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“安楽死”をめぐって(5)フリーライター・児玉真美さんに聞く(後編)

記事公開日:2020年11月04日

去年11月、ALS患者の女性が面識のなかった医師2人に殺害を依頼したとされる、京都ALS患者嘱託殺人事件。女性は生前SNS上で、日本でも“安楽死”(※注)を受けられるようになることを求めていました。この“安楽死”について、私たちはどのように考えればよいのか。重度障害のある娘の母親で、海外の安楽死について発信を続けるフリーライターの児玉真美さんに聞きました。

注:いわゆる「安楽死」には、
① 医師が致死薬を投与する「積極的安楽死」 
② 医師が処方した致死薬を患者自身が服用する「医師ほう助自殺」 
③ 延命治療を手控えたり、中止して死を待つ「消極的安楽死」
などがあります(他にも様々な分類や解釈が存在します)。この記事では①と②を合わせて“安楽死”と表記します。

娘・海さんとアシュリー事件

──児玉さんは、娘の海さんに重度の障害があります。安楽死をはじめ、海外の生命倫理分野について追いかけるようになったのは、海さんの存在が大きかったのでしょうか。

児玉:こういう生命倫理の問題を追いかけ始めたきっかけは、アメリカのアシュリー事件でした。家族でいつまでも介護したい、本人のQOL(生活の質)を維持したいなどの理由で、6歳の重症児(重症心身障害児)から健康な子宮と乳房をとって、さらに身長が伸びるのを止めた。その医療介入が2007年に倫理議論を巻き起こした事件なんですけど、その議論で「どうせこういう重症児は何にも分かんないから」「どうせ赤ちゃんと同じだから」という正当化がされたことに、私は納得できなかったんです。うちの娘は、確かに寝たきりで、知的な障害も重くて、イエスの意味の「ハ」以外の言葉を持たないし。でも、彼女は彼女なりに、何もかも分かってる。言葉も大半わかってるし、状況とか人をものすごくよく見ていて、自分の言いたいことは、アバウトな指さしや能弁な目つきやカラフルな音声を駆使して伝える。

画像

娘・海さん

──音声がカラフル。

児玉:例えば、DVD見る?と聞かれれば元気よく「ハッ」だけど、「薬飲もうか?」だったら、いかにも気のない「ハー」となったり。あと、「フーン、フーン」という音声もすごい使い分けてますね。施設でも、よく人を見てて、若くて優しい男性職員を狙う。そういう人に向かって「フーン、フーン」と訴えるときの目つき、顔つき、それから甘いトーンは、りっぱな策士ですよ。そうやって、結構自分の思いどおりに人を動かしてる。自分の能力のすべてを駆使して、この状況の中でどう行動したら自分の思いを実現することができるか、めちゃ戦略的な自己主張をしてます。そういうあざといやり方で自分の思うように人を使いながら、うちの娘は施設の中で人とつながり、自分の居場所をつくってきた。この人は言ってもだめだと思うと、はなから相手にしていなかったりするのを見ると、私より人格的に成熟しているので、私は弟子入りして、娘を生き方の師匠にしたいぐらい。でも娘のことを直接知らない人から見ると、どうせ何もわからない人、ワアワア奇声を発しているだけの人に見えてしまう。
分かってもらうためには直接うちの娘と知り合って付き合ってもらうしかない。知り合って、付き合ってもらったら、そこには頭だけで考えるよりもはるかに豊かな世界がある。アシュリー事件で、そのことをどうやったら知ってもらえるんだろう、と思ったことから、いつの間にか障害者を取り巻く生命倫理の問題を考えるようになったんです。

らせん状に繰り返してきた障害の受容

児玉:今回の事件で、自分もああいう状態になったら死にたいと思うよね、だから気持ちはわかるよねって、それは一面私にもあるんです。そういう状態になった人はどうしてもやっぱりそういう時期もくぐられるでしょうし、私自身の親としての受容もそうでしたが、一たん受容できたらもう何も苦しいことはありませんということではなくて、繰り返し繰り返しいろんな形で、娘の状態、親の方の状態、生活状況、環境などが変わるたびに受容し直していく。そういうプロセスを経ながら、らせん状に受容を繰り返してきたように思うんです。
だから、その受容のらせんの、ある1点のところだけで「ああいう状態になったら自分だって死にたいと思うよね」と結論を出しては危ないんじゃないかと思うし。

