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最後まで二人で生きていこう 松島トモ子さんの介護

記事公開日:2021年11月29日

2022年で芸能生活73年目となる歌手・女優の松島トモ子さん。レビー小体型認知症と診断された母・志奈枝さんの自宅介護を経験しました。しっかり者で憧れだった母の突然の発症。慣れない介護に最初は戸惑いの連続でした。追い詰められた松島さんは、どのように苦難を乗り越えたのでしょうか。聞き手は、認知症の両親を持つ劇作家・演出家・女優の渡辺えりさんです。

※松島トモ子さんのお母様は2021年10月に逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

突然始まった母の介護 戸惑いの日々

松島トモ子さんが母・志奈枝さんの異変に気付いたのは、4年半前。95歳を祝う志奈枝さんの誕生日会でのことでした。中華レストランで親しい人たちを招いての食事中。ふと志奈枝さんの席に目をやると、失禁していたのです。

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母・志奈枝さんの95歳の誕生日会にて

渡辺:94歳まではしっかりなさっていたんですか?

松島:いやもう、しっかりも何も「トモ子ちゃんの立派なお葬式を出してから私は死にます」って言ってて、それでみんなも「そのほうがいいな」って。私も全部頼りっきりで・・・。ある日、突然になるんですね。皆さんから、(認知症が始まると)何度も何度も同じことを繰り返すとか、お洋服をちぐはぐに着て出てくるとか伺っていたんですが、それまでそういうのが一切なかったので。

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渡辺えりさんと松島トモ子さん

渡辺:何の予兆もなく、突然ですか?

松島:だからもう、青天の霹靂でした。

渡辺:突然っていうのはショックですね。うちの両親の場合は予兆がありましたから、割と「こうなっていくのか」って段階を踏んでいたんですけど。それは本当に驚きになったでしょう。

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松島トモ子さん

松島:母は人様の話を聞いたりするのが大好きなんですが、一切何も聞かずに、目の前のお皿を貪るように、手でつかむんじゃないかっていうように食べてて。母はそういう人ではまったくないんです。だからちょっと「あのママ、それは・・・」と思ったら、失禁していて。母をかわいそうと思うよりも、私はそこからどうやって逃げ出したらいいかっていうことばっかり考えて。

その後は、夜中に家を飛び出したり、戦車の音がすると叫び出したり、次々と症状が現れました。松島さんは、当時の大変だった日々をノートに綴っています。

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松島トモ子さんの介護ノートの一節

「荒れ狂う母」
「私の方が錯乱しているようだ。どうしよう、どうしよう」
「ダメ、どうしよう」
「幻覚があり、母は風呂から飛び出し大騒ぎ」
「最初のころはいちいち寝こんでいた。これが老老介護の現実」
「赤ちゃんは育つが、母はしぼんでいき第一可愛くない」

松島:「私をなんでいじめるんだ」とか、「何も食べさせない」とか、「殺される」って言って、夜中に外へ飛び出しちゃうんですね。母はマラソンの選手でしたから、早いのよ。私、追いつかないし、昼夜は逆転して、昼間に寝て夜騒ぎ出すし。何か月も洋服で、母の(部屋の)ドアのそばに寝ていましたね。パジャマも着られなかったですね。包丁を持ち出して、私と「一緒に死のう」とか。あんまりくたびれてマフラー巻いて休んでいたら、それ引っ張って「一緒に首をつろう」って。それが毎日毎日ずっと続いていくんですね。

渡辺:よく耐えてこられましたね、本当に。

松島:この人をなんとかして、一緒に死なないとダメなんじゃないかって。それで私は、大酒を飲むようになって。とにかく母の醜い姿を見ると、「これをないものにしたい」「いまのは嘘」って。そんなにひどくなっても、まだ認知症を認められない私がいるんですね。非常に苦しかったですね。こういう母になりたいって憧れていた人が、見る間に壊れていくのを見ることに耐えられなくって。パニック障害とか過呼吸とか、いま私の体重40キロですけど7キロぐらい減りましたね。見ていられなくなっちゃって。

出版された著書にも、そのころの様子が綴られています。

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著書『老老介護の幸せ 母と娘の最後の旅路』(松島トモ子著)

「母が見る影もなく変わっていく」
「このままでは共倒れに・・・」

聞き手の渡辺えりさんは、両親が認知症で、月に一度、東京と山形の介護施設を往復する生活を続けています。

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渡辺えりさん

渡辺:施設に預けようと思われたことはないんですか?

