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精神科医・崔秀賢さん 「開放医療」で取り戻す人間の尊厳 (前編)その原点とは

記事公開日:2020年11月09日

こころの病を抱える人々と向き合ってきた精神科医・崔秀賢(さい・しゅうけん)さん。20代で精神科の閉鎖病棟を目の当たりにし、行動制限により人間の尊厳を奪う医療のあり方に疑問を持ちます。以来、取り組んできたのが、当事者の意志を尊重し、他者を信頼し社会で生きる希望を見つけていく“開放医療”。その取り組みの原点には、自身の差別体験がありました。苦しみの先に見出した人間の尊厳を大切にする医療への思いに迫ります。

奪われた尊厳を取り戻す「開放医療」

平安時代、もののけにつかれた皇族が療養して以来、精神医療と深く関わってきた京都市北部の岩倉。医師、崔秀賢さん(74歳)は、その岩倉にあるいわくら病院で47年にわたり、精神疾患に苦しむ人たちと向き合ってきました。

画像(いわくら病院)

崔さんが、長年取り組んできた医療の形が「開放医療」です。開放医療では、通常鍵がかかっているスタッフの詰所が開放されています。入院している人は、いつでも自由に、医師や看護師と話ができます。

「垣根を取り払い、信頼関係を築くことが、症状の改善につながる」
それが、開放医療の信念です。

「『これを伺ったら怒られるかな』とか『これは相談すべきことかな』とかそういう敷居がないんやと思う。だから言葉になってないことでも、聞いたらすぐここに来れる。たぶんそれが患者さんとの、当事者の方との垣根を低くしてて距離が近くなる」(病棟看護師)

ここでは、主治医を含む医療チームが、他人や自分を傷つけないなどと判断した人であれば、自由に外出することができます。

いま全国の精神科病棟で自由に外出が許されているのは、およそ3割。この病院では、およそ8割の病棟で自由な外出ができます。時間をかけて、病棟の開放を進めてきました。

崔さんが、開放医療に取り組み始めて40年あまり。その道のりは、病に苦しむ人たちの尊厳を手探りで取り戻していく試みでした。

画像(精神科医 崔秀賢さん)

「奪われているのに、奪った人は自覚していない。当たり前の権利が制限されているのに、制限した人はそのことを自覚していない。そういう根の深い不信感がありましたね。入院してる人たちの絶望は生半可じゃないです。尊厳、人格、価値みたいなのを全部否定されてるわけです。自由も全部、否定されてるわけですから。まして、鍵かかってるとこに入れられて、自由は何も受け入れられない」(崔さん)

自分自身の原点の痛みが精神科医への道に

崔さんが精神科医となった原点は、自らの出自に関する苦しみでした。崔さんは幼い頃、兵庫県の武庫川沿いの町で育ちました。昭和初期、当時の土木工事の労働力として、朝鮮半島出身の人が多く集まっていた集落。たくさんのバラックが建ち並んでいました。

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兵庫県社会課「朝鮮人の生活状態」写真より

「ともかく食べるものがなくて、学校から帰ってきたら、食器だんすとか開けるけど、食べるものが何もないんですよ。母親はよく背中向いて泣いているんですよ。『オモニなんで泣いてんの』っていったら、『お金がない』って言うんですよ」(崔さん)

父親は、町の教会で牧師をしていました。
毎朝5時、家族だけで行う静かな家族礼拝から始まる暮らし。自分たちの生活を切り詰めても、両親は、言葉、真心、信仰をもって、教会を訪れる人々の世話をしていました。特に、貧しい人にも、母親が黙々と仕える姿は、崔さんの脳裏に深く刻まれました。

生き抜くためには、誰よりも勉強するしかない、崔さんは猛勉強を始めます。
そして、崔さんは、大阪トップクラスの高校に進学。しかし、16歳の誕生日、生涯忘れることのできない出来事が起こります。外国人登録です。当時の法律には指紋押捺制度がありました。

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高校の門前に立つ崔さん

「高校入って、誕生日に区役所行ったら、並ばされてね。命令口調で、ずらーっと並ばされて。指全部、指紋採られるんですよ。それで、だめな人間なんかなあっていうのが、プリントされていきました。その時は、自分のアイデンティティみたいな危機があったんですよね。『自分は生きてる価値ないんかな』とか『死ぬんやったら苦労せんでいいんちゃうかな』とかいっぱい思いましてね」(崔さん)

大学は、就職による差別を受けず、自らの実力で勝負できると考え、医学部に進学。
精神科医の道を選びました。

「やっと自分が応援できる人が見つかったというか、自分より苦しんでいる人がいっぱいいるってことに気づいて、大学の頃は、ハンセン病の人のところに2回ほど行ったり。小学生の時は家の近所にハンセン病の重症者が歩いていると怖がったりしましたが、でもそれは私らの差別意識ですよね。自分も差別されているけど、自分も差別してる。ハンセン病の人があんなに苦労しているのに何も自分はできてない、とか。そういうのが、自分の中で、ネガティブな自分とポジティブな自分が合流したのが精神科医だったいうことですけどね」(崔さん)

想像を絶する現場 自身の出自と再び向き合う

医学部を卒業し、26歳で就職したのが、今も勤める京都市・岩倉の精神科専門病院でした。そこには、想像を絶する世界がありました。すべての病棟には木や鉄の格子。入院している人は、鍵のかかった病棟でほとんどの時間を過ごしていました。

