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“鉄人母さん”と交わした往復書簡 千住真理子さん・末期がんの母との最後の日々

記事公開日:2022年01月31日

末期の腎臓がんと診断された母・文子さんの闘病に2年あまり寄り添ったバイオリニストの千住真理子さん。パワフルで愛情豊かな人柄の文子さんが病床に伏したとき、千住さんが心を交わす手段として選んだのが手紙でした。34通にのぼる往復書簡に綴られた母の素顔。聞き手は、悪性リンパ腫を克服した経験があるフリーアナウンサーの笠井信輔さんです。

千住家を揺るがした突然のがん宣告

バイオリニストの千住真理子さんには2人の兄がいます。長男で日本画家の博さん、次男で作曲家の明さんです。母・文子さんは、3人の兄妹を一流の芸術家に育てました。

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(左から)兄の博さん、明さん、母の文子さん、千住真理子さん

そんな千住家の人々の衝撃が走ったのは2011年2月。文子さんにステージ4の腎臓がんが見つかったのです。その事実をどう伝えるべきか。3人の兄妹の間で意見が分かれました。

千住真理子さんは告知に反対しました。母が傷つき、苦しむ姿を見たくなかったからです。しかし、母の性格を重んじた次男の明さんは正直に伝えるべきだと主張します。長男の博さんはどちらがいいか決めかねていました。その時の状況について、後に千住さんはこう綴っています。

「私達三人は、みんなが一緒に苦難を乗り越えるのではなくて、独りひとりが心の中で自問自答しながら苦しみと戦っていた。(中略)それは私達が芸術をやっているからなのだろうか?おかあちゃまがよく言ってた「芸術は孤高を目指す作業」だからなのか、土壇場で私達はそれぞれ「個」となった。「個」となって、三人とも各人が母親と向き合った。(「千住家、母娘の往復書簡」千住真理子 千住文子)

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千住真理子さん

千住:本当に腰が砕けるほどショックでした。とにかく嘘であってほしいし、なかったことにしたい。そのくらいパニックになりました。でも母には悟られたくないから、はじめは隠していました。母が傷つく顔を見たくなくて…。でも、母は嘘が大嫌いな人なんです。二番目の兄がまっすぐな人で、「子どもに嘘をつかれるなんていちばん嫌なことじゃないか」と。「それはそうだけど」って、ずいぶんケンカをしながら時間が過ぎたんです。

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笠井信輔さん

笠井:私も3人兄妹なので、兄妹で意見が分かれたときの大変さはよくわかります。10年前は“本人告知”は基本ではありませんでしたが、今は処方される薬からがんの薬だとわかってしまうので、隠すのは難しいと言われています。今はこれだけがんの人が多い時代ですから、どんなに年齢がいっても本人抜きに治療を始めるのは極めて困難で、そこで家族がガタガタするのは本当の姿じゃないという気がしますね。

千住:兄が同じ意見でした。私もだんだん説得されて落ち着いてきました。

笠井:反対していたけれども、告知してよかったなと思いませんでしたか?

千住:はい、結果としてよかったなと思いますね。兄が一生懸命、私を説得しました。それで母とともにがんに向き合おうと。スタートラインとしてはみんな、とても希望を持って頑張るぞという状態でしたね。

病床でも“鉄人”であり続けようとする母

そのパワフルで愛情豊かな人柄から、子どもたちは母・文子さんのことを親しみを込め“鉄人母さん”と呼んでいました。芸術を学んだ経験はありませんでしたが、その美意識や考え方は子どもたちに大きな影響を与えました。

なかでもとくに影響を受けたのが、末っ子の千住真理子さんでした。

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千住さんと母の文子さん

2歳でバイオリンを始め、幼くして才能を開花させた千住さん。文子さんはそのかたわらで、音楽家としての心構えや目指すべき世界観を語り、千住さんと二人三脚でバイオリニストとしての道を歩んできました。

画像(千住真理子さんと笠井信輔さん)

千住:私たち子どもがバイオリンを始めたのと同時に、母もバイオリンという楽器に弦が4本張ってあるということを知り、一緒に学んできたんですね。だから母というよりも“リーダー”という感じの存在でした。

笠井:でも“鉄人”って呼んでいたんですよね。そこに厳しさみたいなものは?

