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【前編】旧優生保護法と逆淘汰(とうた)論

記事公開日:2018年07月20日

現在、旧優生保護法下で強制不妊手術をされた被害者が、全国で同時に国家賠償を請求する行政訴訟を起こしています。旧優生保護法は、戦前の「国民優生法」(1940)を改正する形で、1948年に制定された法律です。国民優生法はナチス・ドイツの「断種法」(1933)を手本とするもので、旧優生保護法では、その断種政策が強化されて受け継がれることになりました。敗戦からわずか3年後に、なぜそのような法律があわただしく制定されたのか。その歴史的背景について考えます。

過剰人口の抑制を急務として

旧優生保護法の主な目的は、二つあったと言われています。

①戦後の過剰人口を抑制するために、産児制限を行う。そのために、非合法だった中絶を条件付きで合法化し、医学的に管理することで、母性の生命健康を保護する。
②優生上の見地から不良の子孫の出生を防止する。その手段として遺伝性の障害者などに中絶手術や断種手術を実施する。

優生保護法が制定された当時、日本は敗戦によって、満州、朝鮮半島、台湾など、総面積の46%を失い、外地からの引き上げにより、人口は8千万人を超えていました。さらに、食糧危機は深刻であり、経済再興のめども立たない状況でありながら、平和な時代の訪れにより、急激に出生数が増加することも予想されました。

1946年1月、厚生省は人口問題懇談会を開催。同年11月には、政府の関係機関である財団法人人口問題研究会が「新人口政策基本方針に関する建議」を発表します。この建議では、過剰人口に対応できるだけの経済再建と出生調整を国家的な急務としました。

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「新人口政策基本方針に関する建議」(国立国会図書館)

そのような政府の考え方に呼応するかのように、旧優生保護法が議員立法として、国会に提出されます。自民党の参議院議員・谷口彌三郎(産婦人科医)や社会党の衆議院議員・福田昌子(産婦人科医)らが中心の超党派による法案は、1948年6月に成立しました。

優生保護法の成立に産婦人科医たちが尽力したのは、人口抑制のための産児制限が、母体の保護や産児の健康など、自分たちの医学領域にかかわる問題だったからだと考えられます。そして、産児制限のために、まず求められたのは中絶の合法化でした。

戦後の混乱期には、性被害により望まぬ妊娠をする女性や多産が原因で貧困に苦しむ女性が多数存在しましたが、堕胎罪という刑罰があったために、中絶を希望する女性は、専門でない医師や闇の業者に頼ることになり、術後の後遺症に苦しんだり、ときには死亡事故まで発生しました。

そのために旧優生保護法によって中絶を条件付きで合法化し、処置を行えるのは、「“優生保護指定医”の資格をもつ産婦人科医に限る」とすることで、産婦人科医たちは母体の安全を確保しようとしました。中絶を合法化する法律は、世界で初めて制定されたものでした。

旧優生保護法が、戦後間もない時期に、あわただしく成立した第一の理由は、過剰人口を抑制するための産児制限を実施することにありました。

優生政策を支えた「逆淘汰論」

旧優生保護法の目的の二つ目、それは、人口の質の向上をはかるための優生政策を実施するという役割です。優生政策とは、人為的な手段によって、家畜の品種改良のように、国民の遺伝的資質の改良を意図する社会政策ですが、人口抑制策と優生政策をつなぐことになった理屈として当時流布していたのが、「逆淘汰(とうた)論」です。

逆淘汰論とは、19世紀に優生学を創始したフランシス・ゴルトンが唱えた説で、文明の発達した人間社会では、理性的な人々ほど生殖活動に熱心ではないために、社会的に望ましくないとされる不良な人々が、優良な人々を凌駕して、増殖する傾向にあるとしました。

日本でも戦前から、そのような逆淘汰論が社会理論として浸透していたために、「産めよ殖やせよ」という戦前の政策を転換し、産児制限を進めれば、優良な人々は、社会状況を理解し、家族計画により子どもの数を制限しようとするが、不良な人々は、欲望のままに子どもをつくり続けるために、逆淘汰現象が起きると考えられることになりました。

先に紹介した「新人口政策基本方針に関する建議」でも、「出生調整の普及は往々にして逆淘汰現象を随伴するおそれある」として、「逆淘汰現象の発現を極力防止する」ことが必要であると述べられています。

しかし、断種の対象とされた障害者の人口はもともと少なく、結婚をし、子どもを産むものはまれなはずなのに、どうして逆淘汰現象が信じられたのでしょうか。

実は、逆淘汰論の基礎にある優生学では、人間の優劣は「遺伝」によって決まると考えられていました。その遺伝とは、現在のような染色体や遺伝子の解析に基づくものではなく、家系調査などから判断する未熟なものでした。そのことから、現在なら遺伝が原因とはみなされないような、犯罪、住所不定、売春、アルコール依存症などにまで遺伝の影響が想定されました。

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善良な家庭が産児調整を行って2児制をとると、4世代後には人口のほとんどが犯罪家系で占められてしまうとする逆淘汰論のイメージ。(図は、米本昌平『遺伝社会 ナチスと近未来』より)

本来、遺伝によって障害が生じるという生物学的な現象と、社会的な素行の問題とは直接には結びつかないはずですが、優生学ではそれらがしばしば混同されました。

旧優生保護法の制定に尽力した産婦人科医の谷口彌三郎は熱心な逆淘汰論者であり、法律の制定後も、参議院の厚生委員会で、犯罪者のみならず、戦災孤児や街娼、生活保護受給者などにまで遺伝調査を拡大し、断種政策の強化をするように訴え続けました。

逆淘汰論によって、断種は人権侵害ではなく、社会をより良きものにする改良運動と考えられることになりました。逆淘汰論が罪深いのは、障害者を支援が必要な少数者ではなく、社会の発展を阻害し、世代を超えて増殖する「社会悪」と位置づけたことです。

旧優生保護法のもとでは、省令によって、断種の判断をする都道府県の優生保護審査会には、医師が優生手術申請書、家族の同意書、健康診断書などを提出しなければなりませんでした。さらに、「血族中の遺伝病者」「自殺者」「行方不明者」「犯罪者」「酒乱者」などを記入した「遺伝調査書」の提出も義務づけられ、医師による家系図が添えられることもありました。遺伝の意味が拡張してとらえられていたことがわかります。

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優生保護審査会への申請のために医師によって作成された家系図。兄弟姉妹のうち3人が断種手術を受けていて、自殺者や行方不明者に関する記述も見られる。

1996年、旧優生保護法からは、すべての優生政策に関する条文が削除され、母体保護法へと改正されることになりました。しかし、歪んだ政策の犠牲となって、強制的に断種手術を受けさせられた被害者は、現在も心身の傷を抱えながら、苦しんでいます。

将来において、同じような過ちが形を変えて繰り返されることのないように、この旧優生保護法の検証はさらに継続していく必要があるように感じます。

執筆者:Webライター 木下真

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