「女性の入院病棟に配属されたんですけど、入った印象というのは、鍵、格子、檻の中。檻の中に入れられた、そんな印象だったですね。やっぱり驚きましたけど。病棟の中を案内してもらったんですけど、15人ぐらい寝る大部屋、鍵がかけられる部屋が5つほどあって、4人部屋があって、8人部屋があるんですけど、その奥にさらに鍵がかかってて、そこが3つの保護室病棟なんですけど、レッテルを貼られた人たちが保護室へ入れられてる。1人は、いつ手が出るかわかんないし、箸が飛んでくるかわからんと。1つの部屋は便を塗りたくってる。1つのところは衝動的に暴力が出る。みんな、入るときは緊張しないと中へ入れない。腹をくくってましたけど、ここまでかというのはありました」(崔さん)

病に苦しむ人の尊厳を奪い続ける現場を前に、自分は、何をするべきなのか。そして、何ができるのか。

「面接していると、『家に帰りたい、1人で外出たい、せめて“にぬき”が食べたい』。“にぬき”というのは、ゆで卵のことです。それはものすごく堪えました。ゆで卵を食べられないような、収容の仕方ってあっていいのか。もちろんコーヒーとかチョコレートは禁止されてますけど、ゆで卵食べられない、そんな治療ってないと思うんですよ。それができないようなところで、かつ自由を奪われている。そんなのほっといたらあかん。放闘争みたいな、そういうエネルギーが湧きましたね。そうやって烙印を押されて、本的な権利が奪われることは許せないっていう。それは何か悲鳴みたいなものですね。自分の」(崔さん)

崔さんは、逃れようとしてきた自らの出自と、もう一度、向き合い始めます。

“在日の自分”であるからこそ、不条理な形で尊厳を奪われている人たちのために、できることがあるのではないか。ふと心にわき上がってきたのは、小さい頃、父親から聞いたイエス・キリストの言葉でした。

画像(「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」旧約聖書 詩編 118篇)

「隅に捨てられた石が、今は住宅の柱石の1つになっているという言葉があるんですよ。キリスト教の根幹というのはそれなんですね。十字架にかけられて屑みたいに殺されていったけど、その人が、屑の石が、現在の多くの人たちの根幹になっているというのが、メッセージなんですけど、その隅っこの石に、私たちなってもええんじゃないかと思うんです。自分は捨てられた石かもわからんけど、どっかの土台になれるんじゃないかなって、そういう希望。自分はアウトサイダーだけど、価値があって、スティグマはられたけど値打ちがある。完全なアウトローであっても、土台になる」(崔さん)

自分への差別をなくすことが「開放」に

病院で働き始めて1年、崔さんは他の若手医師と協力して、病棟開放の試みを始めました。症状が比較的軽い人たちが、自由に外出できるようにしたのです。

しかし、自由に外出できるようにすることが「開放医療」の目的ではないと崔さんは言います。

「鉄格子は開放の入り口に過ぎない。必要ですけれど、十分条件では全然ないです。開いたからといって十分条件じゃなくて、中身はご自分とかまわりの人とかいろんな人と一緒に社会のネットワークの中に入って、時には就労したり遊びに行ったり、そういうことができるというのが『開放』だと思われるんですけどね」(崔さん)

さらに、患者本人が病気を受け入れられず、自分を差別している間は、いくら自由であっても、人は外に出て行くことはできないと崔さんは言います。

どうすれば精神疾患のある人が自分自身を認められるのか。それには、地域の人たちが彼らを認め、受け入れてくれることが必要でした。まだ精神疾患への偏見が今よりもずっと強かった時代。簡単なことではありませんでした。

川嶌幸雄(かわしま・ゆきお)さんと袖岡彬擴(そでおか・よしひろ)さんは、病院のある地域の自治会の中心メンバーとして、開放医療が始まった当初から、崔さんたちと話し合いを続けてきました。

袖岡さんは、いわくら病院が開放医療を始めた当初、困りごとが多かったと話します。

画像(袖岡彬擴さん)

「おやじが町会長してる時の話では、近所の方が、家帰って入ってみたら、お座敷に病院の方がおひつの中に手を入れてご飯食べていたとか、そんなことも昔はあったように聞いています」(袖岡さん)

トラブルが多発し、地域に不安が広がる中、病院のスタッフは対応に追われました。なぜトラブルを起こしてしまったのか。当人への診察、看護や薬の処方、時には鍵のかかる保護室に入ってもらうなど、一人ひとりに合った医療的な措置が模索されました。

さらに、病院と地域の人たちが開放医療のあり方や再発防止を話し合う委員会も設けられました。今では、寄せられる苦情は少なくなったと言います。

画像(川嶌幸雄さん)

「穏やかになっていることは事実です。迷惑をかけない開放医療をやってくださいということは、私は何回もお願いしたつもりで、それが徐々にいま、このように(地域と連携した開放医療に)なってきたんとちがうかなと、ええように解釈させてもらってるんです」(川嶌さん)

一人ひとりの尊厳を守る開放医療。それを実現するための病院と地域の人との対話は、40年以上たった今も続いています。

精神科医・崔秀賢さん 「開放医療」で取り戻す人間の尊厳
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(後編)家族と、当事者たちとの「絆」

※この記事は『こころの時代』2017年12月24日放送「捨てられた石が礎となる」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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