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私を変えたパラスポーツ
~陸上競技・佐々木真菜選手 ボート競技・有安諒平選手~

記事公開日:2021年02月10日

パラスポーツの選手たちは今、新型コロナウイルスの感染拡大による大会の延期、練習環境の制限など、厳しい状況の中で練習に励んでいます。延期された東京パラリンピックの開催まであと半年余り。まだコロナ感染が続いてはいますが、障害のある人がスポーツに取り組む意義やスポーツが与えてくれる力について、パラリンピック初出場を目指す視覚障害のある2人のアスリート、陸上競技の佐々木真菜選手とボート競技の有安諒平選手に、中野淳アナウンサーがインタビューしました。

障害のない選手との練習で成長

陸上競技女子400メートルの佐々木真菜選手は福島県福島市生まれの23歳、現在の視覚支援学校を卒業後、地元の銀行に入社。その銀行には日本代表選手も輩出している強豪の陸上競技部があり、障害のないトップ選手たちと一緒に練習しながら実力を磨いています。2019年のパラ陸上の世界選手権で4位に入賞。東京パラリンピックの日本代表に内定しています。

中野:新型コロナの感染拡大続いていますが、今はどのようにして練習しているんでしょうか?

佐々木:練習拠点でのグラウンドでの練習はできていないんですけれども、県の陸上競技場などお借りして、練習をしています。

中野:佐々木選手は、生まれたときから目に入る光の量を調節できない、無虹彩症とのことですが、見え方というのは、どんな感じなんですか?

佐々木:無虹彩症というのは、光の調節ができないために部屋の光もまぶしく感じてしまう病気なんですけれども、屋外にいると太陽の光がすごくまぶしく感じてしまって、陸上競技場だとトラックに引いてある白い線が見えにくかったり、曇りガラスを見ているようにぼやけて見えてしまっているという状態です。

中野:佐々木選手の種目というのは、トラックをちょうど1周する400メートルです。白線で区切られたレーンを走るんですが、見えにくい中、白線を踏まないように、どういう感覚で走ってらっしゃるんですか?

佐々木:私は高校2年から400メートルを走っているんですが、高校生のときには、白線にとらわれすぎて、「踏まないようにしなくちゃ」という感じで走っていたんです。
でも今は、「このレーンだったら、この角度で入れば、線を踏まない」っていうのを感覚として身につけているので、走りだけに集中をして走れます。

中野:そこに来るまでは相当な積み重ねがあったと思うんですが、佐々木選手は小学5年生のときに陸上競技に打ち込み始めて、盲学校卒業後の2016年にトップレベルのアスリートや指導者がいる強豪の陸上競技部に入りました。
実業団のチームで、本格的に競技に取り組むというのは覚悟がいると思うんですけれども、どうしてこのチームに入ろうと思ったんですか?

佐々木:高校時代は一人で練習をしていたのもあって、なかなか記録が伸びずに困っていました。でもパラリンピックとか、上の大会を目指すにあたっては、どんなことでも挑戦していかなければならないと思ったので、パラのトップレベルの選手も健常者のトップレベルの選手たちと同じように速く走っているので、私もそこに行かなくてはならないなと思っていました。
だから「私には無理だな」とか、そういうことは考えずに、もっともっと前向きに、しっかり先輩たちに食らいつく強い選手になりたいと思って、陸上部に入りました。

中野:実際に入ってみて、トップレベルの選手たちと一緒に走り始めて、最初はどうでしたか?

佐々木:入部した当時は、一緒のメニューをやっていても、まだまだスピードも持久力もないので、全く別の練習をしているみたいに先輩方と距離が開いてしまいました。それに走り方も全く違い、私はまだまだだなと痛感させられました。でも、少しずつ歳を重ねて、スピードや持久力をつけていって、今は少しずつ先輩たちとの距離は縮まってきています。やはり健常者のトップレベルの選手たちと練習することで、どんどん、レベルが上がっていけてるのかなと思います。一人ではできなかったことです。

