原発事故による避難指示が一部解除された福島県双葉郡。しかし、故郷に帰った障害者は震災前の3分の1ほどです。故郷に帰っても、避難先に残っても続く苦悩。東日本大震災から10年、「帰りたい」と「帰れない」のはざまで障害のある人たちはゆらぎ続けてきました。答えのない問いを抱えながら原発被災地に生きる人々を見つめます。
原発事故後、避難を余儀なくされた人たちが数多く入居している福島県いわき市の公営住宅です。坂本文彦さん(60)は10年前の原発事故で故郷を追われ、6年前からここに暮らしています。
文彦さんは18歳のころから統合失調症を抱え、人と話すのが苦手です。駐車場で行われる朝のラジオ体操が終わるとすぐさま部屋の中へ。文彦さんの1日は、スケジュールを確認することから始まります。
「これ僕の仕事(執筆)。休む、日光浴、ヘルパーさん、ストレッチね。これが明日のスケジュール・・・」(文彦さん)
英語で書かれた文彦さんのスケジュール
確認を怠ると不安に襲われます。統合失調症の症状の一つだといいます。
週に6日、1日1時間、ヘルパーがやってきます。食事や洗濯、買い物などをしてもらっています。
文彦さんは1日の大半を、フランス語で詩を書いて過ごしています。
ここ異郷の地では
砂嵐が僕の魂に起こり
哀しい音楽が聞こえ
遥か彼方の故郷の地は
どうなったか知る由もなく
(文彦さんの詩)
「日本語は重荷なんです。フランス語、楽しいの。特技かわかんないけどさ。フランス語好きなんです。作家になることが昔からの念願でした。小学校の文集にさ、将来の夢は作家になりたいって書きましたよ」(文彦さん)
文彦さんは、福島第一原発からほど近い双葉郡富岡町で育ちました。大学進学を機に上京するとまもなく、統合失調症を発症。幻覚や幻聴に悩まされ、人間関係でもトラブルが続きました。
文彦さんは大学を中退し、故郷へ戻りました。両親は、そんな息子を温かく迎え、石鹸づくりなどの仕事を見つけてきました。
文彦さんと両親の写真
「病気でも(仕事に)行かせてくれた。いい人だった。普通、病気になったら行かせてくれないよね。いい人だったんだな。やさしかった。毎日おやじとおふくろのこと思い出す」(文彦さん)
震災後も、文彦さんを支え続けてきた両親。1年半前、相次いで亡くなりました。
哀しい音楽を聴く僕等の胸に
よみがえる光景は、
故郷の光景であり
僕等の故郷はどうなったかと問う
(文彦さんの詩)
4年前、避難指示の解除が始まった双葉郡富岡町。しかし、町に住む人の数は震災前の1割です。
文彦さんがかつて通っていた病院は閉鎖されたままで、医療や福祉サービスも十分ではありません。道には、除染作業のトラックが行き交っています。
避難先にとどまる人もいれば、故郷へ帰る人もいます。
富岡町の南に位置する楢葉町。木村穣次さん(61)は5年前、避難指示が解除されるとすぐ、この町に戻りました。
震災前は、楢葉町のグループホームで共同生活をしていました。今は、公営住宅で一人暮らしです。穣次さんもまた、東京の大学へ進学したのを機に、統合失調症を発症。今も絶えず幻聴が続いています。
「自動車とか通りますよね。その音に混ざって人の声が聞こえたり、あるいは空、上の方から聞こえたり」(穣次さん)
幻聴がとくにひどくなった時期があります。10年前の東日本大震災直後のことです。当時、体育館やグループホームを転々と避難し、大人数での暮らしを強いられました。慣れない環境、知らない人たちとの生活。ストレスが募っていきました。
自分の存在を否定するような言葉が、頭の中で鳴り響きました。
「バカと言ったり、たいしたことないくせにと言ったり。魅力ないくせにとか言ったり。そういう人を貶める言葉なんですよ。自分をバカにしている言葉がいっぱいありまして。正体はサタンだと思うんですけどね」(穣次さん)
これ以上、避難先での生活は続けられない。穣次さんは、故郷での一人暮らしを願うようになりました。
「僕は一人でいたかったんでしょうね。でもそれが人の世界に引き出されて、それはあまり自分の本当の姿じゃなかったと。そして自分は何のために生きているのか、そう思ったんですよ」(穣次さん)
震災から4年後、ようやく楢葉町の帰還が始まりました。しかし、当時、医療や福祉サービスはほとんどありませんでした。
そんなとき、穣次さんの一人暮らしを支えたいと名乗り出た人がいました。ヘルパーの古市貴之さん(44)です。
古市さんは、買い物や外出の手伝いをはじめ、困ったことはなんでも相談に乗ります。一人暮らしを希望する障害者のための、双葉郡で唯一のヘルパー事業所を運営しています。
