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エイズをテーマにした展覧会「ラヴズ・ボディ」を巡る2つの覚書 その2

2010年12月01日

恵比寿の東京都写真美術館で2010年12月5日まで開催中の、エイズをテーマにした作品を集めた展覧会「ラヴズ・ボディ--生と性を巡る表現(英題/Love's body: art in the age of AIDS)」に関する寄稿の第2弾です。前回の生島 嗣さんに続き、書いていただいたのは、本展覧会の出品作家でもあり、このサイトで「akta diary」を執筆もしてくださっている、アーティスト/アクティビストのハスラー・アキラ/張 由紀夫さんです。「展覧会に出品するにあたって考えた、HIVとそれを巡る状況についてのこと」。

※「HIV」……人の免疫の力を低下させて 様々な病気への抵抗力を弱めるウィルス。
「エイズ」……HIVに感染し免疫の力が下がることで感染していなければ防げる病気を発症した状態。

東京都写真美術館「ラヴズ・ボディ――生と性を巡る表現」

-「ラヴズ・ボディ-生と性を巡る表現」展覧会の出品作より-
ハスラー・アキラ/張由紀夫 《Red String》 2010年

Pandemic/世界は愛に溢れている

文=ハスラー・アキラ/張 由紀夫(ちょう ゆきお アーティスト/アクティビスト)

今年の春。仕事帰りに自転車で坂道を上りきった横断歩道に、無数のマスクが散らばっていたことを思い出す。むっとするようなイヤな気持ちで、大きくそこを迂回して通り過ぎた。新型インフルエンザの大騒ぎには驚いた。20年前のHIVをめぐって起きたパニックと何も変わらないように思えたから。行政もメディアもネットの流言(りゅうげん)から垣間見える人々の在り様も、なにも変わらないなと思った。自分の身を自分で守ろうとすることと、自分さえ良ければそれで良いと思うことには小さいけれど重要な差異がある。自分さえ良ければと思う先には他者への攻撃がある。「ウィルスを持ち帰った」とされる高校生に対するネットの書き込みや、待ち伏せをするように張り込んでいた空港で、みつかった感染者を夜中の会見で、容疑者を呼ぶように敬称をはずして名前を読んだ大臣の表情の中に、過去から何も学ぼうとしない緩みきった精神が見え隠れしていた。

そんな折、数人の学生がニューヨークに研修旅行に行って帰って来たニュースが印象的だった。彼女たちの中にウィルスを「持って帰って来た者」がいるということで、校長先生が取材陣に責められていたのだが、その校長は頭を下げながらも「今、この卒業を目前にした時期に彼女たちが外国に行って見聞を広げて来ることには大きな意味を感じたので行かせた」と話していたのだった。イヤなニュースが続く中で、この校長先生の話にホッとしたことを覚えている。

仕事柄、HIVをめぐって相談を受けることが多い。HIVに対するイメージがいまだに、以前とさほど変わらない、ネガティブなものであるために、検査を早めに受けたり、感染してから現実に向き合ってみることから遠ざかってしまう人はたくさんいる。早めに自分の体の状態を知ることで、出来ることが実はたくさんあるのにも関わらず。例えば「エイズはゲイや、セックスをたくさんするような類いの人が感染する病気だ」という先入観は、ゲイや、セックスをたくさんして来たわけではなくても感染した人やその周囲の人々を苦しめるし、同時にその先入観によってゲイやセックスワーカーに対する視線を強ばったものにしてしまう。また、「ゲイ=エイズ」というイメージから逃れようとするあまりに、それでもゲイやバイセクシャルの男性にとって大きな宿題であるエイズからゲイたち自身が目を背けてしまいがちな状況も生んでいるのではないかと思うことがある。

