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苦手な母と向き合った日々から得たもの 青木さやかさん

記事公開日:2021年08月11日

いつもお茶の間に笑いを届けてきたタレント・女優の青木さやかさん。しかし笑顔の裏で、長年、母との関係、そして自身の生きづらさに悩んできたといいます。そんななか、2年前、苦手だった母が末期がんでホスピスに入院。このとき、青木さんは母との限られた時間をどう過ごすか考えぬきました。聞き手は最愛の母を4年間自宅で介護して、看取った経験がある歌手の川中美幸さん。親と向き合う日々。葛藤の先には、青木さんが求めていたものがありました。

母がどうしても嫌いだった 長く続いた心の葛藤

親子関係に悩んだ時期が長かったという青木さやかさん。

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川中美幸さんと青木さやかさん

青木:大変長かったです。私は、端的に言うと、母がとても嫌いだったんですけれども、母の最期の数か月でその関係性を見直したというか、修復することを頑張ったという感じです。

川中:人それぞれ違うと思うんです。いろんな親子関係がありますから。

青木:川中さんとお母様のことはもうずーっと前からテレビで拝見していて、本当に仲がいいので、こんな親子ほんとにいるんだな、いいなと思いながら見ていました。いいなというか、何か不思議だなというほうが近いかもしれません。

画像(母親と一緒に写る青木さやかさん)

川中:ああ、なるほどね。

青木さんのお母さんの人柄が伺えるものとしてお持ちいただいたのがこの絵葉書です。

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青木さやかさんの母が描いた絵手紙

川中:わあ、ステキ。かわいい!

青木:これは、私の母が祖母と一緒に市の絵手紙教室に通っていまして、そこで毎日毎日描いては、毎日のように、私と娘が住む東京の家に送られてきたんです。山ほどあるんですけども。これはひな人形なんだと思います。

川中:お母様にお会いしたことないんですけど、すごくかわいらしいお母さんなんだろうなって。

青木:私にとってはまったく違う印象でした。

青木さんは1973年、愛知県で生まれました。3つ下には弟がいて、両親はともに学校の先生。のちに校長までつとめあげた母は、地域でも知られた存在でした。

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ピアノを弾く幼少期の青木さん

自慢の母にふさわしい娘でいたい。青木さんは幼いころからピアノや勉強に励みました。中学では水泳部のキャプテンや学級委員長に。しかし母の期待は大きく、青木さんはほめられた記憶がないといいます。

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青木さやかさん

青木:成績は悪くなかったんですよ。たとえば、90点のテストをほめられるかなと思ったら「何であと10点取れないの?」、ピアノ発表会で「エリーゼのために」がようやく弾けるようになったと報告をすると「それは去年、友だちの誰々ちゃんがもう弾いてたよね」と言われる。いつまでたってもこの人にはほめてもらえないな、ほめてもらいたいなと思いながら毎日いたという感じでしたね。

川中:厳しいですね。私の家では、私、ほめまくられていましたから、調子に乗って「またほめられたいからやらなきゃ」みたいな。真逆ですよね。お母様の期待どおりにいなきゃいけないっていうプレッシャーもあったんじゃないですか。

青木:それはありました。母の期待どおりでいないと(というプレッシャー)。両親は地元ではとても有名な人でしたし、私が何か問題を起こすといけないと思っていましたし、あとは「青木先生のお嬢さん」であるから成績はやっぱりよくなきゃいけないだろうとか思っていました。この人にほめられたいなと思って頑張ったところはあります。

母への思いが変わったのは高校生のとき。きっかけは両親の離婚でした。完璧な母にあこがれてきた青木さんにとって、それは、受け入れがたいものだったのです。

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学生時代の青木さやかさん

青木:うちの母は世間体というのをいちばん気にする人でしたので、家の中のこと、恥ずべき部分というのは外には絶対出さないし、見本となるような家であることをモットーに生きてきた感じだったのに、それが離婚するんだというところで、私の中で崩れちゃったんですね。そこからひどく嫌悪感がわいて、ほとんど口をきかなくなってしまいましたね。学費のこと、お金に関すること、あと、何かサインを書いてもらわなきゃいけないときしかしゃべってない気がしますね。

母との関係は、青木さんのその後の人生にも大きな影響を与えました。

大学卒業後、オーディション番組に出演したのをきっかけに、お笑い芸人の道を進んだ青木さん。「どこ見てんのよ!」というギャグでブレイクを果たしたのは30歳のころ。その後も、歯に衣着せぬ軽快なトークで、お笑いやバラエティ番組に引っ張りだこ。休むことなく活躍する日々が続きました。