千住:たとえば(長男)博の絵を見て適切なことをズバッと言う。(次男)明の作品を聴いて批評をズバッと言うし、私の演奏もあんまりほめたことがありません。いつも辛辣なことをズバッと言って。私たちにとって母親はものすごく大きくて、温かくて、ゆるぎなくて、間違いのない、強い存在。それが、私たちにとっての母親の姿。

笠井:そんなお母さんなのになぜ、がんの告知をしないという弱々しい対応をとったんですか?

千住:一方で母親は、ものすごくナイーブな人なんです。例えて言うなら、秋に枯れ葉がふぁーっと落ちた。これだけで泣くようなそういう繊細な心を持っている人。ですから、兄妹3人がいつも話しているのは、「わが家の中でいちばんアーティストなのは母だよね」って。そのぐらいアートに対して厳しいのと繊細なのと、複雑な性格を持った人ですね。

2011年3月、母・文子さんの闘病が始まります。入院してすぐに、腎臓のがんと、転移した部分のがんを同時に処置するという難手術を受けました。

手術は成功したものの、気がかりなことがありました。病床でもなお、“鉄人母さん”であり続けようとしたのです。

画像(千住真理子さん)

千住:母には非常に楽観主義な部分もあって、「先生はあんなこと言ってたけれども、(末期がんなんて)そんなはずない」「私はこんなに元気だから、すぐに良くなるでしょう」って。本当に楽観的なことを言い続けるところがありました。

笠井:わかっていたんじゃないですか?

千住:…そうかも知れません。

笠井:がん患者本人は心配かけまいとするんです。“鉄人母さん”ですから、「私がここでああだこうだ言ったら、この子たちの芸術活動に差し障る」と考えるんじゃないかなって。向き合わないってことではなくて、向き合わないふりをされていたのかなっていう気がします。

千住:今、笠井さんに言われて本当にそうかもしれないと思いました。母の本心って本当にわからなかった。いまだにわからないです。

本音に触れたい 母娘で始めた往復書簡

千住さんは退院した母に寄り添って看病しましたが、仕事で家をあけることも多く、ゆっくり話をすることもままなりません。

母の本音に触れたい。そこで始めたのが手紙のやりとりでした。闘病中に母と交わした往復書簡は34通にのぼりました。

真理子へ

ああ、何時どこで死んでもおかしくない年齢ではないかと思うと、ネガティブな考えになりそう。
然し、いえ、道ばたの草だって枯れても神様は雨を降らせて生かしているのだと気がついた。
その道ばたの草同様の私は、この間生死の境をくぐりぬけて、二度までも命を頂いた。
何ということかしら。(中略)
あなた達三兄妹は、私のような高齢の道ばたの草を方舟に乗せてくれた。
私は虹を探し続けましょう。
それが生きた者の使命だから。

(『千住家、母娘の往復書簡』千住真理子 千住文子』)

笠井:言葉を持っていらっしゃるし、お母様はアーティストだっていうのはやっぱりわかりますよね。こうやって文章に書かれると、ちょっと本音が垣間見られますよね。少し弱気になっていらっしゃるというか。

画像(笠井信輔さん)

千住:往復書簡を始めて、ああ、千住文子って一人の女性だったんだと。それがだんだん皮を剥ぐようにちょっとずつ見えてきた。母の本音とか、ものすごい弱い部分とか、本当の母の姿がびっくりするほどの母の本性が、往復書簡をやってはじめて見えたっていう感じですね。

笠井:いいアイデアですよね。往復書簡ってかたい言い方ですけど、要するに手紙のやりとりをしようと文通したわけです。それは郵便局を通して?直接?

千住:私はメールで、母は手紙を書きました。

笠井:このコロナの時代になって、なかなか直接会ったり話したりできないので、重要なやり方かもしれませんね。

千住:私は良かったと思うし、みなさんにおすすめしたいですね。親子で文通するのはとても恥ずかしいことだけど、とても素敵なことなんですよ。そして、残るんです。しかも本音を、親がいちばん言いたいことを書いてくれる。

笠井:例えばどんなことを覚えています?

