本文へジャンプ

Road to Rio vol.80 陸上に出会ったことで"夢"の意味が大きく変わった。~ジャン=バティスト・アレーズ選手(フランス)~

2016年05月07日(土)

20160509_001_001.jpg

ロンドン在住のライター鈴木祐子です。東京にやってきたフランス人陸上選手ジャン=バティスト・アレーズ(Jean-Baptiste Alaize)選手と時間を共にする機会に恵まれました。彼のニックネームは名前の頭文字を取って「JB」。このブログでもJBと呼ぶことにしましょう!

今回は彼の、アスリートとしての、人間としての「深い」一面をご紹介します。

 

JB選手は右足の膝下がないクラスT44の選手。100m、200m、走り幅跳び、そしてリレーに出場しています。中でもT44走り幅跳びはドーハ大会でマルクス・レーム選手が8m40cmの世界記録を出している種目。パラリンピックでも見ごたえのある花形種目の一つと言えます。

ドーハ障害者陸上 世界選手権、マルクス・レーム選手8m40の跳躍はこちらの動画、40秒当たりからご覧いただけます。

20160509_001_002.jpg


20160509_002_001.jpg20160509_003.jpg

JB選手は2年前から年に5回ほど、レーム選手と一緒にドイツでトレーニングを行っています。2人は長年同じように成長を遂げてきたのですが、ある時からレーム選手の記録が飛躍的に伸び、自分の距離は伸びなくなったため、より良いトレーニング環境を求めてドイツに行くようになったと言います。

 

もちろんレーム選手の驚異的な記録を超えるのは難しいと考えているようですが、ドーハ大会で2位だったロナルド・ハートック選手については「ロナルドは目じゃない!リオ大会ではマルクスに続く2位を狙っている!」と自身ありげな笑顔で語っていました。(ハートック選手もなかなか強敵だと思いますよ・・・)

 

競技やトレーニング中はいたってクールな表情のJB選手ですが、オフの顔はまるで「少年」のよう。人懐っこい彼は言葉の壁なんてなんのその。決して流暢とは言えない英語、そして覚えたての日本語を駆使して何処でも、誰とでもお友達になっていきます。あれ、JB消えた!と私が一人焦っていると「コンニチワ」「アリガト」と言いながら道端の人と親しげに話しているのでした。

20160509_004_001.jpg20160509_004_002.jpg

こちらはとある日本のトレーニング場でのワンシーン。同じくトレーニング中だった学生さんとも陸上談義で盛り上がっている様子。

 20160509_005.jpg

 お好み焼き屋さんではお好み焼きをハート型にして「これは君のために!」流石フランス人だなあと感心してしまいます。


20160509_006_001.jpg

こちらはフランスと書かれた看板を見つけて興奮するJB選手。異国の地で見つけた「フランス」の前で記念写真を撮ってご満悦の様子でした。

 20160509_006_002.jpg

 ある日の食事ではこんなおちゃめな一面も・・・。

 20160509_007.jpg

日本に来たのは初めてというJB選手、お仕事の合間に訪れた浅草寺で祈った願いはもちろん「金メダルを取れますように!」。

「東京はとっても気に入ったから、2020年も是非来たいね。最高のオリンピックになるよ。」とJB選手。一番印象に残った場所を尋ねると「渋谷の交差点!でもナイトクラブにも行きたかったけどなあ・・・」という返事が返ってきました。

 

 

そんな陽気で面白くてちょっとお調子者のJB選手ですが、彼にはそんな現在の姿とは全く結びつかない辛い過去があります 。

アフリカのルワンダ共和国の南に位置するブルンジ共和国に生まれた彼は3歳のとき、フツ族によるツチ族の虐殺の中で、母親を目の前で殺害され、4人の兄弟を失いました。そして自分自身も背中や腕にナタを受け、右足を切断されます。相手は彼を殺したつもりでしたが、それでも彼は生き延びました。

20160509_008.jpg 足を失った彼が幸せにそして安全に生きていけるようにと、JB選手の父親は6歳だった彼をフランスに養子に出すという苦渋の選択をします。でも幼いJB選手にはその意味が理解できませんでした。一人フランスへと送られた彼は、ずっと自分は家族に捨てられたと信じていたのだそうです。それが父親の愛情だったとわかったのは、それから10年も経ってからのことでした。

20160509_009.jpg

彼が陸上と出会ったのは14歳の時。もともとスポーツは好きだったというJB選手ですが、学校の先生に才能を見出され陸上のトレーニングをするようになりました。飛んでいるような感覚が気に入ったという理由もありましたが、それまで母親の虐殺の悪夢を見続けてよく眠れなかった夜も、陸上で体を使うことによって精神的にリラックスしてよく眠れるようになったといいます。

 

当時JB選手の通っていたフランスの田舎町ボンリュの学校にいたのは白人の子供達ばかりでした。アフリカからの移民だった彼は足がないことはもちろん、黒人であることでも差別を受けてきました。学校ではいつも長ズボンを履いていたそうです。


20160509_010.jpg陸上クラブでのトレーニングを始めるとJB選手はみるみるうちに力をつけていきます。記録を見た協会関係者が、アイルランドのダブリンで行われるジュニア・チャンピオンシップに参加してみないかと声をかけてきました。フランスにきてから海外旅行に行ったことなどなかった15歳のJB選手にとって、3つの銀メダルを手にした初めての国際大会の雰囲気は格別でした。家族も、コーチも自分のことのように喜んでくれたことで、もっと勝ちたいと思うようになりました。


20160509_011.jpg

そして2012年、初めて出場したパラリンピック。走り幅跳びを終えたJB選手はピットの中で砂を掴んで悔しさを露わにしていました。結果は7位・・・。メダルがどうしても欲しかったのに獲れなかった、そのことはJB選手にとってまさに屈辱でした。でもそれは2016年リオ大会でのリベンジを誓った瞬間でもあったのです。

 

現在T44走り幅跳びで7m以上跳ぶ選手は2人しかいません。でもJB選手は自分が3人目になると自信を持って語ります。「それができたら東京では8mだよ!」(んー、それはちょっと張り切りすぎかもしれませんが・・・笑)


20160509_012.jpgプロのアスリートとして生活する現在、フランスメディアにも取材され有名になってからは差別を受けるようなこともほとんどなくなりました。「今はニースに家を持ち、フランスに世界一の母親がいるから、最高の人生だね」と言うJB選手。リオ大会でのメダルにこだわるのは母親を喜ばせたいという想いもあります。


20160509_013.jpg自分の才能を信じ、7m越えという“夢”に向かって突き進む彼は、現在リオ大会出場をかけて記録との戦いの真っ最中です。ジャン=バティスト・アレーズ(Jean-Baptiste Alaize)選手。皆さんも一緒にJB選手を応援してみませんか?

 

◆関連サイト
【障害者陸上 世界選手権】世界各国から集まった、スゴイ選手のスゴイ試合!

コメント

外国語学習が趣味です。
是非テレビでフランス語、あるいはラジオフランス語応用編インタビューにご登場頂きたいです。
応援しています。

投稿:do ut des 2016年05月12日(木曜日) 09時36分