チームメイトのけん引役

中野:実は、佐々木選手がチームでどんな存在なのか、コーチの天下谷真弓(あまがや・まゆみ)さんにお話をうかがっています。

天下谷:佐々木は入ってきたとき、こちらから見ると、アスリートというよりも、一般的な選手っていうところでした。そこから本当に彼女の努力で、着実に成長していって、逆に今は佐々木から刺激を受けている選手っていうのはたくさんいるんじゃないかなっていうふうに感じています。
佐々木が入ってきたばかりのときは、同じような「用意ドン」で練習を始めて、スタートするんですけれども、差がありすぎて、同じ練習をしているような感じじゃないときもあったんですね。
そのときタイム差がすごくあったものが、1年、2年と追うごとに、彼女が着実に力をつけていって、本当に今は同じようなペースで走ったりできるようになってきたので、そこについては、彼女の取組だったり、モチベーションの高さっていうことにチーム全体が非常に刺激を受けています。
あと、佐々木は、本当に練習に取り組む姿勢がストイックなので、きつい練習のときも弱音を吐かないんですね。
なので、そういうふうに取り組んでる様子を見ると、きつい練習で弱音を吐きそうなチームメイトも、「私も」みたいな感じで、頑張るとか、「私ももうちょっとウエイト上げよう」とかっていうような影響をたくさん与えているのをよく目にしますね。

中野:佐々木さん、コーチの言葉、いかがですか?

佐々木:私は小学生の頃はすごいネガティブで、「私にはこれは無理だ」とすぐ考えてしまう子だったんです。けれども、陸上競技に出会って、競技を始めてから、そういうものが本当に少なくなったなっていう感じはあります。
そして、前向きになったことで、周りがモチベーションを少しでも高く保てるようになったりとか、逆に私は先輩方の背中を追ってきて、絶対に食らいつくぞっていう気持ちを持ってやっていたので、そういうところでみんなにいい影響を与えることができているのではないかなと思っています。

中野:障害のあるなしにかかわらず一緒に練習する環境は、自分をどう変えてくれていますか?

佐々木:私は高校まで、なかなか健常者の選手と走ることはできないと思っていたので、実際に自分が先輩方、トップップレベルの選手たちと走れるっていうことがすごく幸せなことだなと思います。先輩方もオリンピックを目指していて、私はパラリンピックを目指していて、同じ世界を目指しているので、共感をたくさん感じています。

東日本大震災もコロナも乗り越える

中野:非常に相乗効果が生まれているチームだなという印象を受けました。そうした中で、佐々木選手はめきめきと力をつけまして、2019年の世界選手権で、東京パラリンピックの代表に内定しました。しかしその後、皆さんご存知のとおり、コロナによって、パラリンピックは延期されました。
佐々木さん、走れない状況も続いたと思うんですけれども、思うように練習できない環境といいますと、佐々木さんは福島の出身で、東日本大震災も経験されています。当時も走れない時期というのはありましたよね?

佐々木:はい。福島第1原発事故の影響もあり、外での練習はほとんどできなくて、体育館の中にあるランニングマシンを使っての練習がほとんどでした。外でできなくても、中でできることを見つけたり、あとは自分に足りないところをどうやったらなくせるかを考えてやってきた部分もあったので、震災とコロナはつながっているのかなと感じています。やはりどんなときでも、地道にやっていくことって、すごく大事なんだなと感じました。

中野:震災、そしてコロナと向き合いながら、ここまで来ました。佐々木さん、これから、どんなアスリートを目指していきたいというふうに思っていますか?

佐々木:私は福島が出身で、小さい頃から成長を見守ってくださっている方や、応援してくださってる方がいて、そしてパラアスリートとして競技をしている今でも見守ってくださっている方たちがたくさんいます。そして私は中学から陸上競技をやって、大会などで県内各地回ったりしているので、福島のたくさんの方に本当に感謝をしています。まずはその縁を大切に競技をしていきたいなと感じています。

中野:今、パラアスリートにも注目が集まっていますけれども、障害のあるアスリートを取り巻く環境がこう変わっていってほしいなっていう思いはありますか?

