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社会保障ってなんだ 第2章 「国民皆保険」という壮大な事業

記事公開日:2021年04月14日

いま日本人は、ゼロ歳児から「健康(医療)保険」に加入し、生涯にわたり「保険証」を持ちます。蛇口をひねると水が出るように当たり前のことですが、かつて無保険者の大群がいる中で、「国民皆保険」を築き、維持し、発展させるのは極めて難しい作業でした。

無保険者3000万人から ~3人に1人が健康保険証を持てない時代~

「誰でも、いつでも、どこででも」
支払い能力に応じ保険料を納めると、重い負担なしに医療サービスを受けられます。

 この国民すべてが健康(医療)保険証を持つ「皆保険」体制は、1961(昭和36)年の4月から始まりました。今では禁句ですが、新聞各紙は「女中さんも小僧さんも」などの見出しで、全国民加入の意義を報じました。「骨折の場合はコルセットや副木(そえぎ)などをもらえ、入れ歯もしてもらえる」などと、解説を載せる紙面もありました。

 そんな初歩的な説明が必要なほど農林水産業者や商工業者らは「医療保障」と無縁でした。この頃、自営業者らの無保険者は2000万人、被用者(勤め人)保険に入れない零細事業所従業員らも1000万人と推定されました。

当時の総人口の3分の1が健康保険証を持てない時代とは、どんな状況だったのでしょうか。

 敗戦必至の1945(昭和20)年3月、若き日の若月俊一(としかず)は長野県・旧臼田町の院長と女医1人だけの佐久病院に赴任しました(現在は医師約200人の佐久総合病院)。青年医師をがく然とさせたのは、後に自ら命名した信州の農村部に広がる「潜在疾病」でした。症状がありながら耐える「がまん型」、診察も検査も受けない「気づかず型」に大別されました。当時の調査で、地域の病人のうち、医師に診てもらうのは3割程度、潜在疾病7割と伝えられます(同病院刊「若月俊一から何を学か」)。

 若月医師は「予防は治療にまさる」を掲げ、保健師らと地域をくまなく歩きました。住民自らが食事や衛生環境の改善、早期発見・早期治療に取り組む「長野モデル」と言われる地域医療を切り拓いていきます。その実践を「皆保険」体制が支え、後押ししました。

地域保険が基盤 ~職域保険と国民健康保険から成る国民皆保険~

 もともと日本の医療保険制度は、1927(昭和2)年施行の健康保険法から始まりました。職場の仲間で作る「職域(被用者)保険」が出発点でした。

 一方で、「地域保険」は、主に自営業対象のため仕事も収入もバラバラで、保険料の給与天引きもできません。その壁に阻まれながら1938年の国民健康保険法でやっと地域保険の実現への目途が付きました。ただし、戦時下で頑健な兵士を確保する「強兵」政策の一環でした。さらに組合方式・任意設立・任意加入の緩やか制度設計のため一部の地域での実施にとどまりました。戦後は、組合ではなく市町村運営にされましたが、任意設立のままで、特に保険料徴収が難しい大都市部での設立は遅遅として進みませんでした。

 この長く、大きな「空白」を埋めるため日本的な知恵と工夫で「皆保険」の枠組みが設計されます。1956年、鳩山一郎首相は「全国民を包含する総合的な医療保障の実現」を施政方針で宣言しました。次いで石橋湛山内閣は翌年度から市町村の国民健康保険(市町村国保)の普及を促す4カ年計画に着手しました。そのうえで、すべての市町村に新たな「国民健康保険」という地域保険の設立が義務付けられ、国民は自分の住む市町村国保へ強制加入が原則にされました。ただし、勤め人と家族は職域(被用者)保険に加入してもよい(適用除外)、という棲み分けでした。

 既存の大企業従業員らの健保組合、中小企業従業員らの政府管掌(かんしょう)健康保険(現在の全国健康保険協会、通称「協会けんぽ」)、公務員らの共済組合を温存しながら、各地で育ちつつあった地域保険を列島の隅々まで広げたのです。

 いわば市町村国保は大地のような位置づけで、職域保険は、その上に並び立つビル群の形です。勤め人は、定年退職やリストラ・倒産時には通常はビルから出て、自分の住む市町村国保へ移ります。農家などの自営業者が勤め人になると、逆にビル群へ入る格好になります。

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国民皆保険の枠組み

 日本が戦前から医療保障のモデルとしたドイツでは、各種の疾病(しっぺい)金庫(公的な組合)が医療保険を運営し、今も高級官僚や高額所得者は民間の医療保険への加入を認められます。
 日本では独特の市町村国保という地域保険を基盤に、完全な皆保険体制を築きました(保険料の支払い能力がない生活保護世帯は除外され、公費による医療扶助を受けます)。この枠組みは発足から60年余の現在も基本的には変わりません。発足時と異なるのは、2008年度に75歳以上の全員が加入する独立型の後期高齢者医療制度が創設され、国保の加入者が75歳未満までは運営も市町村と都道府県が共同で担うようになったことです。