松島:3年半ぐらい揺れ動いていて「もうダメだ、施設だ!」って思うんですけど、なんかね、お風呂に入れて背中を流してると、「いまがいちばん幸せ」なんて母が言うのでついホロリとしちゃってね。いまこうやってお仕事している間は、親戚の人が見てくれているんですけど、やっぱり朝5時頃に起きてオムツ替えて、看護師さんが来てくださってご飯食べさせて、それで出てくるっていう生活を4年半ぐらい。私、すごく恥ずかしいんですけど、70過ぎるぐらいまでお湯も沸かしたことない、家事も一切だめ。だからもう、えらいことでしたよ、本当に最初は。

渡辺:70になって初めて家事も介護もなさったって大変ですよ。私が月に一度行って、母親が下痢をしちゃったおしめをかえようと思っても、本当に臭いし、汚い。実の娘でも大変。(私の場合は)介護士さんたちがずっとやってくださってるんですけど、それをお一人でやっていらっしゃるんですもんね。

松島:自分でもえらいなあと。

渡辺:並大抵じゃないですよ。

ケアマネージャーがくれた2つの転機

志奈枝さんの症状や、慣れない介護に追い詰められた松島さん。そんなときに転機が訪れます。

松島さんの転機① 主治医を“チェンジ”

画像(松島トモ子さん)

松島:(最初の主治医は)とってもいい方で、お年を召した方で、毎週来てくださるんですけど、いつも同じ話をして帰っちゃう。(これでは)母が凶暴になって物を投げたり、私の首を絞めたりなんかしているのは治らないということで、ケアマネージャーさんに相談したら、「じゃあ変えましょう」って。親切な先生にいいですってなかなか申し上げられないんだけど、こっちは命かかっているから。そうしたら今度は認知症の専門の先生が来てくださって、要介護1が急に4になって。病名をつけてくださった。

診断は「レビー小体型認知症」。志奈枝さんがなぜ暴れるのか、そのわけがわかりました。

認知症にはいくつか種類があります。いちばん多いのがアルツハイマー型認知症で、3番目に多いのがレビー小体型認知症です。レビー小体型認知症には、一般的な認知症の症状である「物忘れ」に加えて、次のような症状があります。志奈枝さんはとくに「幻視・妄想」の症状が強く出ていました。

画像(レビー小体型認知症の主な症状)

〈レビー小体型認知症の主な症状〉
幻視・妄想
睡眠時の異常行動
認知機能の変動
筋肉のこわばり

松島:病名を決めていただいたのは嬉しかったです。「ママが2人いる」って、レビー小体型の病気の母と、昔の母がいるんだと思うようにするんです。でも、お薬を7錠か8錠処方していただくんですけど、飲まない。私のことをときどきは敵だと思っているから、「毒だ」と言って飲まないし、口から吐き出すから騒ぎがおさまらない。だいたい夜になると、母が始めるんですね。

渡辺:昼夜逆転することもつらいですよね。幻想があって、本人も苦しいわけでしょ。本当に見えるわけですから。

松島:どんどん悪くなっていきました。でも、レビー小体型認知症と言われてから1年半くらいたった頃、薬が1つか2つ口に入ると、母も「あれ?」って楽になる(ことに気づいた)。やっぱり暴れるのは疲れるんじゃないですか。間違えて(口に)入ったお薬で良くなるので、「そこに落ちてる」って言って自分で飲むようになってくれました。

松島さんの転機② デイサービスも“チェンジ”

松島:デイサービスに行くのにも母は嫌がって何か月もかかって説得して、やっと行ってくれたんですよ。(ある日)私がリハーサルしていたときに(デイサービスから)電話がかかってきて、「お母様からすごい尿臭がします。何人かの方からクレームが来たからお気をつけください」って。それで、謝って謝って、帰ってきたら、尿の匂いなんか何もしない。それで(デイサービスに)電話をして、「あなたは確かめた?」って言ったら「確かめてない」って言うんです。誰がおっしゃったか聞いたら「ひとりのおばあさんだ」って。いじめっ子のおばあさんってきっといるんだと思うんですよ。そうしたらケアマネージャーさんが「わかった。デイサービスはいくらでもあります」って言って、「次行きましょう」と。それで心が楽になるというか、次があるんだって。

