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60歳からの青春 ―精神科病院40年をへて―

この放送回の番組まるごとテキストを掲載しています

  • 2014年6月10日(火曜)再放送2014年6月17日(火曜)

出演者
岡崎 伸郎さん(国立病院機構仙台医療センター精神科部長/精神保健従事者団体懇談会代表幹事)
語り
河野 多紀さん

60歳からの青春 ―精神科病院40年をへて― の番組概要を見る

(スタジオ)

山田:こんばんは。「ハートネットTV」です。
今日は、60歳を過ぎて自分の人生を取り戻し、再び歩み始めた一人の男性の話を、是非聞いて下さい。
望んだ訳ではないのに、40年もの長い間、精神科病院に入院していた時男さん。
現在、63歳です。
退院のきっかけとなったのは、東日本大震災でした。
入院していた病院が原発事故の避難区域にあったために、戻れなくなったのです。
なぜ40年もの長い間、入院せざるをえなかったのか。
そしてどういった経緯で病院を出たのか。
まずは時男さんのこれまでをご覧頂きます。

(VTR)

時男さんは今、群馬県太田市で暮らしています。

(居酒屋に入る時男さん)

時男:こんちは。
腹減った。お茶くんない?

週に1度、なじみの店に足を運び、女将さんや常連客と話をするのが何よりの楽しみです。

女将:おとなしく飲む人だよ。
ほんとにおとなしい、草刈正雄は。

ディレクター:草刈正雄?

女将:だって似てると思わない?
似てるよ、ホントに似てる。ね。

店の人たちは、時男さんが長い間精神科病院に入院していた事を知っています。

常連客A:私なんか、全然精神病だと思って接してねえから。

常連客B:みんな差別してないから。

時男:ここの人たちはみんなやさしい人ばっかだよ。

時男さんは10代の時、統合失調症を発症しました。

妄想などの激しい症状は、長い間出ていません。
服薬と、週に2度のデイケアで体調を維持できています。

(デイケア担当 石川信義医師)

石川:安定してると思います。
まったく大丈夫だと感じます。

時男さんはグループホームで暮らしています。

時男:おはようございます。
そこの小さな桜見に行ってくる。

40年に及ぶ入院生活は、家族との大切な時間を奪いました。

時男:満開だよね。
ちょうどいいね。

子ども時代、福島で過ごした時男さん。
桜を見ると、そのころの記憶がよみがえります。
父親の会社の花見に、家族で出かけた時の事です。

時男:福島に信夫山っていう山があって、そこの花見に行ったことある、会社の花見で。

ディレクター:楽しかったですか?

時男:楽しかった。
あのとき姉さんもいたし、弟もいたし、家族5人、あと社員の人と一緒に飲んだり歌ったりして。

入院する前、家族との最後の思い出です。

時男:もうあれから50年・・・。
半世紀すぎたね。もう長いな。

10代で発症 そして病院へ

時男さんが初めて精神科病院に入院したのは、今から46年前の1968年の事でした。
当時、時男さんは親戚を頼って福島から上京し、働き始めたばかりでした。
しかし、慣れない環境と人間関係によるストレスから体調を崩し、妄想などの症状に襲われるようになりました。
そして、都内の精神科病院に入院します。
16歳でした。

このころ、国は精神障害者の隔離収容政策を進めていました。
大きな契機となったのは、1964年に統合失調症の少年が起こした傷害事件でした。
マスコミも一斉にキャンペーンを展開し、精神障害者を「危険な存在」と見なす社会の風潮が作られていきました。

そのころの精神科病院の多くは、畳敷きの大部屋に大勢の患者が詰め込まれる劣悪な環境でした。
入院したばかりで興奮状態にあった時男さんは、この先自分がどうなってしまうのか、恐怖を感じました。

更に衝撃を受けたのは、電気ショック療法でした。
患者の頭部に電流を流し、症状を抑制する治療法です。

時男:電気ショック受けた人の表情見たんだけど、窓から見たら、目が白目向いて、手がぎゅーとこんな震えて、すごい形相だったの。
逃げようと思ったの、おっかなかったから。

不安に駆られた時男さんは、病院を逃げ出しました。
大雪の降る寒い夜、ヒッチハイクを重ね、住み込み先だった親戚の家にたどりつきます。しかし、すぐに病院に連れ戻され、保護室に収容されました。

その後、時男さんは何度も症状を悪化させ、入退院を繰り返しました。
家族が引き取る事は困難でした。
父親は、せめて実家に近い病院に移したいと、時男さんを福島の病院に転院させました。時男さん22歳の時でした。

