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世界各地を放浪していた青春時代の取材現場は、事件・混乱・ただならぬ悲喜劇が起きている、起きた場所、被害者に限られていました。現場に学ぶ、とは先輩から厳しく教えられた姿勢です。現場には百回足を運べ、と。
戦乱のカンボジア、飢餓のエチオピア、難民、破壊された熱帯雨林、病院を脱出した筋ジストロフィーの少女たち、医療過誤、薬害の被害者・・・。
先輩記者、書き手の忠告をかなり忠実に守りました。
繰り返し書いてきましたが、にもかかわらず、わたしは当事者の悲嘆、混乱をわがことのように感じることはできませんでした。見る人としてそこにいながら、見る、書くために見るとはなにか? 見るわたしとはなにか?
ずっと考えてきたように思います。
がん患者となって十年、わたしにとっての現場はがん、がんを患ったわたし、そして医療に限られています。十年も生きるはずではなかったので、とくに再発後はいつもあと六ヶ月、三ヶ月、という病状が続き、つぎからつぎへと治療が続き、がん以外の現場をわたしが歩くことはなくなりました。
付き合う人間関係もほぼ限られた三年半だったように思います。
ペンで苦しむ人の力になりたい、と切望していながら、しかし、わたしはいつも当事者との間に横たわる深い溝に絶望しつつ、悲劇の現場であるにもかかわらず笑顔をたたえている人、生き延びようと奮迅の努力を尽くす人としての知恵、生き物としての本能に感動、感嘆しつづけていたのです。
もちろん、人並みに酷い! おかしい! という感覚はあったわけですが、怒りは希薄だったような気がしてなりません。人は加害者にも被害者にもなりうる・・。戦場、天災の現場に立つといつも溜息しかつけなかった。勧善懲悪の怒りに燃えられなかった。新聞や週刊誌、テレビの記者やレポーター、キャスターのように正義の怒りをこめた言葉を吐けなかった。ひとりの被害者の悲惨においての責任が誰にあるのか? 誰にも、他ならぬわたし自身にも責任はある・・・程度の責任論しか思い描けませんでした。
ひたすら人とはなにか? を問い続けていたように思います。
天下国家、社会や世間相手に闘いを挑む、というような気概はあったような、なかったような・・・。そうでしかありえなかった人に対する溜息まじりの、しかしどうしようもなく、とめどなく湧きあがる興味の泉。
人の不幸を傍らで「見る」のはつらい、目をそむけたいことばかりではありますが、不幸が極まるほど、じつは刺激的な場なのもまた事実です。
酷い現場ほど人間が人間である原点・基本を激しく厳しく問いかけます。
がんはかつてわたしが傍観者として立った戦場や飢餓の現場とまったく同じでした。わたしは怖れ、懼れながら、虜になっていったように思います。
憎みながら、愛してしまった。
しかも他人を見るのでなく、他人を書くのでもありません。
わたし自身が現場であり、当事者です。配慮なく、遠慮なく、傍若無人に問いかけ、さぐることができます。がんを患ったわたし=人間は思いのほか、深淵でした。想像以上に複雑で、いまだに輪郭すらつかめていません。
勇気を奮いたたせたかと思えば次の瞬間に怯え、悲嘆に暮れる。
生きよう、と決意した舌の根も乾かぬうちに死に怯えてうなだれる。
元気なのに、死ぬ、と告げられるのです。
日々、おまえは死ぬのだぞ、と観念的な操作を自らに強いるしかない。
研ぎすまされた神経が数日後に楽観のヴェールに覆われたりします。
仲間を看取りながら、こういうふうには死にたくはない、とおぞましくもわが身のあしたを案じているわたしに気づき、震えます。
今日は被害者、明日は加害者。
今日は天使、明日は悪魔。
人の健康を羨み、長寿に嫉妬します。治療法をさぐってくれない医師を無能呼ばわりし、医学の限界を呪います。健康や長寿を讃えるメディア、がん患者をとおりいっぺんに扱うメディアに怒りを覚え、拳を握る。
始めて触れた医学文献はなにかを教えてくれるようであり、しかし、患者である日常の支え、患者であることを教えてはくれぬ学問でした。
朝に諦めを確認し、達観したはずなのに、夕べには友の励ましの偽薬にすがりつく。検査の日には医療を嫌悪し、結果が少しでもよければ感謝の笑顔を讃え、悪ければののしりの言葉をひとり呟く。
がんを患ってなにを学んだか?
