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「災害弱者」 繰り返される悲劇

記事公開日:2019年05月17日

平成の30年、日本は多くの自然災害に見舞われ、災害時にとりわけ被害をこうむる「災害弱者」の存在が知られることとなりました。国は支援が必要な人の名簿作成に着手し、差別解消にも取り組みますが、平成が終わる今も問題は解決していません。悲劇はなぜ繰り返されたのでしょうか。

遅咲きの弁護士 障害者差別禁止の第一人者に

障害者をまもるために半生をささげてきた人がいます。弁護士の東俊裕さん(66)。故郷の熊本で流行ったポリオで右足が不自由になり、車いすで生活をしています。

画像(東俊裕さん(66))

東さんが熊本で弁護士業をはじめたのは平成元年、36歳の時でした。当時、障害者から「差別を受けたから助けてほしい」という相談が相次いだといいます。しかし、何が差別なのかを定めた法律はありませんでした。そこで、東さんは全国の仲間と障害者の差別を禁止する法律を作ろうと研究を始めます。

平成18年12月、国連で「障害者権利条約」が成立します。東さんは、この条約を制定する会議に日本政府の顧問として参加しました。しかし、日本はまだ国内の法律が不十分で条約を批准できませんでした。

世界に大きく遅れをとった日本。しかし、平成21年の政権交代を機に、障害者施策に大きな変化が起こります。障害者制度改革を推進するための会議が開かれ、障害のある当事者や家族の声を直接政策に反映する場が生まれたのです。そのとりまとめ役に選ばれたのが、東さんでした。

「権利条約の精神について、"Nothing About Us Without Us"(我々抜きで決めないでくれ)と。当事者参画ということが非常に重要な要素でした」(東さん)

東さんが目指したのは、障害者が日々の暮らしで差別されないための法律を作ること。東さんたちは、政府や省庁、関係者と30回も会議を重ねて、ようやく障害者基本法の改正案をつくり上げます。この改正案を菅直人首相(当時)が了承したのが、平成23年3月11日午前のことでした。

障害者差別解消法成立も、残る課題

「やれやれ、ようやく一息つける」そう東さんが思った矢先の、同日14時46分、東日本大震災が発生します。

画像(東日本大震災の津波に沈む家屋)

2万2千人を超える死者・行方不明者を出したこの震災でも、災害弱者の支援は混乱を極めました。一部の自治体が作成していた「命のリスト」(自力で避難が困難な人たちを記した名簿)も、個人情報保護を理由に、支援者に開示されることはほとんどありませんでした。広域に避難指示が出た福島県では、避難から取り残された障害者もいました。

4月、東さんは自ら車を走らせ、被災地の障害者を探し回りました。

「しつこく聞くと、障害者どころじゃないっていう、そんな雰囲気でしたね。あんな災害が起きて障害者は、いったいどこで、どんなふうに生きてんのかと」(東さん)

画像(車内に残された壊れた車いす)

のちに東さんは、障害者の死亡率が、全体の2倍以上だったと知ります。日常ばかりでなく、災害時でも障害者を守るため、法律家の自分の役割を考えました。

「阪神・淡路とか、それ以後の災害でも、障害者はとても大変な目にあっていたわけですよ。だからもっと正面から、あの地震がおこる前から、どう国内法制度に落とし込むかっていう議論を本当はしなきゃならなかった。ちゃんと現実を見なきゃなんない」(東さん)

東日本大震災から2年後の平成25年6月19日、「障害者差別解消法」がようやく成立しました。

画像(障害者差別解消法成立時の国会の様子(平成25年6月19日))

そして、「障害者差別解消法」の成立の2日後には「災害対策基本法」が改正され、「命のリスト」作りが行政の義務となりました。また災害時には、防災組織や支援団体にも本人の同意なく渡すことができるようになりました。

ただし、個別の避難計画策定は義務とはならず、完了した自治体は今も2割に届いていません。誰が支援を担うのかという課題が、次の時代に残されました。

災害は年中行事 意識を変えることが必要

平成26年、自分の役割を終えたと感じた東さんは、熊本へ戻ります。大学で教鞭を執りながら、一弁護士として生きていくつもりでした。

しかし、平成28年「障害者差別解消法」が施行された直後の4月14日、今度は熊本地震が起きます。

画像(熊本地震で1階がつぶれた家屋)

東さんの元に、避難所の実情が次々と届きます。
「車いすトイレがなく自宅に戻った」
「誘導係がいないからといわれ、視覚障害者が避難所に入れなかった」
行政の備えも、避難所を運営する市民にも、何かが欠けていました。

「法律ができるということはとっても大きな影響力があるんですけど、でも実際(地震が)起きたらガッカリっていうか、これほどまでに(法律が)災害支援の施策の中に位置づけられてないのかと、嫌というほど感じましたね」(東さん)

東さんは、勤務する大学に働きかけ、バリアフリーの講堂を開放し、障害者や高齢者が排除されないインクルーシブな避難所を作りました。阪神・淡路大震災をきっかけに生まれた「ゆめ風基金」など、全国のネットワークが東さんたちを支えました。

6月、益城町で仮設住宅が建ったと聞き、東さんは視察に向かいました。10軒に1軒は玄関にスロープが備えられていました。ところが中に入ると、風呂やトイレは狭く、あちこちに段差があったのです。

画像(段差のある仮設住宅を視察する東さん)

「それを見た途端、僕はもう頭にきてね、県の職員に怒鳴ったわけですよ。熊本県には車いすの障害者はいないのか、答えてみろって。できたものはまったく障害者がいないかのごとくね、そういう社会を想定していないわけです。障害者は一般の人よりも大変なんです。建前は福祉、福祉という言葉が駆け巡ってますけど、いざという時に、本当になんにもないんだなというのが、とってもショックだった」(東さん)

平成30年7月。西日本豪雨が起きます。倉敷市真備町では、犠牲者の9割が高齢者や障害者でした。命のリストに登録されたある家では、知的障害のある母親と5歳の少女が避難できないまま屋内で溺れて、亡くなりました。近所で2階に上がり助かった住民たちは、この母子とほとんど交流がありませんでした。

画像(西日本豪雨で亡くなった母子の写真)

「地域とのつながりを、職場と家しか往復しない人たちに働きかけても、なかなかそれは難しいと思うんです。だからポイントは、防災をテーマとして子どもたちが、実際に地域の人たちと一緒になって、災害が起きた時に障害者とか高齢者含めて、どういうふうに自分たちで身を守っていくか。少なくとも、教育課程に防災教育を入れなきゃだめです。災害は年中行事ですよ」(東さん)

自然災害にどう備え、どう身を守るかは、一人一人が考えなくてはならない課題です。自力での避難が難しい人がいて、行政ばかりでなく近所で暮らす誰かの手を借りなければ助からないことを知っておくことが、「災害弱者」を生まない社会への一歩です。

※この記事は2019年3月6日(水)放送 ハートネットTV シリーズ平成が残した宿題「第8回 災害弱者」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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