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【特集】東日本大震災 原発被災地は今(1) 被災地の故郷に戻るということ

記事公開日:2022年04月20日

東日本大震災による原発事故で帰還困難区域に設定された双葉郡富岡町。徐々に避難指示が解除されてきたものの、震災前の人口に比べ、町に住む人の数は1割ほどです。時の経過とともに否応なく変わっていく町の姿に戸惑いながらも、町との向き合い方を見つけ、前を向こうとしています。富岡町の人々の想いを見つめました。

避難指示解除後も、元どおりにはならない故郷

5年前から段階的に避難指示が解除されてきた福島県双葉郡の富岡町。2022年1月26日、帰還困難区域の一部が立ち入り規制が緩和されました。

これにより富岡町は町全体の89%が自由に立ち入れるようになりました。しかし、震災前の人口がおよそ16000人なのに対し、今、町内で暮らしているのは1800人ほどです。

遠藤隼人さん(45)は3年前、富岡町に帰ってきました。

画像(遠藤隼人さん)

「平日のスーパーは、自分の友だちとか同級生とか知り合いはほとんどいないし、会わない。やっぱり単身者の人が住んでいるんでしょうね。作業員、原発で働いている人、復興作業の人たちが多いので、私たち地元の人はあまりいません」(遠藤さん)

遠藤さんは隣町で福祉関係の仕事に復帰しました。

「やっぱり戻ってきたいという思いの人はいるし、自分は実際にそうやって戻ってこられた。戻ってくるときにも自分の意志だけで戻ってきたわけじゃなくて、職場が私のポジションをあけて待ってくれていた。仲間とか、いろんな方の協力を得て、今ここに自分があると思います。やっぱり故郷だし、自分の居場所なんでしょうね。なぜ帰ろうと思ったのかと質問されるんですけど、『実家に帰るだけだし』っていう答えなんです」(遠藤さん)

画像(遠藤隼人さん)

2011年3月11日。東京電力福島第一原発事故により、全町民16000人が町外へ避難しました。

「その日は覚えているんです。すごく晴れていたんですよ。向こうの山もとてもきれいで」(遠藤さん)

阿武隈山地を越えた先に、町の避難所が用意されていました。

「ぜんぜん何があったのかわからなくて。第一原発がどういう状況かもわからないし、楽観的というか、落ち着けば2、3日で帰れんだべって。原発がおとなしくなれば戻れるんでしょって感じで、2011年の6月、妻の実家の静岡に行きました」(遠藤さん)

その後遠藤さんは、静岡県富士宮市で8年間の避難生活を送りました。

「本当にいいところですし、楽しかったんですけど、富士宮にいることを納得はしていない。やっぱり故郷へのこだわりがあったので、帰ってきたいっていうのはありましたね」(遠藤さん)

放射線を浴びた自宅は除染しきれず建て直すことになりました。

「去年の3月に建てました。妻は避難先の富士宮に仕事があるから実家に残って、娘は埼玉の大学に行っているんでちりぢりだけど・・・。故郷に戻りたい人って、多いと思うんです。ただ、自分の仕事のこと、家のこと、健康上のこととか、それらのタイミングが合わないと帰ってこられない。行った先で仕事を見つけて、そこでやっていくしかない人もいるし、帰りたいけど帰ってこられない仲間たちがいっぱいいるのは間違いない」(遠藤さん)

故郷に戻った意義を求めて

「電気がついているのでいつも通りですね。こないだ救急車が来たんでね。びっくりしちゃったけど」(遠藤さん)

遠藤さんが自宅の窓から遠目に気にかけているのが、近所に住み、幼い時から交流のある板倉正雄さん(93)です。板倉さんは5年前の避難指示の解除後、最初に帰ってきた住民のひとりです。

画像(板倉正雄さん)

「避難したときは、原発が爆発したからとにかく危ないんだと。何も考えないで逃げることばかり考える、そういう心境でしたね」(板倉さん)

板倉さんがその頃の心境を綴ったものがあります。

画像(板倉さんが書いた文章)

朝日輝き連なる峰は
故郷隔てる阿武隈山地
あの日追われて夢中で越えて
帰るあてなくはや三年(みとせ)
叶うことならあの峰越えて
せめて先祖のお墓を清め
花を供えてお香を焚いて
あれもこれもと止めどなく
思いばかりが空回り
愚痴で仮設の日は暮れる

「郡山にあるビッグパレットの仮設住宅に、どこにも行くところがない人だけ残った。『行くところない』『こんなことになって』って鬱になっている60代のおばさんがいたから、みんな同じ思いなんだよと、自分の思うままに紙に書いて。俺もこういう感じだよって詠んだら、ぼろぼろとおばさんが泣き出して」(板倉さん)

板倉さんは一時立ち入りが許可されると、2か月に一度、自宅を訪ねていました。

「帰ってきたら、建てた家がそっくりそのまま残っていた。でも(家を)出るときの状況をそのまま頭に描いて帰ってきたら、(実際には)そんなものはまったくない。荒れ野原です。ふるさとは架空の中にあると思うしかないですよ。原発、放射能の被害に遭ったこの地区の人たちはそういう悩みを生涯抱えて生きていくんです」(板倉さん)

