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番組ガイド
がんサポートキャンペーン 最終回 手をつなごう患者と家族たち
京都・南禅寺  今日は2004年12月24日からスタートした「がんサポートキャンペーン」の最終回。

 第1回から出演していただいているノンフィクション作家の柳原和子さんは京都・南禅寺からの中継で出演していただきました。
南禅寺は柳原さんにとって特別な場所です。

京都・南禅寺の柳原さん

柳原:  再発の告知を受けた翌日から毎日来ていました。 身体のケアは病院と色々な人のサポートを得て維持してきましたけど、 心はこの場所がずっと支え続けてくれました。

 残念なことに、2年前がんサポートキャンペーンが始まった日、 一緒に出演したみんなと「キャンペーンが終わるまでは生きていようね」って約束したんですが、 3人が亡くなってしまいました。 でも、今日も新しく増えた仲間が日本中で見てくれていると思います。

 今までメディアががんや医療を語る時、医者が病気のことをすべて知っていると思っていました。 この番組は“誰が当事者なのか?”という問いに対して、 “医療を受ける私たち”“誰もがなり得る患者の目”で疑いを持つこと、発見すること、 どうやったら生きていけるか、ということについて大きく一歩足を踏み入れたという気がします。

ゲスト:岸本葉子さん、樋口強さん、濱本満紀さん、笹川美和さん
【京都・南禅寺中継】
柳原和子さん、高橋みよ子さん、南雲幸江さん 
岸本さん 岸本:  このキャンペーンが始まった時、ホームページであれ、画面への登場であれ、こんなに多くの方々が参加してくれるとは思っていませんでした。普通の患者・家族が、普通の自分の暮らしを語り始めてくれたことはとても嬉しいです。
浜本さん

濱本:: 私が患者の遺族であった時、自分がこの後いずれがんになるであろうと意識を持ち始めた時、 そして今私の周りにいる友人、知人のがん患者と一緒にいられるようになった・・・ そういう変化とほとんど同時期にこのキャンペーンがあっていてくれたので、 その都度いろいろなことを考えるよすがにさせていただきました。

 始まりは2003年9月「シリーズがんとともに生きる」です。
その後、2004年12月から「がんサポートキャンペーン」としてお伝えしてきました。
生活ほっとモーニング・NHKスペシャル・ETVワイドなど、番組の本数は35本。
出演いただいた患者・家族の方は100人を超えました。

「がんサポートキャンペーン」の大きなテーマは二つ。
「支え合おう患者と家族たち」
「変えよう日本のがん医療」
最終回の今回もこの二つのテーマに沿ってお送りします。

まずは、「支え合おう患者と家族たち」

 番組でその中心を担ってくださったのが、京都・南禅寺から中継でご登場いただいた柳原和子さんです。
柳原さんは、9年前に卵管がん、そして3年前に再発、転移を体験されました。
何度も番組にご登場いただき、その思いを語ってくださいました。
その姿は多くのがん患者や家族を支えています。
今、また1人の女性が、柳原さんの存在に支えられています。

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再発後をどう生きるか 山田泉さん
山田さんから柳原さんに向けられた手紙 柳原和子様。
 はじめまして。私は大分県の国東半島に住む46歳の山田泉と申します。6年前に乳がんの手術を受け、昨年の11月に再発。
 これまで何度も柳原さんの生き方に励まされ、勇気づけられてきました。

 山田さんは中学校の養護教諭をしています。
初発の後も職場に復帰し、がん体験を語るなど、命の授業を始めました。これからと思った矢先の再発。死の恐怖が襲いました。

山田さん

「本当に苦しかったですからね。
手術までの1か月間、誰にもその気持ちを話さずに、話せる状態ではなかったので、耐えて、耐えて笑って過ごすしかないなって思う状況の中で・・・。」(山田さん)


 再発直後の山田さんの苦しみを救ってくれたのが、柳原さんの存在でした。 去年10月に放送した、がんサポートキャンペーン、「再発を生き抜く」。 肝臓にがんが再発し、もう治る見込みがないと言われた柳原さんが、 自ら納得のいく治療を求めて、数々の専門医と対話を続ける姿を伝えました。