 当初の市町村国保の給付率は5割にすぎませんでした。つまり医療費が1000円なら窓口負担(一部負担金)は5割の500円も払う、保険制度としては不十分な内容にすぎません。さらに大難問は、全国的に病院や診療所が絶対的に不足していたことです。

 誰でも、いつでも、どこででも、健康保険証を手に医療サービスを受けられる、今では当たり前の枠組み・仕組みを育てるのは「壮大な事業」だったのです。

3K赤字の健康保険 ~国民皆保険の普及によって急増した医療費~

 「国民皆保険」が1961(昭和36)年度から始まる前、すでに日本医師会を率いていた武見太郎会長は、こう警告しました。

「今の医療制度で皆保険をやるのは、軽便鉄道のレールを全国に広げ、そこに特急列車を走らせるようなものだ」(「実録・日本医師会」)

 医療機関の状況を、貨物を運ぶ程度の粗末な鉄道にたとえ、高速の大量輸送列車を走らせると、脱線・転覆してしまう、と言うのです。25年間も会長に君臨し、医師のストライキ(保険診療の拒否)までやって「ケンカ太郎」と呼ばれた大物医師の診断でした。

 確かに、皆保険によって市町村運営の国民健康保険(市町村国保)は当時の3670市町村全域に広がり、加入者は約4900万人に膨れあがりました。一方、地域の中心部から半径4㎞以内、人口300人以上で診療所もない「無医地区」が全国1489を数えました(1960年度)。保険証は手にしたものの、「おらが村には医者がいない」「うちの町には病院がない」との嘆きや怒りが各地で聞かれました

 しかし、国民全員が保険証を持つことは、医療機関の確実な収入源になります。国民の所得も、1964年の「東京オリンピック」開催へ向かう高度経済成長で着実に増えました。
 当時の統計では、1955年末~65年末の10年間で、病院は年間ざっと平均200か所、診療所は同1300か所ずつ増え続けました。公的な医療保険と医療供給体制とは二人三脚で普及していきます。それは、近年も「介護保険」創設と介護サービスの飛躍的な拡充で再現されています。

 当然ながら医療費は急増します。
 医療技術・医薬品の高度化、薬づけ・検査づけの傾向、保険給付率の改善(市町村国保で62年10月、世帯主7割・窓口負担3割、65年から段階的に世帯員も同様)、やがて迎える高齢化などによる複合的な医療費の膨張です。

 すでに死語に近い呼び方ですが、「健保」に加え「国鉄」(民営化前の国有鉄道)、「米」(国が米を買い上げた食糧管理制度)は国の財政上の大きな問題となったため、ローマ字読みの最初は「K」をとって「3K赤字」と呼ばれました。
 保険料率の引き上げ、大幅な公費補助の投入、診療報酬の抑制、職域(被用者)保険の給付率引き下げ(つまり窓口負担の引き上げ)などと対策も複合的に繰り返されました。

制度疲労を起こす国民皆保険(1) ~市町村国保の変貌~

 画期的な制度・サービスも、時代の変遷につれ、制度疲労や不適応を引き起こします。その代表が、皆保険の基盤である「市町村国保の変貌」と「病院頼み」の体制です。

 時代を一気に近づけると、市町村国保の加入者の職業別構成は、皆保険から半世紀で劇的に変わりました。
 発足間もない1965(昭和40)年、加入者総数に占める農林水産業者は38.9%、商工業者らは23.5%を占めました。それが2018(平成30)年には何と2.3%と15.8%まで落ち込みます(2008年度に国保加入の75歳以上は全員が新設の後期高齢者医療制度へ移り、国保は75歳未満の保険に変わった。そのため単純な比較はできないが、旧制度なら農業者や商工業者らの割合はさらに低い。いずれも国保実態報告書から引用)。

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世帯主の国民健康保険(国保)加入者の職業別割合の変遷(国保実態報告書から引用)

 この激変は、農林水産業と零細な商工業の衰退、高齢化に伴う年金生活者(無職)の急増、正社員数を抑える企業運営が生み出す非正規労働者の大量出現等を反映しています。それらが、市町村国保に高齢化・低所得化・疾病多発の三重苦を引き起こします。

 同時に、市町村合併もあって国保は1700余に集約され、加入者総数は発足時の約4900万人から約3,100万人に激減、特に地方の過疎化に伴い加入者3000人未満の市町村国保が全体の3割強に達しました(2018年9月時点)。零細な保険集団は、たとえばインフルエンザの流行で医療費がかさむと、すぐ赤字に陥るように「リスク分散」が困難になります。