──らせんの1点だけを取り出して、「つらいから死んで、このらせんを止めちゃえ」ということですね。

児玉:ですよね。だから、そこの1点だけで周りが、「死にたいよね。それわかるよね。無理もないよね」って受けとめてあげてしまうと、その人も、らせんのその先に行けなくなってしまうんじゃないか。

画像(児玉さんと海さん)

──児玉さんと海さんは、どのように受容を繰り返してきたんですか。

児玉:小さいころは本当に病気ばっかりしてましたし、ものすごくしんどい子育てでした。私ももう娘を連れて死のうと思うこともあったし。そのぐらい、心身ともしんどい時期がありましたね。その時期を何とかくぐり抜けたときに、「これでもう大丈夫」って思ったんですけど、通園施設を卒業して小学校に上がる時とか、学校を卒業する時など、娘の体調や環境が大きく変わる段階ごとに、また新たな悩みがいろいろ出てきますよね。その中でも、娘もいろんな精神状態を経て自分なりの暮らし方を見つけてきたんですけど、そうしていくうちに、今度は、今、親の老いに直面して、子も親も新たな受容を迫られていますから。親の老いとともに、今までしてやれてたことがしてやれなくなっていくやりきれなさがある。娘にとっては、親の老いのためにQOLは明らかに落ちてますし。
家に帰ってきたときにはお風呂で3人でゆっくりするのが親子3人のくつろぎの時間だったんですけど、今はもうオムツ交換や、着替えや、食事や、水分補給で手一杯になって。結局、家ではお風呂へ入れてやれなくなってしまった。そういうことも含めて、受容をまたし直さなければならなくなっているというのが今の状況ですね。この先、娘を残していくかもしれないことを考えると、私ももしかしたら連れて死ぬことを考えてしまうときが来るかも……っていうのはあります。そのぐらい受容って繰り返していくと思うんですよ。だから、その中でどうしていけるかということだと思いますけど。

「問い」を組み変える

──今回の事件を受けて世間の声を見ていると、「死ぬ権利」を認めるべきという声と、絶対に認めない声とでパックリと分断されている状況があると思います。児玉さんはどうお感じになりますか。