2005年10月25日放送 再発を生き抜く〜柳原和子 医師との対話〜より 柳原さん

柳原: 治らないって言い切った後に、治らない治療をどう生きるか。
私は生きる論理なんですよ。
だから、治すことができるならどんなことでも耐えるし。
(2005年10月25日放送 再発を生き抜く〜柳原和子 医師との対話〜より)

山田さん

「がん患者の先輩。 私も柳原さんの後を歩んでいってるんだなと思いました。 自分の前に歩いている人に出会えたという心強さというか、あなたと話がしたかったんですという気持ちです。 ほかの誰じゃないんです、あなたと話がしたいんですという。 だからテレビに近づいて、涙ボロボロ流しながら見てましたね。」(山田さん)

 番組から1か月後。
山田さんは左乳房を全摘する手術を受け、再発後をどう生きていくのか模索する生活が始まりました。教師の仕事は再び休職し、今は、がんの再発を抑えるための薬を毎日飲みながら自宅での療養を続けています。
 しかし、2か月前から薬の副作用と思われるひどい吐き気に襲われるようになりました。このままでは職場には戻れない。しかし、自分の命を考えると、薬をやめるわけにもいかない。
山田さんは、今深い悩みに直面しています。

 2月末、中学3年生の生徒たち11人が、卒業を前に山田さんにもう1度会いたいと訪ねてきました。
ほぼ1年ぶりの再会です。

命の授業をする山田さん

「私はな、もう先のことが考えられない。私はもうな、今日一日のこと考えるのが精一杯。今日一日できることはやっておきたい。今日みんなと会って、みんなが書いてくれたり話してくれるこの時間というのも、私にとってものすごく大事。」(山田さん)

 山田さんは、これが最後の命の授業になるかもしれないと、3時間かけて、生徒たち一人一人にメッセージを送りました。

「うちらにしてきてくれた命の授業を、いろんな人にまた教えていって欲しいかな。」(女子生徒のひとり)

「先生の授業が受けられなかったらもったいないので、早く学校に戻ってきて後輩に先生の授業をたくさんしてあげて欲しい。」(男子生徒の一人)

 柳原さん、再発がん患者が社会で仕事をしていくっていうこと、どう思われますか?
もう一度保健室に戻りたいなあと思うのですが、今の体調では自信がないなあと思っています。
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山田さんにメッセージを送る柳原さん 柳原: 山田さん、ありがとう。
お互いたくさん泣いたよね。本当に泣いた。辛かったと思います。
でもたくさんの患者さんを見ていて、看護師さんだった人は、今こそ本当の看護が、お母さんだった人は、本当の母親に、山田さんも今こそ本当の養護教諭になれる。
私も本当の文章を書こうと思った。

 あなたがいてくれたことが今日の私の励みになります。

柳原さんと南雲さん

 中継先の南禅寺には、柳原さんの病状を心配して新潟からお友達の南雲幸江さんが京都まで駆けつけてくれました。

柳原: 私のやってきたことは、もっと大先輩達の道を学んできた事によるんですけど、再発以後は南雲さんが本当に力になってくれました。
どう医療と向き合うべきか、探していくべきか、南雲さんは本当によく勉強しているんです。

新潟から駆けつけてくれた南雲さん

南雲: 一緒に探してきた時に「こっちだよ」って教えてくださった。柳原さんは年も上だけど、輝く先輩。私の一番星。

柳原: 南雲さんは私が副作用がひどくてお腹が空いている時には色々な食べ物を作って低温宅配便で届けてくれたり。本当に3度のご飯と医療知識の両方を教えてくれるんです。

南雲: 3食食べられる時は身体の中から力が沸いて来る気がするので、山田さんも元気な若者に囲まれながら、食事をとっていかれれば、元の職場に戻れると思いますよ。

柳原: 私が今回再再再・・・発くらいで落ち込んで電話したら、「私は再発後も、30年働いた夫の定年までお弁当を作り続けた。柳原さんも再発後に一冊の本を書いた。それで十分じゃない?」って言ってくれたの。
お医者さんに「もう十分じゃない?」って言われると腹が立つけど、仲間に言われると「そうかな、そうかもしれない」って思えた。

