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【出演者インタビュー】森元美代治さん「差別や偏見は人間が作ったものだから、壊せるのもまた人間です」

2015年06月01日(月)

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6月4日放送
シリーズ 戦後70年
第5回 ハンセン病の戦後 ―人間回復への道―
ご出演された森元美代治さんのメッセージです。


《森元美代治さんプロフィール》
ハンセン病回復者


――今回は「ハンセン病」の戦後の歴史を振り返りましたが、収録を通してどのようなことを感じましたか。

こういうふうに取り上げてもらったことはすごくうれしいですね。ハンセン病の歴史を「自由を奪われて」「普通の暮らしを求めて」「人間回復を目指して」と3つの時代に区切ってお伝えしたことはとてもよかったなと思います。今まではトータルで話すことが多かったので、中途半端で終わることもありました。とても話しやすかったです。
 

【出演者インタビュー】サヘル・ローズさん「ハンセン病政策の歴史。二度と繰り返さぬように」

2015年06月01日(月)

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6月4日放送
シリーズ 戦後70年
第5回 ハンセン病の戦後 ―人間回復への道―
ご出演されたサヘル・ローズさんにメッセージをいただきました。


《サヘル・ローズさんプロフィール》
女優、タレント。
イラン生まれ。4歳のときに両親を亡くし、孤児院で育つ。その後、養母に引き取られ、8歳の時に2人で来日。


――今回は「ハンセン病」の戦後の歴史を振り返りましたが、収録を通してどのようなことを感じましたか。

ハンセン病の当事者だった方の生の声を聞くと、本当に計り知れないくらい長い年月を戦ってきたんだなと思いました。2001年に国との裁判に勝った時の「やっと人間になれた」という言葉はすごく印象に残っています。ひとつの偏った情報をみんなが鵜呑みにしてしまったからこそハンセン病の当事者はあれだけ苦しみました。それは「本当のことを知らなかった」で済まされる話じゃなくて、責任はそれぞれにあるだろうし、苦しんで苦しんで、社会に対して何も言えず報われないまま亡くなった方々がたくさんいたのも事実でしょう。その政策が1996年まで存在していたと考えると、きっと私たちが知らないところでまだまだ苦しんでいる人、解決されていない問題がたくさんあると思うし、学校では学べないこともたくさんあるんだなと感じました。


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【出演者インタビュー】山本深雪さん「精神障害者でも相談できるような人間関係が地域に少なすぎるのでは」

2015年06月01日(月)

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6月3日放送
シリーズ 戦後70年
第4回 精神障害者の戦後 ―病院か地域か―
ご出演された山本深雪さんにメッセージをいただきました。


《山本深雪さんプロフィール》
NPO法人大阪精神医療人権センター副代表


――今回番組へご出演されて、どのようなことを伝えたいという思いがありましたか。

精神科の治療を受けながら地域で暮らしている人があなたの地域にもいて、隣で暮らしているんですよということですね。


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【出演者インタビュー】サヘル・ローズさん「退院できるにもかかわらず、30年以上病院から出られない人がいる」

2015年06月01日(月)

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6月3日放送
シリーズ 戦後70年
第4回 精神障害者の戦後 ―病院か地域か―
ご出演されたサヘル・ローズさんにメッセージをいただきました。


《サヘル・ローズさんプロフィール》
女優、タレント。
イラン生まれ。4歳のときに両親を亡くし、孤児院で育つ。その後、養母に引き取られ、8歳の時に2人で来日。


――第4回は“精神障害”のある人がどう生きてきたのか、戦後の歴史を見ていきました。収録ではどのようなことを感じましたか。

精神障害という言葉だけを耳にすると、どこか専門的で、自分たちはあまり関わることができないと感じてしまうし、私もそう思っていたのが本当のところです。だから、知らなかったことがたくさんありました。本当はもう退院してもいいにもかかわらず、精神障害者は危険、怖い、普通の人じゃないというレッテルを貼られてしまい、周りが受け入れてくれず病院で生活せざるを得ない状況が今でもあるんですね。それで30年間も病院で生活している方がいらっしゃるわけじゃないですか。「人並みの生活がほしい」という言葉もありましたが、30年間も病院の中にいるということは外の世界の変化を見ることができないし、社会に出て人とふれ合うこともできないわけです。そしたらもうその人の存在がかき消されてしまいますよね……。
国としても一応「精神保健福祉の改革ビジョン」を作ったにもかかわらず、「あとは頑張ってね」と投げやりにしているから、うまく活用されずに、しわ寄せばかりが患者さんにいってしまっている。日本はいろいろと発展してきたけど、この問題についてはずっと一時停止をしていて、他国の取り組みと比べたらあまりにも差がありすぎました。日本で生活している全員で考えてどうにかしないといけない問題だと思いますね。


