ハートネットメニューへ移動 メインコンテンツへ移動

知的障害者の施設をめぐって 第5回 津久井やまゆり園と施設福祉の歴史

記事公開日:2020年11月12日

今回は、津久井やまゆり園の「十周年記念誌」(1974)から、その創設期を振り返ります。「津久井やまゆり園」のような大規模施設が、過去にどのような背景から誕生したのか、そして大規模施設にはどのような課題があるかを改めて考えてみたいと思います。
また最後に、知的障害者の施設の歴史について改めて振り返り、まとめとします。
なお、法律名および施設名、識者の発言などについては、現在は使われていない「精神薄弱児(者)」などの当時の表現をそのまま使用している箇所もあります。

人手不足から生じる隔離状態

これまでの日本の知的障害者施設の歴史を振り返ってわかる通り、日本ではそもそも障害者を一般社会から「隔離」することを目的に施設がつくられたわけではありませんでした。

しかし、「施設の場所が町から遠く離れていて、地域社会から遊離している」「スケジュールが優先され、自由を束縛されることが多い」「集団行動ばかりで、プライバシーがない」「付き合う人が限られてしまう」など、施設特有の制約から、結果として当初から入所者や家族が隔離されていると感じる状況が生まれることはありました。

その背景のひとつに、専門職員の確保が難しく、慢性的な人手不足の施設が多いことがあります。高度成長期には、重度の知的障害者を理解するための研究も未熟で、職員を育成するためのノウハウも十分には蓄積されていませんでした。そのために、大人数を収容する施設が建設されても、その人数に見合うだけの経験ある専門職員を配置することはできませんでした。

終生保護の施設の場合、重度や重症の入所者も含まれるために、職員の介助負担は大きくなり、労働環境の整備や運営管理面でさまざまな問題が生じることになりました。職員のケアが手薄になるのを補完する意味で管理が強化され、それが隔離状態をもたらすこともありました。

2016年7月26日に殺傷事件が起きた「津久井やまゆり園」に関しても、「十周年記念誌」(1974)によると、当時の日本の多くの施設が抱えるのと同様の課題を内包していたことがわかります。理想と現実のギャップのひとつの実例として、「津久井やまゆり園」の創設期について振り返ってみたいと思います。

日本初の重度知的障害者の専門施設

「津久井やまゆり園」が誕生したのは、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)です。その4年前には「精神薄弱者福祉法」が制定され、同法により「精神薄弱者援護施設」が規定され、神奈川県でもいち早く施設の設置が決定されました。

1960年代は、地方都市では公共施設や企業の誘致合戦がさかんに繰り広げられていて、神奈川県内の各市町村も誘致に熱心に取り組んでいました。しかし、「津久井やまゆり園」のある相模湖町は山岳地帯の狭間にあり、交通の不便さなどから、有力な施設は望めないとして、当時はあまり人気のなかった精神薄弱者援護施設の誘致に名乗りを上げ、福祉の町づくりをめざしました。

画像

津久井やまゆり園がある相模原市緑区千木良

この頃、知的障害者福祉の世界では、重度の人の処遇が大きな課題となっていました。そこで、神奈川県では、新たに建設する施設を全国初の重度を専門とする精神薄弱者援護施設にする計画を立てました。受け入れ先が得られない障害当事者と厳しい状況にあった家族に援助の手を差し伸べる画期的な施設であり、自立生活を前提とした一時収容施設が主流だった時代に、終生保護を目的としている点でも注目を集めました。

開園時の入所者数は100人。入所希望者が多かったために4年後には倍の200人まで増員することになりました。年齢は18歳以上で、IQは測定不能や最重度・重度の知的障害者が9割近くを占め、その中には身体障害を合併する人も1割含まれていました。

環境改善のための試行錯誤

画像

津久井やまゆり園

周囲の期待を集めてスタートした施設でしたが、日本初の重度の知的障害者施設である上に、交通不便な地であり、当初職員の確保は困難をきわめました。

福祉関係の機関紙に募集広告を出しても応募者は一人もなかったそうです。開園当初、精神薄弱者施設から転勤してきた指導課長を除いて、ようやく集めた職員は全員素人でした。「十周年記念誌」の職員による座談会では、初代園長も、福祉事務所に3年間の勤務経験があっただけで、まったくの素人であったと自ら語っています。