柳原さんと南雲さん

南雲: ひと息つけるところまでで十分なのよ。この次のステップがあるんだけど、ここでまた力を蓄えて、どの方向に進んでもらうにしても、やっぱり一区切り。これはこれで良かったんじゃない?こんな安らかな2年間があるとは思ってなかったんだから。
 山田さんもそうだったと思うけど、再発って聞いたときには自分の目の前の扉がバターン!って閉まった感じがしたんですね。だけど、患者会に支えられました。患者会は十分に皆さんの力になると思いますよ。

柳原: 患者会だけじゃなくて友達もね。
南雲さんとはこのキャンペーンを通じて知り合ったんだけど、キャンペーンは日本中に散らばった点のようなひとりぼっちのがん患者をつなぐ場だったなと思います。

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岸本:   私にとっても柳原さんは一番星だし、南雲さんも山田さんも、星は一杯あればあるほどいいんですよ。
苦しい時って、自分の事しか目に入らないけれど、自分の前にも隣にも同じような人がいるじゃないって気がついて、必ずしも前を歩いている人の後を付いていけば自分も同じようになれるとは限らないけれど、その人たちがしてきたように、自分は自分で自分の輝き方を見つければいいんだなって思えるのは、すごく励みと支えになります。

 仕事先への影響で言えないとか、守るべき家族があって言えないとか、様々な事情で自分の心を打ち明けられない状況にある人にとっては、このがんサポートキャンペーンの存在は大きかったんだなって、山田さんの言葉から感じました。

浜本さん

濱本::   私は母を大腸がんで亡くした、患者の家族の立場ですが、母が心に不安を持って支えを必要としていた時に、見ないふりをしました。見ると一緒に崩れてしまいそうになるから。いつも母を鼓舞し、強気強気で・・・だから、結果、母の心の孤独には沿うことができませんでした。患者本人が周りの人のために自分の感情をおし留めて、闘病だけでもつらいのに、そんな風に患者さんが孤独でいなければいけないのは本当に切ない事です。

岸本さんと浜本さん

岸本: でも、お母様にとっては“そばにいた”っていうことが、他の人にはできない支えだったと思いますよ。


 がんサポートキャンペーンでは、エネルギッシュな患者本人が、様々な方法、手段で支えあうために活動を紹介してきました。
 3年前の9月「シリーズがんとともに生きる」第1回に出演していただいた樋口強さん。玄人はだしの落語で患者・家族を勇気づける独演会を続けています。

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笑いで患者・家族を救いたい
高座の樋口さん  樋口さんは10年前、肺がんの手術を受け抗がん剤の後遺症に苦しんだ経験を持っています。
年に1回、患者・家族のための独演会を開いています。闘病体験をもとにした創作落語。
笑いで患者を元気づけています。定年を前に体力の限界を感じて退職、それを機に自宅を改築しました。 自宅の樋口さん

樋口: 新しくつくり直したときにね、一番欲しかったのが家の中の『明るさ』なんですね。 日差しをいっぱい入れたかったんですよ。 どうしてもね、がんと暮らしていきますと、ひとりになった時に暗い世界がどうしても出てくるんですよ。 反射的に明るい世界をつくりたいな、と思いましてね。


 今は全国各地の患者会や病院をまわり、「いのちの落語」を語りついでいます。
笑いを力に・・・

スタジオで生落語を披露してくださる樋口さん

 樋口さんにはスタジオで生落語を披露していただきました。

樋口:  がんサポートキャンペーンの番組で紹介されて、随分と色んな所から呼んでいただいて、落語を披露してきました。薬はからだに効くけれど、笑いは心に効く。そこが大きく違います。長らく効いて、周りにいる家族も楽しくしてくれる。ですから「笑いは最高の抗がん剤」と言っております。

岸本:  よく聞いていると、状況は結構シビアなのに、笑ってしまって・・・。こういうおかしい事を見つけるコツを自分の中にも取り入れたいです。自分も楽になって、家族も楽しくなってくれたら、一石二鳥ですよね。家族にも効く薬ですね。患者が笑ってないと、家族は笑っちゃいけないんじゃないかって遠慮しますから。

