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孤児のための救済施設「エリザベス・サンダース・ホーム」

2015年09月16日(水)

WebライターのKです。

9月19日は「エリザベス・サンダース・ホーム」を創設した澤田美喜の誕生日です。エリザベス・サンダース・ホームとは、敗戦後のGHQの占領下、進駐軍兵士と日本人女性との間に生まれた孤児のための救済施設です。
 

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澤田美喜は、三菱財閥創始者の岩崎彌太郎の孫で、三代目当主の岩崎久彌の長女にあたります。外交官の妻であり、財閥の令嬢でしたが、「エリザベス・サンダース・ホーム」建設のために洋服、毛皮、宝石、絵画、銀食器など、金目の持ち物を惜しみなく売り払い、資金を調達しました。

 

1948年の厚生省の全国孤児調査結果によれば、戦争孤児の数は約12万人。焼け跡の街には浮浪児があふれていました。その子どもたちが施設に保護収容されていく陰で、敗戦を原因とした新たな孤児が生まれていたのです。その数は厚生省の1953年の実態調査によれば約4千人。84%が白人系、11%が黒人系であったことが明らかになっています。行政が把握していないものや生後すぐに命を亡くしたものを含めれば、人数はさらに上回るものと推測されています。GHQも日本政府もこの孤児たちの存在に世間の注目が集まることを嫌い、積極的な救済策を取ろうとはしませんでした。敬虔なクリスチャンであった澤田美喜は、その行き場のない孤児たちの母親になることを決意し、1948年神奈川県大磯町に「エリザベス・サンダース・ホーム」を創設しました。
 

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JR大磯駅の駅前にある「エリザベス・サンダース・ホーム」。現在も児童養護施設として親と暮らすのが難しい子どもたちの自立活動を助けています。



当時、外国人の顔をした子どもたちは、施設に預けられた事情にはかかわりなく、孤児への偏見、風俗女性への排斥感情、人種差別、敵国への憎悪感などから、疎まれたり、さげすまれたりしました。とくに黒い肌の子どもたちは、激しい差別のまなざしにさらされました。もちろん、本人たちには何の罪も、責任もありません。そんな子どもたちの生活と心を必死になって守り、未来へとつないだのが澤田美喜でした。

20150918_003_R.JPG「澤田美喜記念館」の中にある納骨堂。卒業後に亡くなり、引き取り手がなく、戻ってきた孤児たちの遺骨も、美喜のかたわらに納められています。



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コメント

はじめまして。
私達は、幼稚園や養護施設、老人ホームなどで社交ダンスを披露して、皆さんと一緒に、楽しい時間を過ごす活動をしている者です。

エリザベス・サンダースホーム様も、いろいろなイベントを企画していると思いますが、私達も参加させて頂きたくご連絡致しました。

私は、ポーランドのコルチャック先生の人生に素晴らしさを感じ、ポーランドに行って、私達の「忍者ダンス」などを見せてきて、大うけされて来ました。私は、澤田美喜先生にも同じ気持ちを持っております。ぜひ、エリザベス・サンダースホームの皆さんと、人生という時間を共有したいと思っています。

投稿:ケン・真理子 2016年09月07日(水曜日) 12時09分

以前はドキュメンタリーやドラマなどでメディアでもよく取りあげていましたが、いつからかパタリとエリザベスサンダースホームのことはメディアで取り上げなくなりました。何故でしょう。彼女のことは次の世代の人にも知って欲しいですが。命を守ることを小学生の頃に彼女とホームのドキュメンタリーで教えていただきました

投稿:一蝶 2015年09月19日(土曜日) 08時19分

沢田美喜についてはいろいろな本を読んでそのスケールの大きさ・行動の速さ・ダイナミックな思考など本当に感動しました。最近出た「GHQと~」は、美喜のもうひとつの面を見せてくれて思考回路が少しわかったような気がします。孤高に戦い続けた美喜を取り上げてくれたハートネットに感謝です。世の中、特に子どもの世界が複雑になってきている今、本当に大切なものは何かをもう一度考えたいと思います。

投稿:恵子 2015年09月18日(金曜日) 21時34分