ハートネットメニューへ移動 メインコンテンツへ移動

琉球大教授・上間陽子さん 沖縄の夜を生きる少女たちに命を守る場を

記事公開日:2022年05月24日

子どもの貧困率、そして10代の出産率が全国平均の2倍にのぼる沖縄。そこには10代で子どもを産み、家族の支えもなく、ひとり夜の街で働く少女たちがいます。琉球大学教授の上間陽子さんは、10年前から沖縄の少女たちの調査と支援を行い、言葉にならない痛みを伝えてきました。上間さんの活動を通して、沖縄の少女たちを見つめます。

言葉を奪われる少女たち

琉球大学教授の上間陽子さんは、10代で出産した沖縄の少女たちの生い立ちや暮らしぶりを調査しています。実態を明らかにし、支援の方法などを探るためです。
この4年間で聴き取りをした少女は77人。その6割が、生活のためにキャバクラや風俗の仕事をしていました。また、家族や恋人から虐待やDVを受けるなど、暴力の被害者であることも明らかになりました。
「10代の子がなんで(夜の)業界に行ったり、お金が必要になったりするかと言ったら、おうちにいられないから。おうちにいるのがすごくつらい。ずっといじめ抜かれるとか、アルコール依存症の誰かがいるとか、そもそも“おうちのかたち”がなくなっていて、だからといって、逃げ出せる場所があるわけではない。若年出産しているいちばんシビアなところは、おうちもつらい、行った先もつらい」(上間さん)

画像(沖縄 夕暮れの民家)

七海は家出を繰り返しながら大きくなった、一七歳の若い母親だった。
七海は小学生のころからずっと父親から性暴力をうけていた。
いまもまだ、灯りを落とした柔らかい布団の上ではうまく眠ることができない。

七海は性的行為全般を嫌っていたけれど、中学生のころからお金がなくなると、ピンサロで働いたり「援助交際」を続けてきた。

アプリを使って「フェラのみ」「五〇〇〇円」「観光客」「短時間」の客を探してお金を稼ごうとしていたが、ある日、そうやって探した客にレイプされて、子どもの保育園の前の路上におろされた。

(『海をあげる』上間陽子)

さらに、調査を通して見えてきたのは、少女たちの多くが、あらゆる暴力にさらされながらも、沈黙して生きてきたことでした。

画像

琉球大学教授 上間陽子さん

「暴力の体験って言葉を奪うので。本当に話せなくなるし“みんなと違うものになってしまった”という感情を持たされるので、暴力自体が言葉を奪うんですよね。加えて、(暴力が)小さいときからなのでそりゃ語れない。いちいち感情で傷ついていたらもたないので、“何でもないこと”というふうに処理するし、言葉はその時は不随しないですよね。だから本当に話せない。」(上間さん)

画像

少女たちに聴き取り調査した資料

暴力はひとりきりにされる体験

上間さんは少女たちに会うとき、自宅やファミレスなど話しやすい場所を本人に選んでもらいます。
少女たちとの聴き取り調査は1回で終わることもあれば数年に及ぶことも。必要があれば病院や警察にも同行します。そして少女たちと会うときに欠かさないのが “きれいなお菓子”です。
「私と会ってお喋りすると眠れなくなる子もいるんです。眠れない夜に、きれいなお菓子を食べながら、今日はしっかりお話したなあ、がんばったなって。ひとりの時間を自分であたためられるようにと思っています。(上間さん)」

画像(少女たちに持ってゆくお菓子)

上間さんが大切にしているのは少女たちの話を聞くだけでなく、語ってくれた言葉をひとりひとり、本人に還してゆく「読み合わせ」です。本人の前で、聴き取った内容を声に出して読み上げて、ひとつひとつ確認してゆきます。
「書いたものを読むのは私もすごく緊張するんです。間違っていないか、傷つけていないか、ちゃんとあなたのこと書いたって感じるのかなって。ちょっとでも違和感があったら教えてねって言って読ませてもらいます。(上間)」