そんな中でとても印象に残っている友だちからの相談があった。人肌が恋しくて、つい会ったばかりの人とセックスをしたのだが、それで感染をしてしまったんじゃないかというのだ。HIVの感染は主に血液と精液と膣液(ちつえき)および確率は落ちるけれどカウパー氏腺液(※注)をたがいに交換することで起きる可能性が大きくなる。なので、どんな行為をした? と彼に質問をしたら、服も脱がずに抱き合ってキスをしていただけだという。「それだけ?」と訊いたら、「うん、それだけだけど...」という返事。「じゃあ大丈夫だよ」と答えたのだが、それでも、彼は万が一ってことがあるよね? と食い下がって聞いてくる。とにかく心配だなと思った時に、検査を受けることはいいことだ。だから行っておいで、と背中を叩きつつ、心の中では別のことを考えていた。たしかに万が一、文字通り10000分の1の可能性のことを考えたら、世の中にあり得ないことなんてひとつもないのだ。これほどまでに悪いイメージをこの病気に植え付けて来た者たちに対する憤りを感じつつも、万に一つの感染の可能性を無くすにはどうしたらいいのかなと考えた。コンドームを使うことで、ほとんどの感染は起きないと言われているけれど、万が一にはどんな事故が起きるかなんてわからない。じゃあセックスをしないことだな、と考えた。たしかに万が一にはそれでも何が起こるかなんて誰にも分からないのだもの。でも、それでも不十分かもしれない。日々の暮らしの中で、万が一にも相手の血液に触れることの、可能性を打ち消すことは出来ない。

※注 カウパー氏腺液……射精の前に男性器(ペニス)の尿道から出るねっとりとした無色透明な液体。ごく小量の精子が含まれるとされ、妊娠やHIV感染の可能性がないとは言えない(出典:「web NEST」HP 用語集より)

-「ラヴズ・ボディ-生と性を巡る表現」展覧会の出品作より-
フェリックス・ゴンザレス=トレス《「無題」 (自然史)》1990 年、13 点組の一部、東京都写真美術館蔵、(c) The Felix Gonzalez-Torres Foundation, Courtesy of Andrea Rosen Gallery, New York

別の友だちのことを思い出した。彼はHIVを持っているのだが、悩みに悩んだ数年間の後に、年に数回の検査を受けるだけで元気に暮らしている。その彼が、通りの向こう側から、胸元で両手を組むような形にしてこっちに向かって走って来ていた。「わー久しぶり! どうしてる?」と聞くと「や、元気なんだけど、指切っちゃった!」と手を開いて見せて来た。親指の先がざっくり切れていて血が流れている。ドキッとした。久しぶりに血を見た気がした。そのまま彼は絆創膏を買いにコンビニに走っていった。ドキッとしたのはなんでだろう。一瞬、やだな自分、と思った。彼の状態から考えればそんなにウィルスの量は多くはないだろう。けれど、あの流れる血の中にはウィルス、いたんだなあとぼんやり考えた。彼とはセックスをしたことがあった。その時にはなにも考えることなくコンドームを使いつつセックスをした。けれど、こうして目の前に血が流れているのを見て改めて感じたことは、体液に触れたり、交換してしまうような場面は、実は暮らしの中にゴロゴロ転がってるものなのだなあということだった。

「ラヴズ・ボディ」展の話をいただいたときは、ちょうど世の中が「新型インフルエンザ」のことで持ち切りになっている頃だった。展覧会の大きなテーマの一つはHIVのことだったけれど、インフルエンザのことにもきちんと触れておきたいなと思った。ウィルスの顔が違うだけで、描かれている風景は同じように思えたから。「Pandemic」は感染爆発を意味する言葉。感染症の伝播について研究をしている友人に、見せてもらったアニメーションがある。首都圏で、インフルエンザが人々の行動によって、どのように広がっていくかということを示したものだった。最初は小さかった感染している人を示す赤い点が大きくなり、地図の上でまるで生きた湖のようになって川が流れるように別の街へと広がっていく様子が、ただ興味深かった。人によってはこれを恐怖の気持ちでもって眺めるのかもしれない。へたなテレビ番組だったら、この映像にうすら怖い音楽をうしろにくっつけて来るんだろう。でもぼくには、赤い点の広がりの中に、電車で通勤したり学校に通ったり、デートをしたり、セックスをしたり、食事を共にしたり、ケンカをしたり抱き合ったりする人々の情景が見えるような気がしたのだ。人々は歩き、出会って、触れ合うからこそ、感染もまた起きてくる。でも、だからといってその触れ合いを否定したくないなと思った。出会いがなければ、この世は闇だ。