制度疲労を起こす国民皆保険(2) ~日本独自の「病院頼み」体制~

 もうひとつ、医療機関の整備・拡充も日本独自の道を歩みました。欧州主要国では自治体やキリスト教会によって公的な病院が建設されましたが、日本では病院も診療所も「自由開業制」のもと、大半は民間の力で整えられました。そのため政府や行政が病院数やその配置、ベッド数や治療内容に対して強制的な規制を行うのは極めて難しいのです。

 しかも、患者が自由に医療機関を選べる「フリーアクセス」が当初から認められました。欧米の病院は原則的に入院専門ですが、日本では外来(通院)の患者も受け付けます。欧州主要国のように自分の「家庭医」(かかりつけ医)を定め、まず受診したうえ必要なら病院を推薦してもらう制度もありません。必然的に大病院志向が強まっていきます。

 日本の医療の特徴は「多い・長い・少ない」と言われるのも、この病院頼みの体制から生じます。
 日本では人口1,000人当たり病床数13.1床で、フランスの2倍以上、イギリスやアメリカの5倍前後の多さです。しかも、平均入院期間は飛び抜けて長く、そのため病床当たりの医師数や看護師数は比較にならないほど手薄になり、さらに外来患者も引き受けています(OECD2017年調べ)。
 2000年1月からのコロナ禍で、先進国の中では人口当たりの感染者数が桁違いに少ないにも関わらず、日本の病床は逼迫しています。その一因は、この病床当たりの医療職の絶対不足にあります。

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病院医療の主要国比較の表(OECD調べ・2017年)

 病院頼みの象徴は、1977年には早くも病院での看取り数が「自宅死」数を超えたことでしょう。いまや総死亡数の72%が「病院死」です(2018年、厚労省統計)。超高齢社会は大量死の時代を意味し、自宅や福祉施設での療養・看取りの拡充が望まれます。

 「国民皆保険」体制の再構築へ向け、まず医療費が集中する75歳以上の全員を新設の「後期高齢者医療制度」に移し、医療費の分担が明確化されました(総費用を75歳以上が払う保険料で1割、公費5割、全保険制度からの仕送りにあたる支援金4割で分担される)。次いで2018年度から国保は、その財政に都道府県が責任を持つため長年の市町村運営から都道府県との共同運営に切り替えられました
 一方、過度の病院頼みを是正するため、「かかりつけ医」を軸に在宅医療・在宅介護の大事さが提唱され、医療・介護・生活支援・住宅確保の連携・一元化を目指し、地域ぐるみの支え合いと言える「地域包括ケアシステム」づくりが推進されています

医療サービスの特性(1) ~健康と命のために求めざるを得ない~

 医療サービスは、他の商品・サービスとは異なる特性を持っています。

 まず、健康と命を守るために求めざるを得ないサービスであること(強制的消費)。2つ目は、病気や負傷が治るまで期間・費用を予測しにくいこと(予測困難性)。3つ目は、医師らが圧倒的な知識を持ち、患者・家族は知識に乏しいこと(情報の非対称性)です。

 米やパンは買わざるを得ませんが、値段や品質は分かります。教育や習い事はゴールがないに等しいサービスですが、個々人の判断で止められます。美術品、骨董品の値打ちは見極めにくいものの、買うかどうかは自由です。

 3つの特性がそろうのは医療だけではないでしょうか。その特性に応じ「国民皆保険」は補強を重ねてきたのです(下図参照)。

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医療サービスの特性と制度設計(国民皆保険、高額療養費支給制度、混合医療の禁止など)の関係図

 たとえば、日本人は生涯にどれぐらい医療費を使うのでしょうか。
 丈夫な人も病弱な人もいますが、男女平均2,724万円(厚労省推計、2017年度)に上ります。そんな高額な「強制的消費」に耐えられる人は少ないので、みんなが支払い能力に応じ毎月保険料を納め、病気やケガに備えているのです。
 もうひとつ注意すべきは、生涯医療費の半分は70歳以降で使うことです。高齢期に集中する医療ニーズとその費用をどう負担するのか。試行錯誤を続け、2008年度からは75歳以上対象の「後期高齢者医療制度」を創設し対処しています(総費用を保険料1割、公費5割、全保険制度からの支援金4割で分担される)。