生落語後の樋口さんと岸本さん、浜本さん

濱本::  お腹の真ん中が暖かくなって力が出てきて、お腹空いてくるんです。患者さんが笑ってるのを見るのが一番楽しいし、家族も嬉しいです。

 京都・南禅寺にも樋口さんの大ファンをお呼びしています。
岩手県の高橋みよ子さんです。高橋さんも柳原さんのお友達のひとりです。 高橋さん

高橋:  樋口さん!4月22日北上でお待ちしています!丁度桜が咲きますよ!
樋口さんの落語もすごく楽しみなんですが、やっぱり私たち患者や家族が手作りで準備している楽しさを感じています。そして、また桜の咲く頃に樋口さんにお会いできるなっていうのを励みに生きる力をいただいています。

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 ここからは、がんサポートキャンペーンのもう一つのテーマ「変えよう日本のがん医療」についてです。

「患者の声が医療を変える」と強く訴え続けてきたのが、島根県出雲市の佐藤均さんです。
民放テレビ局のカメラマンだった佐藤さん。5年前に大腸がんの手術の後、抗がん剤治療を受けましたが、吐き気や食欲不振の重い副作用に苦しめられました。
その経験から、佐藤さんは

  • どこで暮らしていても質の高いがん医療を受けられるようにして欲しい。
  • 国にリーダーシップを発揮して欲しい。
  • 患者の声を取り入れて欲しい。
と国に訴えてきました。

 残念ながら、2005年6月、第1回がん患者大集会の1か月後、亡くなりましたが、佐藤さんたち患者の声がどんな医療を望み、どう国に訴え続けてきたのか、そして今日本のがん医療はどう変わろうとしているのでしょうか。

患者の声が医療を変える 〜佐藤均さんが遺したもの〜

 患者の声が医療を変える。
佐藤均さんは再発がんと闘いながら街頭に立ち、時にはテレビに出演し、訴え続けてきました。

2004年12月24日放送「がんとともに生きる」より 佐藤さん

佐藤: 目的をひとつにして頑張っていけば必ず改善していくんですね。日本はそれが一番足りないんですね。がん患者・家族がね、もっと声をあげていかないと変わっていきませんよ。
(2004年12月24日放送「がんとともに生きる」より)

 去年5月、佐藤さんの願いが実現しました。
大阪で開かれた全国初の試み「第1回がん患者大集会」です。この時、佐藤さんのがんは肝臓から肺へと転移。微熱と咳が続く中、入院先の病院から会場にかけつけました。そばにはいつものように妻の愛子さんが寄り添っていました。患者と家族が手をつなぎ、がん医療を変えていこう。会場は、2千人を超える人で埋まりました。

2005年5月28日「第1回がん患者大集会」より 佐藤さん

佐藤:  こんなにうれしいことはないんですよ。 まさに日本のがん医療の向上のための第1歩がいまやっと今日スタートしたんですよ。 目的をひとつにして頑張りましょうよ。
(2005年5月28日「第1回がん患者大集会」より)


 佐藤さんとともに活動を続けてきた患者仲間、実行委員長の三浦捷一さんです。

2005年5月28日「第1回がん患者大集会」より 三浦さん

三浦:  がん患者が本当に困ったときに求めているのは生きるための希望なんです。 その希望を与えてくれるのは情報なんです。 だからその情報をすべてのがん患者さんに平等に共通に正しく正確に届けるシステムが絶対必要なんです。」
(2005年5月28日「第1回がん患者大集会」より)

 三浦さんたちは国に対して、治療ガイドラインなど患者が必要とする情報を提供する「がん情報センター」の設置を、大会の決議として強く求めました。 尾辻厚生労働大臣が、実行委員長の三浦さんから決議書をうけとり、会場を去ろうとした、その時のことでした。

2005年5月28日「第1回がん患者大集会」より 佐藤さんと尾辻大臣

佐藤:  最後に全国の苦しんでいるがん患者の声がうまく行政に反映させられるように、よろしくお願いいたします。
(2005年5月28日「第1回がん患者大集会」より)