画像(渡辺えりさんと松島トモ子さん)

渡辺:ケアマネージャーさんがいろいろ考えてくださる方でよかったですね。ケアマネージャーしだいだってよく言いますもんね。

松島:私もそう聞いていたんです。ケアマネージャーが介護の要だって。だんだんそうなんだっていうことがわかりましたね。

そして、松島さん自身が介護を通して気付いたことがあるといいます。それは「母の心を見つめ直す」こと。

松島:白髪が生えてくるところを、チョンチョンチョンって引っ張ったら美容師を連れて来いってことなんですよね。それまではそんな心の余裕が私にはなかったから。でもやっぱり母はおしゃれさんで。

渡辺:うちの母も介護施設で、ボランティアの床屋さんに刈り上げられちゃって。もう泣いて、「母はそんなことずっとやったことありませんから、ふつうにしてください」って叫んじゃって、髪型を直してもらった経験があります。やっぱり何歳になっても口紅を塗ったり、髪型がふわっとしてると嬉しいんですよね。

松島:うちの母もです。そういう周りの人がよかれと思ってやってくれることが全然反対ってことあるじゃないですか。母のことは自分がわかってるってことがあるでしょ。

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ベッドに並んで横たわる松島トモ子さんと母・志奈枝さん

渡辺:(本人は)言えないんですよね。こっちが感じ取るしかないから、長年の付き合いとか愛情とかそういったものが必要になってきますよね。

松島:あちらはパントマイムなんですよ。だからわからないんだけど、ベッドを指でトントン叩くと、「一緒に寝ろ」ってことなんですよ。「寝てほしいの?」って言ったら「うん」って言う。「ママは何にも心配しなくていいのよ。ずっとここにいていいのよ」って言うと、うんって言って、寝てる間もすごくニコニコしてる。顔が全然変わりましたね。

母と娘 二人三脚で歩んだ道のり

松島トモ子さんは終戦直前の1945年7月、旧満州・奉天で生まれます。翌年、母・志奈枝さんは松島さんを抱いて日本へ引き揚げました。しかし、父親は捕虜となり、娘の顔を見ることなくシベリアで亡くなってしまいます。

大黒柱を失った松島家。一家を救ったのは、わずか4歳の松島さんでした。

スカウトをきっかけにスクリーンデビュー。名子役として人気を博し、一家の家計を支えることになったのです。

そんな松島さんの仕事に付き添ったのが、志奈枝さんでした。セリフの暗記や学校の宿題を手伝うなど、松島さんを常に支え続けました。

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幼い頃の松島トモ子さんと母・志奈枝さん

渡辺:すごいご苦労なさって、もう命からがら日本に帰っていらしたんですね。

松島:母が大変な思いをして、乳飲み子を抱えて、引き揚げ船に乗って。赤ちゃんが嗜眠性脳炎という病気にかかって、みんな死んでいくんですって。みんな「はやりが移ると大変」って子どもを海に葬ったり・・・。母は美しい声で子守唄を歌ってくれてね、精一杯の笑顔をくれて、「この子さえ無事に連れて帰ったら、私は何の望みもいりません」って私を連れて帰ってくれた。その恩義っていうんでしょうか。その弱みは、やっぱりあります。母をどこかに預けて自分が楽になるっていうのが、どうしても私にはできなかったんですね。

渡辺:お母様は再婚しようって気持ちもまったくなかったんですか?

松島:なんで再婚しなかったのかって聞いたんですよ。そしたら、お父様が出征なさるときに「絶対生きて帰ってくるから待っててくれ」って言われたって。「たった一つの約束ですもの、守ってあげなきゃ」って。

渡辺:ずっといまでも待ってるんですね、お母様は。

画像(松島トモ子さん)

松島:そうですね。母と一緒に寝ると、母はずっと天井を見ていて、私の手を握ってくる。母はどんなに寂しかったんだろうな。いままでずっと(母に)守られてきたけど、初めて(私に)守るべきものができたって。父の元に母を返すのがうんと遅くなっちゃっているんですけど、それまでは大事に母をお預かりせねば、と思っているんです。

志奈枝さんを深く思いやる松島さん。介護を始めたばかりの頃は、志奈枝さんのことが心配で仕事を辞めようと思ったこともありました。そんなとき、ケアマネージャーが松島さんをいさめた一言があります。