千住:もうね、いろんなことです。バイオリンに関するものすごい痛烈な批判があったり。

笠井:その病状の中で、そのやりとりしてる中で、そこはお母さんなんだ。

千住:今日は体調いいからって演奏会に聞きに来てくれて、それでどうだった、ちょっとぐらい褒めてくれるかなと思ったら痛烈な批判。あなた、こういうとこがこう、全然感動しなかったわとかね。そういうの書かなくてもいいでしょうって、その時、私は言ったんですけれども、あなたが書けって言うから書いたのよみたいなことで、ちょっとバチバチなったり。
でも後で、私ひとりになって、確かにあそこのあの弾き方は音符を追ってただけだなとかね、思うわけですね。だから本当のことを書いてくれたな、というようなことがある。 母と娘ってとても難しい関係なんですよ。ある時はとてもぶつかり合う。だから、文通はいいなと思いますね。

千住さんが手紙の中で本音だと感じた部分はどういうところだったのでしょうか。

画像(千住真理子さん)

千住:母が私に弱音を吐くことはなかったんですよ。今までの人生に一度も。涙を流して弱音を吐くような姿を、母は私たちに見せたことがなかった。でも、文章の中には涙を流している母の姿がある。それが頻繁に出てくるんですね。そういうものを読んだときに、本当になんと弱々しくて、痛々しくて、守ってあげたくて、素敵な人なんだろうって思いましたね。文通をして、昔よりもっともっと千住文子という、私の母親であった人のことを好きになりました。
母はどちらかというと冗談を言う人なんですよ。どんなつらいことも悲しいことも、ちょっとおチャラけるタイプの。ですから、どんなにつらい時も母が楽しい雰囲気に必ずして、ふざけて終わってたっていうのが、我が家の楽しい雰囲気だったんですね。母が本気で弱音を吐いたり、悲しんだり絶望したりというのは、手紙の中で初めて知りました。

笠井:がんの患者にとって、家族に対して弱音を吐くって結構大事なことなんですよ。お医者さんとか、いろんな人に気を遣いながら、どこかで甘えたり本音を出したりする場がないと、非常に心がきつくなってくる。今はコロナの時代で余計に話す人がいないなかで、そういう吐露できる場所があるっていうのはとても良いこと。読んでいるこっちは悲しくなっちゃうかもしれないけど、お母さんにとってはこれを言うことができた。まさにそれがお母さんの助けになっていたんじゃないかなと。

千住:それは本当に嬉しいですね。

笠井:自分もSNSをやって、病床でいろいろ発信するんだけども、とくにがんサバイバーと言われる経験者から、「弱音をもっと言っていいんですよ」という応援メッセージが多いので、やっぱりみんなわかってるんだなと。弱音を吐くってことがストレスを軽減するというか、泣いてスッキリするのと一緒で大事なんだなって。

母・文子さんは、後にこんな文章も綴っています。

鉄人母さんのメッキがはげる時が来てしまいました。
(中略)
私は突然、がんの宣告を受けました。
初めて聞くそのいまわしい響きに心がめちゃめちゃになりました。
(中略)
私の心は命輝く樹や草に救いを求めたりしました。
森羅万象すべてが私の身近なもののように、私の心にぶつかってきました。
(中略)
不安を捨てて、力一杯生きてみよう。
その先は誰も見えないのだから。
それが人生なのだから。
はげた鉄人の銀の衣を塗り直した私は、皆を背にのせ走ります。
希望を求めて。
月夜の空がピカッと光るのは、鉄人が飛んでいるのです。

ビルの街にガオーッ
夜のハイウェイにガオーッ


(『千住家、母娘の往復書簡』千住真理子 千住文子』)

笠井:「♪ビルのまちにガオー 夜のハイウエーにガオー」っていうのは、鉄人28号のテーマソング(の歌詞の一部*注)なんですよ。つまり男の子のお母さんだなって思うんだけど、この手紙は、もしかしてかなり遅い段階ですか?