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【出演者インタビュー】サヘル・ローズさん「大きな愛情を受けて育つ子がいる一方で、そういう"温かさ"を知らない子もいるんです」

2015年06月01日(月)

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6月2日放送(6月9日再放送)
シリーズ 戦後70年
第3回 家なき子たちの戦後 ―戦争孤児から虐待まで―
にご出演されたサヘル・ローズさんにメッセージをいただきました。


《サヘル・ローズさんプロフィール》
女優、タレント。
イラン生まれ。4歳のときに両親を亡くし、孤児院で育つ。その後、養母に引き取られ、8歳の時に2人で来日。


――第3回は“児童養護”がテーマです。様々な事情で親と暮らせない子どもたちを、日本はどう社会で育てようとしてきたのか、その歴史を見ていきましたが、収録ではどのようなことを感じましたか。

日本には社会的養護を必要とする子どもたちが4万6000人もいます。そのことをきっと多くの方が知らないと思うんです。たとえ同じ日に生まれたとしても、ある子は誕生日ケーキを買ってもらったり、親に手を握ってもらったりしながら愛情を受けて育つ一方で、そういう“温かさ”を知らない子もいる。子どもは生まれてくる環境を選べないのに……。すごく「差」を感じました。
日本は経済成長を遂げて、物質的に豊かになりましたが、その影では子どもたちに寂しい思いをさせ続けています。ここは先進国の日本ですよね。それなのにまだ多くの子どもたちに目が行き届いていない。そして、働き手の数も少ない。きっとそれは、そこで生活をする子どもたちとどう向き合えばいいのかわからない大人たちがたくさんいるからだと思うんですよ。どうしても線を引いてしまっているじゃないですか。「この子たちは普通の子とは違う」と。でも、何も変わらない「普通の子」なんですよ。壁を作ったり偏見を持ったりするのは良くないと改めて思いました。


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【社会保障70年の歩み】第9回・年金「開戦時に産声」

2015年05月08日(金)

勤め人の老後を支える「労働者年金保険法」の公布は1941(昭和16)年3月であった(施行は翌年)。日本海軍がハワイ・真珠湾を急襲し、太平洋戦争が始まる9ヶ月前のこと
なぜ、この時期だったのか。
 

さまざまな説がある。
立法の目的は「労働者をして後顧(こうこ)の憂いなく、専心(せんしん)職域に奉公せしめる」とある。戦争遂行へ、軍需工場や鉱工業で働く労働者の確保が急務だった。働けば年金をもらえる“アメ玉”で誘う狙いだろう。
膨大な軍事費調達に紙幣を大増発し、物価暴騰は必至、その防止策に年金の保険料納付で労働者の購買力を吸い上げる必要もあった。保険料は積み立てられ、軍事費に借用もできる。これら複合的な理由で、年金制度本来の理念や目的にはほど遠かった。
その労働者年金保険の概要は、①強制加入の対象は鉱工業等で働く10人以上の事業所の現場労働者②保険料は月収の6.4%、石炭採掘等の坑内夫は8%(労使折半)③給付は20年以上の加入で55歳から老齢年金支給(坑内夫は15年以上、50歳支給)。廃疾(障害)や死亡時の保証もあった。
1944年には早くも改称・改定され、「厚生年金保険法」になった。当時は「労働者」や「社会」の表現は、労働運動や社会主義思想を連想させると避けられ、「厚生」(国民の生活を豊かにする意味)に切り換えられた。対象者は事務職や女性へ拡大され、保険料を月収の11%、坑内夫は15%に引き上げ(労使折半)、遺族年金の終身支給等も加えた。

【社会保障70年の歩み】第8回・介護「選べる福祉へ」

2015年04月14日(火)

介護保険制度の立案・設計は、政党の激しい離合(りごう)集散(しゅうさん)の渦中(かちゅう)で展開された。何しろ自民党単独政権が崩れた1993(平成5)年夏から3年余で首相は4人も交代した。

最初の詳細な提言は、94年12月、旧・厚生省委託の「高齢者介護・自立支援システム研究会」(座長・大森彌(わたる)東大教授)でまとめられた。主なポイントは、
① 高齢者自身によるサービスの選択
②介護サービスの一元化
③ケアマネジメントの導入・確立
④社会保険方式の採用
、であった。

