ハートネットメニューへ移動 メインコンテンツへ移動

“豊かな終わり”を見つめて 医師・徳永進さんの思い(後編)

記事公開日:2019年04月22日

鳥取市でホスピスを備える診療所を営む院長・徳永進さん。診療所での診察と同時に、患者の自宅での緩和ケアにも取り組んでいます。40年以上、医師として最期まで患者とその家族を支え、生と死を見つめ続ける徳永さんに、その思いを伺いました。

キュアとケアは入り混じるもの

徳永さんが、ある漁村に住む末期がんの女性宅を訪ねた時のことです。
女性は入院や検査を勧めても「ここで死ぬ」と迫力のある言葉で答えます。それならと自宅でできる輸血などの治療を徳永さんは考えていました。すると同行していた看護師が、「この人、頭洗ってないし、足も何か汚れてるみたいだから洗う」と言い出します。

画像(往診する徳永さんと看護師)

徳永さんは看護師のサポート役に回り、お湯を汲んだり、シャンプーで頭を洗ったり。最後に看護師さんが熱々のタオル3本を台所の熱いお湯でつくって持って来ます。そして顔にペタっとつけて、額のほうにつけて、もう一度、じーっと熱いタオルを置いて、10秒か15秒したとき、その女性が「気持ちいいー」と言ったのです。

一切の医療行為を拒んだ患者が、看護師のケアで命のある言葉を紡ぐ。そのことを見て、徳永さんはキュア(治療)とケア(介護、世話)についてこう考えるようになったといいます。

「患者さんが病んで老いて、がんの末期を迎えて亡くなるというときに、手術とか抗がん剤は医療、医者たちがやるキュア(治療)と決めがちなんですけど、よく考えてみますと、ことの始まりからケア(介護、世話)もキュアも入り混じってるというのが私の感じだったんです。線を引いて、ここからは治療で医者たちの仕事、ここからは看護師さんや介護師さんのケアというのではないのではないかと思うんです」(徳永さん)

在宅での看取り「迷惑は宝」

徳永さんは自宅での緩和ケアをひろめる取り組みを始めています。

半世紀ほど前までは、半数以上の人が自宅で亡くなっていましたが、今は1割ほどになっています。多くの人は慣れ親しんだ家で生を全うすることを望むものの、設備や家族の負担の重さから、病院に頼ることになってしまうのが現状です。

画像(在宅の患者さんと話す徳永さん)

しかし、患者にとっての心安らぐ場は、やはり自宅というのが徳永さんの思いです。

「みんなおっしゃるのは、家へ帰りたい。現実は実現性が少ないけど、帰られた人がおっしゃるには、何がいいかというと、庭の花が見えた、孫がいる。近所の人の声が聞こえる。それからお母さんが台所でタマネギ刻んでソラマメのみそ汁をつくったりしてくれる、手づくりの料理はやっぱり違うんです。そういうものがその家のもので、患者さんたちの言葉も違ってくる。『わかりました、きょう楽です』って病院でいってたのが、『おい、おかあ、平気平気、ここへ持ってこい』と、言葉は自然に戻るんです。表情も。そのことが意外ととても大事で、変な言い方ですけど、死を迎えやすい支えになっているというのがある。痛みも、病院ではこれぐらいの痛み止めが必要だったのに、少なくなるというのは多くの在宅をやってる医療者たちが口をそろえることです」(徳永さん)

画像(在宅で診察する徳永さんと患者さん)

現在、在宅医療のシステムや介護保険も充実し、訪問看護、デイサービス、訪問入浴など、受けられるサービスも多様になっています。さらに自宅で使える医療機器や器具の種類も増えています。その一方で、そういった在宅で受けられるサービスや資源を使い切ることを、在宅での看取りのゴールにしてはいけない、とも徳永さんは考えています。それは、自宅で母親を看取った女性に、母親の死後「私は何をしたのでしょう」と落ち込んだ様子でいわれたことからでした。

「そこそこ社会資源を使いながら(自宅での看取りを)できたなと思って、そんなに悪い経験とは思ってなかったときに、娘さんがそうおっしゃって、『しまった』と思ったんです。在宅を最終的に選べない理由に、みんな家族に迷惑かけたくないという大きな柱が1本ある。これは日本中、共通した心境です。迷惑をかけないために介護保険をしっかり使ったんですけど、少しぐらいの迷惑をかけられて、自分がおむつを交換したとか、ある程度あったほうがよかったという意味なんです。迷惑なしにしちゃうと、別な後悔が生まれる。迷惑は確かにないほうがいいという気持ちはわかるけど、迷惑はときに宝だというようなことも思うわけです。残された者の後悔を少しでも減らすためには、社会資源を使い切ることを目標にしてはいけない。それに支えてもらいながら、お互いに手を汚して、もちろん手は洗って、そうしながらやれたほうがつくっていける」(徳永さん)

