本文へジャンプ

【出演者インタビュー】風間俊介さん「比喩でも何でもなく"人類のこれからのあり方 "の話」

2015年10月01日(木)

10月5日放送(10月12日再放送)
ブレイクスルー
File.39 会えるはずなかった 私の子どもへ
にご出演された俳優の風間俊介さんにメッセージをいただきました。



――収録を終えて、感想を教えて下さい。

今回は比喩でも何でもなく「人類のこれからのあり方」の話なので、もはやスタジオのメンバーだけで話す議題ではないですよね。多くの人にテレビを見てもらって、みんなで考えたいと思いました。


詳細は「続きを読む」をクリックしてください > > >  
 

――専門家の河野先生と八代先生の間でも見解に違いがあるように、繊細で難しい問題です。2人の専門家の意見を聞いて、印象に残った言葉はありますか。

河野先生がおっしゃっていた「本来できるはずのものができないということを改善するのが医療であり、元々不可能なものを可能にするのは医療ではない」という言葉と、それに対比するように八代先生がおっしゃっていた「みんなが望む幸せが可能になったらそれは幸せなことなんじゃないか」という言葉ですね。だから、一概にどちらが正解と言えるものではないということが一番心に残りました。僕の中での正解というのは決められるんですよ。でも、それはあくまで僕の中でのことであって、あなたはどうですか、じゃあ君は、と聞いて始めて議題として成立するものなのだと思います。

――風間さんは収録の後半で「技術を作ってしまったからには、人には考える責任がある」ということをおっしゃっていましたが、それはどのような思いからですか。

今、人間はよくわからないで使っているものもあると思うんです。対処できないものでも、利用は可能になってきているので、雑な言葉だけど、ちゃんとしないといけないなと思いました。だってあるんだもん。
この番組では、これまで多くの難病の方を取り上げてきましたが、僕は心からその方々が治ったらいいなと願っているし、その人たちが望む正解を提示できたらいいなと思うんです。そのためには進歩が必要であって、その進歩というのが今回見せられたものだと思うんですね。でも、そこに倫理が絡んだ瞬間に、自分の意見だけではまかなえなくなる。きっとこれからこんなことがどんどん増えていくと思うんです。その時に、今日の収録でも、打合せでも出てきましたけど、「答えがでないですよね」という話になる。でも、それに答えを出さないといけないときがやってくるんだということは認識しないといけないと思います。

――視聴者の方には、番組をご覧になってどのようなことを感じてほしいですか。

今回は誰もわからない問題だから、あなたの意見が聞きたいなという感じ。あなたがどう感じたかというよりも、あなたの考えを聞かせてほしいという思いです。このブログのコメントでも、自分のSNSでもいいので、考えて、思いを聞かせてください。

コメント

自分のこととして考えながら見ると自然と涙が出てきました。
私も自分の遺伝子をもつ精子が欲しいですね…。

まず、私は、医療がどうとか、倫理がどうとか、もちろんそれも大事なのですが、それよりも先に、ips細胞によって同性間に生まれた子どもが、自分のあり方を知ったときどう思うか?を考えました。

また、それは「医療ではない」ということでしたが、では、性同一性障がいの人はどうなのだろうか?と考えました。体は女だけど、心は男。彼が体を男に「治す」のであれば精子の存在も有りなのではないかな、と思いました。

投稿:あきら 2015年10月14日(水曜日) 03時28分

 番組内では、この技術で子供を作ることに対し様々な意見が出ていました。たしかに「人間が踏み込んではいけない領域」はあるのかも知れません。
 
 けれど私はあくまで一つの選択肢として、この技術が存在する世の中に将来なってもいいのでは?と思います。
 何らかの理由でパートナーとの子供を授かることが出来ない人が、子供を授かれるようにするための技術は、異性同士でも同性同士でも関係なく発達していっていいんじゃないでしょうか。
 