佐々木:少しずつパラアスリートの認知度っていうのは高くなってきているんですけれども、パラの競技もいろいろあるので、陸上競技以外にも盛り上がっている競技もたくさんあります。障害がある、なしにかかわらず、たくさんの競技を見て、興味を持ってもらえたらなと思っています。

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室内でトレーニングに励む有安選手

障害の違う選手が一体になるボート競技

続いては、ボート競技でパラリンピックを目指す有安諒平選手(34)です。パラリンピックのボート競技には、視覚障害のある選手と、腕や足に障害のある選手、合わせて4人が、一つのボートに乗って、一緒に漕ぐ種目があります。障害が異なるだけではなく、男女2人ずつ。障害も性別も混ざり合って行う、多様性の象徴のような種目です。そんなチームの中心的な存在が弱視の有安選手です。

中野:有安さん、ボート競技のおもしろさはどこにあるんですか?

有安:いろんな特性を持ってる選手たちが、力を合わせて、ひとつのパフォーマンスを出していくといころが、多様であるがゆえにとても難しい部分でもあるんですが、その複雑さが競技としておもしろさにもつながってるなというふうに思ってます。

中野:大会では2千メートルの直線コースを7分から8分間、4人で漕ぎ続けるんですよね。4人の息が合わないと、推進力になかなかつながらないわけですが、どうやって息を合わせようとしてるんですか?

有安:ボート競技は、いかにシンクロして、どれだけ同じ動きをして、同じ出力をして、4人が息を合わせられるかが推進力につながるという特徴があります。シンプルに言ってしまえば、同じ身長、同じ出力、同じ性別、同じような体格、同じようなパワーの人が、同じように漕げば、全く一緒になってくるので、それが最速になるのが通常のボート競技です。
でもパラに関しては、性別がバラバラですし、障害もバラバラですので、それぞれ漕ぎ方も、実際に動ける形もバラバラです。なので、そのバラバラなメンバーの特性をどういうふうに組み合わせて、どのようにタイミングを合わせていくかっていうのをそれぞれ相談しながら、よくコミュニケーションを取って、また道具を工夫したりしながら、一体感を高めていくというところが、力につながっていきます。

中野:有安さんは弱視ですから、ぼやけて見える感じですか?

有安:そうですね。目の前にいる人の姿は、なんとなく把握はしておりますけども、コースの状況ですとか、隣で走っている相手の選手とかの様子は全くわからないような感じですね。

中野:そういった中で、ほかの障害の違う選手と一緒に動きを察知してやらなければならないっていうことですよね。

有安:そうですね。やっぱりそこでは、音っていうのは重要になってきますし、あとは加速度ですね。ボートが加速する感覚っていうのが、4人がそろってくると、いいタイミングでぐっと一気に伸びるんですけども、少しでもタイミングがずれてくると、全員の力の入ってくるポイントがずれてくるので、ちょっと左右のバランスが崩れてしまったり、いろんな現象が起こるんです。ボートの挙動から、全員のタイミングがどうなっているかっていうところを感じながら、また見えている選手に言葉でフォローしてもらったりもしながら、合わせていくっていう感じですね。

目指すは信頼し合えるチーム作り

中野:実はですね、有安さん、きょう、チームメイトの八尾陽夏選手にお話を聞いてるんです。八尾選手は右半身にまひがあって、左手を主に使ってオールを漕ぐ選手です。有安選手がどんな存在なのか語ってくれました。

八尾:有安さんはチームリーダーとして、一番、ストロークを漕いでくださってるんですけど、船を降りても一人ずつに話を聞いて、向き合って、一緒に悩んでくれるっていうところが、練習には厳しいけど、あったかい人だと思います。
みんな障害が違うっていうのもあって、感覚がそれぞれ違うので、なかなかわかってくれないときもあって、それを有安さんはリハビリの資格も持っているので、みんなにわかるように説明してくれたりします。頼りになる選手だと思ってます。

有安:ちょっとびっくりしましたけど(笑)。そういうふうに思ってくれてるんだなっていうのを感じました。

中野:有安さんは理学療法士のお仕事もされていますが、どういった形で、お互いコミュニケーションを取るようにしてるんですか?

有安:先程話してくれた八尾選手は、すごく努力家で練習にはひたむきに頑張れる選手なんですけども、自分のマヒの状況だとか、漕いでる最中に起こっていることを言葉にして説明するのが得意じゃありません。
僕は理学療法士なのでマヒに対する知識だとか、どうしてそういうことが起こるのか説明ができるので、クルー全体にそれを言葉で伝えていくことをしています。お互いをいかに理解し合うかでパフォーマンスの変わってくる競技になるので、理学療法士であるというところは役に立ってるなと思います。

中野:非常にチームワークが問われる競技なんですが、コロナになってから練習が思うようにできない時期もありました。どんな影響が?