人が人であることのすべて。
再発後、主としてテレビで報じられるわたしの姿を見て、内面に関心を抱く余りいわゆる社会性を失った、との批判を患者仲間に投げかけられたことがあります。『がん患者学』で七年前に患者としてカムアウトし、以後しばらくは医師と現代がん医療の現場を痛罵していたはずの「柳原和子」は再発後、批判していたはずの医師、現代がん医療にすがって生命乞いをした、変わった、との揶揄もありました。再発直後にも代替療法、玄米食療法を信奉する人々からは「玄米をやめたから再発した」「あんなふうに先端医療をはしごする柳原和子は決して治らない」と批判を展開されもしました。
すべて小さなさざなみのごときインターネット世界やメディアの噂話にすぎず、一瞬で消えた批判、揶揄、噂でしたが、わたしはそうした視線をわたし自身もかつて抱いたにちがいない、と自らに冷笑を浴びせています。
くだらない、と思います。
そういえば、わたしが心底怒りを覚えた現場があります。
十年前のがん病棟です。当時は近年でまわったような吐き気どめもなく、一日十三回から二十回も吐くのが日常でした。アメリカでは白血球の値が千でも患者は自由に過ごしているのに、わたしたちは三千を下ると外出が許されず、現在のような外来治療もなく、一年、二年もの治療入院が普通だったのです。回診での質問は許されず、検査データを患者に教える、教えないも医師の意思にまかされていました。
患者たちは長い入院期間をベッドの上で、皆同じ病衣を着てテレビを眺め暮らし、仲間の死を見送って過ごしました。
患者同士のレストランでの食事は奇妙な噂にながされるから、と看護師長に戒められ、個室での恋人同士の抱擁も不謹慎ととがめられ・・・。
わたしはそうした闘病のはての死を不幸、と思いました。
『がん患者学』はそういう時代の産物でした。
しかし、現在はちがいます。がん医療現場は変化しました。
地域格差、医師間格差、病院間格差、医療費の高騰、保険適用の厳格化、アメリカに比べての抗がん剤認可の遅れ、腫瘍内科医、放射線治療医の不足などさまざまな問題はあるものの、いずれも医療者と患者が協力して改善しうる問題と言っていい。
専門家にしか見えない問題点と当事者である患者にしか見えない問題点を合議しながら、改善してゆく機運も意欲も生まれています。
誤解をおそれず記すなら、わたし自身は今の医療で治らないことを含めて自分が選択し、受けている医療を納得しているし、これ以上でもこれ以下でもない、と了解しています。死に瀕して後悔だけはしない、批判、怒りを覚えながら従順を装う患者にだけはなるまい、と決意して挑んだ結果です。
医師にとってのいい患者と、患者自身にとってのいい患者像は決定的に異なるのです。しかも、それは個々人によってまったくちがっている。
その信念は変わらぬものの、医療現場の変化を前に『がん患者学』とまったく変わらぬ姿勢を語ったとしたらおかしい。
しかし死を前にした、死を告げられた人=わたしの内面については変わらず関心を抱き続けてきました。
がんと死はわたしの現場でありつづけています。
なにひとつわからずじまいですが、たったひとつわかったことはこころ、わたしたち個々人の生は社会と同じくらい、広く深い、ということでした。
わたしたちのこころは社会が抱えているのと同じくらいの病理、犯罪、事件、事故、静謐、平安を秘めています。無限に等しい、とわたしは信じます。
がんは容赦なくわたしを試練の海にひきずりだし、これでもか、これでもか、とわたし自身を確かめてきました。今日もまた三つが発見されました。
すでに落胆すら覚えません。
これがわたしの人生なのです。友人のノンフィクション作家後藤正治が最近繰り返し呟くあの言葉・・・「逢うたが因果」はわたしとがんとの日々をみごとに言い表してくれています。そう、逢うたが、因果。
おまえは人間を見たのか? ほんとに見たのか?