震災前は、楢葉町の障害者施設で働いていた古市さん。原発事故が起こると、避難を迫られた利用者のために、「一刻も早く、暮らしを落ち着かせてあげたい」と受け入れ先の確保に奔走しました。
ところが、思わぬ事態が起こりました。受け入れ先で、体調を崩して亡くなったり、自ら死を選ぶ人が相次いだりしたのです。よかれと思ってやっていたことが、現実には、利用者たちを追い詰めていたのです。
「そんなに考えていなかったっていうことでしょうね。決めつけてた。この人こう思ってるに違いない、選択肢二つ用意しとけばどちらか選んでくれるだろう、納得してくれるだろうと。本当にこの二つで足りるかな? 喜んでくれるかな?というところまで想像できる自分がいなかった。施設に入るの?グループホームに入るの? どっち? ではなくて、一人暮らしもあるよ、シェアハウスもあるよ、そういうグレーな部分も、ゆらぐ部分も、責められない安心感が福島には必要な気がして」(古市さん)
いまなお、支援するサービスも人手も足りない双葉郡。だからこそ、ゆらぎ続ける余白を残してあげたい。
「今日、サタンの声は聞こえてないのかなとか、いつもと違うなとか。その人の気持ちをどう感じ取るか、こちらが想像してあげないといけないと思うんですよね」(古市さん)
古市さんに支えられ、一人暮らしを始めて5年。最近、穣次さんの幻聴に変化が表れています。
「悪いこと言われても感じない。いい気分のときはね」(穣次さん)
この日、古市さんと穣次さんは、50キロ離れたいわきに向かっていました。訪ねるのは、フランス語で詩をつづる文彦さんです。
震災前、古市さんの働いていた施設で知り合った3人。ともに口数の少ない文彦さんと穣次さんはウマが合いました。毎月のように外食やカラオケを楽しんでいました。
古市さんと一緒に鍋を囲む文彦さんと穣次さん
穣次:楽しかったな。
古市:震災前? みんなで集まってワイワイやったのは覚えてますね、楽しいのはね。
古市さんは、両親が亡くなり、一人きりになった文彦さんを心配していました。
古市:いわきに長く住んでるけど、富岡に帰りたいことは?
文彦:はっきり言って、ないな。富岡帰りたくないな。
古市:富岡よりこっちがいい理由ってありますか?
文彦:はっきりいっていろいろあるからですね。神経痛で歩けなくて。
古市:富岡に比べたらね、病院もたくさんあるしね、いわきはね。便利といえば便利ですけどね。
文彦:ここがいいですね。
古市:これからコロナが収まるまでずっと鍋しますか。
文彦:ここで? いいですよ。大歓迎だ。皆さん来てくださいね。
故郷に帰ることを選んだ穣次さん。時々、思い出すことがあります。
それは震災前に入っていた町の将棋クラブのこと。地域のお祭りで、子どもたちに将棋を教えたこともありました。
「楽しかったですね。変なおじさんが来て将棋やってるなっていう感覚だったと思います。子どもたちはおかしな人だなと思ったでしょうね。それでも遊びに来てやってくれました」(穣次さん)
一人で将棋盤に向かう穣次さん
今は一人、将棋盤に向かいます。
「今も仲間と一緒にやりたいですよ。でも帰ってこないし、できないですよね」(穣次さん)
2月中旬。古市さんが、再びいわきの文彦さんを訪ねていました。
文彦さんと古市さん
古市:お墓参りに行きたいって話、聞いてたから。
文彦:行けます。多分行けると思います。
両親の死後、文彦さんはまだ一度も墓参りに行けずにいました。
文彦:おやじとおふくろ、喜ぶよ。
古市:お墓参り初めてですもんね。
車でおよそ1時間。故郷の地、富岡。
「富岡に来たんだな。懐かしい故郷だな。懐かしいところだ。はっきり言って、今住んでいるところは異郷の地だな。震災、起こってさ。やっぱり富岡帰りたいよ、僕だって」(文彦さん)
墓参り中の文彦さん
朝6時。双葉郡を通る県道に今日も長い車の列ができます。行き先は、廃炉作業が進む福島第一原発。
故郷への思いはゆらぎ続けて、今も、なお。福島はあの日から、10回目の早春を迎えます。
【特集】東日本大震災10年
(1)逃げられなかった“要支援者”
(2)誰もが助かる地域をめざして
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※この記事はハートネットTV 2021年3月10日放送「シリーズ東日本大震災10年3 原発被災地 精神障害者の日々」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。