亜矢は、中学二年生のときに集団レイプされていた。基地のそばで三人の男たちに拉致されて、レイプされた。

………しに(=とっても)痛かったからね。泣きそうになった。超、痛かった…。
――輪姦(まわ)された、ってこと?
ってこと。結局は。
――何人に?
三人に。
――うん。
名前も知らないし、だれなのかもわからんし、顔もはっきり覚えていない。

その話が終わったあと、自分のことを「開き直りが早い子だから、引きずらないね」と亜矢はいった。
そして、事件のあとの自分が元気になったことを説明するために、性体験をもった男性が多くて、「いまだに、何人とヤったか覚えてない。はるかに五〇人超していたってば、自分でもびっくりしたってば」といった。

別れ際に、私たちにばいばいと手をふった亜矢の手首には、自傷行為の傷跡がいくつもあった。

(2016年6月29日 亜矢さんとの「読み合わせ」の一部)

画像

「イメージ/上間さんが「読み合わせ」をする際の様子

どんなに過酷な内容であったとしても、本人がだれかに語り、生き延びてきた自分の物語として受け入れることに、上間さんは一筋の希望を見出しているといいます。
『レイプした奴らしか悪くない』と私はずっと(少女に)言ってきたんですけど、“落ちない”(納得してくれない)んですよね。『だって逃げたし』『だって真夜中だったし』『だって酒飲んでたし』と(少女に)ひとつずつ言われて。でも、読み合わせを通して、『何をやっていてもあなたは悪くないからね』ということが、初めて(少女に)“入った”感じがするんですよね」(上間さん)

「暴力はひとりっきりにされる体験ですよね。どこにも助けが来ないって。本当にそういう体験なので。あの時は誰も駆けつけなかったけれど、『助けたい』と思っている人が本当はいる。読み合わせをすることで『こんな事が許されていいはずがない』と思ってくれる人が見えてくるのは、『自分じゃなくて相手がおかしい』と、そこに戻っていく体験なのかなあと思います。」

上間さんが少女たちと接し、感じてきたのは「傍観者たちの存在が大きければ大きいほど、ダメージは大きい」ということだといいます。
「調査して分かったのは、(少女たちは)警察に言ったら怒られる、病院に行ったら意地悪なこと言われる。役所に行ったらひどい言葉を言われて帰される。本当に、彼女たちは、そういうことの総体の中で生きているんだってことがよくわかったので。この事件、この出来事、この痛みを知っても、大人は何一つやってくれないってことが本当にその人にダメージを与えるんですよね。知ったからには「わたしは見たよ」って。「それは痛いよね」って。そういうあがき方を一緒にしているほうがいいような気がして」(上間さん)

画像(琉球大学教授 上間陽子さん)

暴力の根源に浮かぶ基地の風景

上間さんが育った街には、調査した少女と似たような境遇の同級生が少なからずいました。

話を聞いた女性たちはみんな、私の中学時代の友だちの面影を宿していた。
私は、米軍基地のフェンスに囲まれた、大きな繁華街のある街で大きくなった。

私たちの街は、暴力を孕んでいる。そしてそれは、女の子たちにふりそそぐ。

(『裸足で逃げる』上間陽子)

画像

上間陽子さんの著書『裸足で逃げる』

「小学校6年生から中1、中2になったとたんに、ブワーって性暴力の話が入ってきて。でも、みんなそれを『性暴力』と言わないんです。でも私はそれをレイプだと思っていて。自分が受けた暴力というよりも、性暴力の話がともかく自分を蝕んでいく感覚があって、もう聞きたくない、もう嫌だっていうのがすごく強かった。『沖縄』というよりも『地元』を離れたい感覚でした」(上間さん)

上間さんは中学卒業を機に生まれ育った地元を離れ、東京の大学院に進学して教育学を専攻します。その後も沖縄では小学生が米兵に暴行される事件や、14歳の少女が少年グループに集団暴行される事件など、性暴力事件が相次ぎました。

画像(沖縄の街(イメージ))

