ハートネットメニューへ移動 メインコンテンツへ移動

知的障害者の施設をめぐって 第1回 教育機関として始まった施設の歴史

記事公開日:2020年11月12日

2016年7月26日に起きた相模原障害者施設殺傷事件は、知的障害者施設が事件の現場となりました。事件をきっかけに施設入所に対する批判の声が障害者団体などから上げられる一方で、入所者の家族などからは施設の必要性を語る声も聞こえてきました。事件後も関係者の間ではさまざまな議論が交わされています。
そもそも日本における知的障害者施設とは、どのような経緯で誕生したものなのでしょうか。実は、現在施設をめぐって繰り広げられている議論の多くは、過去にも施設をめぐる課題としてつねに俎上に上っていたものでした。そこで、日本の知的障害者施設の歴史について、資料をもとに、その誕生から地域移行への転換に至るまでの経緯を改めて振り返ってみたいと思います。

なお、書籍のタイトルや法律名および施設名、識者の発言などについては、現在は使われていない「精神薄弱児(者)」「白痴」などの当時の表現をそのまま使用している箇所もあります。

原点としての「滝乃川学園」

日本で初めて知的障害者の専門施設をつくったのは「知的障害児教育の父」と呼ばれている「滝乃川学園」の創設者・石井亮一でした。その活動は、1891年(明治24)に東京下谷西黒門町に濃尾地震(岐阜・愛知)のために孤児となった少女20人余りを引き取り、「孤女学院」を創設したことに始まります。その孤児の中に、たまたま知的障害のある「太田徳代」がいたことから、石井は知的障害児の教育に目覚めていきます。

画像

石井亮一(推定明治24年頃)

石井は女子教育の改革に取り組む教育者であるとともに、敬虔なクリスチャンでした。「いと小さき者の一人になしたるは、すなわち、我(キリスト)になしたるなり」という聖書のマタイ伝25章40節の聖句を大切にし、わが身を顧みることなく、より小さきもの、より弱きものに愛情を注ぐことが神に従うことだと信じていました。明治時代の日本では、女子教育、児童保護、貧困者の救済などの分野で、多くのクリスチャンが社会事業家として活躍していましたが、石井もそのひとりでした。

当時の日本では、重度の知的障害がある児童は差別や偏見の対象とされることが多く、家族は生まれた我が子を恥じて、隠すだけでなく、育児放棄することもありました。子殺しや母子心中などの悲惨な出来事もありました。

震災などで孤児になると、誰に引き取られることもなく、浮浪者となって物乞いをしながら生きる者もいました。石井が震災に遭った孤女を救済する活動の中で、知的障害のある児童を見出したのは偶然ではありましたが、孤児の中に知的障害のある児童がいるのは、決して珍しいことではありませんでした。

石井は神の道を追求する求道者という顔だけではなく、学生時代には化学を志す科学者としての顔ももっていました。1896年(明治29)には障害児教育の研究のために、先進国であったアメリカに渡り、代表的な知的障害児学校を訪問しました。

当時アメリカでは、生理学者のエドゥアール・セガンが現在の療育の考え方に通じる、身体活動も含めた「生理学的教育法」によって、知的障害児の教育が可能になることを明らかにしていました。石井が渡米したときには、すでにセガンは亡くなっていましたが、7か月の研修旅行の最後には、セガン夫人が校長を務める私立学校で、セガンの理論に基づく少人数教育を視察し、大きく影響を受けたと言われています。

当時の日本では、知的障害児に関しては教育も医療も無力だと考えられていました。しかし、石井は孤女学院での実践を通じて、知的障害は「不治」ではなく、「遅滞」に過ぎないと考えていました。セガンの理論や実践は、その確信を裏づけるものとなりました。

石井は、アメリカ研修での貴重な体験とともに多くの文献を携え、帰国しました。そして、1896年(明治29)「孤女学院」の名称を「滝乃川学園」に改め、知的障害児のための「特殊教育部」を設け、日本初の知的障害者施設をスタートさせます。

信仰と愛、そして最新科学の力

この滝乃川学園が後の知的障害児施設の原型となったことには、大きな意味がありました。石井は知的障害のある子どもを慈善的な意味で保護するにとどまらず、科学者のまなざしで発達を観察研究し、その可能性を引き出すための実践に努めました。施設は子どもたちが将来社会の一員として自立生活をしていくための力を養う「通過施設」として位置づけられました。

1900年(明治33)の第三次改正小学校令によって、知的障害のある児童の就学義務が免除され、学校教育から切り捨てられる中で、滝乃川学園の実践は、数少ない子どもたちの未来に光を投げかけるものでした。

石井は「白痴教育が国家に利益であろうか、利益でないだろうかといふことは私の念頭には起こりませぬ」「信仰と愛、そして最新の科学の力、この三者なくして到底この尊い使命を全うすることはできません」という言葉を残しています。

画像

明治期の滝乃川学園での室内作業

滝乃川学園は民間施設ですが、戦前の公教育の場でも特別学級が一部には存在しました。1891年(明治23)、教育に力を入れていた長野県では、松本市の尋常小学校に「特別な学級」を設けました。そして、明治後期には、そのような「特別な学級」の設置が全国的に広がりました。

しかし、対象となったのは比較的障害が軽く、教育成果の見込まれる子どもたちでした。その教育方法は、普通児の教育課程の程度を下げて懇切丁寧に教えるに過ぎず、石井が行ったような知的障害に特化した教育方法を研究実践するような高度なものではありませんでした。知的障害児の特性に合わせた専門教育は、戦後になるまで滝乃川学園のような民間施設が担い続けていきました。