あまりにも長すぎた入院生活

福島の病院に移って数年。
激しい妄想などの症状はほとんどなくなりました。
統合失調症の症状は、多くが時間とともに落ち着いていきます。

病院では、生活訓練のために、外勤作業や院内作業を進めていました。
時男さんも、近くの養鶏場に働きに出たり、病院内での厨房作業を行ったりしていました。
わずかながら、報酬をもらう事もできました。
時男さんが書いていた当時のノート。
ほとんど休みなく作業に参加していました。

時男:外で働くっていうのはホント、社会人になったような気がして楽しかった。
ああ、俺これだけできるんだなっていう、強い気持ちができるんだね。
仕事してれば、いつかは退院できるんじゃないかなと思って。

このころ国は、ようやく隔離収容政策を転換。
患者の社会復帰に向けて大きく舵を切り始めます。
精神科病院での患者への暴行事件が相次いで発覚し、閉鎖的な体質が問題視されたからです。

1987年、精神保健法が成立。
患者の社会復帰を促進する事が、初めて明確に打ち出されました。
しかし、社会復帰はなかなか実現しませんでした。
長年国が推し進めてきた隔離収容政策によって、「精神障害者は危険である」という誤ったイメージを人々は払拭できずにいました。
退院した人が生活する施設への反対運動などが、各地で相次ぎました。

時男さんは退院のめどが一向に立たず、居場所は病院しかありませんでした。
入院生活が長引く中、時男さんの気持ちにも変化が起こっていきました。

時男:俺はダメだなって、みんなそういうふうに思ってるのかなって。
落胆しちゃった。

2002年、国は、入院治療が必要ないにもかかわらず病院にとどまっている患者は7万2,000人と発表。
この時、時男さんは既に51歳になり、入院生活は30年を超えていました。
唯一面会に来てくれていた父親も、この世を去りました。
長い入院生活で家族と疎遠になっていた時男さんに、その知らせは届きませんでした。

時男:残念でならない。
葬式くらい出たかったのに。
涙も出なかったよ。

社会と切り離され、決められたスケジュールどおりの単調な毎日。
時男さんは好きだった絵を描く事で、絶望感を紛らわせていたといいます。

時男:管理されてるからね。
どこ行ったらダメとか、何やっても看護婦さんとか職員に許可がないとダメだって言われる。
そんなとき絵を描くと、ストレスが空気になっちゃうからね、だからいいの。

ディレクター:だから絵描いてたって事ですか?

時男:そう。
もうあきらめてたから。
俺はもう一生(病院に)入ってるって。
退院なんかできない、無理だなと。

59歳の時、主治医から退院の話が出ます。
そのころには、病院の周辺でも社会復帰のためのグループホームなどが出来始めていました。
しかし、時男さんは退院しませんでした。

時男:(社会に出るのが)怖いっていう意識があった。
俺なんか退院できないよ。
だって働くこと、年も年だし、誰も使ってくれないよ。
そしたら、働かなくたっていいんだって、働かなくても退院できるんだって。
グループホームに行けばいいんだって。
そういうのあるのかなって、半信半疑だった。

あまりにも長すぎた入院生活は、時男さんの退院への意欲を奪っていました。

震災がきっかけで社会に出た時男さん

2011年3月11日東日本大震災が発生。
福島第一原発の近くにあった時男さんの病院には、すぐに避難指示が出されました。
時男さんたち入院患者は、受け入れ先を求めていくつもの病院を転々としました。
40年近く暮らした病院を突然出る事になった時男さん。
この先どうなるのか不安でたまりませんでした。

手元にあったのは1枚のテレホンカード。
時男さんは、避難先の病院の公衆電話から、すがるような思いで東京に住む友人に電話をかけました。
その電話を受けたのが、織田淳太郎(おだ・じゅんたろう)さんでした。
福島の病院で知り合った作家で、かつての入院仲間です。
織田さんは、時男さんを心配してすぐに駆けつけました。

織田:お金もないし、服もない、日用品もないっていうんで、僕がとんでったんです。

避難生活の苦労を聞いた織田さん。
この機会に病院を出て、地域で暮らしてみてはどうかと提案しました。

織田:なんでね、40年近くも入ってなきゃいけないのっていうようなぐらい、全然社会性もあったし、絶対なんとかなると思った。

時男:やっぱり(織田さんの)退院できるっていう言葉自体に熱意があふれていたから、ああ、この人はすごい人だなって。
いろいろ心の糧になってくれた。

織田さんは、精神科医の石川信義(いしかわ・のぶよし)さんを紹介してくれました。
石川さんも、時男さんには地域で暮らせる可能性が十分にあると思いました。

石川:39年も入院していたっていうこと自体が驚きですよね。
能力があり、あれだけの才気があり、頭がきちっと働き、病状自体も安定していて、それでいて39年、ちょっと信じがたい思いがしますね。

石川さんの紹介で、時男さんは群馬県太田市のグループホームに入居する事になりました。
40年近くの時を経て、自分らしい生活を取り戻す事ができたのです。

(居酒屋のカウンター前で歌う時男さん)