私生活では36歳で娘を出産。一見、順風満帆な人生。しかし常に感じていたのは生きづらさだったといいます。

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出産直後の青木さやかさんと娘

青木:いつも不安とか寂しさがあって、楽しくないという感覚でしょうか。たとえばテレビに出ていろんな人が私のことを知っていても、評価されても、自分自身は自分をほめられないから苦しい。ダメだダメだ、まだダメだ、絶対ダメだみたいな感じがいつもある。

川中:この世界にお入りになるときって、お母様はどうだったんですか。

青木:うちの母は公務員になってほしいと思っていたので、私がお笑いで番組に出ることに関しては、まったく喜んでいなかったと思いますね。

川中:あんなにブレイクしてても。

青木:はい。ただ、母がとてもいやがった仕事でしたから、逆に頑張ろうみたいな、怒りがエネルギーになっていたというのはあります。

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川中美幸さん

川中:その後、結婚なさって、お子さんまで出産なさった。ご自身がお母様になって関係は変わりました?

青木:よくいろんな人に言われたのは、「親元を離れたら感謝できるよ」とか、「自分が親になったら感謝できるよ」とか・・・。私もそういうもんだと期待をしていましたけれど、うちの親が東京の私の家に来て、うちの娘を抱いたときに最初に思ったことは、私の大事なものにさわらないでほしいって思ったんですね。

川中:え? さやかさんが?

青木:はい。だから、感謝どころか、絶対ダメなんだ、絶対嫌いなんだって思いましたね。そう思っちゃう自分がつらいですよね。親のことを嫌いにならないほうがいいってことは頭ではわかってるんですよ。どうしても心が追いつかないので、それは苦しかったです。感謝すべきものだということはわかってるし、そうしたいけどできないもどかしさ、憤りみたいなことが苦しかったのかもしれないですね。

川中:まだ、心の葛藤みたいなのが続いたんですね。

青木:そうなんです。娘が生まれたことでそれが明確になったというところはあるかもしれません。

自分のために始めた“親孝行”

青木さんが40歳のころ、大きな出来事が相次いで起こりました。60代の父が倒れ、数週間後に亡くなったのです。あまりにも突然の別れ。それは青木さんにある後悔を残しました。

画像(青木さやかさん)

青木:父と最後にしゃべったのがそこから数か月前でした。電話で娘の教育のことで口論になりまして、それに関しては時間がたてば解決するのかなと思ったら、次に会ったら病院のベッドで・・・。いくつも管がついてて、ほとんどしゃべれない状況だったので、「ごめんね」と言いましたけれども、聞こえてるのか聞こえてないのかわからないし、それは今でもとても後悔してますね。準備がまったくできていませんでした。父が亡くなると思っていませんでしたから。

さらに同じころ、母の悪性リンパ腫が発覚します。

青木:母もとても落ち込んで、どうしたらいいかわからないというような感じになっていましたし、私も変な感覚でしたよね。嫌いなんですけれども、心配は心配だと。嫌いなんだけれども、自分の一部がなくなるような感覚がある。かといって、やさしい言葉がかけられるかというと、そうでもない。

川中:そうなんだ。

青木:嫌いだというよりも、好きになれたらどれだけ楽だろうって。母が病気になっても好きになれない自分というのは人間的におかしいだろうなとも思いました。でも、どうしてもできない。病気になれば多少やさしくもできるけど、元気になってくるとまたできない。「もう何なの」という感じでしたね。自分を責めるということがとても大きかったかもしれません。

画像(川中美幸さんと青木さやかさん)

川中:そんな苦しい時代があったんですね。お母様はご病気なさって変わられましたか?

青木:実は、私は思春期から40歳ぐらいまでほとんど母を知らないんですよね。知らないというとちょっと大げさですけれど、向き合ったことがないから、20年ぐらいよくわからなかったという感じなんです。母が変わったかというと、まあ変わったのかもしれないですし、よくわからないというのが正直なところです。

そんな青木さんが、母と向き合うきっかけになった言葉があります。「親孝行は道理」。

青木:私は動物愛護活動のお手伝いをしてるんですけれども、そこの友人の男性が「青木さん、親孝行っていうのは道理なんだよ」って言ったんですね。「どんな親でも親は親なんだ。親孝行すると自分が楽になれるよ。生きづらさというのを解消できる」と。「それは私も頭ではわかってる。でもどうしても心がついていかないんだ」と言ったら、「いや、もう道理だよ」「やればいい」と。「すごくシンプルだ。やらなかったからできなかった。やればいいんだ」と言われて、決めました。自然に親を好きになれるかなと思っていた四十何年間だったけれど、無理だった。それなら、意識してやろうって決めたということですかね。