活動記録では10年間を3期に分けて振り返っています。第1期として、職員は入所者を施設の集団生活に慣れさせるだけで一苦労であり、心身の疲れを訴える日々であったことが記されています。

入所者は重度である上に、能力も年齢もまちまちで、さらに職員が不慣れだったこともあり、入浴や食事などの介助で時間を奪われ、集団生活の訓練や学習指導などのカリキュラムの消化は難しかったと正直に書かれています。

開園から4年後の第2期には、入所者数が200人に増員されたのにともない、職員も100人へと倍増されました。活動記録には、「新たに採用された職員も未経験者であり、十分な研修や教育を受けることもなく、先輩職員の助言のもとで、手探りで指導や介助に当たったこと」や「入所者の増員にともない、新たに重症者を含む最重度の障害者が30人あまり加わったために、園生の障害の程度に格差が生じ、最重度者に職員の手が多く取られるようになった」などが記されています。

そして、そのような試行錯誤の日々が続く中、1970年(昭和45)には、園生の一人が、園の下を流れる相模川に転落し、溺死するという痛ましい事故も発生しました。「十周年記念誌」には、我が子のようにかわいがっていた園生を失った悲しみが、痛恨の出来事として繰り返し記されています。その後、園では施設や施設職員のあり方を厳しく検証するための「施設改善委員会」を発足させました。

そして、それまで1棟に100人を収容した方式を、事故後は1棟50人の4棟制に改め、職員の目が届きやすいようにしました。また、4棟のうちの1棟を最重度棟にすることで全面的に身辺介助が必要な園生に気を取られて、他の園生への対応がおろそかにならないようにしました。

さらに、施設周囲のフェンスを高くしたり、防御柵を設けたり、出入り口を施錠するなどの安全対策も取られるようになりました。そして、管理者も職員も一丸となって環境の改善に努め、指導訓練と介助のノウハウを蓄積し、前例のない施設の運営に努力を重ねていったことが回顧されています。

問われ続ける重度の知的障害者の支援

「津久井やまゆり園」のように重度施設の黎明期には、職員の人手不足や経験不足などから入所者の処遇に苦労するのは、他の多くの施設でも見られることでした。

障害の程度にばらつきがあれば、本来は一人ひとりに見合った介助が必要です。集団行動が苦手な重度や重症の障害者を寮生活のようにまとめて処遇するのは、無理が生じやすいと現場の職員たちも感じていました。施設によっては職員の組合が組織され、職員数の増員、処遇の少人数化、入所者の人権尊重など、施設内部から改革を求める動きも見られました。

重度の知的障害者や重症児者の福祉施策の欠如が訴えられた1960年代半ば。大規模な施設によって、それを一気に解決することが求められました。しかし、その後厳しい現実に直面して、どのような環境を作ることが必要であり、可能なのかが、さまざまな現場で慎重に模索されてきたと言えます。

施設内を家庭的な雰囲気にするにはどうすればいいのか、地域社会との交流を増やしていく機会をどうやって得るのか、職員の専門性をどのように高めるかなど・・・・。そして、施設福祉であろうと、地域福祉であろうと、本人がもっとも本人らしく生きられるようにするためには、どのような支援が望ましいのかが、現在も問われ続けています。

対象を広げていた施設福祉の歴史

日本の知的障害者の施設の歴史は、「滝乃川学園」のような知的障害児の民間施設から始まりました。施設では子どもたちに教育や生活習慣を身につけさせて、他の人と同じように社会生活を送れるよう指導訓練することに重きがおかれました。

しかし、全国10か所にあった施設はいずれも小規模で、合計しても入所できるのは400人ほど。施設に入れるのはきわめてまれなケースで、多くの人は、支援の手もないままに家族に介助されながら社会の片隅で目立たないように生きるしかありませんでした。