 その後、国は患者の声を全面的に取り入れる形で情報センターの設置を発表しました。
佐藤さんが亡くなったのは、2005年6月、大集会の1か月後でした。

 それから、8か月。
佐藤さんの遺志は、多くの人たちに引き継がれています。妻の愛子さんもその1人です。愛子さんは、自宅近くの空きテナントを利用して地域の人が気軽に訪れ、治療についての情報を交換したり、不安や悩みを語り合える場を作ろうとしています。
「がん情報サロンちょっと寄って見ません家」と名付けました。

愛子さん「がん情報サロン、ちょっとよってみませんか」で

「ほんとに1人でも多くの人に主人の遺志を伝えてあげたい。だから、いろんな人にこの場を利用してもらいたい。主人が思っていることを私が代わりにやっていこうと思っています。」(愛子さん)

 佐藤さんが亡くなったあと、愛子さんは、生きる気力さえも失っていました。その愛子さんが、一歩踏み出すきっかけになったのが患者仲間との出会いでした。

 その一人、三成一琅さんは、膵臓がんと闘っています。もう一人の仲間、納賀良一さんは、膀胱がんの体験者です。納賀さんは、愛子さんと三成さんの助けを借りて、自分が暮らす益田市で初めての患者会を作ろうとしています。納賀さん達が活動を始めたきっかけが、佐藤さんでした。キャンペーンの番組で見た佐藤さんの姿に心動かされたのです。

納賀さん

「私が踏み切った動機というのは、佐藤さんに後押しされて、お前やれよ、しっかりやれよ、そんな想いだったですよ。」(納賀さん)

 すでに60人を超える患者や家族が参加。月に1回のペースで集まり、地域の医療の課題や、悩み、不安について語り合っています。

患者会の愛子さん、三成さん、納賀さん

 「患者が声をあげることで医療を変える。」
いつもそばで聞くだけだった夫の言葉を、今、愛子さんが、伝え始めています。


 2006年3月19日
東京渋谷で第2回がん患者大集会が開かれました。会場に愛子さんの姿がありました。大集会には、去年を上回る二千五百人もの患者、家族が集まりました。今年10月からスタートするがん情報センターの具体的な中身について、会場も一体となった議論がかわされました。

第2回患者大集会の壇上に立つ愛子さん

 「家族、患者の方、みなさんおひとりひとりの気持ちが大きな輪、うねりとなって、手をつないで、そうすればきっと国と医療が変えられると思うんです。主人もそれを信じておりました。 みなさま、どうかもっともっと輪を広げてたくさんのうねりを作っていきましょう。」(愛子さん)

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国の対がん戦略
国の対がん戦略
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 「国の対がん戦略」も転換期を迎えている。

「がん対策推進本部」(2005年5月)
「がん対策推進アクションプラン2005」(2005年10月)
「がん情報提供ネットワーク構想」(2006年10月)は運営事務局に患者代表が参加。
がん診療拠点病院の「がん相談支援センター」にも患者会などのボランティア参加を取り入れていこうとしているなど、
今では国もがん医療を進めてゆくためには、患者の声が何よりも大切だとしています。

 がんサポートキャンペーンやがん患者大集会で訴えてきたものが大きく反映されて、今、大きく動こうとしています。患者主体の医療、家族の支えになる医療が実現されていくかどうかが注目されます。

濱本::  患者会やボランティアの協力ということで、非常に良いかたちでまとめられていて、本当に患者の声を取り入れてくれるよう厚生労働省も頑張ってくださったと思います。
 ただ、より強く活動している患者会ほど疲弊している部分もあると思います。持ち出しのお金で頑張っていたり、体力的に元気な患者さんに業務が集中してしまったり、そして、リーダーが亡くなってしまうと、患者会自体の継続が難しくなったり・・・。ですから、もっと広く一般の患者さんたちにも理解と協力をいただきたいです。

 京都・南禅寺に行っている、岩手県の高橋さんは地域に変化を起こしています。高橋さんがお住まいの岩手県北上市では2005年4月から、抗がん剤治療の副作用で必要になるかつらや、乳がんで摘出手術をした方の乳房ためのパッドなど、普通に暮らすために必要不可欠なものに対して、補助金が出るようになりました。これは高橋さんが所属している患者会の意見を受けて実現されていったものです。

