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住み慣れたふるさとで最期を 広島・芸北の医師の取り組み

記事公開日:2019年06月06日

中国山地に位置する広島県北広島町芸北。過疎と高齢化が進み、入院施設がないこの町では、かつて、ほぼすべての高齢者がふるさとを離れて亡くなっていました。「住み慣れたふるさとで最期を迎えたい」。そんな患者の願いをくみ、希望をかなえようと奮闘する医師の日々を追いました。

患者の「生きる力」が介護する側の負担を減らす

広島市内から車で1時間半。広島県北広島町芸北は、2000人余りが暮らす農業の町です。入院できる施設がないこの地域では、ほとんどの人が車で30分以上かかる別の地域や広島市内の病院で看取られていました。

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医師 東條環樹さん

広島県の山あいの集落で、診療所の所長をつとめている医師の東條環樹さんです。東條さんは患者が最期までふるさとで過ごせる仕組みを作ろうと取り組んできました。

介護する家族を細やかにケアし、看護師やケアマネージャーなどチーム全体で患者を支える。その結果、今では半数以上がふるさとで最期を迎えることができるようになりました。

画像(東條さんの診療所)

東條さんがつとめる雄鹿原診療所は、この集落で18年診療を続けています。患者とはみんな顔見知りです。

画像(横たわる市川ハツエさん)

市川ハツエさん(93)は、腸の病気で入院していましたが、完治したため、最近自宅に帰ってきました。ハツエさんの世話をするのは一緒に暮らす妹の春美さん(90)です。老々介護となる2人の生活をどう支えるか。看護師やケアマネージャーなどに医師の東條さんを含め5人でカンファレンスが行われました。

画像(ハツエさんについてのカンファレンスの様子)

東條さん「ハツエさんは、気持ちの元気がなくなっているのと、入院したことで寝ついてる時間が長かった、というのが今の状況」
ケアマネージャー「起きて過ごす時間が増えてきたら、もうちょっと活動できるかなと思います」

病気は治っているはずなのに、気分が落ち込み、なかなかベッドから出てこられないハツエさん。それが、介護する春美さんにとって大きな負担となっていました。

春美さんにとって、ハツエさんを支えながら暮らすのは簡単ではありません。冬には雪が1メートル近く積もり、雪かきだけでも重労働です。また近くに生鮮食料品を扱う店はないため、買い物は宅配などに頼っています。

画像(春美さんとハツエさん)

食事が終わるとすぐに横になろうとするハツエさんに、春美さんはつい、いらだちをぶつけてしまいました。

春美さん「最期まで、あんたが死ぬまでここにおりたいか?」
ハツエさん「うん」
春美さん「かなわんで。いつまで生きるのかいのう。いつまで続くんかいね思う」

春美さんは、ハツエさんにデイサービスに行ってもらうことにしました。生活リズムを取り戻してもらうためです。しかし、デイサービスから帰ると、すぐにベッドに横たわる日々が続いていました。

1か月後、東條さんが市川さんの家を訪れました。ハツエさんは、この日もベッドに横たわったままでした。このままでは共倒れになってしまう。東條さんはハツエさんにあえて厳しい言葉をかけました。

画像(今後のことについて話し合う東條さんとハツエさん、春美さん)

東條さん「この生活は、春美さんが『わしゃもうお姉さんのこと見れんわ』言うたら、終わりになります」
ハツエさん「春美さん、すいませんのう、あんたに迷惑をかけて」
春美さん「わかっとるんならええわいね。こっちはわかっとらんのか思ったよ」
ハツエさん「寝とっちゃいけん」
東條さん「春美さんが『おってもええよ』っていうくらいの、元気な生活を取り戻してもらう。みんな責めているわけじゃないので。元気になってくださいねっていうみんなからのお願いです」

家族にはどうしても甘えてしまうため、時には医師から厳しい言葉をかける必要がある、と東條さんは言います。5日後に東條さんが訪問すると、ハツエさんに変化が。初めてハツエさんが起き上がって迎えてくれたのです。

画像(東條さんを起き上がって出迎えたハツエさん)