「事件の報道を見て、もう逃げられないなと思って。なんだか沖縄の状況が変わらないというか、女の子たちの状況が相変わらず変わらないんだなって。本職でちゃんとやらないとダメだよなと思って、『調査する』と決めて、そこからです」(上間さん)

一五歳のときに、捨てようと思った街に私は帰ってきた。
今度こそここに立って、女の子たちのことを書き記したい。

彼女たちは、家族や恋人や男たちから暴力を受けて、生きのびるためにその場所から逃げようとします。
どこからも助けはやってこない。彼女たちは裸足でそこから逃げるのです。

(『裸足で逃げる』上間陽子)

沖縄の暴力の根源を探りたいと思っていたという上間さん。調査で現地を歩く中で気づいたのは、少女たちの暮らしの場や暴力から逃げた道のりが、米軍基地のフェンスの近くだったことだといいます。
「少女たちが暴力を受けて逃げる場所の舞台はいつも基地のそばなんですよね。こうこうと照らされている基地で、いつもオレンジ色で、あたたかい感じもするんです。でも、ひと気がないし、逃げ込もうと思っても、“沖縄”の側から“基地”には絶対入れないんです。基地は向こう側にあるものを守っているだけで、助けてほしい子がそこにいるときに、むしろ“拒み続ける”装置なんだなと思って。逃げても、逃げても、延々と基地のフェンスが続く。彼女たちの見てきた “助けのこない沖縄”の風景がよく分かった。一方で、日本と沖縄の関係があって、沖縄で酷いことがある、基地の被害がある、水も汚れてる、爆音が酷い、レイプされて殺される子がいる。だから『基地なんか置かないで』と言い続けてきたのが歴史だとしたら、それもずっと聞かれなかった。調査した女の子たちはそういうことを言ってるわけではない。でも“力がない場所に置かれる”のはこういうことなんだなと見えてきた」(上間さん)

画像(米軍基地のフェンス)

いのちを守る生活の場で「希望を持つ練習」を

2021年10月、上間さんは琉球大学の社会福祉が専門の本村真教授と共に、沖縄の10代の母親たちを守る支援事業を立ち上げました。家族や恋人からの暴力や経済的な事情などから安全な出産・育児ができない少女を受け入れるシェルター「おにわ」。助産師や看護師が24時間ケアにあたります。お母さんと赤ちゃんの命に関わる妊娠中から産後のケア、そして安心して自立できるまでを支えます。

画像

支援シェルター「おにわ」で過ごす赤ちゃん

上間さんは大学の仕事のかたわら週に2回シェルターに通い、スタッフと共に母親になった少女たちを見守っています。

「言葉を紡ぐことよりも先に、『暴力がない場所がある』というのを確認してもらうほうが先と思っていて。ご飯が美味しくて、お布団はいつもふかふかで、赤ちゃんが泣いていてもママが悪いんじゃなくて、みんなが面倒を見ればいいだけ。」(上間さん)

シェルターの「おにわ」という名前は、「お」きなわの「に」んしんした女の子たちを、大人が輪「わ」になって守るという頭文字からとりました。「おうち」よりも風通しのいい、多様な人が交差し集う「おにわ」のような場所。ここで、みんながママを助けて、一緒に赤ちゃんを育てるよという願いを込めたといいます。

画像

支援シェルター「おにわ」で過ごすママと赤ちゃん

「人は生まれてから死ぬまで、誰かのケアなしでは生きられないのに、ケアを欠いた子たちが本当にたくさんいる。野宿じゃなくて、あたたかい部屋があって、お腹すいたって言ったらご飯を作ってもらえる。妊婦やママといっても、まだ本当に幼い女の子たち。まずは大人に守られて、羽を休めてほしい。」

「きょう何が食べたい?」「ごはんの量、こんなもんかな?」「食べても、食べなくてもいいよ。」 毎日の生活の中で、上間さんたちは、少女たちがどうしたいと思っているのか、さりげなく声をかけます。大切にしているのは、どんな小さなことでも少女が自分自身で『決める』こと。月に1度のスタッフミーティングでは、助産師や看護師、ソーシャルワーカーなど9人が集まり、課題や方針を話し合います。