高橋さんと南雲さん

高橋:  がん患者はとにかくお金がかかります。経済的な負担がとても大きいんです。からだや心の痛みは代われないけれども、経済的なことでなにか動けるのではないかというのが第一歩でした。ひとつひとつの小さな動きが何かを変えるんだと、今、実感しています。

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 がんサポート伝言板を通じて、番組中にも色々なメッセージが届いています。
番組にも何度もご登場いただいた、乳がん体験者で広島で患者会の代表をされている浜中和子さんからメッセージをいただきました。

がんサポートキャンペーンへお礼とお願い
(広島県・浜中さん・患者本人)

 一人では届かない声も皆の大きな声なら届くかもしれない。私たち患者会が起こした小さな波がやがて大きなうねりとなり、医療を動かしていくだろう。そしてこの大きなうねりの原動力になったのが、このがんサポートキャンペーンでした。改めてこのキャンペーンにお礼申し上げたくぞんじます。そしてお願いします。がんサポート活動を続けてください。私たちの声を皆に届けてください。

 第二次がんサポートキャンペーンの発足を願っています。

 このほかにもキャンペーン継続を願うファックスやメールを多数いただきました。ありがとうございました。

がんサポートキャンペーンは皆様の声に支えられてお送りしてきました。
そんな皆様の声をまとめた本ができました。
「がんを生き抜く実践プログラム」表紙 「がんを生き抜く実践プログラム」です。
告知を受ける際の心構えやセカンド・オピニオンの取り方、治療方法の選択についてなど、具体的な知恵が詰め込まれた本です。本日出演していただいた、柳原さん、岸本さん、南雲さん、樋口さんのご体験も収められています。

「NHKがんサポートキャンペーン がんを生き抜く実践プログラム」に関するお問い合わせは
 ※クリックするとNHKサイトを離れます。NHK出版までどうぞ
 商品の内容や販売に関するお問い合わせは、出版社までお願いします。NHKにお問い合わせいただきましても、お答えすることが出来ません。

 

 また、サポート伝言板ではのべ3600人以上の皆さんが語り合ってこられました。ここでは、患者本人の方はもちろん、全投稿者のうち1/3以上が患者の家族の方でした。
その中の一つの交流を追いました。

伝言板での家族の支え合い

『私の母は去年の年末に、腎臓がんと告知されました。発見は腰の激痛からでした。

痛みの兆候が出るとすぐにパニックに陥ります。

「鬼」や「役立たず」や「これでは生きてる意味がない」と言われると、涙が出てきて逃げ出したくなります。』

(大阪府・コックローチさん・家族 がんサポート伝言板より

友廣さん  メールを寄せた、友廣美里さんです。 母親のがんが見つかり看護師の仕事をやめ、24時間付き添いました。 しかし、痛みに苦しむ母親は娘に激しく当たりました。

「何でこんなに苦しんでいるのに助けてくれないのかと言われたりして。 鬼って言われたり、痛んでるのを楽しんでるんやろって言われた時にはつらかったですね。」(友廣さん)

 友廣さんのメールに、その日のうちに返事が寄せられました。

『お話を聞くしかできませんが、私の妻も腎臓がんです。特に腰の痛みを訴えています

痛みが出てくると本人は何も考えられなく、側で見ている私はウロウロする状況です。

私も弱い人間です。これから、私も不安をぶっつけますので、聞いていただけませんか。』

(兵庫県・海さん・家族 がんサポート伝言板より

 「もう、画面が見えなくなるくらい号泣しました。本当に、同じ立場っていうのが今までいなかったので、仲間やっていうのと、この人やったら、もしかしたら弱音を吐いたりしても、共感してくれたり、受け止めてくれたりしてくれるのかなと思って」(友廣さん)