画像(笠井信輔さん)

千住:最後に、もう筆が持てないのに何回も頑張って何日もかけてこれを書いていました。

笠井:千住(真理子)さんに宛てながら、(3兄妹)みんなに書いている。

千住:そうだと思います。絶対、兄たちに対するメッセージでもあるなとすごく思います。

笠井:すごいお母さんですね。本当そう思う。

千住:母にとっては、最後まで強い母でいなければいけないと思っていたんだろうな。メッキをはがさないように踏ん張っていたんだな。私たちにばれないように。強い母でい続けようとしたんだなあって思います。

*注 「鉄人28号」作詞・作曲:三木鶏郎、歌:デューク・エイセス

痛み止めを拒み続けた理由

2012年の暮れから、文子さんの容体はしだいに悪化し、入退院を繰り返すようになります。

「まりちゃん、痛い、痛い」

日を追うごとに増す痛みに苦しむ文子さん。ところが痛み止めの服用をかたくなに拒み続けました。

おかあちゃま、薬を飲もうよ、痛み止薬飲めば痛くなくなるよ。
お願いだから。
母は顔をしかめて首を横に振った。
なぜ?
痛みは更に増すのに。(中略)
見ていられない、堪えられない、
痛いと言われる度に私たちの心は掻きむしられ、皮膚を剥がされるほどの苦痛を味わう。

(『千住家、母娘の往復書簡』千住真理子 千住文子』)

そしてついに千住さんたちは、痛み止めを打ってもらう決断します。

「では痛み止めを打ちますよ」
母は微かに首を横に振ったが、
私たちは先生に再度、頭を下げたのだった。

(『千住家、母娘の往復書簡』千住真理子 千住文子』)

それは文子さんが息を引き取る前の日のことでした。

悪性リンパ腫を経験した笠井さんにとっても、痛みのつらさは他人事ではありません。

笠井:がんと痛みは密接な関係にあって、そこが本当にきついんです。私は入院するときに、看護師さんに「まず痛みをとってください」とお願いしたくらい、痛みって自分の精神的なものから、体力的なものから全部奪っていくんですよね。
”昭和患者”のわれわれにとっては、緩和医療は鎮痛剤で意識が朦朧としていって、自分を失っていくけども、穏やかに亡くなっていくっていうイメージなんです。でもそれは違うと、入院中にすごく言われました。今は、緩和医療は最初から始まるんですと。しかも、いろんな治療法や薬が開発されているから、みんながみんな意識を失ってぼうっとするわけじゃない。
そのことがわかっていれば、基本的には痛み止めの治療って早めに始められるんだけども。お母様が何としても拒否したのは、自分自身を失いたくないっていう尊厳の問題だよね。大変ですね、わかってもらうのって。

千住:私たちは医者じゃないから、本人が嫌だっていうことはできない。最後のほうは、私は母がいる病院に寝泊まりしていたんですね。そこからコンサート会場に行って、コンサートが終わるとそこに帰ったのですが、帰ってくると必ず「まりちゃん(真理ちゃん)痛い、痛い」って言い続ける。

笠井:聞いているほうもきつくないですか。

千住:たまらないです。痛いのを治すためには薬だから、ちょっとだけ飲んでみようかって言っても、いやいやいや。自分のいちばん大切な母親が目の前でこんなに痛がって、こんなに苦しんでいるのに助けてあげられない。それを見続けなければいけないというのは本当に苦痛です。

なぜ、母は、痛み止めをかたくなに拒み続けるのか・・・。
千住さんたち兄妹は、こんな話をしたと言います。

画像(千住真理子さん)

千住: 兄たちとよく話をしたんですよ。おかあちゃまはね、痛がって、苦しんでる姿を僕たちに見せようとしてるんだよ、と。だから、僕たちは見なきゃいけないんだよって。芸術やってるから。
母が元気なときによく言っていたのは「芸術というのは、悲しみの中にいる人のためにある。苦しんでいる人のためにある。その苦しみ、あなたたちはわかってないでしょう」と。「あなたたちはぬくぬくと生きてきたから、もっともっと苦しみなさい」と、よく言うんですよね。鉄人らしく、半分冗談めかしながら、そういうことをずっと言い続けてきた母なので、兄はそのことがパッと頭に浮かんだんだと思うんです。