画像(シェルターのスタッフミーティング)

「自分で今まで決めてこなかったとか、いろんな支配とか、いろんなルールとかにがんじがらめになってきた子たちは、言葉すら出ない。自分で決めることがすごく苦手な子が多いと思う」(助産婦・東さよみさん)

「本当なら生活って自分の選択肢の積み重ねの中で構成されるけど、選択肢自体がなかった子たちが多いので、自分で決めることを練習してる。たとえばご飯の量とか、些末なことのひとつですけど、それも自分で決めていいんだって。体の状態はもっと食べたがっているのか、残したいと思っているのか。そういう細やかに選択を積み重ねていくさきに、大きな決定があると思うんです。(上間さん)

「ちょっとしたことでも希望を持って、その希望がかなうことが小さく積み重ねられていって、もっと大きな希望を持ったりとか、大きな希望をかなえようっていうことにつながっていく。希望を持つ練習って、すごく小さいことから」(自立支援担当・上田真弓さん)

画像(自分で選んだごはんを食べる)

10年遅れの宿題に取り組む

「ただいま!」
この日シェルターを訪ねてきたのは、16歳で出産し、子どもを育てるために夜の街で働いてきた、ひかりさん。新しいぬいぐるみを手作りしては、シェルターの子どもたちに届けてくれます。
「上間ちゃん、すぐ泣くからなあ」(ひかりさん)と、ひかりさんは、上間さんにぬいぐるみを手渡したときのことを笑いながら振り返ります。

画像(ひかりさんが作ったぬいぐるみ)

ひかりさんは10年前、19歳のときに友人の紹介で上間さんと出会い、少しずつ困りごとを話すようになりました。

「妊娠したとき親に言えなかったので、上間ちゃんに本当に相談して。旦那のDVがあったときも上間ちゃんにすぐメールして。なんかもう、おかあさん、お姉ちゃんって感じ」(ひかりさん)

ひかりさんから頼りにされていた上間さんですが、もっと早くからシェルターのような場所があればよかったと振り返ります。

「あの子が本当に困ってる時に場所をつくってあげられなかった。なんか“10年遅れの宿題”なので、申し訳ない感じがありますね」(上間さん)

画像(ひかりさんが縫った「おにわ」の文字)

昨年、シェルターを開設するにあたり、上間さんの訴えに賛同した琉球大学病院が、全面的な医療支援を申し出ました。周産母子センター部長の銘苅桂子さんは、少女たちの出産から産後の精神的なケアが必要だと考えています。

画像

琉球大学病院 周産母子センター部長 銘苅桂子さん

「私は20年以上産婦人科医をしながら、若年妊娠に対応してきたのにもかかわらず、少女たちが風俗で働きながら子どもを育てていたという事実とその背景をちゃんと慮ってあげられなかった。私たちは、そういった問題が彼女たちの背景にあることを知った。この問題が医療の問題であると同時に社会的な問題である。だから(医療が)福祉や医療と連携して、彼女たちがちゃんと社会で生きていけるように、トラウマを受けることなく生きていけるような支援をどうやったらつなげていけるだろうと考えるようになったということです。」(銘苅さん)

現在、シェルターの運営費は、民間財団の助成金と一般からの寄付だけでまかなっています。シェルターが稼働してから全国から寄付が絶えません。上間さんは、「寄付してくれた人の一言、一言が本当に重い」と話します。「おにわの応援をしてくださる方は、調査で出会った(夜の街で働いていた)子から、経済的には恵まれて子育てもして老いていったんだけど、「本当にしんどかった」という人まで。それを見ていると、みんな「自分たちでどうにかしろ」という中で、死に物狂いで子育てや介護をしていて、何かあったら本当にもうもたない。実はこの問題は全国的に地続きで、沖縄はその苦しさが濃縮されているんだと気づきました。こんなことは、みんなが死に物狂いでやる話ではなく、制度設計が変われば、もっと変わるはずなんです」(上間さん)