今、時男さんは、失った青春を生き直そうとしています。

女将:腹減ってるんだよ、パン一個やるからそれ食って歌え。

時男:ああそっか腹が・・・。

女将:震えてるよ声が。

常連客:やっぱり少しあがってるよ。

時男:あがってるけど、けっこううまく歌えた。

(自転車をこぐ時男さん)

時男:あの大地震がなければ俺、退院できなかった。
退院してよかった。
こんなにいいと思わなかった。
だから俺は今は幸せだ、うん。

なぜ社会的入院が生まれてしまったのか

(VTR終了。スタジオでのトーク)

山田:あまりにも多くのものが奪われた40年で、今は幸せだという時男さんの言葉とても複雑に感じます。
スタジオには、精神科医の岡崎伸郎さんにお越し頂きました。
精神医療や福祉に関係する団体の代表幹事もなさっています。
よろしくお願いします。

岡崎:よろしくお願いします。

山田:時男さんの姿、どう映りましたか?

岡崎:入院治療がもう必要なくなってる状態なのに、帰る所がないといった理由で長期入院を強いられている方、非常に多い訳ですが、こういう状態を「社会的入院」といっているんです。
適当な支援体制さえあれば、地域社会の一員としてちゃんと暮らしていける。
それはもう当たり前の事だなという印象があります。
ところが、その当たり前の事が何十年間もできないでいて、それが今回の原発事故による避難という、とんでもない出来事が降りかかってきて、それがきっかけになってやっと実現したのかという、非常に皮肉な意味の衝撃もありますよね。

山田:では、こちらをご覧頂きます。
こちら、精神科病院の入院患者の数です。
およそ32万人いますが、1年以上入院している人は20万人以上。
中でも、10年以上同じ病院に入院し続けている人は7万人もいるんですよね。

岡崎:しかも、この長期入院者の中には、ちょうど時男さんのような社会的入院という人が相当多いといわれているんです。
こういった社会的入院の方々を多く含んでいるために、日本の精神科の平均在院日数は諸外国に比べて突出して長くなっているんですね。

山田:なぜ日本では、社会的入院が生まれてしまうんでしょうか。

岡崎:どこか一つ、あるいは誰か一人を悪者にできるような単純な問題ではございません。
まず何と言っても、精神科病院にも原因がある。
もともと我が国の精神科の入院医療というのは、医師や看護師といった人員配置が少なくてもやっていけるように設定されている。
そのかわりに、診療報酬も低く設定されてきたんですね。
まさに構造的問題。
加えて日本では、民間経営の精神科病院が圧倒的に多かった。
そうなりますと、やはり経営というところから見ると満床に近くしておかなければもちません。
そうなってきますと、積極的に退院させようとする力がなかなか育ってこない、働いてこないという事があります。
それからご家族の側にも複雑な事情があります。
ご家族としては、ご本人をなんとか精神科の病院専門病院に入院させたと。
ああやれやれ一安心、という気持ちがあったでしょう。
それの期間がだんだんだんだん長くなってくる間に、何と言いますかご本人抜きの生活形態というのが出来上がってしまう。
それが10年20年というふうになると、代替わりもしてしまうという事になりますよね。
一方、家族に対する支援体制というのも非常に不十分だったという事があります。
それから、それらを取り巻く地域社会の方にもやはり問題があります。
VTRにもありましたように、精神障害者に対する根強い差別偏見がある。
そして、何と言っても最も責任が重いのは、国あるいは行政という事になると思います。
戦後、長きにわたって、いわゆる隔離収容型の精神科医療政策が続いていた。
それはもうとっくに時代遅れなんだけど、そこからの脱却に失敗してしまった。
そして、今まで申し上げたような複合的な構造的な問題を固定化させてしまった
というところでしょうかね。

山田:そうした中で、40年間入院生活を続けてきた時男さん。
退院したあと、これまでの時間を取り戻そうとしています。

失われた40年を取り戻す

(VTR)

長い間社会とのつながりを断たれてきた時男さんにとって、日常生活は戸惑う事ばかりです。
この日はグループホームの職員に付き添ってもらい、銀行でお金の下ろし方を教わりました。

(ATMの操作パネルを指さして)

時男:ここ「引き出し」だ。

職員:ちょっと待って。
そうです、押してください。

時男:カード入れる。
今度は暗証番号だな。
できた。

職員:分かった?はい。

(駅で運賃のパネルを確認)

時男:あっ150円だ。

(自動販売機で切符を買う)

一つ一つできる事が増え、自分の力で生きていく事に手応えを感じています。

時男:切符切りが昔はいたんだけど、切符を自動で、穴に入れたらポーンと出てくるから、ああ珍しいなってびっくりして。
早く自分で一人でどこにでも行けるように、切符を使って自分で乗れるように、早くできればいいなってそう思ってるんですよ。
それがだんだん可能になってきて、浦島太郎が竜宮城から帰ってきたみたいな感じで、日々面白いですね。