 技術が無くてもできる命、技術によって生まれる命。どちらの命も最終的には生まれてからその価値や意味は決まると思うんです。
 自分と愛する人の遺伝子を持った子供が欲しい。そしてその子を家族として愛し育てていこう...という固い意思に「それは同性同士だからNO」と決めつけるのは、できたはずの明るい家庭を壊してしまう行為に思えます。
 
 きっとこの問題は単に遺伝子や命のでき方だけでなく、家族のあり方やそれに伴う法律の事まですべてに関わってきますよね。
 そして何より「子供が欲しい」という本人たちの気持ち、愛。
 同性カップルに限らず、生きている者すべてが自分の「生」と向き合わなくてはならなくなった時、それぞれがどんな考えをしてどんな答えを出すのか...
 そんな来るかもしれない未来をひと足先に想像し、まず自分の思いを考えられた時間でした。

投稿:りおる 2015年10月12日(月曜日) 23時59分

手に入らないものを「欲しい」と言うのは勇気がいる。

彼女のDNAと彼女のDNAから子供が出来たら。
本当に出来たとしたら、彼女達はなんて名前をつけたんだろう。
まめ子とぽわ子、と名付けることにした朝子さんの優しさと

どうしようもないやるせなさ。

現代に生きるからには、望むことが出来ない。
そんな「どうしようもなさ」、を感じて、涙が出ました。

それでも、考え続けていきたい。
そう思いました。

投稿:コガモ 2015年10月12日(月曜日) 19時15分

今回の放送は人間の倫理観に関わることなので
意見を言うこと自体がとても難しく、
風間さんが仰るように「答えが見つからない」と言うのが本音です。
ただ、私個人としては、やはり今回の技術は
「命を生産する」行為に思えてしまうので
そこに人間が踏み込んでしまうことには抵抗を感じてしまいます。
一方で、そこに希望の光を見ている方がいるのも確かなので
本当に難しいです。
ただ、今は当たり前になっている体外受精も
当時は賛否両論、様々な意見が飛び交っっていましたし、
臓器移植なども同様だったと思います。
時を経て市民権を得た医療はこれまでにもありました。

そもそも、
今もこれまでも「よくわからないで使っているもの」
「目を背けているけど本当はその本質を見据えなくてはいけないもの」がたくさんあると思いますし、
「何でも出来てしまう」時代だからこそ
もっともっと考えなくてはいけないということに
今回気づかせてもらった様な気がします。

投稿:エム 2015年10月07日(水曜日) 20時05分

昨夜の放送を見てから、なんとも言えない混沌とした気持ちが続いています。

個人的には河野先生のご意見に近い考えを持っています。
足りない部分を補うのと、ないところから作り出すのは全く別のものです。
存在しない精子(卵子)を人工的に作り出し、生命体を新たに作る。
そうして生まれた子供が、孫が、子孫が、生きていくリスクは従来あるものと同等でありうるのか。
差があるなら、許容範囲はどこまでか?
技術的に可能でも、それは果たして「本物」なのか。
乱暴な言い方ですが、そんな気持ちが拭えません。

同性愛について抵抗はありません。
子供を望みながら叶わない男女夫婦も少なくないでしょう。
そういったカップルが第三者からの精子提供を受けたり、代理母の手を借りたり、養子をもらって家庭を築くことについて、とても良い方法だと思っています。

でも、ないところから生命体を作るということはやり過ぎだと感じます。
傲慢だと感じます。

それは行き着くところ、子孫を残すために男性は必要なくなり、
選ばれた人間だけが自分のコピーを増殖していくことに繋がって行きそうで怖いです。

投稿:さとめぐ 2015年10月06日(火曜日) 14時57分

私は3番目の子供です。父の経済的DVを受けているのにもかかわらず産まれました。何故産んだのかきくと、母は出来たから仕方なかったといいました。
どんな過程かは関係なく、望まれて、愛されて産まれてくる子供は幸せだと思います。欲しいと望まれて産まれてきた命が、望まれなかった命と比べて間違ってるなんてことは無いです。
ただ今の日本では同性婚への理解のほうが先だと思いますけどね。

