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「We Were Here あの頃、僕らは―いま、語られるエイズの記憶」を観て

2011年11月24日

世界初のエイズ症例が報告された1981年から30年。今年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭では当時のHIV/エイズを取り巻く状況を振り返るドキュメンタリー映画が上映されました。「その時代のことを知らない人と体験を共有するために」作品にはそんな想いが込められています。今回は、記憶を語り継ぐことの大事さについて考えます。

文=生島嗣(NPO法人ぷれいす東京理事/相談員)
協力=東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(別ウインドウ※クリックするとNHKサイトを離れます)

■エイズ危機を生き延びた人たちの言葉

『あの頃、僕らは―いま語られるエイズの記憶 / We Were Here』より。映画に登場する時代の証言者たち。アーティストのダニエル。
 写真提供=東京国際レズビアン&ゲイ映画祭運営委員会 (以下、この記事中の写真すべて)

2011年10月9日、第20回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて上映されたドキュメンタリー『We Were Here あの頃、僕らは―いま、語られるエイズの記憶』は予想を超えて、すばらしい作品だった。この1回の上映は満員で立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。NPO相談員をしている僕にとっても強烈なインパクトを残した作品だった。特に、この時代のことは知らないという若い世代の人たちにも、見ていただきたい作品だ。全国ロードショーがあってもいいくらいだ。

「大切な人を失うことは誰にでもおこる」。だが、1980年前後のサンフランシスコでは多くのゲイ、バイセクシュアルたちが若くして命を失っていた。原因もわからない、誰かから誰へ、どのようにうつるのかも不明というなか、その時間を過ごしていた人々がいた。

このドキュメンタリーでは、ダニエル、ポール、アイリーン、ガイ、エドの5人のインタビューにより構成されている。彼らのなかには著名人も含まれるが、あえてファーストネームで紹介され、彼らの体験談の語りと歴史上の事実が、まるでパッチワークのように組みあげられている。

コミュニティーの活動家、ポール。

「当時は、まるで戦場だった」、「僕らは、ただのセックス好きの集団ではない。その場かぎりではなく、互いに深い絆で結ばれていたんだ」、「この悲劇は家族に見放された、公民権を奪われたコミュニティー(※編集部注 本稿において「コミュニティー」は主にゲイ・コミュニティーを指して使われています)を襲った。多くの人が家族のように支えてくれた」、「僕らは、力をあわせて、傷つく仲間を、命を救った。サンフランシスコには仲間がいたんだ」

ダニエルはアーティストだ。彼は自らもHIVに感染し、治療法がない時代を生き抜いたサバイバーだ。彼はこれまでに、何人もの恋人をエイズでなくしている。この作品に出演した動機を、「当時の自分の知り合いは、一人も生存していない。だからこそ、彼らのことを話したい、そして自分のことも」と語る。すでに、30年もの月日が経過しているのだが、彼はカメラの前で語りだすと、感情が溢れ出すのを止められない。しかし、淡々と語り続ける。

コミュニティーの活動家ポールは語る。「1976年にはじめてこの街で感染者がでて、1979年までに、ゲイの1割が感染していた。エイズが世間に認知された1981年の6月には約2割が感染し、そして、みなが検査を受け始めていたときには、半数近くが感染していた」。当時の感染拡大がいかに急速に起きたのかを振り返る。

看護師のアイリーン。

アイリーンは、治療の現場にいた看護師。勤務先の病院で感染症のレジデント医から、前は使わないでいた手袋を使うように指示されたという。そうしたところでも、変化を感じたと。怖がる同僚ナースがいたときには、自分が率先して代わり、病室に入っていった。医師は家族には病状を説明するけれども、付き添いの同性の恋人には説明することはなかったので、彼女から説明をした。病院は、世間にエイズの治療を行う病院だと知れ渡ることでの風評被害を恐れていた。治療を引き受ける病院にとっても大きな葛藤があったのだ。だが彼女はコミュニティーでプライベートを過ごしていたこともあり、当時の同性愛者たちに対する差別や偏見が許せなかったのだと語る。「看護婦は人が困っていたら、助けるものでしょう。自分には彼らを見捨てることができなかったの」

