本文へジャンプ

【収録記】誰にとっての"難病"?

2014年02月08日(土)

2014年2月10・11日の、シリーズ「難病と向き合う」
1日目は「どう支える 難病医療」
2日目は「難病でも 働きたい」、を放送します。

国内には500種類以上あると言われる難病。
しかしそのうち、国による支援が受けられる病気は、わずか56種類です。
国は今、40年ぶりに、難病対策の抜本的な見直しを進めようとしています。


20140208_nanbyou.JPGのサムネイル画像
2014年2月時点では、56種類しか認められていない日本の“難病”

番組の中では、このように難病を定義しています。
「原因不明」「治療方法が未確立」
「希少性が高い」「生活面への長期にわたる支障」

実際の話はあまり想像できないかもしれませんが・・・・


数少ない専門医のところに片道5時間かけて通う患者さん。
薬の効果で安定しているのですが、
症状が安定していると「治った」とみなされてしまう。
そうすると、生活のための助成金が減らされ、
そのまま“命の危険”にさらされる可能性が高まってしまう。

心臓が肥大する難病、
8種類飲む薬のひとつが利尿剤でトイレに頻繁に行くことに。
仕事復帰はしたものの、大事な会議の時に席を離れられず、
我慢をして薬を飲むのをやめたら症状が悪化、そして入院。
担当していた営業職が続けられず、
かといって事務職の空きも無く退職に。


話を聞いて、
「誰のための難病制度なのだろう?」と思ってしまいます。

正しい治療につながるまで時間がかかるから、
または治せないから“難病”なのではないだろうか?

治すために費やす時間や労力は他の人の何倍もかかる。
生活を維持するためのサポートは、万全といえるのだろうか?


“マイノリティ”を考慮しない日常。
“難病”問題は、他の福祉問題と変わらないものだと
改めて感じました。
自分の努力だけでは厳しい生活。
少しの支えあいで「つながる世の中」が出来ることを
番組を見て想像していただけたらと思います。



Eテレ・ハートネットTV
◆シリーズ 難病と向き合う
本放送:夜8時00分~8時29分
再放送:午後1時5分~1時34分

第1回 どう支える 難病医療
本放送2月10日(月)、再放送2月17日(月)

第2回 難病でも 働きたい
本放送2月11日(月)、再放送2月18日(火)

コメント

ともに生きる

 その出来事は、今から十三年前にさかのぼる。
自分にとっては、あまり思い出したくない出来事です。ですがあえてお話しします。大学まで名古屋にいましたが、会社に入り転勤で埼玉県の大宮市(現さいたま市)に一人住まいをしていました。一人住まいと言うことで、生活は荒れていました。週三回は飲みに行き、いつもグデングデンになるほど飲んでいました。
 そういう生活を六年間続け、結婚しました。その後会社を辞め、群馬に引っ越してきました。異常を感じ始めたのは会社を辞める前でした。具体的には物が二重に見える。歩きづらい。ふらつくなどでした。さすがに心配になり、近くの病院に行きましたが、異常はありませんでした。
 群馬に来ても、異常は続きました。というかもっとひどくなっていました。近くの耳鼻科に行くことがあり、最近の症状を言ってみました。そしたら神経内科を紹介されました。そんな科があることさえ知りませんでした。
 そこで検査入院し、知らされた診断名は「脊髄小脳変性症」英語の略語ではSCDという、聞いたことも無い病名でした。
 主治医の言葉は続きます。
「この病気は治りません。治療法もありません。進行性です。」
私は頭が真っ白になり「エッうそだろう?」その頃の私は、子供が生まれたばかりで、これからと言う時でした。その後会社はクビになり、それでも生活していかなくてはなりません。職を探し、群馬、埼玉、東京三十社ほど回りましたが、皆不採用。障害の認定が下りるまで一年半。それまで収入はゼロ。その時の私の心境は、死にたいより頭がおかしくなりたかった。だってこの状態から逃げ出すのは頭がバカになれば、考えなくても済むからです。妻子がいてこの状態は悲惨でした。
 その後やっと年金が入るようになりましたが、家賃と同じでした。これでは生活が出来ない状況は同じでした。内職をしながら職を探しました。この時も体の状態は、最悪でした。その後やっとパート先が決まりました。自分にとっては苦手なパソコン入力担当でしたが、我慢して働いていました。しかし、会社の端末がすっかり変わり、ついて行けなくなり会社を辞めました。その頃年金も上がり、余裕もでき今通っている、授産施設に通っています。
 私の場合は、神経難病ということもあり、神経症状は進み、精神的なダメージがあったため、夜はクスリを飲まないと眠れなくなりました。安定剤、睡眠薬、導入剤、下剤など一日で十三~十五錠程飲んでいます。
 出身は名古屋ですので、友人、知人、両親皆名古屋です。この病気になった時、群馬に来たばかりで、相談出来る人は少なく一人悶々としていました。もちろん公的機関には何度も行きましたが、向こうの担当者が「それは困ったねー」と言うだけでした。「困っているのは、こっちだよ!」と言いたかった。
 今は昔の自分を取り戻しながら、昔から好きだったバンド活動、車椅子ダンスなどをしながら生活しています。
 最後に言っておきたい事があります。人間は一人では生きてはいけません。人との交流があってこそ自分が存在するのです。このことは、皆さんに言っておきたいと思います。

投稿:アンディ 2014年02月12日(水曜日) 12時53分