本文へ

自殺と向き合う ―生き心地のよい社会のために―

パーソナル・メッセージ「あなたのいのちのこと わたしのいのちのこと」

パーソナル・メッセージ「あなたのいのちのこと わたしのいのちのこと」

生きることにつらさを抱えていますか?

このテーマに投稿する(別ウインドウ)

ライコさん(20代 女性)からのメッセージ

私は、8年前にうつ病になりました。その後、保護入院となり、自傷が激しいという理由で身体拘束も10日ほど受けました。現代の世の中では、うつは心の風邪と言われ、病院でちょっと休むつもりで入院すればいいなどと言いますが、現実は、そんなものではない。もちろん、親身になってくれる方もいるが、精神科で働く医者、看護師の半分は患者を人としてみていない。昔のことと思われがちな精神病院の患者=キチガイは、今も、現場の医療従事者にはあるのが、現実だ。それは病気になってすぐ感じていたが、それでも自分を本当に心配してくれる人もいると信じて頑張ってきて、時間はかかったが、一般的な生活に近づいてきていた。それが、1年前どん底に落ちた。きっかけは、その日、診察中に医者が、私に対しての怒りが爆発してしまい、耐えられない暴言を怒鳴り散らしたことだと思う。「あんたの親、兄弟もあんたのせいで迷惑してかわいそうに」「うちのクリニックにも妊娠中の看護師がいるんだ、昼休みがつぶれて、流産したら、あんたのせいだぞ」「あんたも、秋葉原無差別殺人事件の犯人や、大阪池田小殺人事件で死刑になった犯人と同じだ、腐ってんだ、あんた腐ってんだよ人間が」などと、勢いを増して怒鳴り続けた。私は泣きながら、もういいと言ったけれど、暴言は止まらず、フラフラになりながら病院から逃げた。そのまま、自殺の名所に向かったが、6時間自分に必死に言い聞かせて、飛び降りるのを思いとどまった。以前、母が私が死にたいと思っているのに気づいたときに、「あなたはお母さんには想像ができないくらい苦しい思いをしているんだろうけど、でも今、あなたがいなくなったら、お母さんはそれ以上の苦しみを一生背負っていくよ、いいの?あなたが生きていてくれることが、一番の幸せなんだよ」と言った。私が自ら命を絶てば、残された親、兄弟のつらさは大きいとわかている。だから、最後の姿はきれいな状態でありたい。それが、せめてもの償いだと思っている。その思いから、飛び降りるのを思いとどまった。しかし、それから1年も経ったのに、いまだに、あの時、診察室で怒鳴られた光景がフラッシュバックのように頭に浮かび、夜、家に帰ると涙がでる。8年前にうつ病になった頃に生きていくということに何の希望もなくなっていたが、この1年は、1日1日生きていること自体が本当につらい状態である。

のんのんさん(30代 女性)からのメッセージ

兼業主婦です。
子供二人います。うつ病になって2ヶ月。
こんな私ではなかったと毎日葛藤しています。

仕事もしているし、子供も小さいし、会社の仕事もやりがいがない。

自分の存在意味がわかりません。
普通の生活してるハズ。。。


なんで私生きている?
今私が生きている使命は子育てのみ。

旦那もいるけど、話せない。理解してもらえない人。・・・と決め付けてる?
うまくはなせない。
だったら黙っていよう。
そうおもったら八方ふさがりになっていた。
そうおもったらうつ病になってた。
そうおもったら消えたいと思っていた。

生きている人、みんなすごいと思う。

ヒロさん(30代 男性)からのメッセージ

私は、仕事等が原因で、うつ病になりました。平成17年に診断されてから5年になります。仕事に復帰しながら、通院・治療をしていますが、なかなか改善せず苦しいです。
特に最近は、仕事、人間関係に疲れて生きることが辛いです。自殺という言葉が浮かびます。インターネットで調べている自分がいます。要因は、病気が回復しないことへの焦り、病気になった自分を責め、他人を責めることに疲れて嫌気が差している、自分の気持ち・想いを理解してもらうことが難しいことなどです。
病気になって、自分の親に生きているのが辛いから死にたいと言ったあの日を忘れてはいません。
でも、今は生きてることが辛いから、逃げたくなる。
どうして良いか分からない。
自分の気持ちは、正直に話したいけど、単なる愚痴や文句になってしまう。
生きることは難しい。
出口が無い迷路。

