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60歳からの青春 精神科病院40年をへて

記事公開日:2018年03月30日

望んだわけではないのに、40年間も精神科病院に入院していた時男さん(63歳)。退院のきっかけとなったのは、東日本大震災。症状も安定し、地域で暮らす能力があるにもかかわらず、なぜ40年もの長い間入院せざるをなかったのでしょうか? 60歳を過ぎて自分の人生を取り戻し、再び歩み始めた1人の男性の姿を追いました。

16歳で統合失調症 隔離収容へ

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週に1度、なじみの店に足を運び、女将さんや常連客と話をするのが何よりの楽しみという時男さん、63歳。店の人たちは、時男さんが長い間、精神科病院に入院していたことを知っています。

時男さんは10代のとき、統合失調症を発症しました。妄想などの激しい症状は、長い間でておらず、服薬と週に2度のデイケアで体調を維持できています。

現在グループホームで暮らす時男さんが初めて精神科病院に入院したのは、今から46年前の1968年。当時、時男さんは16歳で親戚を頼って福島から上京し、働き始めたばかりでした。しかし、慣れない環境と人間関係のストレスから体調を崩し、妄想などの症状に襲われるようになります。そして都内の精神科病院に入院。

このころ、国は精神障害者の隔離収容政策を進めていました。大きな契機となったのは、1964年に統合失調症の少年が起こした傷害事件。マスコミも一斉にキャンペーンを展開し、精神障害者を「危険な存在」と見なす社会の風潮が作られていきました。

当時の精神科病院の多くは、畳敷きの大部屋に大勢の患者を収容する劣悪な環境でした。入院直後で興奮状態にあった時男さんは、この先自分がどうなってしまうのか、恐怖を感じました。

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さらに衝撃を受けたのは、電気ショック療法でした。患者の頭部に電流を流し、症状を抑制する治療法です。電気ショックを受けた患者の様子を見て、恐怖と不安に駆られた時男さんは病院を逃げ出しました。大雪の降る夜、ヒッチハイクを重ね、住み込み先だった親戚の家にたどりつきます。しかしすぐに病院に連れ戻され、保護室に収容されました。

その後、時男さんは何度も症状を悪化させ、入退院を繰り返しました。家族が引き取ることは困難でしたが、父親はせめて実家に近い病院に移したいと、時男さんを福島の病院に転院させました。時男さんが22歳のときでした。

長期入院生活が社会復帰の意欲を奪う

福島の病院に移って数年。激しい妄想などの症状はほとんどなくなりました。統合失調症の症状は、多くが時間とともに落ち着いていきます。時男さんは病院では生活訓練のために、養鶏場や院内の厨房で働きました。

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「外で働くっていうのはホント、社会人になったような気がして楽しかった。ああ、俺これだけできるんだなっていう、強い気持ちができるんだね。仕事してれば、いつかは退院できるんじゃないかなと思って。」(時男さん)

このころ国は、ようやく隔離収容政策を転換。患者の社会復帰に向けて大きく舵を切り始めます。精神科病院での患者への暴行事件が相次ぎ発覚し、閉鎖的な体質が問題視されたからです。

そして1987年に精神保健法が成立。患者の社会復帰促進が初めて明確に打ち出されました。しかし、長年の国による隔離収容政策のために、「精神障害者は危険」という誤ったイメージを人々は払拭できず、退院した人が生活する施設への反対運動などが、各地で相次ぎました。

そんななか、時男さんは退院のめどがいっこうに立たず、居場所は病院しかありませんでした。入院生活が長引くなか、時男さんの気持ちにも変化が起こっていきました。

「俺はダメだなって、みんなそういうふうに思ってるのかなって。落胆しちゃった。」(時男さん)

2002年、国は、入院治療が必要ないにもかかわらず病院にとどまっている患者は7万2,000人と発表。このとき、時男さんはすでに51歳。入院生活は30年を超えていました。その間に、唯一面会に来てくれていた父親もこの世を去りました。しかし、長い入院生活で家族と疎遠になっていた時男さんに、その知らせは届きませんでした。

社会と切り離され、決められたスケジュールどおりの単調な毎日。時男さんは好きだった絵を描くことで、絶望感を紛らわせていたと言います。

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そして時男さんが59歳のとき、主治医から退院の話が出ます。しかし、時男さんは退院しませんでした。

「怖いっていう意識があった。俺なんか退院できないよ。だって年も年だし、誰も使ってくれないよ。そしたら、働かなくたっていいんだって、働かなくても退院できるんだって。グループホームに行けばいいんだって。そういうのあるのかなって、半信半疑だった。」(時男さん)

あまりにも長すぎた入院生活は、時男さんの退院への意欲を奪っていました。

東日本大震災で被災 1本の電話がきっかけに

2011年3月11日、東日本大震災が発生。福島第1原発の近くにあった時男さんの病院には、すぐに避難指示が出され、入院患者は受け入れ先を求めていくつもの病院を転々としました。時男さんは40年近く暮らした病院を突然出ることになり、この先どうなるのか不安でたまりませんでした。