児玉:そうなんです。事件後の議論が、苦しい人は死なせてあげようという声と、いや、生きることが大事なんだっていう、全く相いれない2つの両極に分かれているような気がして、悩ましいなと思って見ていました。その問題の設定自体を組みかえないと本質的なところに話が行かないんじゃないかと思うんです。
苦しい人は死なせてあげようっていうのは素朴な善意だと思うんですけど、私自身は海外の安楽死についてずっと追いかけてきて、知れば知るほど答えが見えなくなるので、なんでそんなに簡単に答えが出るんだろうと不思議な感じがあります。
娘のことを考えるときに、やっぱり一番の願いというのは、苦しませたくないということです。今までの人生で、痛いこと、苦しいことがものすごく多かった人なので、今から先、大きな病気になるとか、今だったら新型コロナに感染すると重障児者の人たちは命に直結するんですけど、そういう想定をすれば、やっぱり親としては苦しませたくないというのが一番の願いになります。万が一にも新型コロナに感染して本人が苦しんでいる時に、どんなことをしてでも助けてほしいとは言わないと思う。もちろん娘を失うことは、想像しただけで耐えられないし、コロナ禍の最初から、それは本当に恐ろしいです。でも、親が付き添いはおろか面会すらできないまま、痛み苦しみを自分で訴えることができないあの子が一人で苦しむのか、ちゃんと緩和してもらえるのか、万が一の時には見知らぬ専門職に取り囲まれて一人で死んでいくのか……と考えると、いたたまれない。その時は「もう助からないなら、死なせてやってください」と医師に追いすがると思う。そんなふうに、一人の親としての私自身が相矛盾する思いの間で引き裂かれていて、だから、この問題について考えれば考えるほど、答えが見つからなくなってしまうところがあります。
でも、そういう親としての複雑な思いを抱えながら、海外の実態を追いかけてきた中で、安楽死という個の選択を尊重しながら、同時に社会的弱者に圧をかけない社会というのが果たして可能なのかとずっと考えてきて、その困難なチャレンジに成功しているところはまだないように思うんですね。特に、日本のように、社会でも家族の中でも同調圧力が強い国で、個々の究極の選択を尊重してあげながら、なおかつ、社会的弱者に不当な圧がかからない社会を目指すのはとても難しいんじゃないでしょうか。
海外の実態について詳しく知れば知るほど、積極的安楽死とか医師ほう助自殺が制度化されたときに、そこに例えば人口調整だとか、社会保障の縮減だとか、それから人体の資源化といった、社会経済からの要請みたいなものにその制度が取り込まれていって、結果的には、社会的なお荷物とみなされる人たちへの命の線引きと切り捨てのツールになっていく懸念が膨らんでくるんです。
だから、「苦しいんだったら死なせてあげればいい」と素朴な善意で言う前に、世界では何が起こっているのか、もっと知るべきことがたくさんあると思うんですね。世界が一体どういう方向に向かっているかとか、そこに見えてくるものは何か、という「大きな絵」の中に位置づけて考えないと、それ抜きに“安楽死”は是か非かっていう問題だけを議論してしまうと、すごく危ないんじゃないでしょうか。
「大きな絵」をしっかり見据えるということと同時に、「今ここ」を生きている一人ひとりの「小さな物語」にちゃんと耳を傾けるということも必要なんじゃないかと思ったりします。大半の人間って、特に障害のある人たちのほとんどは、ときに死にたいと思うこともあるけど、それだけじゃない、かといって「私はこんなに幸せです」って言い切るには日々つらいことが多すぎる……っていうように日々を暮らしてると思うんですね。そういう個々の人たちの中にある、両極ではなくて、その両極の間にある複雑な思い、矛盾する思いもいっぱいあって、理屈ではこうなんだけど、気持ちとしてはこういうものもある、そういう中で揺らぎながら暮らしている人の小さな生きづらさみたいなものに丁寧に耳を傾けることが必要なんじゃないのかなと思うんですね。
“安楽死”は是か非かという二者択一の議論にするんではなくって、そういう日常を揺らぎながら暮らしている人たちの、まず1人ひとりの生きづらさにきちんと耳を傾ける。それから、介護している家族が抱えている困難、支援に入っている人たちの困難も含めて、具体的にどういう生きづらさがあり、困難があり、問題があるのかということに1つずつ向き合って、丁寧に耳を傾けることが必要なんじゃないのかな。それによって、2つにパカーンと分かれてしまっている議論を埋めていく方法というのがあるんじゃないか。そうやって、「なぜ死にたいと思わされてしまうのか」と、問いを組みかえることが必要じゃないのかなと思います。

──なぜ死にたいと思わされてしまっているか、それを聞く姿勢はまだ十分ではないわけですよね。

児玉:事件後の議論で、「死にたい」という人の声か、「こんなふうにして自分は充実して生きている」って言える人の声かの、どっちかしか出てきてないのは、我々の側にそのどちらかにしか聞く耳がないからではないかと思うところがあって。でも、大半の人は両方の間で揺らぎながら生きているので、その複雑な思いをつぶさに語る言葉が出てくるためには、そこに聞こうとする姿勢がないと出てこないような気がするんです。介護している家族にしても、「生きていてくれてうれしい」だけではないさまざまな思いや生きづらさも抱えているはずですが、そこに向けられるまなざしがなければ、苦しさを語ることはできにくいです。
今は一方からあまりにもすごい勢いで「死なせてあげよう」という声が沸き上がって来ているので、それに対抗するための言論が必要だというのは私も分かるんですけど。でも、現実に「今ここ」で苦しんでいる人たちが、その苦しさを「ここがこのように苦しい」と語れるような議論にしていかないと……。そのために、“安楽死”の是か非かではなく、「なぜ死にたいと思わされてしまうのか」、「何があったらその生きづらさを解消することができるのか」へと、問いを組みかえる必要があるんじゃないかなと思います。

特集 京都ALS患者嘱託殺人事件
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※この記事は、11月4日放送のハートネットTV「特集 京都ALS患者嘱託殺人事件(2)“安楽死”をめぐって」の取材内容を加筆修正したものです。

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