「介護はいつまで続くかわからない。介護から解放されて、あなた自身の時間を持つためにも、仕事を辞めてはだめですよ」

松島:介護はいつまで続くのかわからないと。もう4年半ですからね。仕事を辞めますって言って、母が亡くなって、これから仕事をさせてくださいって言ったって、70過ぎのあなたに誰が仕事をくれますかって言われて。仕事は続けなさいって言われたんですけど、泊まりの仕事もあるんですよね。だから最初、ショートステイに母を(預けて)、母のお泊まりのリハーサルしたんですよ。

渡辺:なるほど。

松島:「ママがお泊まりしてくれないと、私はお仕事ができない」って言ったら、「私も一緒に行く」って言うの。「いや、そしたらママはこのおうちにいられなくなるんだから、そこに行っててちょうだい」って言って。私は家でじっとしていたんですけど、施設に電話をかけたら「お母様がトモ子ちゃんに騙されたと言って、ハンドバッグを持って玄関にいらっしゃいます」って。私はケアマネージャーさんに「すぐに連れて帰ります」って言ったら、「あなた本当に仕事する気あるんですか」って一喝されて。私はびしょびしょ泣きながら一泊二日寝ずに・・・。母はすっきり帰ってきましたよ。

渡辺:でもいいケアマネージャーさんですね。勇気を出させるように、励ます、叱咤激励ですよね、やっぱりよかったですね、そのケアマネージャーさんにお願いして。

松島:はい。その方は私からはチェンジしてないんですよ。だけど、あちらがもうお体悪くされておやめになったので。

一つでも幸せな思いを残してあげたい

周囲のサポートもあり、松島さんは徐々に仕事を再開しました。

年2回、定期的に続けてきた松島さんにとって思い入れのあるコンサート。2019年4月には、会場に志奈枝さんの姿もありました。

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コンサート中に母・志奈枝さんに花束を渡す松島トモ子さん

楽屋や舞台袖で、松島さんを待ち続けてきた志奈枝さんを、客席に招待したのです。かかりつけの医師の反対を押し切ってのことでした。

松島:母はレビー小体型認知症なので、環境が変わると騒ぎ出すって言うんです。劇場は暗くなったり明るくなったりだから。先生にご相談したら絶対だめだとおっしゃるから、「いえ、私たち親子は3歳のときから舞台で育ってきました。楽屋も舞台も私たちの生活なんです。だから絶対大丈夫です」て言い切っちゃったんですね。母は昔はずっと裏方ばかりやってたのに、初めて良い席にいて。これが最後かもと思って、母の席に行ったら、一緒に大きな声で歌ったりなんかして。そして先生に「うまくいきました」って言ったら、「うわあ、勉強になりました。そういう方もいらっしゃるんですね」っておっしゃって。

画像(渡辺えりさんと松島トモ子さん)

渡辺:いままで袖からしか見たことなかった娘の舞台を、客席で見られるんですから、本当に嬉しかったと思いますね。

松島:そう言ってくださると本当に嬉しくて。それであのとき私、客席からお花いただいたの。それを母にあげたらね、「私に?いいの?」っていう感じで、本当に嬉しそうだった。喜んでくれて、この記憶が残ってくれたらいいなって思って。95歳で母があのまま逝っていたら、母はご立派なお母様っていうことですんだんだと思うんですけれど、それから4年半、こちらはえらい目にあいましたから。少し親孝行できたんじゃないかなって感じ。「きょう、ママどうだった?」って聞くと、「む?」なんて言って忘れてるんですけど。でもきっと、どこかに残っていると思うんですよ。

渡辺:すごい親子だなと思いました。介護する、介護されるっていう関係を超えて、70年間戦友のような関係で。いろいろ悩んだり、ケンカしたり、突き放そうとしたりっていろんなドラマがいっぱいあったと思うんですけど、それを乗り越えていま「よし、二人で生きるんだ」って決意をしている。その二人の関係がすがすがしいというか、すごいなと思いました。

画像(松島トモ子さん)

松島:ありがとうございます。嬉しいです。介護はできればしない方がいいけどね。介護を始めたとしたら、一人一人がみんな違うと思うけど、やっぱり、最後まで見てあげたい。一つでも幸せな思いを残してあげたい。そう思います。

※この記事はハートネットTV 2021年1月26日放送「リハビリ・介護を生きる 二人で生きていこう 松島トモ子」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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