5年前、避難指示が解除されると板倉さんは迷うことなく“帰還”を選択しました。

「なんで帰って来たのってよく言われるんですよ。なんでって、そこがうちだから帰ったんだと。自分の生涯の終わり方を今、一生懸命考えています。たとえば自分が思ったことと違うことがあったとしても、私はここで別なものを探します。戻ってきてよかったなと、ここで住むことに対して意義を求めて生活しています。楽しかった時期には戻れないんですから」(板倉さん)

板倉さんがいま、心の寄りどころにしているのは、これまで気づかなかった自然との出会いです。

画像(板倉さん)

「帰ってきてから中学校の校舎が全部解体されて、何日か経ってから、朝、見たらびっくりした。向こうの杉山の稜線がきれいな橙色の朝焼けなんです。こういう光景があったんだ、と。校舎がなくなって寂しかったその代替えに、こんなものが現れたんだと。そういうふうにして、その意義を私の93歳6か月の生きている姿として、私という人生の記録としてとらえる。そして、一生終わる、その時間を積み上げていくだけ。それが人の生きるという姿だと私は考えています」(板倉さん)

不足する社会資源を補うコミュニティ作りを目指す

避難指示の解除が始まって5年。富岡町には100棟を超える集合住宅が建設されました。その多くが復興作業員などを対象にした単身者向け。原発事故以前に住んでいた住民の多くは帰ってきていません。

新たに避難指示が解除された区域に、自宅の片づけのために住民が戻ってきていました。いわき市に避難している松本義隆さん(76)です。

画像(松本義隆さん)

「この新しい家にはおふくろは3年、おやじは8年住んだ」(松本さん)

両親と一緒に住むために20年前に建てた家。この日は業者に頼み、大量の家財道具を処分しました。避難指示が解除されても、この家に戻る予定はまだありません。

「まだわからんな。定住はまだしない。生活もまだ不便だと思うんだよな。他のうちも人がいないからぽつねんとしてね。一軒だけ引きこもって(暮らして)ても、なんか寂しいなと思って。だけどいつかは来たいね、いつかは定住したいと思う」(松本さん)

生活を支えていた福祉サービスにも大きな変化がありました。26か所あった福祉事業所も現在は5つのみ。福祉サービスには頼れない状況です。

5年前に富岡町に戻ってきた板倉さんの妻・光子さん(90)は避難先で認知症になりました。

「今は要介護4です。上半身を起こして目の前にお膳を置いて、ごはんを食べる。そしてごはんが終わったら寝る。その繰り返し。下着の交換から何から一切私がやらないといけない。それが大変です。いつまでできるか。小学校の跡地に3月に完成する特別養護老人ホームは予約がもういっぱいだそうです。私らはここでミイラにはなりたくないなと思っています」(板倉さん)

遠藤さんの職場・基幹相談支援センターふたばでも、少ない福祉資源への対応が課題です。

画像(基幹相談支援センターふたば 副センター長 四條拓哉さん)

「基幹相談支援センターは、主に障害のある方の相談機関ですが、双葉郡は震災で福祉サービスがゼロに近いくらいなくなった地域です。サービスに変わる資源をどう考えていくか、作り出すかという発想をしていかないといけません」(基幹相談支援センターふたば 副センター長 四條拓哉さん)

3年前、富岡町に帰ってた遠藤さんは、コミュニティ作りを通して課題を解決しようと考えています。

「社会資源、福祉に関する資源が少ないならば、なおさら制度上で区切るんじゃなくて、総合的に支援していくために私どもが活動しないといけない。資源を全部戻して『さあ、やりましょう』じゃなくて、新しい双葉郡を作りたい。新しい仲間と、新しいコミュニティを作りたい。支え手になる人たちがより多い地域にしたいなと思っています」(遠藤さん)

遠藤さんは、避難を通して富岡に住む目的がより明確になったと話します。

画像(遠藤隼人さん)

「原発事故がないまま住んでいたら気づかなかったことがあって、ここに住んでいる意味とか意義とかわからずに生きてきたと思うんです。それが(避難後に)こちらに戻って来たときには目的があった。自分は富岡の夜ノ森に住んで、ここのために仕事をしたいと目的がはっきりしたんです。それは移住者も一緒で、富岡の人じゃないかもしれないけど富岡に来て、ここで何かをするという目的があるわけですよね。九州の人、四国の人、関西の人だったりと生い立ちは違いますが、富岡に住んで何かをするっていう目的は一緒。そういったもので新しいつながりを感じられるとすごくいいかなと思いますね」(遠藤さん)

【特集】東日本大震災 原発被災地は今
(1)被災地の故郷に戻るということ ←今回の記事
(2)障害者が安心して戻れる場所を作りたい

※この記事はハートネットTV 2022年3月15日放送「シリーズ原発被災地は今(1) 変わる町 変わらない故郷」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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