高比良詔生(たかひら・のりお)さん夫妻

メールを送った海さんこと、高比良詔生さんです。定年退職を控え、これから夫婦2人で第二の人生を楽しもうと思っていた矢先、妻の弘子さんにがんが見つかりました。


 妻にどう接すればいいのか、自分はどう生きていけばいいのか。伝言板のメールで、友廣さんと励まし合って3か月余り。弘子さんは亡くなりました。

『遺影の笑った写真を見るのが最近つらくなりました。 話せないからです。応えてくれないからです。』

(海さんより)

『海さんは私にとって、一番思いを分かち合えているとっても大切な人です。大丈夫ですか

海さん、いつか、奥さんと母は天国で会える日が来ます。そう信じながら、母に話をしています。母の先輩がいるんだよ。痛みも思いも分かってくれる方がいるんだよと。』

(コックローチさんより)


高比良さん 「やっぱり大事な人だったんですね両方とも。その大事な人を何とか助けたい。或いは痛みを和らげたい。このメールを通じてですね、励まされながら、それでもやっぱり、何とかやっていこうという気持ちにさせていただきました。」(高比良さん)
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浜本さん 濱本::  今まで家族の気持ちがなおざりにされてきたんだなと実感します。身近だからこそ、声に出してはいけないという思いがあって、これからどんどん、こういう家族の心のケア、心のよりどころをどこかに持っていただかなければいけないのでは、と強く思いました。

 このキャンペーンに参加してくださった患者の皆さんは、 命がけでメッセージを送ってくださいました。 その中でも、がんになっても最期まで普通の暮らしを続けたい強く訴えたのが松村尚美さんです。 松村さんと、松村さんを支えてきた家族の姿をキャンペーンではずっと見つめてきました。

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松村さん一家からのメッセージ
リビングルームの松村さん一家  インテリアコーディネーターだった尚美さんがお気に入りだったリビングルーム。
松村さん一家の撮影は、いつもこの場所でした。
乳がんの再発と闘う尚美さん。家族に支えられながら、自分らしい生き方を模索する日々を私たちは見つめてきました。再発後も普通の暮らしを続けること。それが尚美さんの選んだ道でした。毎日1時間半かけて職場に通い、マンションのデザインを手がける仕事に打ち込んでいました。 2004年6月22日放送「再発がんと向き合う2」より 松村さん

松村:  仕事をすることが第一次的な問題ではなくて、それよりも本来の自分に戻るという。 バランスのある自分の生活に戻るということが一番でしたね。
(2004年6月22日放送「普通の暮らしを続けたい」より)

 がんになっても、安心して暮らしたい。尚美さんは、がん医療のあり方も厳しく問いました。

 半年後。
がんは進行し、尚美さんは会社を退職しました。痛みと闘い、ソファーで横になることが多くなった尚美さん。それでも、がんと向き合い続けました。

 「私の中に今、前向きに生きていく意欲がなくなってきてる。これが死に至る病という深い本当の意味の病気の正体なんだなと思いますね。」(松村さん)

看護師をしていた長女の佳代子さんは病院をやめ、実家に戻ってきました。そんな中で、尚美さんは、がん医療に一番大切なものは何かを教えてくれました。

2004年12月24日放送「がんとともに生きる」より 松村さん

松村::  最近、思うようになったんですけど、ひょっとしたら、思いやりかなって。医者とか患者とかの前に、人間としての思いやりなのかなと。何だか前は、いろんな難しいことをたくさん考えてたんですけど、段々難しいことが考えられなくなってしまって、そうすると、普通の思いやりなのかなと。
(2004年12月24日放送「がんとともに生きる」より)

 2005年1月、がんは肺に転移。
2005年1月25日 病院から出演してくれた松村さん 尚美さんは、入院先のベッドから直接、スタジオにやってきて、番組出演を続けました。患者会の仲間と作った、乳がん治療についてのガイドブックをどうしても自分の言葉で紹介したいと思ったからです。

松村:  私たちは乳がんになって、道案内をすることができて、道案内をされることができるんですね。誰かに助けてもらうことができて、誰かを助けることができる
(2005年1月25日「支え合おう患者と家族たち」より)