悩み続けるマエストロさん(30代 男性)からのメッセージ

これまでの人生で様々な苦しかったこと・辛かったこと・トラブルなどを経験して来ましたが、「生きているのがつらい」と感じるようになったのは一昨年の夏からでした。
その発端は仕事上のトラブルで、吹奏楽部の指導に出かけていた中学校とそこに勤務していた顧問教師とトラブルになったでした。
だんだん仕事に対するやる気が失われていき、胃・十二指腸潰瘍を発症、朝起きるのが辛く、とても辛い日々が今も続いています。
トラブルの際、教師たちは現実を見ないまま生徒の言い分だけ聞き、私の上司に激しく詰め寄り悪者扱いして激しく扱き下ろしてきました。
私が真実を話そうとしても学校は一切相手にしてくれず、上司に話せば「お前が会社の信用を著しく失墜させた」と罵るばかり、私はこの時初めて上司と激しく衝突しました。結果的に勤務先は辞めなかったのですが、その後は更に気持ちが滅入って今に至っています。
今も頭痛と全身のだるさ、胃腸の悪さが続いて気力がなく、近くのビルから飛び降りようか、踏切で走っている列車に車ごと突っ込もうか、風呂で剃刀で手首を切ろうか、色々な想像が勝手に頭を駆け巡りとても辛いです。悩みを真剣に聞いてくれる人や施設、気軽に話せる環境が私の周りには一切ありません。それでも何とか自分が必死でここまで生きていられるのは、自分を頼りにしてくれる顧客が時々訪ねてくれることです。でも、もう精神的に限界です。助けてもらいたいです。こうした悩みに気軽に対応してもらえる環境整備が必要だと思います。

使い捨てライターさん(40代 男性)からのメッセージ

仕事のストレス原因でウツになってしまいました。

上司は、職場の多くの人が毛嫌いするタイプで、幹部からは「上司のカバーをするために君を採用した」「肩書きは違うが上司と同等と見なしているから、そのつもりで働いてくれれば良い」と言われ、他部署からは上司では話にならないと直接・内緒で仕事の依頼も来る事が増えてきました。
その様な依頼は、上司からの仕事の合間や上司が帰った後でするので、当然残業も付きません、休日や昼休憩も満足に取れない位の仕事量になってしまいました。
夜、一人で仕事をしている時、片隅に下がる紐に何度首を入れようかと思った事があります。

この状況を皆が理解してくれ、いつかは楽になるだろうと思いながら辛抱していましたが、他部署の業務まで回され増えるし、無責任な依頼まで増え、毎日ジェットコースターの様な道を目を閉じて車を運転する位の感じでした。

ある日、激しい頭痛で食事も摂れない状態でしたが、上司が不在だから休むなと言われていたので出勤、呼び出された先で倒れてしまいました。
そこで、緊張の糸が切れてしまい、精神が錯乱寸前になり、職場の安全のためクリニックに受診しました。

医師からは監督署に相談に行けと言われ、監督署に行きましたが窓口では「職場に信頼されていたと良い方に理解して」と言われ、相手にされません。
監督署の判断としての答えかと聞くと、請求された後に詳しく調査しないと答えは出せないと言いいます。

仕方なく、何度も病院に足を運び書類を作り、病院を通して提出したのですが、実際には病院がそのまま保管し、請求期限を過ぎてしまいました。
病院は提出時に監督署に問い合わせ、認められるまでは社会保険を使うと言っていたので実害は一切無く、問い合わせに対しても「書類は受け取ったが提出するようには言われていない」と平然と答えたそうです。

床から起きる事も出来ない様な薬を沢山出されて、自殺も出来ないが人間として生きる事も出来ない、ただ金だけ搾り取られた感じです。

監督署も窓口だけでなく、上司も奥の机に腰掛けたまま、酔っ払いを追い払う様な言葉を吐きました。
労働環境に対して正義の味方のような組織ですが、人間として扱われなかったです。