ガイは、80年代から路上で花屋をはじめて、そこから、ずっとこの街の移り変わりをみている。サンフランシスコのLGBTコミュニティーの新聞(The BAY AREA REPORTER)の訃報の記事欄が、最初はホントに「小さかった」のだが、そのうち、「こんなに大きく」なっていったと、当時のインパクトの大きさを語る。また、お店に「(エイズで亡くなった)友達の葬式に花をもっていきたいけども、お金がない」と言ってやってきた人には、言うとおりに花をあげたと振り返る。

花屋のガイ。

エドは、当時のゲイたちのカジュアルなセックスのあり様についていけずに、悶々とする日々をおくっていた。1981年にカストロ劇場(※編集部注 サンフランシスコでゲイの人たちが多く住む「カストロ地区」にある老舗の映画館。)で映画を見ていた彼は、ふと外の薬局に行く。壁に目をやると、そこには青年が自らの身体を映した写真が貼られていた。1枚は口のなかに、また、別の1枚はシャツをたくしあげた胸にたくさんの斑点ができていた。そして、そこにはコミュニティーの仲間にむけた「原因不明の病気に気をつけろ」というメッセージが書かれていた。それをみてエドは大きな衝撃を受ける。それからしばらくは、その病気のことが頭を離れなくなったという。やがて彼は、患者支援団体スタッフとなる。

この5人の語りで、このドキュメンタリーは構成されている。そして、それを見ている観客たちには、当時のサンフランシスコの人たちがHIV/エイズにより、どのようなインパクトを受けたのかが伝わってくる。それも、彼らのみた光景や経験などが、彼らの感じたことが言葉として表現され、さらに鮮明に伝わってくるのだ。

患者支援団体スタッフとして働いたエド。

1977年にハーヴィー・ミルクがサンフランシスコ市会議員に当選し、アメリカ国内で初めて、自らゲイであることを明らかにして、選挙で選ばれた公職者となり、翌年には暗殺された。そんな、ゲイが政治力をもちはじめた直後の時期に、HIV/エイズはサンフランシスコのゲイ・コミュニティーを襲った。世間からは、「ゲイの癌」とか、「ゲイの病気」とかレッテルを貼られ、自業自得だと批判する勢力もあった。このドキュメンタリーでもキリスト教の牧師のそんな語りが紹介されている。後日、こうした社会の態度がアメリカでのエイズ対策の遅れにつながった原因としてコミュニティーから指摘されているのを読んだことがある。

「しかし」映画の中で活動家のポールは語っている。「ゲイ・コミュニティーはこの状況を受けて大きく変化した。人々がこの危機の前に立ち上がり闘いはじめた。距離を取る人もいる一方で、倒れていく人たちに、寄り添い、支えようとする人たちがいた」。エドのように支援団体のスタッフとして活動するゲイも多くいたようだ。そして、日本にもメモリアルキルト運動、ボランティア派遣プログラム、心理的なケアシステムなど、多くのHIV陽性者向けの支援プログラムが紹介され、それらを参考にしてプログラムが立ち上がった。ぷれいす東京も、もちろん多くの影響を受けている。

『The BAY AREA REPORTER』によると、1994~97年の死亡者数は1592人から422人に減少。この時までにエイズによる死亡者は15,548人であったという。これは、1996年にカクテル療法という新しい治療法が開発されたことに加えて、予防啓発により新たな感染の広がりを抑えられたことが功を奏したのだと思われる。

このエイズ危機の渦中にいた、この時代のサバイバーたちの声に、ぜひ多くの人たちに触れてもらいたい。レズビアン&ゲイ映画祭での上映にとどまらず、他でもどこかで上映ができるといいなと思う。