ハツエさん「そろそろみんな元気になる言うてくれてだけえ、元気になるんかのう思うて」

日中起きて過ごすようになったハツエさん。歩く練習も始めました。

「非常に前向きになられていて、それをお世話している春美さんも実感してくれていて、本当に嬉しかったです。こちらから頭ごなしに、こういうことをしなさいではなくて、納得のうえで、本人や家族が、どう状況を改善していくかということに、価値があると思います」(東條さん)

自宅や地域の施設で看取りができるように

東條さんが今の医療にたどり着いたのは、ある患者との出会いがきっかけでした。

医師になって6年目。
海外で暮らす被爆者の健康相談に乗るため、ブラジルに派遣された時のことです。末期がんの患者に、日本での治療を勧めましたが、断られました。

画像(ブラジル在住の被爆者健康相談に出向いた東條さん)

「今さら、知り合いも減った日本に帰って治療を受けるより、これでいいんだと。このままブラジルで妻と一緒に最期を過ごすからっていうふうに言われて、本当に衝撃でしたね」(東條さん)

命を延ばすことだけが医師の仕事ではないと気付いた東條さん。住み慣れた場所で最期まで過ごしたいという患者の思いに応えようと決めました。

東條さんがまず取り組んだのは、「芸北では最期を迎えられない」という常識を変えることです。看取りの経験がほとんどなかったスタッフと勉強会を重ねました。そして、自宅で暮らせなくなった人でも、最期まで芸北で生活できるようにと、芸北唯一の特別養護老人ホームに声をかけました。

画像(特別養護老人ホームで診察する東條さん)

この施設では、これまで容態が急変した入居者を他の地域の病院に搬送していました。しかし、東條さんが主治医となることで、万が一の場合には駆けつけ、看取りができるようにしたのです。

最期の時に入居者と家族が一緒に過ごせる部屋も作られました。家で暮らせなくなっても地域の中に頼れる場所がある。それが、患者や家族の安心につながると言います。

「在宅の看取りがある程度うまくいっているのは、地域にやまゆり(特別養護老人ホーム)があるからで、自宅で頑張るところまで頑張って、どうしても駄目だったら、やまゆりに入って、そこで最期を迎えられる」(東條さん)

前向きに現状を受け入れる判断も大切

長年一緒に暮らしてきた中原保男(87)さんと一二美(82)さん夫婦は今、自宅での生活を続けることが難しくなっています。

画像(中原保男さんと一二美さん夫婦)

妻の一二美さんは、小児まひのため不自由だった足を3年前に骨折し、まったく歩けなくなりました。夫の保男さんは、心臓に重い病気を抱え、いつ倒れてもおかしくないと診断されています。どうしたら2人が安心して自宅で暮らせるか。東條さんや看護師たちスタッフは話し合いを重ねてきました。

この日は、万が一に備え、施設に入居の申し込みをしてはと提案することにしました。

画像(一二美さんについてのカンファレンスの様子)

看護師「施設の申し込みっていうのはすごくつらい話かもしれませんけど」
一二美さん「私は家がいい、絶対に家がいい。よそへ行こうとは思うとらん」

一二美さんは、病院や施設には抵抗があり、申し込むだけでも嫌だと言います。この日、結論は出ませんでした。

しかし、2月下旬、保男さんの体に異変が起きました。一時的に呼吸困難に陥ったのです。保男さんは広島市内で精密検査を受けることになりました。一二美さんは3日間1人で自宅で過ごしました。いつも2人で過ごしていた部屋も、1人では勝手が違い、不安も募ります。改めて厳しい現実を突きつけられ、一二美さんの心境に変化が起きていました。

「その時になってみなわからんがね。1人じゃおられんよね、確かにね。1人でおりたいけど、1人じゃおられん。そう思う」(一二美さん)

東條さんは先のことを見すえ、2人の説得にあたりました。

画像(東條さん)

東條さん「保男さんも違う結果だったら、しばらく入院せい言われたかもしれない。将来的にはやっぱり生活の場を考えんといけんのですよね」
一二美さん「わかった」

中原さん夫婦は施設に申し込むことを決めました。ぎりぎりまで、2人でこの家で暮らし続けたい。そのための前向きな選択です。「住み慣れた土地で最期まで暮らしたい」そんな当たり前の願いを誰もがかなえられる日を目指して、東條さんは走り続けています。

※この記事はハートネットTV 2019年5月22日放送「死ぬまでここにおりたい~広島・在宅医療の現場から~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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