死を委託する社会 悔いを減らすには

どのような場所、経緯で迎えたとしても、受け容れがたいのが大切な人の死。自宅以外の場所で最期を迎える人が大半の今、少しでも残された者の後悔を減らす方法はあるのでしょうか。

画像(病室イメージ)

「みんな抱えて家でみなければいけないという意味じゃないんです。昔は家で亡くなることが多くて、昭和23年は83%を家でみた。昭和49年に5割5割になって、最近、逆に家が13%、病院が75%ぐらいになった。死を委託しだしたんです。私たちはいろんなことを委託する社会になってきて、老いも、死も、委託しだす社会にどうしてもなりやすい」(徳永さん)

徳永さんは、それでも、「より後悔しない、軟着陸できる死をつくりあげる」方法があると考えています。

それは、家族が死というものに参加していくこと。例えば、臨終の間際に医師や看護師と一緒に使用する薬やケアを相談すること。家族が交代で、最期のときまでそばで付き添うこと。そういった過程を経験することで、大事な人の「死」を了解しやすくなるのだと徳永さんはいいます。

画像(徳永さん)

「どこかで“参加する”ことができると、死が少し自分の中でも溶けてくるし、死そのものも軟化されていくんじゃないかという感じがある。後悔しだすと、本当にいろんなこと後悔するけど、別のことで参加したんだと肯定的に捉えることもいっぱいある。死は捉えどころがない、得体の知れない大きいものですから、乗り越えたとはなかなかならなくて、私たちが、何か包まれてるものなんです。解決もできず、解明もできず。そこが大事なところで、解明できないものの中を航海してるという姿。死はそれを教えてくれる。私たちは解明できないものの中で生まれ、そして解明できないものの中に向かって航海するようだと。ほかは全部、近代科学で解決へ導こうとするんだけど、根本は解決がないんじゃないかという」(徳永さん)

死を受け容れる力 いのちの回路

命を授かったが故に、避けて通れない、終わりのとき。死を目前にして、暴れたり取り乱したりする人でも、最期のときがくると、堂々と死に向かっていくさまを、徳永さんは目の当たりにしてきました。そんな姿を見て、徳永さんは、命が離れていくとき、人にはそれを受け容れようとする力が予め与えられているのではないかと、感じるようになったといいます。

「堂々と死を受けていく。そして、脱水を上手に起こして、食べることももういい。感謝しとるというような言葉さえ吐かれる人もある。きれいな下顎(かがく)呼吸(注:顎であえぐような呼吸。死期が近いときの呼吸)という、自分がしようと思ってできる呼吸じゃないんですけど、顎を使って。それを生きようとしてというよりも、死への旅立ちの呼吸みたいに思えて。それを、その人の意思ではなく、その宇宙が持ってる表現の仕方として、そういう呼吸をされて、そのときを迎えていかれるんです。人の死んでいく力を見ていると、人間もやるなって。そういう渾身の態度、誠実な態度は誰もが秘めてて、それまではひきょう者と言われるようなこともあったり、うそつきと言われるようなことがたとえあったとしても、死を前にすると、ほとんどの人が誠実に向かっていかれるという、それに敬意を覚えたんです」(徳永さん)

堂々と死に向かっていく人の姿に敬意を覚えたという徳永さん。哲学者の鶴見俊輔さんの言葉を使いながら、生を受けてから死を迎えるまでについて語ってくれました。

画像(いのちの回路)

「いのちの回路、回路というのは回る道です。赤ちゃんが産まれてくるときに、産道をこうして、こうして、次はこれやってと、きっと考えてないと思うんです。産道を通る場合ですけど、赤ちゃんは不思議な回路を、戻らずに難渋することはあっても、自分の意思ではなく、何かわからない回路でおぎゃあと生誕する。生誕の回路が本人にとって無意識であったみたいに、あるときから死への回路があって、そこからは、まるで産道のような形で、ううっと死のほうへ向かって入っていかれるという。いのちの回路というのは生まれるときからありまして、そして、回りながら、死のときにも死への回路があって、じゃ、どこからその回路は始まってるんだというのがわからんところが、おもしろいところなんです」(徳永さん)

画像(診療所に飾られているボード)

この診療所を開いてから20年近く。徳永さんは、ここから旅立っていった人々のことを、常に心に留めています。果たしてこの方たちに、最善を尽くせたのか、徳永さんは、自問自答を繰り返しています。

医師、徳永進さん。これからも、患者さんがその人らしく人生を終えられるよう、寄り添い続けます。

※この記事は2018年6月24日放送 こころの時代「“豊かな終わり”を見つめて」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

あわせて読みたい

新着記事