2005年1月25日「支え合おう患者と家族たち」に同行する夫の良夫さん

 この日、夫の良夫さんは会社を休み、妻の姿を見守り続けていました。


病床の松村さん

 まもなく、尚美さんは呼吸困難を訴え、緊急入院。それでも、最期まで撮影を続けて欲しいと私たちを病室に招き入れました。この日の撮影から10日後の2005年2月13日尚美さんは亡くなりました。良夫さんと佳代子さんは、尚美さんの生き方を最期まで支え続けました。


「皆さんから、かっこよく生きてるとかね、強く生きてるというイメージがあるんだけど、最後の最後はね、決してそんな側面だけじゃなくて、やっぱり弱くて、崩れそうな自分があって、これが普通のがん患者の生き様なんだよと。ここをちゃんと見といてねと。」(良夫さん)

「がんとはそういう結末っていうか、自分にとっては不本意な最期じゃないですか。 そういう側面もあるんだよっていうところもわかって欲しかったのかなって。」(佳代子さん)

ICUで看護師として働く佳代子さん

 松村さんが亡くなって1年。佳代子さんは、再び看護師の仕事を始めていました。選んだのは、総合病院のICU。日々、生と死に向き合い続けています。


 1年ぶりに、家族が集ったあのリビングを訪ねました。

良夫さん
佳代子さん

良夫さん : 盆にね、本当に玄関から入ってきた夢を見たんだけどね。
佳代子さん: 怖い〜
良夫さん : 12月の誕生日近くに何かあれだな、現れた。それはもろに現れたな。
佳代子さん: 何て言ったの?どこに、枕元にきたの?
良夫さん : そうそう。
佳代子さん: 座ってるの?
良夫さん : 座ってんじゃなくて、横で寝てた(笑)
佳代子さん: 別に何も言わないの?
良夫さん : 何も言わない。


 生前、尚美さんは知人の医師への手紙の中で、私たちの取材を受けた思いを綴っていました。

 患者が声をあげることで医療は変わると私は一人つぶやいていた。
そして、そこを伝えようと番組を作っている人たちがいた。
患者自身が伝え続けること、向き合っていることが大切なのでしょう。
そして、がんについて、医療について、目を離さず向き合っていくことを番組のスタッフにもお願いしました。
たくさんの目がそこに注がれていることで、医療はどんどんよい方向に向かっていくでしょう。

鎌田實とがん患者の心の往復書簡(月刊『がんサポート』より)
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岸本: 強い患者が導いていくんじゃなくて、自分の弱いところも見せる。 不安もぶつける。それさえも人の力になるんだなっていうのが新鮮な発見でした。 だらしないところも含めて一人で抱え込まないで、みんなと分かち合うってことが、 いかにパワーを生み出すかをこのキャンペーンから教えてもらいました。

樋口さん

樋口:  「患者の声」という言葉がたくさんでてきました。 が、私たち「患者」といっても、したい事、やりたい事がひとりひとり違うと思うんですね。 これを総論的にまとめてしまうと、ストレスがたまる人が出てくる。 それぞれの生き方が違うから生じるこの違いを大切にしていきたいと思うんですよ。

柳原さん

柳原: 患者の動きは止まらないと思います。 日本中で様々なそれぞれの動き方が始まったと思います。 でも、この2年間で灯った炎は小さくてひ弱です。 その炎を生かしていくために、私たちはがんサポートキャンペーンを作り出してくれたスタッフと激論を交わしてきました。 苦しくなると人の優しさまでつらいことがある。 そんな時に、スタッフは“わからないことをわかる”ということがどれだけ大変なことかと考えたと思います。 だから、メディアとして何ができるのかをもう一回考えて欲しい。 健康なあなたたちががんを考えるということは“わからないことをわかる” “人と生きるとは何なのか”ということだと思っています。

 最後にこのキャンペーンのテーマソング「向日葵」を笹川美和さんに歌っていただきました。


 NHKではこれからもがんに関する番組作りに取り組んでまいります。
また、皆様からのご要望によりホームページはこのまま継続いたします。
引き続き、たくさんの皆様のご意見をお寄せいただいたり、また、情報交換の場になればと思います。

 全国の患者や家族の皆様と気持ちをひとつにしてこれからも歩んでいきたいと思っております。

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