そのたびに、わたしは見ていなかった、と溜息をつくのです。
まだまだわたしはなにも見ていないし、なにもわかっていなかった、と。
今回でこのホームページのエッセイは終わります。
統一した作品にはなりえない繰り言が並んだような気もします。
文章は活字にするときのように人目にさらすための推敲を一切せぬままだしました。あえて、です。生身のわたしの呼吸をそのまま残しました。
がんを生きる、呼吸そのものをそのままさらす。
プロのもの書きとして、してはならぬ、見せてはならぬ過程ではありますが、そのときどきの息づかいで発表しつづけました。
作品として世に出す余力、機会があれば、活字になったとき、完成したとき、読み比べてみてください。いかに、生々しさとは無惨なのかがわかる。
キャンペーン開始直前にわたしは再発を知り、キャンペーン終了とともにわたしの病状は悪化し、エッセイ終了の今、いくどめかの厳しい局面を迎えています。おそらく、医学的には長くはありません。
まっさらです。
おかげさまで、まっさらです。
十分、生かさせていただいた。
その折々、患者仲間に助けられ、これからの厳しい坂ののぼりかたについてはやはり家族、友人を含めた今は亡き無数の先輩患者に助けられています。同時に、かつてなく医療関係者が友として囲んでくれています。
入院した病院、治療を受けた病院で知り合った彼らが今は医療者としてではなく友人として関わろうとしてくれています。
医師に抗い、医療に疑問をなげかけ、医師と患者の対立でものを語った。
今、わたしの手を握ってくれているのは人と人をつなぐ、友情という温もりです。
闘病の過程で得た形にならぬ、目に見えぬ、数えられぬ友情。
友情という言葉で医療を改めてくくりなおしてみたいものです。
十年をがん患者として生きて、改めて思います。
誰だって明日死ぬかもしれない、という言葉は慰めにはなりません。
明日死ぬと断定されて明日死ぬのはやはり人の生理、生き物の生理に反する、とわたしは思います。生きものはやはり、いつ死ぬかわからないまま、突然あれよあれよという間に、明日死ぬのが自然ではないいのか。
死を告げられて過ごす今日一日と、死を意識せず過ごす一日とは決定的に異質です。未来が幻だからこそ今日のエネルギーを生む。
同じ十年ならば、死なんか意識せず、夢中に生きてみたかった。
でも、後悔はしたくない。
背筋を伸ばして、顔をあげよう。
笑顔をたたえて語ろうか。
「がんさん、十年をほんとうにありがとう。
十年、わたしは愚かなまでにあなたの虜になった。
わたしはあなたと生きた。
そして、思う。
世界の七割の人が、がん年齢まで生きたいと望み、がんになってもいいから設備の整った清潔な病院で、医療者に囲まれ、日本のような水準のがん治療(もちろん解決すべきさまざまな問題はありますが)を受けたいと願っているかもしれません。そうしたあいもかわらぬ不幸な時代にあって、わたしは十分すぎるほど幸福だった、と。その幸福はあなたに囚われてより深まった、と」
言葉はいつも壮大なるフィクションです。
ノンフィクションというのは現実のかけらを紡いだ柳原和子のフィクション、とは多くのわたしの作品の登場人物が漏らす感想です。
不幸を幸福に変える・・・。
不幸を幸福の糧にする。
それができるからこそわたしは言葉を仕事に選んだのだ、と今、思います。
みなさん、ほんとうにありがとうございました。
できれば、わたしの作品を読み続けてください。
作品がでているかぎり、わたしは生きている、ということです。
あなたがいて、わたしがいます。
読者がいるから、文が生きる。
ほんとうに、ありがとう。
ありがとう、はすばらしいメッセージです。
同時に、これまた複雑で重く、豊かな言葉でもあります。
さまざまな現場でありがとう、という言葉を聞いてきました。
今、はじめてその言葉のすごみを実感しています。
ありがとう、は感謝の言葉ではありますが、ある人にとっては人が人である最後の誇り、抵抗、決別の意志の表明だったかもしれません。
先輩患者たちの終末の日をひとり、ひとり思い浮かべます。
「死の瞬間まで生ききるのはほんと、大変なことやわ、ありがとうね」
ある患者さんの最後の言葉でした。
それを理解できるわたしになれれば、と、これからの日々が楽しみです。
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