有安:この1年間ぐらい、集まって練習もできない時期もありましたし、オンラインでつないでトレーニングをしたり、それぞれのメニューを報告し合って練習をしていくというような時期がたくさんありました。同じ空気を感じながら、同じ距離を走るっていうコミュニケーションは、どうしてもできなかったので、うまくいかない部分っていうのは、実際にはありました。
でもオンラインですと、気軽に集まることができますし、実際の距離も関係なく、みんなで同じ時間に同じように練習することができるので、そういう意味では、必ずしも大変だったことばかりでもないかなというふうにも思ってます。プラスに捉えられる部分っていうのもあったかなと思います。

中野:これからどんなチームを目指していきたいですか?

有安:勝っても負けても、選手たちも、見ている人たちも、みんな笑顔でいられるような関係性。そういう戦い方ができるクルーを目指していきたいなと思ってます。試合が終わった後でも、どんな結果であろうとも笑顔でいられるということは、それだけ100パーセント思い残すことのない練習ができているということにもなると思いますし、お互いをしっかり信頼し合えてるということにもなると思います。試合が終わった後に、自分たち含め、周りの人みんなが笑顔でいられるクルーっていうのがいいかなというふうに思ってます。

パラスポーツで障害を受け入れた

中野:有安選手は、15歳のときに黄斑ジストロフィーと診断され、見えにくくなってからはスポーツと距離を置いていた時期もあったと聞いたんですが。

有安:例えば球技をやればやるほど、自分が見えないんだなっていうのをすごく実感してしまうというような時期がありまして。ちょうど15-6歳で、ちょっと思春期みたいな時期でもありましたし、スポーツをやればやるほど、自分が「ああ、やっぱり視覚障害者なんだな」っていうふうに思ってしまうので、ちょっと距離を置いて、「やりたくないな」って思ってる時期がありました。

中野:そこから大学に進学して、視覚障害者柔道と出会ったんですよね?スポーツを本格的に始めたということなんですが、なぜかつて距離を置いていたスポーツに取り組もうというふうに思ったんですか?

有安:大学に入った頃に、初めてパラリンピックとかパラスポーツっていうものと出会って「あっ、そうか。視覚障害あってもスポーツやっていいんだな」っていう発見がありました。
スポーツをやる上では、視覚障害って、いわゆるハンディキャップというところでしか僕は捉えることができていなかったんですね。そこからパラスポーツとかパラリンピックっていう、大きな舞台が用意されていて、自分の障害っていうものが、パラリンピックにチャレンジするためのこのチケットみたいな感じに感じたんですね。「そうか、視覚障害があるからこそ、パラリンピックにチャレンジすることができるんだな」と。
初めて、障害があって、ある意味でちょっとラッキーだったなというふうに感じることができたんですね。障害っていうものが、ただのマイナスではなくて、本当に特徴の一つであって、何ならプラスに捉えることができたというような経験がありました。

中野:今では冬のパラリンピックも目指して、クロスカントリースキーにも挑戦されてるんですよね?ここまで、いろんな競技に果敢にチャレンジして、パラを目指す。その原動力はなんでしょうか?

有安:自分の障害が、15-6歳の頃に発覚して、進路もいろいろ考える頃だったので、仕事は医療関係に行こうと決断をしたんです。障害っていうものを、治す方向で頑張ろうとしてたんですね。障害を軽くするとか、病気を治すとかっていう方向で力が出せないかな、と。
でもパラスポーツと出会って、別に治すだけじゃなくて、捉え方とか、その障害がある状態で力を発揮する舞台があることで、気持ちの中での障害の受け入れだとか、自分の中での障害のスタンスっていうものをすごく変えてもらえたっていうのがありました。
そこに対する感謝みたいなものが強くあって、自分の原動力になってると思います。自分も障害があるという立場で、パラリンピックを目指して活躍をしたりとか、こうして障害について話をさせてもらったりという中で、障害のある人や、これから障害を被ったりする人たちの助けになるような活動ができればいいなというふうに思っております。

※この記事は、視覚障害ナビ・ラジオ 2021年2月7日放送「私を変えたパラスポーツ」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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