翻訳すると、市町村が入所先の特別養護老人ホームまで決める“お仕着せの福祉”は、もうやめよう。ホームヘルパーも訪問看護師も一体でサービスを提供していこう。個々人の心身状態と生活状況に応じ、基本方針のケアプランを作成し、ケアチームで実行していこう。そして、保険料を払う見返りにサービスを受ける権利性のある「介護保険」を創設しよう、という呼びかけだ。

従来の役所的な研究会とひと味違ったのは、在野の実践者や市民運動家もメンバーに選んだこと。山口昇(みつぎ総合病院長)、岡本祐三(阪南中央病院内科医長)、橋本泰子(東京弘済園ケアセンター所長)、樋口恵子(高齢社会をよくする女性の会代表)らが加わった。この人選も新しい理念や仕組みの提唱に繋がった。もちろん、保険方式への切り換えに批判も強かった。要約すると、大幅な公費投入でサービスの質量を上げればサービスは選べる、保険料を払えない低所得層が無保険者に陥る、サービスを使うほど負担が増える保険方式の「応益型」の利用料は低所得者の利用を妨げる、措置制度を止めるのは行政責任の放棄ではないか~。


制度原案を練った旧厚生省の先進的な官僚たちは、巨額の公費が必要な北欧型の公費方式は無理と判断し、社会保険方式の枠組みの中で、デンマークの高齢者福祉・三原則を目指すべき理念とした。住み慣れた地域で自宅や自宅に近い環境で暮らせる「継続性」、自らの生き方を決める「自己決定」、経験や能力を生かす「自己資源開発」だ

【社会保障70年の歩み】第7回・介護「措置という古い上着」

2015年04月09日(木)

日本の社会保障制度の中心である「社会(公的)保険」は、火災保険や生命保険等の民間保険に比べ、どこが違うのか。
民間保険は「私的なリスク」に備え、自分で選ぶ「任意加入」で、「営利団体」(企業等)によって運営される。社会保険は、「社会的なリスク」を対象に、「強制加入」で、「非営利団体」(国、自治体、組合等)に運営をまかせる。


社会的なリスクとは何か。
医療費を払えない人々が増えると重病者が多発する、引退後は無収入なら生活困窮者が相次ぐ、失業して生活費に事欠くと仕事探しも難しい、仕事での死亡・負傷に何の補償もない。どれも放置しておくと、社会全体が不安で不安定に陥る危険性である。当初は、いずれも勤め人対象で医療(健康)保険(施行1927年)、年金保険(同1942年)、戦後に失業(雇用)保険と労働者災害補償保険(同1947年)の順で創設された。より多くの人々が不安に思うリスクから開始された、とも言える。

介護保険法は1997(平成9)年12月、5番目の社会保険として成立した(2000年度施行)。なぜ実現が遅れたのか。それが「介護」の難しさと大事さを象徴している。

【社会保障70年の歩み】第6回・医療「皆保険という"岩盤"」

2015年03月17日(火)

医療サービスは、他の商品・サービスとは異なる特性を持つ。

まず、健康と命を守るために求めざるを得ないサービスである(強制的消費)。二つ目は、病気や負傷が治るまで期間・費用を予測しにくい(予測困難性)。三つ目は、医師らが圧倒的な知識を持ち、患者・家族は知識に乏しいこと(情報の非対称性)
米やパンは買わざるを得ないが、値段や品質は分かる。教育や習い事はゴールがないに等しいが、個々人の判断で止められる。美術品、骨董品の値打ちは見極めにくいが、買うかどうかは自由だ。
三つの特性がそろうのは医療だけではないか。その特性に応じ「国民皆保険」は補強を重ねてきた(下図参照)

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【社会保障70年の歩み】第5回・医療「日本型の長所・短所」

2015年03月05日(木)

「国民皆保険」が1961(昭和36)年度から始まる前、すでに日本医師会を率いていた武見太郎会長は、こう警告した。
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「いまの医療制度で皆保険をやるのは、軽便鉄道のレールを全国に広げ、そこに特急列車を走らせるようなものだ」(「実録・日本医師会」)


医療機関の状況を、貨物を運ぶ程度の粗末な鉄道にたとえ、患者という乗客が殺到すれば、脱線・転覆してしまう、というのだ。25年間も会長に君臨し、医師のストライキ(保険診療の拒否)までやって「ケンカ太郎」と呼ばれた大物医師の診断である。