投稿:ララ 2015年10月06日(火曜日) 14時50分

見果てぬ夢、と思っていたことをサイエンスが叶えるのは科学進歩の表れでしょう。
その是非を情緒的に投げかけるという意味では「刺さるデザイン」でした。
しかし、世に議論を問うだけならばもっと他のやり方があったのではないかと考えてしまいます。女性であれば産みたい、と思うこのプリミティブな欲求は誰にでも備わったものだひし、それを弄ぶようだと思いとてつもなく残酷な作品だと思いました。
そして、仮にIPS細胞から産まれた子供がいたとして、成長する過程で、どうやって貴方は産まれたのよと説明するのだろう、とか
それは同性同士ではなく、異性の場合には医療として「不妊治療」と同一でみなしていいのか、とかもっと深く考察されるべきかもしれません。
誰かが切望すればサイエンスが叶えても良いものなのか、サイエンスが薬にも毒にもなる良い例であり、きちんと議論すべき段階なのだと考えます。
生命の誕生そのものはどんな形であれ本人は1人の人だし、その人は社会に歓迎されるものであってほしい。そのためには、何が必要なのかと考え込んでしまいました。

投稿:伝助 2015年10月06日(火曜日) 06時39分

ぜひ意見をとのことでしたので。こちらに書かせていただきます。
個人的にはシュミレーションは自由だろうけど。それが実際形になるのはすごく怖いなと思いました。簡単に生命をコントロールしていいのかって。わたしもダメなものはダメだと思う。
マメコとポワコはどうして両方とも女の子なのか、男の子って選択肢はないのかってところもすごく疑問でした。
他に子どもを持つ方法は養子などあると思うので、そうゆう方向になっていくべきではないかと思う。

投稿:ぽん 2015年10月06日(火曜日) 00時30分

牧村さんが「ぽわ子」「まめ子」という命名をされたとき、正直、テレビを消そうかと思いました。「そんな中途半端な気持ちだったのか」と、残念に思ったからです。
ところが、牧村さんの「現実的な名前を付けてしまうのが恐い」というような言葉を聞いて、自分の短慮を恥じました。この人たちは、私には想像もできないような思いを抱えているを感じました。

しかし、それから少しして、やっぱりモヤモヤした感じが頭をもたげてきました。
「子どもに会いたくてもできない」というのは、果たして同性カップルだけでしょうか。男女のカップルであったとしても、様々な理由から子どもが望めないという人たちは、私の周囲にもいないわけではありません。
多くの人たちと同じように結婚した彼らは、当然、同じように子どもを期待しているし、期待されてもいます。そのような状況で、突然、「子どもはできない」と通知されたときの驚きと悲しみ。彼らは「子どもに会えるはずだった」と思っているはずです。
彼らが果たして、(たとえ空想のなかであったとしても、)子どもに非現実的な名前を付けるでしょうか。
「会えるはずはなった」牧村さんたちと全く同じではないけれども、「子どもがほしい」という気持ちは一緒のはずです。そういった思いで見ていたであろう彼らは、どういう気持ちで「あの名前」を見たのでしょうか。
そう考えると、「あの名前」はやはり『アート』の延長なのではないかと思えて、モヤモヤしてしまいました。

投稿:p 2015年10月05日(月曜日) 21時09分

「不可能を可能にすることは医療ではない」
不妊治療に断念して数年が経ち、
自然妊娠すら臨みにくい年齢になった今のわたし。
パートナーが原因でしたが
不妊治療そのものに対する理解に苦しみ
お互いを思い合うが故の決断でした。
あの時踏み込んでいたら
出会えていたかもしれない。。。命。

牧村さんの中に母性が芽生えた瞬間の笑顔に涙がとまりませんでした。

出来ることなら出会いたい。
想像の世界でだけでも幸せな家族が描けるなら…。
不可能を可能に変えた技術の進歩で出来る
未来のシアワセのカタチ。
心にちょっとだけ光が射しました。

投稿:マルモ 2015年10月05日(月曜日) 20時57分