この日、時男さんはグループホームの職員に頼んで、故郷の福島に向かいました。
どうしても会いたかった人がいるのです。
弟です。
長い入院生活で家族と疎遠になってしまった時男さん。
弟が会ってくれるか不安が募ります。

ディレクター:緊張しますねちょっと。

時男:はい。たった一人の肉親だからね。
いとことかは別にして。兄弟では一人だけだから。

夜7時。
弟が会いに来てくれました。
兄弟が病院の外で話をするのは、子どもの時以来です。

時男:あ、久しぶり。
約束通り来てくれたから、俺ありがたいと思ってる。
よかった。

時男:父親の墓参り一回も行ってねえな。
(父に)会いたくて泣いたこと何回もあった。

弟:(父は)死ぬまで心配してた。

(戻ってきた時男さん)

ディレクター:どうでした?弟さんと会ってきたんですか?

時男:いや久しぶりだね。
弟があんなに喜んだの初めて見た。

ディレクター:喜んでました?

時男:喜んでたよ。
友達みたいな感じでしゃべってくれたから嬉しかった。

翌日、時男さんは弟と一緒に父親の眠る墓地へ向かいました。

弟:(命日が)2月だから法事のときはここには来れねんだ。
雪がいっぱいでぽこんぽこんってなってる。

時男:今日来てよかったな。

父親が亡くなった事も知らされず、葬式に出る事もかなわなかった時男さん。
いつも自分を気にかけてくれていた父の姿を思い返していました。

時男:俺、苦労ばっかかけたけど、やっと、やっとな。
夢みたいだな、ホントにな。
一生、もう墓参りできないと思ってた。
でも退院できたから。
たまにこうやって会えたらいいな。

弟:(笑い)

社会的入院の人たちが地域で暮らすために

(VTR終了。スタジオでのトーク)

山田:一歩一歩、前を向いて歩み始めようとする姿、どうご覧になりました?

岡崎:そうですね。複雑ですね。
時男さん特定の誰かに恨み言はおっしゃらない。
そういう境地に至ったのかな。
その事に頭が下がりますよね。
でも時男さんの胸中は、非常に複雑な思いがあるに違いない。
私たちはやっぱりそういう複雑な思いを受け止めなければならないなと思いますね。
「時代の波に翻弄された」という言葉があるじゃないですか。
でも、その言い方って他人事のような響きがあるので、安易に使うべきではないと思うんですよね。

やはり、時男さんに関係したみんな、国とか行政とかそういう大きなものまで含めて、みんなが彼に頭を下げるというところから始めなければいけないんじゃないでしょうかね。

山田:更に、今後何をすべきかというところで、今まさに、国は社会的入院の人たちが地域で暮らすためにどんな方策が必要かを考える検討会を開いて検討しているところですよね。

岡崎:そうです。
今度こそ本格的な解決策を見つけてほしいなと願っているんですが、一方、その議論を見ていますと、非常に危惧している点もあります。
社会的入院の方々がおられる。
その人たちのために、病院の一部分を福祉施設に衣がえをして、一旦そこに移って頂くというのはどうでしょうか。そういう案も出てきているんですね。
確かに一部の民間の病院にとってみれば、比較的やりやすい方策かもしれません。
でも、これは本当の意味の地域移行ではありませんよね。

山田:同じ病院の中に。

岡崎:そういう事です。
退院とはいうんですが、昨日いた場所と同じ場所に住み続ける。
当分は住み続けるという事になります。
まあ肝心なのは、社会的入院を強いられてきた人たちの市民生活を取り戻すんだという事でしょうね。
これは端的に言って、人権問題だと思います。

山田:6月の下旬には国の具体的な方策がまとまる見込みです。
番組でも、これからも注目していきます。
今日はどうもありがとうございました。

エピローグ

(VTR)

グループホームの庭にある
時男さんが大切にしているもの

(木に水をかける)

時男:ただの木の棒だったんだ。
ただの木の棒だったのに、枝が出てきたんだ。

ここで暮らし始めた記念に
植えた柿の木
最初はなかなか芽が出ず
あきらめかけていた

時男:捨てようかと思ってたの。
全然枯れ木みたいに芽が一つもない、ただ棒が突っ立ってるだけだったから、こりゃダメだなってあきらめてたの。
そしたら、このへんから、芽が出てきた。
あの時は何とも言えなかったね。
うれしかった。
これ命と同じだもんね。
ひとつの命だからね。
ひとつの命がグループホームに芽生えたんだね。
俺みたいなもんだ。
孤独だったのが、だんだんみんなに溶け込んで。
社会に再び出た、スタートだね。

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