川中:親孝行は道理。考えたことなかったです。

青木:大変でした。川中さんみたいに「お母さんが大好き」みたいなこと、私は口が裂けても言ったことがなかったので(笑)。

川中:人それぞれいろんな親孝行の仕方があると思うんです。その人その人違いますからね。

青木:自分を見直したときに、このまま自分のいやなところを何となく見逃しながら生きていくのもつらいなあっていう思いもありました。人間関係がどうしてもうまくいかないのは、私にとっては母との関係が大きく作用してるんじゃないかなと思っていたので、チャレンジしてみることにしました。

少しずつ変わった母と子

青木さんの母親は抗がん剤の治療を繰り返して5年が過ぎ、2019年夏、名古屋のホスピスに入りました。しかし、青木さんとの関係はなかなか改善されないままでした。

「親孝行は道理。とにかくやる」

青木さんは仕事の合間をぬって週に1度、東京から片道5時間かけて車で通ったといいます。

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母の見舞いに病室を訪れた青木さやかさんと娘

青木:最初は娘を一緒に連れて行ってたんですね。娘が間にいるとすごく場がもつんですよ。しゃべってくれるし。

川中:つないでくれてるんですね、絆を。

青木:そうなんですよ。でも、これは私の解決だから娘を間に置いちゃいけないと思って、母のホスピスに最終的には一人で車で向かっていました。私はほんとあのときは偉かったと思う。

画像(川中美幸さんと青木さやかさん)

川中:お母様はどんなご様子でした? 毎週毎週、会いに行かれたときって。

青木:ホスピスに行くと、看護師さんたちが「お母さん待ってましたよ」って言うんですよ。小さなカレンダーに私が来る日に丸印をつけてるわけです。「あぁ、この人、私のことを待ってるんだわ」って思いましたね。

母と向き合うために青木さんが大事にしていたことがあります。それは「いい空気を作る」こと。

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青木さんが大事にしていた3つのポイント

青木:例えば孫に会わせることだとか、お金を渡すとか、旅行をプレゼントするとか、そういうことはしてきたんですよ。でも、いつも私は不機嫌だったんです。すごくいやな顔をしながら、その場にいたんです。でも、空気を変えようと。いい空間を、いい時間を渡してあげようと思ったんです。

その際に、青木さんのポイントとなったのが、この3つです。

①過去を忘れる

青木:過去をいったん横に置いておくようなイメージです。母と向き合うときに、たとえば私が謝ってもきっとこう言ってくるな、そう思うと、もういやだよとか、昔こういうことを言われた、こう言ったらきっとこうなるに違いないっていうのを、いったん忘れてみました。

②その日の“目標”を決める

青木:「よし、今日は謝ろう」、「よし、今日は手を握ろう」、「マッサージをしよう」とか、その日の目標さえ決めれば何となく場がもつんですよね。ミッションを課したという感じ。いったん目標を決めないと2人の空間がもたなくて、そうじゃないとちょっと行けなかったかもしれないですね。最終的にすごく難しかったのが、他愛もない会話をすること。それを一番やったことがなかったんですよね。

③演じる

青木:体が弱っている母、そして、今まで嫌いだった母に対して普通に入っていくと、こちらとしては、もうとんでもない精神状態なわけですよね。それはいけない、やっぱり元気でいよう、笑顔でいよう、この時間だけでも楽しい時間をプレゼントしようって。そのためには何か芯を持って、演じるという言葉になっていますけど、努めていたという感じで。

そのために、青木さんは母のホスピスに向かう車の中で練習をしたといいます。

青木:母のところに行くのは当時はすごくつらいミッションでしたから、音楽を聴いても耳に入ってこない。だから、「よし、今日はこれをしゃべってみよう」というのを、「今日ね、うちでね、娘が答案用紙持ってきて、何点だったんだよ」って、その声のトーンまでお稽古しながら行きましたね。

川中:トーンってありますよね。そう言えば私も意識して上げてました。

青木:車の中で暗いと、急に病院でトーンをバーッと上げるのって大変なんです。ギアをグワーッて入れるよりも、車の中からギアトップで行くみたいな感じで病院に向かっていました。

画像(川中美幸さん)

川中:その後、気持ちは変わりました?

青木:徐々に変わっていきました。この人との関係性を絶対によくするぞ、向こうに引っ張られないぞ、何を言われても私は絶対にこのトーンを守るぞと思っていると、向こうも変わってくるというのが不思議なもので。

川中:出方次第で相手も変わるってよく言いますもんね。

画像(青木さやかさん)

青木:思っていたようないやな言葉というか、過去の母だったらきっとこう返ってきたなという言葉はあまり返ってこなかったですね。「私はいい娘じゃなかったね、ごめんね」と話すと、母が「何言ってんの?さやかはすごくやさしい子だったでしょう」って言ったんですね。絶対そんなわけないんですけど、そう言ったんですね。

川中:どうですか、そういうことを言われたときのお気持ちは。

青木:うーん、私が母との別れをいい形で終わらせようと思って臨んだその時間を、母もまた同じようにいい時間で終わらせようとしてくれたのかなと思いました。私の思い込みかもしれませんが、そう思いました。

