えると同時に、自分にはいるのだろうかと考えさせられました。

投稿:豊南高校 2017年11月07日(火曜日) 13時29分

SNSや書き込みサイトなどとありますが、そもそも規制だとかかけるのは難しい。人として生きるということをもっと周りが意識しなければならない問題のように思います。死に向き合うということは人間である以上100%死にます。そこで問題と思うのは「生きたい」と思うことは何かしらそこに意味があるわけで、自死したいなら誰かの介添えなしに突然起こることが多い。今回のケースはみんな自分の居場所を示して死にたいではなく、もっと自分たちを見てほしかったということです。普段から自分たちの周りの家族、友人、他人に目を向けていなかったりしていることなんだと思います。

投稿:ひまわり 2017年11月07日(火曜日) 13時03分

座間市の事件は殺人事件です。自殺願望・自殺志願者という表現や、死にたい人という考えも自死への差別と偏見であり、今回犠牲になった方や遺族への配慮に欠けているのではないでしょうか。ネットの悪質なサイトを含むSNSの闇の問題の解決はイタチごっごであろうとも、削除や勧告をし続けて行くことが健全な社会だと思います。そもそも死にたくなる社会をそのままにして、死にたいと言える場所が犯罪に巻き込まれる確率の高いサイトだと知りつつ容認するのはいかがなものでしょうか。自死を防ぐならつながる人が誰でもいいわけではありません、つながりが最悪の結果になることもあります。松本先生はよく存じ上げていますが今回のメッセージは自死遺族の立場としてとても悲しいです。

投稿:幸子 2017年11月07日(火曜日) 09時45分

安心できるだけでは、今回のような危険なリスクを伴います。
いかに安全な場所で安心して死にたい気持ちについて話すことができるのか。
また、その気持ちによりそい、生きる力や生きる場所、生き方を見つけてもらえるように関われる人材が必要なのでしょう。
若い人たちが使う、ツール、SNS等に専門家等による相談センターなどを作ることも必要な時代なのでしょう。堅苦しそうで形式張った地味な〇〇センターなどへは足が向くことはないのでしょう。
新しい彼らが使えるそんな場所やつながりを用意してあげないとこれからもこのような事件は出てきそうに思います。

投稿:トニー 2017年11月07日(火曜日) 09時30分

松本先生の仰るとおりです。
安心して「死にたい」とうちあけられる状況をめざしたいです。死にたいと思うこと、打ち明けることを悪としたり、サイトを規制したりでは、ますます追い込んでしまうだけ。

投稿:僧ふるじゅん 2017年11月07日(火曜日) 01時08分

私も昔、インターネットで「死にたい」と呟いて、教育委員会に通報されたことがあります。大人たちの死なれちゃ困るという気持ちも分かります。ですが、インターネットが吐き出し場所になっているのは確かなことです。どうか、私達の居場所を奪わないで…

投稿:胡桃 2017年11月07日(火曜日) 00時14分

初めまして。
自殺志願者を少しでも減らす事が出来ないかと活動したいと思っています。
自殺を考えてる人を助ける事が出来るような施設など作れないでしょうか?仕事を紹介したり、コミュニュケーションを取れるようにしたりや、孤独を紛らわすような何かないでしょうか?

投稿:理恵 2017年11月07日(火曜日) 00時10分

かかりつけだった精神科医に「死にたいんですけど」と言ったら医師は「他の患者さんたちも待っているからそう言う話はやめてくれる?」と部屋から追い出された。ただのかまってちゃんにも見えただろうし、実際そうなのかもしれないけど、決意して足を踏み入れた大きな精神病院の医師に救われてかれこれ一年が経とうとしています。その先生はネットなんて信頼するな、人間しか信用できない、と言いますし正論だけれど、実際の人間だって良い人とそうでもない人がいると思う。実際救いを求めても半分くらいの人がうんざりしてるのはお見通しです。現実社会に安楽死がない以上、犯人みたいな人が出たら、犯罪まで犯して自分を殺してくれるのか!と委ねてみたい気持ちが全くないと言ったら嘘になります。被害者の方々は実際は乱暴されたり苦しんで亡くなっただろうから、ご冥福をお祈りするしかないけれども。

投稿:うさこ 2017年11月06日(月曜日) 21時47分