笠井:ちょっと想像を絶する展開です。

千住:痛み止め拒否する理由が、はじめは本当にわからなくて。でもそれを母は私たちに見せたんですね。私たち3人はそのようにしか理解できなかった。そのように理解したときに3人で、そうだねって。じゃあ僕たちは今から頑張らなければねと3人で話し合って、それで以前よりも頑張るようになった感じもあるんです。

笠井:とてつもないバトンを渡されたわけですね、お母様から。

おかあちゃまのカーテンコール

刻一刻と近づく、文子さんの最期のとき。兄妹3人が病室に駆けつけました。

千住:その日、私は仕事でちょっと遠いところにいて、仕事がすんでから駆けつけたんです。私が着いたときに母はもう意識がないような状態だったのですが、私がドアを開けた途端に、でないはずの声で「まりちゃん」って言ったんですね、最後に一言。私はものすごく嬉しくて、母のそばに行ったら、急激に命が少なくなっていって。(心電図の波形が)、ピーとなりますよね。「何時何分です」って先生がおっしゃって、頭を下げて頭を上げたら、また動き始めるんですよね。それで「あ、まだまだ生きてる、おかあちゃま。カーテンコールだ、カーテンコールだ」って3人で言って…。そして、またピーって音がなり、先生ありがとうございました。するとまた動くんですよ。これが2、3回続いて、兄が「おかあちゃま、もういいよ。カーテンコールもういい、もう安心してくれ」って言うと、それでやっと動かなくなりました。
最後、そういうことになって非常に不思議で。カーテンコールだと3人とも笑ってしまって、兄がシャンパンを持ってきたんです、これは乾杯だと。母はそういうときに明るくする人だから、献杯ではなく乾杯だと言って、シャンパンを3人で飲みました。

幼い頃から一緒に芸術の道を究めてきた母・文子さん。千住さんは、その死をどのように受け止めたのか・・・。

画像(千住真理子さん)

千住:私はとくに、母と二人三脚で“バイオリニスト千住真理子”を作ってきた自覚がありますので、二人で作ってきたバイオリニスト千住真理子、今から先は、私が一人でブラッシュアップしていかなければならないなって。今から千住真理子は生まれたんだなって思ったんですよね。今までは母の作品だったけれども、母が亡くなってから私はやっと一歩踏み出したっていう感覚をだんだん感じるようになってきました。

笠井:さまざまな困難と介護の道のりを徹底的にお母様に寄り添う形でやってこられた。最後にお母様がどうされたいか、苦しみながらも共有されていた。最期を納得いく形でお見送りできたということが次の力につながっているんじゃないかなと。苦しかっただろうけど、とても大切なことを成し遂げられたなと、お話を聞いて思いました。

千住:一緒に苦しんでよかったなと、今は思いますね。

“母の最期”を胸に音楽を届ける

母の最期を見届け、自分ひとりの足で芸術家の道を歩み始めた千住真理子さん。バイオリンを奏でるその瞬間、今も確かに母・文子さんの存在を感じていると言います。

千住:ステージの上に立っていろんな曲を弾いていると、「この曲は母が好きだったな」というものが何曲かあるんです。音って時間、空間を超越してそこに存在するような気がして…。母が好きだった曲を弾いているときは、この音が、もしかしたら母がいちばん痛がっている過去のあの瞬間に届くかもしれない。この音がもし聞こえたら、母はちょっと痛みが和らぐかもしれない。そう思うとすごく気持ちが高揚して、届け届けと思いながら、痛みがなくなれと思いながら弾くことがあるんです。だからその瞬間、私は幸せな気持ちでいます。

※この記事はハートネットTV 2021年12月14日放送「私のリハビリ・介護 “鉄人母さん”からの手紙 千住真理子」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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