石井が滝乃川学園を立ち上げた時代、19世紀末から20世紀初頭には、世界中で「児童学(Pedeology)」という新しい子ども研究が流行していました。石井が二度にわたって視察に訪れたアメリカは、スタンレー・ホールという心理学者が推進する「児童研究運動(Child Study Movement)」の世界の中心でした。児童学は、それまでのルソーやロックのような哲学者が示した思索的な子どもの考察とは異なり、生物学的なまなざしで子どもを観察し、その発達を精神活動のみならず身体活動も含めて総合的に研究する学問で、石井がめざす生理学的な教育方法とも重なり合うものでした。

やがて児童研究運動は日本にも伝わり、1902年(明治35)には医学者、心理学者、教育学者らにより、日本児童研究会(後に日本児童学会)が設立され、その機関誌として「児童研究」が発刊されました。同機関誌では、知的障害のある児童に関する国内外の研究も盛んに取り上げられ、石井も論文や調査報告を寄稿しています。そのような時代の流れも石井の活動に味方していました。

画像

『白痴児 其研究及教育』(石井亮一著)

教育機関としての施設が担う課題

滝乃川学園のような民間施設は、公的な制度も支援もなく、経営的には苦難の連続でした。しかし、滝乃川学園の活動を知る者が石井亮一のもとを訪れ、弟子入りするなどして個人指導を受けるようになり、そうして感化を受けたものたちによって、全国に滝乃川学園に続く、知的障害児施設がつくられていきました。

画像(戦前の精神薄弱施設一覧)

これらの施設の多くは、石井亮一と滝乃川学園を何らかのモデルとして設立・運営されたもので、知的障害児に対しては慈愛の精神だけではなく、生理学に基づく教育実践を必要するという精神が受け継がれ、治療的な教育法を確立していきました。

画像

滝乃川学園「石井亮一・筆子記念館」

戦前においては、知的障害者に対する国の福祉政策はほぼ無策と言える状態で、これらの民間施設のみが細々とその救済に当たっていました。しかし、収容人数はすべての施設を合わせても400人前後で、全国に数十万人はいると当時推計されていた知的障害児者に対して、絶対数はまったく足りませんでした。

制度の谷間で支援の拠点となった民間施設

欧米においても、日本においても、当初知的障害者の施設は、「知的障害児」を対象とした「教育機関」として誕生しました。日本が手本としていたアメリカでは、この教育機関が大人も含めた保護収容へと発展していき、19世紀末からすでに千人規模の大規模施設がつくられ、コロニー(共同生活の村)も建設されていました。

戦前の日本には、そのような大規模施設どころか、生涯にわたる保護収容を目的とする施設そのものが存在しませんでした。公的な専門施設は皆無で、ほとんどの知的障害者は福祉的な支援もないままに家族の扶養に任されていたのです。

しかし、保護収容するための専門施設がなかったということは、地域でふつうの暮らしを送っていたことを意味するわけではありません。重度の障害者の中には家庭においては座敷牢に閉じ込められ、社会においては孤児院、育児院、感化院などに収容されるなど、別の形で隔離生活を送っている人も多くいました。警察からは将来犯罪者となる可能性があるとして厳しく取り締まりの対象とされ、罪を犯して、少年院や刑務所に収監されている人もいました。

画像

滝乃川学園の外遊びの風景

社会全体がそのような排除の空気に覆われている時代に、石井亮一らが興した民間施設は、障害者が安心できる居場所であり、教育を受けられる場であり、自立の力を養う支援機関であり、社会の偏見を払拭するための拠点としての役割を担っていました。現代流に表現すれば、公的な制度のはざまで見捨てられた人々に寄り添う、フリースクールやNPOのような役割を果たすものでした。

石井は施設の目的について、「学校からも、世間からも、あるいは時として家庭からも見放されていたこの子どもたちと起居を共にし、生活全体を教育しようとすること」に、あると述べています。

1934年(昭和9)、石井は、藤倉学園の川田貞次郎、桜花塾の岩崎佐一、八幡学園の久保寺保久らなど、他の民間施設の創設者らとともに「日本精神薄弱児愛護協会」を設立し、社会に向けての啓蒙活動にも乗り出しました。「道を伝えて、己を伝えず」を信条としていた石井は、業績を誇ったり、栄誉を望んだりしませんでしたが、このときには周囲の求めに応じて初代会長を引き受けました。石井が信仰と科学の力を借りて灯した小さな光は、こうして徐々に輝きを増していきました。

画像

「日本精神薄弱児愛護協会」の設立総会(1934年) 前列中央が石井亮一

執筆者:木下 真(Webライター)

※この記事は、2017年のハートネット・ブログ連載「知的障害者の施設をめぐって」を加筆・修正したものです。

写真提供:滝乃川学園
参照:『滝乃川学園』(くにたち郷土資料館)、『シリーズ 福祉に生きる 51石井亮一』(津曲裕次)、『発達心理学史』(村田孝次)
『天地を拓く』(財団日本知的障害者福祉協会)、『年表でつづる知的障害者福祉』(財団日本知的障害者福祉協会)、『施設養護論』(浦辺 史/積 惟勝/秦 安雄 編)、『知的障害者教育・福祉の歩み 滝乃川学園百二十年史』(滝乃川学園)

知的障害者の施設をめぐって
(1)教育機関として始まった施設の歴史 ←今回の記事
(2)日本国憲法がもたらした公的施設
(3)最後の課題となった重症児者
(4)コロニーの時代の紆余曲折
(5)津久井やまゆり園と施設福祉の歴史

あわせて読みたい

新着記事