-「ラヴズ・ボディ-生と性を巡る表現」展覧会の出品作より-
エルヴェ・ギベール《ヴィラ・メディチ》1989 年、東京都写真美術館蔵

-「ラヴズ・ボディ-生と性を巡る表現」展覧会の出品作より-
AA ブロンソン 《アンナとマーク、2001年2月3日》 2001-02年

展覧会の初日に、出品作家の一人であるA.A.ブロンソンと話した。ぼくが亡くした大事な知人のことを彼もよく知っていた。「東京に着いてから、ずっと彼のことを考えていたよ」と言われて、久しぶりに鼻の奥がツンと痛くなった。あの「エイズの時代」、彼は友だちも、恋人たちも、そのまた友だちも、ほんとうにすべての人と言っていいくらいのたくさんの人を見送ったのだという。60年代からいっしょに作品を作り続けて来たGeneral Ideaの二人の仲間も。96年に画期的な治療の方法が見つかったあとも、彼は喪失感だなんて言葉では形容できないような絶望の中で、なにをしていいのかわからない年月を過ごして来たのだという。そんなことを想像してみる。目眩がした。自分にそんなことが堪えられるのだろうかと自問した。そして、その嵐のような喧噪のなかで、それでも怒り、笑い、生きることの表現を街中に溢れさせて来たA.A.やGeneral Idea、もう亡くなってしまっているトレスやキースや、他の人たちのことを想いながら、「セーファー・セックス」という考え方(やり方)は、そんな彼らが生み出して来たものなんだということを改めて考えた。日本でよく聞くのは「セーフ・セックス」という言い方だ。「安全なセックス」。出会い系の掲示板でも「セーフでお願いします」なんて書き込みがあったりする。そうやってコンドームを使ってセックスをしようと表明する人は最近ではそんなに多いわけでもないので、見れば「ああ、こう言う人もいるんだな」とホッとする。だけど「セーフ」と「セーファー」の間には大きな隔たりがあるんだよなあとも思う。「セーファー」という言い方に含まれるのは、「BETTER」と同じ、「ちょっとでもマシな」ということだろうと思うのだ。ウィルスや、人間同士がすることだもの、パーフェクトな安全など得られるわけがないのだという真理を目の前にしたときの穏やかな諦めと、その中でやれることはやり、知れるだけのことは知ろうとし、人生や、人と出会い、触れ合い、抱きあうことを肯定する、そんな考え方が、この小さな比較級「er」の二文字からは見え隠れしているように思えるのだ。強い人たちだなと思った。強くて、優しい人たちだな。あんな状況の中でよく、そんなことを「発明」したな。そう思うと、どうしても胸が熱くなる。

-「ラヴズ・ボディ-生と性を巡る表現」展覧会の出品作より-
ピーター・フジャー《ビー・スイート、ニューアーク》1985 年、ピーター・フジャー・アーカイブ蔵 (c) The Peter Hujar Archive LLC, Courtesy of Matthew Marks Gallery, New York

世界は愛に溢れている。言葉を使って作品を作るのは難しいなと思いながら、フィルムの作品にそう記した。「HIVがあっても、世界は愛に溢れてるから大丈夫だってのは、ちょっとちがうんじゃないか」なんてTwitterに書かれていたけど、そういうことが言いたいわけじゃないんだった。どんなに何かで縛ろうとしても、人々が出会いを求め、触れ合うことを止める手段は何処にもないのだ。70年前の欧州の強制収容所で、看守の目を盗んで愛し合った男たちのことを忘れてはならない。どんな壁や縛りをも、人々は抜け出して手を繋いでしまうだろう。そんな「愛」というものに溢れているから、結局はそこにウィルスも伴走してくる。それはもうどうしようもないことと肯定するしかないと思うのだ。エイズパニックの20年前や、新型インフルエンザの過剰な防衛の大騒ぎを見ていると、人というものの在り様や行動の様式を、棚に上げたように忘れたり、見えないように蓋をして、なんとか「異物」を排除しようと躍起になっているようにしか思えない。溢れているものはしようがないのだ。溢れて仕様がない、多様な、星の数ほどの、人々の愛。そして、それはもはやどうしようもないことなのだとあきらめて、与えられた前提の中で何が出来るのか、考えるしかないのではないのか。Make it better.ちょっとだけ、よくなってくといいね。大事な人たちが周り中でドミノのようにバタバタと倒れていく中で、よくこんなことを考えてくれたものだなと思う。よくぞ人間と、その人生というものを肯定してくれたものだと思う。この展覧会に参加できてほんとうに良かった。バトン、受け取ったよ。走ってくしかないのだ。そう、思っている。

(了)

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