誰も信用できないし、ウツになったと言う結果だけが、この先も責任と一緒に付いて回ります。

さくらかおるさん(40代 男性)からのメッセージ

現在の病名は統合失調症です。45歳になります。小さいころから体調が悪いことが多く、仕事も出来ずに家にばかりいましたから家族には怒られてばかりでした。それが精神疾患だとわかったのが26歳の時です。この時初めて精神科にかかりました。しかしそれ以来良くなったり悪くなったりし、途中に母の自殺もあり何度も死のうと思いました。現在は実家に一人暮らしで障害年金で暮らしています。今年になって初めての入院7カ月を過ごしやっと退院したところです。けれども家にいても落ち着かず、体調も悪く、お金の問題ではいつも悩み、病院が遠いので通うことにも不安を覚え、薬の副作用に悩み、近所の差別的な人間関係にも悩み、それでもまた入院しろと言われるのが恐くて主治医やデイケアのスタッフにもこのことは隠して元気な振りをしています。疲れました。なぜこうまでして生きている必要があるのか、死ぬことを考えますと返って楽になります。それ以外に自分の状況を変える方法はないとも思うことがあります。精神科病院に入院することはやはり死ぬほど嫌に思えます。一人暮らしでお金に窮していても自由がある方がまだマシです。今はどうしたらいいのかわかりません。何処を向いても生きていることが辛くて仕方がありません。死ねたらいい、と思うことがかなり増えました。社会にほとんど出ることもなく病気とだけ向き合って来た人生に何の意味があったのかわかりません。生み出したのはせいぜい自分なりに書いている詩ぐらいです。それも最近書けなくなって来ました。前に向かう道が細くなって来ています。何時途絶えるのかわかりません。それでも生きられるなら、と瞬間的に思うこともあります。このわずかでも生きようとする心をどうやったら育てられ大きくして行けるのか、それが知りたいです。

ビクターさん(40代 男性)からのメッセージ

40代の男性です。
仕事が見つかりません。
今年の7月にタクシー運転手を辞めて、
仕事を探してますが、学歴差別、前職への
偏見等で数百社応募しましたが、書類選考すら1社も通過しません。今年いっぱいは失業保険で何とかやって行けますが、年明けと同時に失業保険も切れ、収入が無くなります。
食べて行くのは勿論ですが、就職活動すら
出来なくなります。もうこんな生活から
楽になりたいです。死んで楽になるなら
死にたいです。求人などの多くは応募条件で
大卒となっていたりして、大学に行かないと
社会から不必要とされているこの社会から
離脱したいです。