医療サービスの特性(2) ~必要な期間・費用を予測しにくい~

 次いで「予測困難性」にどう備えるのか。貯金等の自助努力は必要ですが、限界はあります。しかも、大手術や画期的な新薬は予想外の医療費がかかります。

 日本で史上最高額の医療費はいったい幾らかかったのか。
 血友病患者の治療に月額1億7464万円かかった例があります(2019年度、国保中央会特別審査委員会)。出血が止まらない難病で、血液を固める1アンプル40~65万円もの注射を打ち続けるほかなかったからです。もちろん全額が保険対象にされ、後述する「長期高額疾病者」として原則月1万円の自己負担で済みます。

 社会保障制度の多くは最低限度を保障する「ナショナル・ミニマム」(National Minimum)を原則にします。しかし、月額100万円までは保険対象、それ以上は自己負担などとされると、命や健康は「お金次第」に陥ります。そのため先進国の多くは「オプティマム(Optimum、最適)の保障」を目指してきたのです。

 何百万円もの医療費に3割の自己負担(窓口負担)を払うなら、普通の家計は破綻(はたん)してしまいます。そこで年齢や所得に応じ一定の限度額を定め、それを超える医療費を返還(保険給付)する「高額療養費制度」が設けられました

 たとえば、70歳未満で一般的な所得層(標準報酬月額28~50万円)は、月額100万円の医療費がかかっても、3割負担の30万円ではなく9万円弱で済みます。70歳以上で一般的な所得層(健保で標準報酬月額26万円以下、国保で課税所得145万円未満)は1割負担ですが、医療費がいくらかかっても外来のみは上限月1万8,000円(個人)、外来・入院は計月5万7,600円(世帯全員の計)までの負担で済みます。

 この制度は、医療が高度化する中で1975(昭和50)10月から全面実施されました(健保組合等は73年から先行実施)。それ以前はどうだったのでしょうか。

 腎不全患者にとって「人工透析(とうせき)」の開発・改良は”救いの神”で、1967(昭和42)年、医療保険の適用対象にされました。しかし、自己負担は当時で毎月20~30万円に上りました。

 医事評論の先駆者・川上武医師は大著「戦後日本病人史」にこう記しました。

『「金の切れ目が命の切れ目」で、経済的事情により透析を中止する悲惨な例も見られた。また、機器も不足していたため、透析機の順番待ちとなった患者は「他人の死」を待つ以外なかった。』

 高額療養費制度が多数の命を救い、透析装置や携帯型腹膜(ふくまく)の普及をもたらしました。現在は、長期的に高い治療費が必要な人工透析、血友病、血液製剤汚染によるHIV感染に限って原則月1万円の自己負担で済みます。

医療サービスの特性(3) ~利用者より提供者の知識が圧倒的に高い~

 3番目の「情報の非対称性」をどう防ぐのか。インフォームド・コンセント(十分な説明と同意)やカルテ開示等に加え、「混合診療の禁止」も対策の一つです。一連の医療行為で、保険対象と保険対象外(全額自己負担)を組み合わせて提供してはならない、という規制です。保険対象外の薬や手術を選ぶと、他の入院費等も含め全額負担にされ、不合理にも思えます。

 しかし、「欧米で開発された手術ですよ」と勧められても、患者側は判断に迷います。その有効性と安全性を専門家が検証して保険対象にするまで待ってもらう必要があります。保険対象外の新薬や新手術は一般的に極めて高価で、低所得者は手が出ません。“医療もお金次第”に陥らないように保険対象の拡大を図るためでもあります。さらに、医療保険給付は現金ではなくサービスのため、検査・入院・投薬・手術・副作用防止等のどこで保険の対象と対象外を区切るか、現実には至難の業(わざ)になります。
 ただし、有効性・安全性が見込めそうな場合は保険対象と組み合わせ可能な「保険外併用療養費・評価療養」として認められます。快適さを求め入院時に個室を選んだり、特殊な入れ歯を求めたりする場合も「同・選定療養」で混合診療禁止の適用外にされます。

 「皆保険」体制は、単純に誰もが健康保険証を持つだけではなく、さまざまな仕組みや規制を加え、いわば「岩盤」の上に成り立ちます。規制緩和の大波に乗って「岩盤規制の打破」が叫ばれますが、守るべき岩盤と砕くべき岩盤をよく見分けることが大事なのです。

執筆:宮武 剛
毎日新聞・論説副委員長から埼玉県立大学教授、目白大学大学院教授を経て学校法人「日本リハビリテーション学舎」理事長。社会保障を専門に30年以上、国内外の医療・介護・福祉の現場を取材してきた。

社会保障ってなんだ
第1章 最後のセーフティネット「生活保護」
第2章 「国民皆保険」という壮大な事業 ←今回の記事
第3章 最も新しい社会保険「介護保険」
第4章 人生100年時代の支え「年金制度」
第5章 「雇用保険」と「労災保険」
第6章 子育て支援と少子化

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