上間さんは、この取り組みを3年以内に行政の事業にすることを掲げています。
「本来だったら、行政がやるべきことだとは思っているんですね。これは命にかかわる、社会的な問題です。民間が頑張って人の助けで何とかするという話ではない。でも今、動かないと、幼いママや子どもの命があぶないところまで来ていて、まずはモデルを作ろうと動き出しました。モデルを作ったら今度は公に、制度として回してほしいと考えています。」(上間さん)

“大丈夫な場所”を作れるのは大人だけ

シェルターの食卓に、手をかけたご馳走が並び、スタッフや友人たちが集まりました。
今日はシェルターに最初に入居した凛花さんの門出をみなでお祝いする日です。凛花さんは、赤ちゃんと一緒に入居して1か月間を過ごし、別の支援団体のもとで自立を目指すことになりました。

画像(スタッフが手をかけて作ったお祝いのごはん)

「うちの一人娘です。おひめさまにしてください。」上間さんは、集まった仲間に呼びかけ、みんなで協力して、凛花さんに振袖を着付けていきます。今日は、子どもが生まれてちょうど100日という記念の日。おかあさんと子どもがこれまで生きてきたことを祝福し、これからも見守っていることを伝えます。

画像(凛花さんに寄付で頂いた振袖を着付け中)

上間さんはこれまでも、調査で出会った女の子たちに振袖を着せて二十歳を祝う場を仲間とともに作ってきました。「会ったときは、16歳、17歳の子たちだから、これは願いごとみたいな感じなんだけど、「お振袖、わたしは着せるからね」っていうのは「生きてよ」って意味なんですよね。「あと何年か生きのびてよ」って。」(上間さん)

画像(凛花さんの髪に花飾りを挿すスタッフ)

振袖の着付けをした後は、スタッフひとりひとりが手作りの花飾りを凛花さんの髪に挿してゆきます。
「お花、ばっちりさ。色もあってるし、ほんとにかわいいよ」
「大丈夫?いたくない?いたくても凛花は、がまんしちゃうからなあ」
生活を共にしたスタッフたちが、彩り豊かな花を一輪ずつ挿し、凛花さんに声をかけます。

画像(凛花さんを囲むスタッフや友人)

「凛花に刻みたかったというのがありますね。花の数だけ応援してる人がいるってことでもあるから。
“あなたの存在は尊い” 本当にそれは、いてくれるだけでみんな尊いと思ってるっていう意味で。長く思い出せる一日をつくることで、『私は尊いし、私は美しいし、私は強いし』って、そんなふうにやっていってほしい。」(上間さん)

その後、みなで出かけたのは、沖縄の聖クララ教会。戦後、傷ついた沖縄の母子を、この地で支え続けてきた教会です。凛花さんと赤ちゃんは、ここで、神父から祝福の儀式を受けました。

画像(神父から祝福の儀式を受ける凛花さんと子ども)

生まれてきたばかりのいのちと、お母さんのいのちがこれからも大丈夫でありますように。
多くのひとの祝福に包まれながら、ひとりの少女が、自分の人生を歩み出そうとしています。

「実現したいことをひとつでもふたつでも。何でもできる、どこにだって行けるから。決定をしていく人になるためには、徹底的に守られないといけない。徹底的に守られる場所がまずは必要だと思ってるんですよね。水に毒が入ってちゃいけないし、危ないものは空を飛んでいたらいけないし、おうちの中に暴力を振るう人はいてはいけないし、性暴力は『性暴力』と言えないといけない。子どもたちは、みんな、そういうのがあっても、生きていってしまうんですよね。だから、束になってかからないといけないのは、大丈夫な場所を作ってあげる。それは、大人にしかできないと思っています」(上間さん)

※この記事はハートネットTV 2022年2月16日(水曜)放送「いのちが大丈夫であるように~沖縄・夜を生きる少女たち~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

あわせて読みたい

新着記事