きららさん(20代 女性)からのメッセージ

私は、高校生の時に体調不良に悩み「自律神経失調症」と診断されました。

病気なのだから、医師に従って薬を飲めばすぐ治ると思っていました。しかし、一年休学して療養しても改善されませんでした。

初めにかかった病院で薬の不適切な投与があり、その後、いくつかの病院にかかりました。

最初は、体の不調が主訴だったものが、精神的つらさへと変わり、年月とともに、もう治らないと思うようになりました。

次第に追い詰められ、自殺をはかりました。苦しみから解放されるなら、もう幸せにはなれなくてもいいと安らかな気分でした。
でも、死ねませんでした。

今は、うつ病の治療をしながら大学に通っています。病気を理由に諦めた地点から一からはじめました。

奨学金をもらい大学に通える事、家族がいる事、感謝すべきだと思います。

でも、今も、体調不良や精神的なきつさを抱えていて苦しいです。

同じ年の人達が、青春時代を謳歌し、独立して働いている中、自分だけが同じ地点にとどまっている気持です。

いつまで耐えたら救われるのかわかりません。

現実を生きながら、一方で、楽にしてほしいと思っています。

この状況を鑑みても生きるべき、生きていたい理由は見つけられていません。

みかさん(20代 女性)からのメッセージ

私は昔からどうして生きているのか分かりません。これって理由も分からない。中学の頃に本当に死ぬことを考えました、二度目は昨年。ただ死者をたくさん見てきた看護師の母から言われていた、自ら命を絶つ人は最大の親不孝者だという言葉には答えなくてはならない思いで生きてました。常に綱渡りの綱を歩いてて、ちょっと押されただけでそちらの方が楽なんじゃ?!と思ってしまう。父のそういう姿を見てきたからかもしれない、小学校の頃から大学に入るまでいじめられてきたからかもしれない、唯一長年尊敬していた元職場の上司の期待を裏切ってしまったからなのかもしれない・・本当に言葉にすれば簡単な理由。周囲からは自分が「楽しめ」ばいい、と言われる。その感覚も分からない。今働く理由もどんなに障がいが重い人でもすごく楽しんでいる瞬間が垣間見えるから。障がいをもつからこそ素直に出してくれる
その「楽しさ」を知りたいから。常にある、死にたいに負けないように!!です。

あけさんからのメッセージ

小学2年になったばかりのある日、学校から帰宅。床の間で自殺している母を私が発見しました。
それまでに母のうつ状態やたたかって来た姿も子どもなりにみてきました。
そして自分自身も成人してからPTSDを発症し躁うつ病になり、母の辛さを身をもって経験し、本当に底をみました。

私を子どもの時から一環して励ましてくれる人はいませんし、一貫して安心できる場所や人はまだ確信できないままで常に不安定なのですが、

現在はたくさんの人と接する職場にいます。

母の自殺の背景には産後うつ以外にDVなどもありました。
母の死後、母に向かっていた暴力は私や妹へと向かい、
そして33歳になった私ですがこんな経緯があってでしょう、未だに人との距離感がわかりません。

普段は元気よく見えるそうで、強いとも言われます。強すぎるとも。
今年春からは配置換えで大きな施設に移りました。接する人が多くなり、正直に言うと恐怖で
これまでと違ったやり方をしないとと、反対に弱音を吐こうと勇気を出して周りの数名に信頼して
母の自殺のことや人間関係のことなど話しました。

すると、噂話のネタに使われて、警戒されていることがわかり
現在体調を崩しています。
上司や周りの方から遺族のプライドまでズタズタにする言葉を浴びせられています。

自殺で身近な人を亡くしたからこそ話せることも、周りが関心をもたなければ2次被害になるのだなと
痛切に感じています。
痛いです。心身が悲鳴をあげています。長年の蓄積も今年になって症状として現れています。


遺族は見た目ではわかりません。話しても共感できる人はまだまだ少なく感じます。
そんな中、みんなといっしょの空間にいて緊張に強いられ大丈夫なふりして(ふりしないと自分が保てなくなるし
社会的にやっていけない)、この先に何があるのか・・・・・と思うのです。

こんなにやさしくない土壌がはびこっているのならいくら遺族が声をあげてもその場しのぎなのでは・・・・・
自殺への理解や遺族への偏見の払拭を根付かせるためには、みなさん・・・いっしょに考えてください。
ひとりでも多くの共感できる仲間をみつけたいです。

冬眠中の人さん(30代 男性)からのメッセージ

ぼくは過去に、生きていることのつらさを抱えていました。
どうやって生きていけばいいのか、わからなくなったこともありました。

生物学的には、水や栄養をとって、寝る場所があれば、生きられます。
でもぼくは、人間はそれだけでは生きていけないと、感じていました。
自分の心や気持ちがあって、いばしょがあって、他の人がいて、それで初めて生きていけるのだと思いました。

ぼくは人間なので、人間の社会が一番いごこちがいいし、人間の社会の中で生きたいです。
だから社会の中で、自分の心や気持ちが不自由だったり、いばしょがなかったり、ぼくを人間としてあつかってくれない人ばかりいたりすると、とてもつらくなってしまいます。
「この世界で、自分は生きられない」と思うくらい、つらくなります。

その後ぼくは、自分が社会の中で生きられる場所や方法を、少しずつ発見しました。
小さな発見が少しずつたまって、今も生きているのかもしれません。

大橋 広宣さんからのメッセージ

“優しさ”に支えられて
「お前、バカじゃ」。小学生のころ、いじめっ子は僕に、容赦ない言葉を浴びせていた。

「本当にお前は、いい加減にしろよ!」。そう言って担任の先生は、僕の作文を破り捨てた。

あれだけいじめられて、馬鹿にされて、どうして「死のう」と思わなかったのか?

