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"原点"が教えてくれたこと

2017年03月29日(水)

ずっと来たかった場所でした。
“日本の障害者スポーツの原点”とも言える地、大分県別府市。今年1月、「日本障がい者スポーツ学会」の取材で訪れました。この学会は、医師や理学療法士、作業療法士の他、エンジニアや指導者など多様な人が集まり、情報や意見交換をする場です。

「車いすバスケットボールや車いすラグビーを体育館で行うとき、床材をどこまで傷つけるかを定量的に調べた研究」や、「障害のある人がスポーツを始めるときの窓口をワンストップで果たしている、福島県の運動導入教室の事例」の報告。さらに、柔道やブラインドサッカーなど視覚障害の選手の身体的特徴についてなど、興味深いテーマが盛りだくさんの内容でした。

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2日間に渡って行われた「第26回日本障がい者スポーツ学会 in 大分」


20160329-yamaken2_002_nhklogo.JPG別府市の「太陽の家」本館。建物の壁にはスロープが。地震、津波などの災害のときに、車いすでも高いところに避難できるように。


さて、この学会の副題は「日本の障がい者スポーツ発祥の地で改めて考えたいこと」でした。
1960年、国立別府病院の整形外科医である中村裕博士が、リハビリテーションの研究でイギリスを訪れ、そこで“パラリンピックの父”と言われるグッドマン博士に出会います。そこで中村さんは、「スポーツを医療の中に取り入れて、患者の残された機能を回復させ、短期間で社会復帰させる取り組み」に強い衝撃を受けたといいます。まさに、パラリンピックの精神である「失ったものを数えるな、残された機能を最大限に生かせ」を実証していたのです。

20160329-yamaken2_003_nhklogo.JPG現在の「太陽の家」の理事長は、中村裕さんを父に持つ中村太郎さん。「太陽の家」の歩みと、就労やスポーツなど障害のある人にとっての自立について、熱い思いを話した。


帰国後、中村さんは大分県に身体障害者体育協会を作りスポーツ大会を開きましたが、参加者が少なく、「患者チームvs医療者チーム」で戦ったといいます。ところが、「障害者を見せ物にするのか」「またケガをしたらどうする?」など、非難轟々。そうした逆風の中、中村さんはスポーツの重要性を訴え、国際大会を東京に誘致します。これが第2回パラリンピック大会で、中村さんは日本選手団の団長を務めました。

20160329-yamaken2_004_nhklogo.JPG1961年大分で行ったスポーツ大会や東京パラリンピックに関する資料(資料館)

 

日本の出場選手は国立別府病院と箱根療養所の混成チーム。病院から直接会場に入るなど、当時“保護されるべき存在”とされた人たちが出場しました。ところが、外国から来た選手は、試合後、銀座へショッピングに行ったり、お酒を飲みに行ったり、スーツを着て商談を始める人がいたり。その姿を見た日本の選手たちは大きなショックを受けたといいます。

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1964年東京パラリンピックでの写真(資料館)



20160329-yamaken2_006_nhklogo.JPG掲げられている理念

 

その翌年。
「No charity, but a chance!保護より働く機会を!」という理念のもと、中村博士は別府市に、障害のある人の働く場として、社会福祉法人「太陽の家」を設立します。その後、日本の企業が太陽の家と共同出資して会社を興し、障害者と健常者がほぼ半数ずつ在籍する工場が次々と生まれました。共生社会への実現に向けて、障害者が社会に出ることを求めたのです。

また、中村博士は、日本だけでなくアジア太平洋地域のノーマライゼーションなどを向上させたい、とフェスピック(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会。のちのアジアパラ競技大会)をスタートさせて事務局を務めました。また、大分国際車いすマラソン大会を立ち上げるなど、日本の障害者スポーツの発展にも大きな貢献をして、1984年、57歳で亡くなりました。

20160329-yamaken2_007_nhklogo.JPG「太陽の家」では、大分だけでなく愛知や京都でも、就労支援や日常生活の支援、共同出資会社での雇用を行っている。


そして今、2017年。
3年後には、東京で2回目のパラリンピックが開かれます。十分とは言い切れませんが、障害のある人のスポーツをする機会は増えました。また、太陽の家と企業の出資会社では、今も変わらず、障害者の雇用が進んでいます。大分から全国に広がっていった「共生」のマインド。“2020年東京パラリンピックの聖火リレーを別府からスタートしてはどうか”。学会での話題にもなりました。

中村さんの思いが、別府の街に今も息づいています。私が今回訪れて驚いたのは、障害のある人を街で頻繁に見かけたことです。それも、働くにしてもスポーツをするにしても、エネルギーのある人を多く見かけました。障害のある人が地域に溶け込んで、“普通に”暮らしていたのです。スーパーでは車いすの人でも働けるように、レジの台が低く作られていました。パチンコ店では、車いすの人も楽しめるように、いすが移動式であったり、競輪場の券購入カウンターが低かったり…。障害のある人も、もちろん一人の生活者。誰もが住みやすい街づくりとは何かを自然と考える空気があるのではないでしょうか。

20160329-yamaken2-009-00_nhklogo.jpg自動販売機。車いすの人でも最上段の飲み物を買えるように、低い位置にもボタンを設置している。


20160329-yamaken2_008-00_nhklogo.jpg押しボタン式信号。障害によりボタンを押しこめない人もいることから、触れるだけで反応する。


20160329-yamaken2_010_nhklogo.JPG「太陽の家」の体育館で。地域に開かれていて、この日は室内サッカーの大会が開かれていた。この他、プールやトレーニングルームもあり、障害の有無に関係なく、地域の人が“混ざる”場所になっている。


「こういう街があるんだ」
街を歩き、話を聞き、次々と感じる新たな発見に、この思いを何度もしました。
障害のある人もない人も、歩み寄ってできていくコミュニティー。住んでいる地域に、何かあったときに「少しでも頼れるかな?」と思える人がたくさんいることが、どれだけ心強いことか。
吹雪で頬が冷たくなる中、心は熱いまま、別府の街をあとにしました。


20160329-yamaken2_011_nhklogo.JPG中村裕さんの銅像。2020年の東京パラリンピックをどう見るだろうか。




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