戦後になると、日本国憲法の趣旨にそって児童の保護がうたわれ、それまで顧みられなかった知的障害のある子どもたちにも公的な支援の手が及ぶようになりました。

精神薄弱児施設が全国に続々と建設され、行き場のない子どもたちが優先して収容されていきました。それら新設の施設の趣旨も、戦前の民間施設と同様に指導訓練が目的で、将来の自立生活をめざすものでした。

しかし、思うように指導訓練の効果が上がらず、18歳を超えても社会に出ていくことが難しい入所者が、「年齢超過者」として問題になっていきます。このため成人を保護する施設も求められるようになり、1960年に制定された「精神薄弱者福祉法」では、「精神薄弱者援護施設」が規定されました。

これらの成人のための施設も、児童の施設同様に指導訓練に重きを置き、入所者たちは、将来は施設を退所し、自立生活を送れるようになることをめざしました。

1960年代以前の日本では、欧米のように施設内で一生暮らし続けることを目的に施設がつくられたわけではありませんでした。むしろ、上記のように障害があっても地域社会で自立生活を送れるように導くのが施設の役割でした。

それは、現在のノーマライゼーションの考え方に近いようにも思えますが、大きな違いがあります。根底にあったのは、障害者の人権の尊重よりも、能力によって障害者を線引きする考え方でした。

言い換えると、施設での終生保護を行わなかったのは、地域での生活を尊重したためではなく、自立生活が可能な中軽度の障害者を優先していたからと言えます。そのために、重度の知的障害者や重症児者は施設に入所するのも困難であり、つねに処遇は先送りにされていきました。

そのような当時の事情について、1967年の「精神薄弱者福祉審議会意見具申」には、以下のように対策の貧弱さが率直に指摘されています。

「従来、わが国における精神薄弱者に対する施策は、自立更生の可能性が大なる者、いいかえれば、保護指導が容易である者に対する施策に重点を置いて進められ、自立更生の見込みに乏しい重度の精神薄弱者については、障害福祉年金の対象とはされていたが、施設処遇その他の分野ではほとんど考慮されることがなかった」

施設福祉から地域福祉への転換

しかし、1960年代の半ば頃から、そんな重度の知的障害者や重症児者のための施設を求めて親たちが動き出し、「保護収容」の対象が広がり始めます。そして、切望されたのは、親亡き後にも安心して暮らすことのできる終生保護の施設です。その実現のために進められたのが大規模コロニーの建設計画でした。

しかし、その頃すでに欧米では、大規模コロニーは人権上問題があるとして、否定される傾向にありました。日本の場合はそのような世界の潮流を踏まえながらも、当事者を尊重し、地域にも開かれた日本型の大規模コロニーを建設しようとしました。

ところが、重い知的障害のある人を大人数収容する施設を円滑に運営していくための職員の確保は困難を極めます。業務の負担も大きく、全国の大規模施設の現場では、理想と現実の間のギャップに苦しむ事態が生じました。

その後、1981年の「国際障害者年」を迎えると、「施設福祉から地域福祉へ」という考え方が、世界の国々で共有されるようになりました。日本の厚生省もその流れにならうようになり、施設福祉は未完成で、地域福祉も未整備の状態でしたが、「施設」から「地域」へと方針転換がはかられるようになっていったのです。

「脱施設」と「脱家族」を実現する

1980年代以降、現在に至るまで、知的障害者の施設に関しては、津久井やまゆり園の事件後の論議もそうですが、「施設」と「地域」とが対比的に語られます。しかし、そのために抜け落ちやすいのが、「家族」という視点です。

日本は欧米とは違って、核家族が主流になるのは高度成長期以降のことです。1950年代には三世代同居率は全世帯の4割以上に上り、家族の介護力が欧米先進国よりも高かったこともあって、家族に福祉の役割を担わせるのが当たり前と考えられてきました。高齢者の介護と同様に、障害者の介護も長年家族(主に母親)が担ってきました。