■日本ではどうだったのか

デヴィッド・ワイスマン監督。

この映画を手がけたデヴィッド・ワイスマン監督が以下で、この作品をつくったきっかけを話している。
http://wewereherefilm.com/interview-with-the-director/(別ウインドウ※クリックするとNHKサイトを離れます)
この時代のことを知らない年下のボーイフレンドに当時のHIV/エイズのことを話していたときに、彼から、それを作品にしたらいいじゃないと言われたのが、この作品が生まれるきっかけだという。

日本でも、エイズによる死者は、これまでに報告されているだけで700人以上、血液製剤で感染し亡くなった方が400人以上なので1000人以上が亡くなっている。そのなかには、多くのゲイ、バイセクシュアルも含まれている。しかし、これまで、HIV/エイズで亡くなった人たちのことは、ほとんど語られることがなかった。プライバシーを守るという観点からか、勝手に話せないということからか、死は、誰かの胸のなかにそっとしまわれているのだ。僕もHIV/エイズの活動をスタートしてから、知人から、実はあの時に自分のパートナーが亡くなったのは、エイズが原因だったのだとカミングアウトされたことが何度かある。当時は僕もその事実を事実として認識できないでいたのだ。

日本とアメリカでは、インパクトの大きさも違うし、社会状況も違う、しかし、この映画をみて、この日本においても、エイズ発見から30年という歴史のなかで、私たちはいま、何をすべきかを問われているように感じた。年月の経過とともに、過去の人々の記憶は、いずれは消えていってしまうのだ。そして今でも、この病気は向き合うのを避けていたら、個々の健康に凶暴に襲いかかることがあり得るのだ。それを、「We Were Here」の証言集は伝えてくれている。

映画祭のあと、web上で知り合った青年から、いくつかの質問メールを受け取った。映画『We Were Here』はアメリカの状況のドキュメンタリーでしたが、それでは、日本では、当時何が起きていたのですか? 日本のゲイたちはどう過ごしていたのですかということだった。30代の彼には、そのリアリティーは伝わっていなかった。また、10代の陽性者からの連絡もある。何も知らない世代に、過去の出来事を伝えていくことはとても大切だ。

これまで、HIV/エイズについての日本のマスメディアの主な関心は、女性、外国人のHIV/エイズが中心で、ゲイとの関連でエイズを取り上げる報道はあまりなかったし、あっても興味本位なものが多かった。最初から女性の方で自分の陽性者経験を語る人を紹介して欲しいという依頼は昔も、今も多い。ゲイの人権活動を行う人たちからは、ゲイとエイズが強くイメージが重ねられることに対しては、強い懸念が表明されていたことも、取材を難しくしていたこともあるのかもしれない。ただ、厚生労働省エイズ動向委員会からの定期的な報告を見れば、そこでは、淡々と男性同性間での感染がある程度の割合を占めることが物語られ続けている。

このドキュメンタリーを見たことで、現状を等身大でとらえて報道(表現)しようとする人たちと、様々なセクターとが連携しつつ、HIV/エイズを身近に経験した人たち、その周囲の人たちの声を可能なかたちで切り取り、多くの人が実状を共有できるようにする努力の必要を改めて感じさせられた。

We Were Here あの頃、僕らは―いま、語られるエイズの記憶
http://wewereherefilm.com/(別ウインドウ※クリックするとNHKサイトを離れます)

<お知らせ>
*ハートをつなごうで、HIV/エイズについて、日本での30年を振り返り、語り合う回が放送されます。
「ハートをつなごう」HIV第4弾
Eテレ(教育) 11月28日(月)~30日(水)午後8時~8時29分
再放送 12月5日(月)~7日(水)正午~12時29分

*12月1日の世界エイズデーの翌日、HIV/エイズに関するドキュメンタリー映画「The Hope of Love」が上映されます。HIVに感染したことがわかったゲイの男性とその母親を描いた台湾の映画です。映画上映後には、「HIVをタブー視せず向かい合うこと」をテーマにしたトークショーも行われ、生島嗣さんもパネリストとして参加されます。
東京プライド(別ウインドウ※クリックするとNHKサイトを離れます)

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