学校時代を振り返って、時々思う。

それは、両親が「希望」を与えてくれていたから。

「お前は将来、絶対に人生の勝利者になる」
「いじめられる方は悪くない。いじめる方が悪い。こんなことに負けるな」

その両親の気持ちを思うと、僕はいちいち悲観していられなかった。
「俺は人生の勝利者になる。あいつらに構ってられるか」。そう思い続けていた。

それから、好きなマンガやアニメの続きを知らずに、この世からいなくなってしまうのも我慢できなかった。

「自殺は弱い人がするもの。俺は強く生きる。だから自殺なんか考えもしない」ずっとそう思っていた。

でも、いじめもなくなり、大人になって、子どものころとはまた違う辛さも経験した。
体調の不調、経済的なピンチ、自分の力だけではどうしようも出来ないことにも出会った。

自殺を考えたことはなかったが、「自殺を考えてしまうほどの辛いことは、確かにこの世にはある」とは思うようになった。そう思えるようになると、今度は自分の境遇がとてつもなく有り難く思えた。

僕は、子どものころの友人は少なかったが、今はたくさんの仲間に囲まれている。みんなが励まし、心配してくれる。

ある時期、やむを得ない理由で、昼は新聞記者をしながら、深夜はホテルでフロントのアルバイトをしていた。アパートも引き払い、会社の倉庫にゴザを敷いて暮らした。トイレも風呂もなく、近所の洗車場で身体を洗っていた。

ほとんど寝られず、体調も崩して入院もした。睡眠不足で交通事故を起こし、救急車で病院にも運ばれた。ただただ、子どものころからの意地で、「負けたくない」と会社も辞めず、頑張ってはいたが、なかなか出口が見えず、実際はもがき苦しんでいた。

そのとき、パンや飲み物を持って、1人の友人が深夜のホテルに訪ねてきてくれた。

家族に対しても、友人に対しても、言えないことはある。その友人にも、詳しいことは話していない。人づてに僕がホテルにいることを知って、駆け付けてくれたのだ。

彼は「ここにいると聞いて、ちょっと近くに寄ったから」と言うと、あとは何気ない世間話をして、「じゃあ、頑張ってね」と去って行った。

あとで知ったことだが、彼は僕のためだけに、何十キロもかかる道のりを、残業が終わってから来てくれたのだった。

入院したときは、記者クラブの事務をしていたおばちゃんが、何から何まで世話をしてくれた。あるときは、仕事仲間が「励ます会」も開いてくれた。

みんな、詳しい事情を知る訳でもないし、金銭的な支援などはもちろん一切ない。だけど、僕に気を使いながら、自然に励ましてくれる。

本当にうれしかった。「僕は一人じゃない」。この気持ちが、本当に大切だと思う。

少しでも、自分の苦しみや悩みを誰かと共有できたら、どれだけ楽になるだろうか。どれだけ明日への希望を持つきっかけになるだろうか。

例え苦しみや悩みの内容を打ち明けられなくても、お互いが分かりあえる道はあるのだと僕はそのとき思った。

僕は過去も、そして今も、恐らく未来も、そんな人の“優しさ”に支えられて生きるのだと思うし、今度は自分がその“優しさ”を持ちたい、と心から思う。

大橋 広宣(おおはし ひろのぶ)

1964年山口県山口市出身。地元の大学を卒業後、地方新聞社の記者を経て、独立。現在はフリーの記者、イベント・番組ディレクター、司会者として山口県内で活躍している。計算ができないなど、LD(学習障害)を持ち、全国のLDの子をもつ親の会ほかで講演活動も行う。家族は妻と長男、二男、長女、二女の6人。


一覧へ戻る