つまり、日本の場合、長年障害者を中心になって支えていたのは、「施設福祉」でもなく、「地域福祉」でもありません。高齢者福祉にならって言うならば、日本型福祉社会における「家族依存の福祉」と言えるかもしれません。

核家族が増えていった高度成長期になっても、施設は慢性的に不足していましたし、中でも、長期にわたって障害者を収容する施設は数が限られていました。とくに介護負担の大きい重度の知的障害者や重症児者は、施設を利用することも難しい状況が続きました。

そのために、「家族による子殺しや一家心中」などの悲劇も頻発しました。戦後になって親たちや支援者たちが一致協力して声を上げていったのも、医療的な手厚い支援が必要とされる人たちがいるとともに、家族だけでは支えきれない現実があったからです。

地域移行の流れの中で、大型施設の建設は控えられるようになり、地域福祉の整備も徐々に進んでいくようになりました。しかし、在宅で暮らす障害者を支える地域の支援態勢は自治体によって大きなバラツキがあり、過剰な介護負担に苦しむ家族は、まだまだ数多く存在しているのが現状です。

現在障害者も高齢化が進み、加齢とともに障害も重症化しています。施設からの退所も難しくなり、在宅で暮らしている人の介護負担も重くなってきています。施設を退所し、グループホームなどの地域での暮らしで新たな幸せを得ている人がいる一方で、障害の程度や年齢、家庭の事情によっては、以前よりも施設を必要とする人たちがいるという現実もあります。

地域で安心して暮らせる社会を望むのは、誰しも共通しています。その意味では、「脱施設」「地域移行」の流れは止まることはないでしょう。しかし、その流れが家族に重い介護負担を課す過去への揺り戻しにならないためには、地域での「脱家族」の態勢づくりも同時に進めていく必要があるのではないでしょうか。

現在、障害者の自立生活運動を推進する人たちが求めているのは、施設とともに家族からも自立して生きられる社会です。そのためには、在宅医療、24時間訪問介護、通所施設、レスパイト施設などの地域の支援態勢が全国どこでも得られるような社会に変わっていかなければなりません。

大規模な施設に何百人もの重い障害のある人をまとめて保護収容し、職員が疲弊しながら管理に当たるような施設のあり方は過去のものとなりつつあります。現在は入所者を少人数に分割するユニット方式を採用したり、個室を設けてプライバシーを尊重したりなど、家庭的な環境づくりに努めるように変わってきました。

グループホームを運営することで、当事者の選択肢を増やすなど、新しい試みを行っている施設も増えています。さらに、地域福祉や啓発の拠点として施設が重要な役割を果たしている例も多く見られます。施設も地域福祉を支える社会資源へと、その役割を広げつつあるように思います。

今後は、日本の施設の歴史的経緯を理解し、地域と施設が補完し合って、一人ひとりにふさわしい最善の形をつくっていくことが、求められていくのではないでしょうか。

画像

『福祉の思想』(糸賀一雄著)

最後に、かつて「この子らを世の光に」と唱えたびわこ学園の糸賀一雄は、『福祉の思想』という著作の中で、「保護」と「自立」は相反しないと記しています。支えることが自立を生むという糸賀の思想は、施設福祉や地域福祉のあり方を考える際に大きな示唆を与えてくれます。

非障害者に近づけることを自立と考えるのではなく、それぞれの障害に合った支えを得ながら生きることを広い意味での自立として尊重する。そのような理念を広げていくことが、津久井やまゆり園の事件を乗り越える道なのではないかと思います。

執筆者:木下 真(Webライター)

※この記事は、2017年のハートネット・ブログ連載「知的障害者の施設をめぐって」を加筆・修正したものです。

参照:『十周年記念誌』(神奈川県立津久井やまゆり園編 1974年2月)

知的障害者の施設をめぐって
(1)教育機関として始まった施設の歴史
(2)日本国憲法がもたらした公的施設
(3)最後の課題となった重症児者
(4)コロニーの時代の紆余曲折
(5)津久井やまゆり園と施設福祉の歴史 ←今回の記事

あわせて読みたい

新着記事