時男さんは、避難先の病院の公衆電話から、すがるような思いで東京の友人に電話をかけました。

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その電話を受けたのが、織田淳太郎(おだ・じゅんたろう)さんでした。福島の病院で知り合った作家で、かつての入院仲間です。避難生活の苦労を聞いた織田さんは、この機会に病院を出て、地域で暮らしてみてはどうかと提案しました。

「なんでね、40年近くも入ってなきゃいけないのっていうようなぐらい、全然社会性もあったし、絶対なんとかなると思った。」(織田さん)

織田さんは、精神科医の石川信義(いしかわ・のぶよし)さんを紹介。石川さんも、時男さんには地域で暮らせる可能性が十分にあると感じ、時男さんを群馬県太田市のグループホームに紹介。入居が決まりました。

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時男さんは、40年近くのときをへて、自分らしい生活を取り戻すことができたのです。

「あの大地震がなければ俺、退院できなかった。退院してよかった。こんなにいいと思わなかった。だから俺は今は幸せだ、うん。」(時男さん)

40年をへて青春を生きなおす

ある日、時男さんはグループホームの職員に頼んで、故郷の福島に向かいました。どうしても会いたかった弟です。

夜7時、時男さんが約束の場所で待っていると、弟が来てくれました。兄弟が病院の外で話をするのは、子どものとき以来です。

「あ、久しぶり。約束どおり来てくれたから、俺ありがたいと思ってる。よかった。父親の墓参り1回も行ってねえな。(父に)会いたくて泣いたこと何回もあった。」(時男さん)

「死ぬまで心配してた。」(弟)

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翌日、時男さんは弟と一緒に父親の眠る墓地へ向かいました。父親の訃報も知らされず、葬式に出ることもかなわなかった時男さん。いつも自分を気にかけてくれていた父の姿を思い返していました。

今、時男さんは、失った青春を生きなおそうとしています。

グループホームの庭に、時男さんが大切にしているものがあります。ここで暮らし始めた記念に植えた柿の木です。最初はなかなか芽が出ずあきらめかけていました。

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「全然枯れ木みたいに芽が1つもない、ただ棒が突っ立ってるだけだったから、こりゃダメだなってあきらめてたの。そしたら、このへんから、芽が出てきた。あのときは何とも言なかったね。うれしかった。これ命と同じだもんね。ひとつの命がグループホームに芽生えたんだね。俺みたいなもんだ。孤独だったのが、だんだんみんなに溶け込んで。社会に再び出た、スタートだね。」(時男さん)

「社会的入院」はなぜ生まれるか

40年で多くのものが奪われても、今は幸せだという時男さん。時男さんのように、入院治療がすでに必要ない状態なのに、帰る所がないといった理由で長期入院を強いられている状態を「社会的入院」と言います。

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精神科病院の入院患者の数はおよそ32万人。そのうち、1年以上入院している人は20万人以上、10年以上同じ病院に入院し続けている人は7万人もいます。しかもこの長期入院者のなかには、社会的入院の人が相当多いといわれており、そのために「日本の精神科の平均在院日数は諸外国に比べて突出して長くなっている」と精神科医の岡崎伸郎さんは言います。

では、なぜ日本では社会的入院が生まれるのでしょうか。

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「もともと我が国の精神科の入院医療は、医師や看護師といった人員配置が少なくてもやっていけるように設定されている。そのかわりに、診療報酬も低く設定されてきた。まさに構造的問題。加えて日本では、民間経営の精神科病院が圧倒的に多かった。経営というところから見ると満床に近くしておかなければもたないため、積極的に退院させようとする力がなかなか育ってこない、働いてこないということがあります。」(岡崎医師)

さらに、岡崎医師は家族側の事情と支援体制の不備も指摘します。

「家族としては、本人を精神科の専門病院に入院させて一安心、という気持ちがあったでしょう。その期間が長くなってくる間に、本人抜きの生活形態というのができあがってしまう。それが10年20年となると、代替わりもしてしまうことになります。一方、家族に対する支援体制というのも非常に不十分だった。精神障害者に対する根強い差別偏見がある。そして、最も責任が重いのは、国あるいは行政ということになると思います。戦後、長きにわたって、隔離収容型の精神科医療政策が続いていた。とっくに時代遅れなんだけど、そこからの脱却に失敗し、複合的な構造的な問題を固定化させてしまった。」

現在、国は社会的入院の人たちが地域で暮らすためにどんな方策が必要かを考える検討会を開いています。社会的入院を強いられてきた人たちの市民生活を取り戻すために、今、何ができるのか。根本的な解決に向かって議論が進められることを望みます。

※この記事はハートネットTV 2014年6月10日(火)放送「60歳からの青春 ―精神科病院40年をへて―」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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