川中:きっとそうだと思いますよ。

青木:間違いなくいい娘じゃなかった部分は絶対に私にもあるので。ひどかったので、そこの部分だけは、謝れるところは謝りたいと思いましたね。私は「母は自分よりも弟のことを愛してる」と思っていたんですけれども、「あ、違うんだな。母は私のこともすごく大事に思ってるんだな」ということを感じられる数か月になりました。

母を思い出すと懐かしくなり、生きやすさにつながった

日を重ねるごとに、母と向き合える時間は増えていきました。季節が変わるころには、青木さんは、母の隣で一晩一緒に過ごすようになったといいます。

そんな日々を重ねて2019年10月。青木さんの母は息を引き取りました。舞台の稽古中だった青木さん。その知らせを静かな気持ちで受け止めたといいます。

青木:どんどん弱って覚悟もしていましたので、「ああ、亡くなったんだな」って。落胆するということもないし、動揺もないし。もう毎日、自分の中で全力を尽くしていたので、動揺しなかったのかな。

その後、母への気持ちに変化が生まれてきました。

画像(青木さやかさん)

青木:私は、娘と向き合っているときに母を自分の中に感じることが多くて、「これ、お母さんが言ってたな」とか、「お母さんの言い方に似てるな」と思うことが多いんですね。母が嫌いだったときは、自分の中に母を見るとすごくいやで、自分のこともいやだったんですけれども、亡くなってからは、不思議なんですが、自分の中に母を見ると懐かしさを覚えるようになったんです。「あ、お母さんこう言ってたな」ということが普通に感じられる。だから、自分のことが嫌いにならなくて済むっていう感覚です。だからもう、嫌いではなくなって、徐々に好きになってきた感じがします。

川中:今、お顔を見てても、「どこ見てんのよ」っていうギャグを言っていた青木さんとはぜんぜん違って、表情が柔和になって、驚きました。

青木:かつては母を思い出すのがつらかったですが、母を思い出すと懐かしく感じるようになったというのは、ものすごく生きやすさにつながってるなと思います。

画像(川中美幸さんと青木さやかさん)

青木さんは、母からもらった手紙をまだ読んでいないといいます。

青木:亡くなってから、弟が「これ、お姉ちゃんに」って、母が書いたからと言ってもらった手紙。最初はこんなに母のことを嫌いじゃなくなったのに、読んで、そこに私への評価が書いてあったらいやだなと思ったんですけど、母の反省が書いてあったらもっといやだなと思って。母の感謝が書いてあったら、私、ちょっと泣いちゃうなと思って。そのうちにみんなから「手紙どうしました?」と言われるから、何となく読めないという・・・。

川中:まだ読んでらっしゃらない。

青木:そうなんですよ。あのとき書いたものは今、読んでほしくないと母は思ってるんじゃないかとか、いろいろ考えちゃって読んでない。

画像(川中美幸さん)

川中:お子さんのころからいろんな戦いがあって、つらい思い、寂しい思い、いろんな思いがあっての今なんですよね。こうやって生きてらっしゃる。元気でいらっしゃる。お母様のことを「こういうことがあったんです」って話されてること、これがすごく親孝行だと思います。

青木:そうですかね。私は、川中さんみたいにもっと母と話したかったなって。最終的には解決につながってはいますけれども、もっと母が元気なうちに、母の話をもっともっと聞いてみたかったなというのは、後悔とまではいかないけれど、ありますね。

川中:私は母とすごく密だったし、関係が濃かったけれど、でも、私もまだまだ話したいこといっぱい今でもありますよ。ここまでというのはないですよね。

青木:そうなんですね。たしかに人と、家族と話しても、話し足りたからもう別れるということはないですもんね。

川中:ないですよね。親孝行もここまでというのはないですからね。

青木:「死んでもできる親孝行」という言葉を先輩から聞いて、親は亡くなったあとに子どもが親のことを思って反省して泣くことを望んでるんじゃなくて、毎日笑って、楽しく過ごしてる。それが死んでもできる親孝行なんだということをお聞きして、それはいいなと。全力で頑張って楽しんで人生を過ごすということをやっていこうと思っています。

画像(青木さやかさん)

最後に、同じように親子関係で悩んでいる方に伝えたいことを青木さんにお聞きしました。

青木:私は親がすごく大事だからやったということではなくて、自分のためにやったんです。自分の生きやすさのために。じゃあ果たしてどうなったかというと、楽になった。そういうケースがひとつあります、と。やってみても、いいですよね。お金もかかりませんし(笑)。

※この記事はハートネットTV 2021年7月13日放送「苦手な母と向き合って・・・ 青木さやか」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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