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限界集落でも、最期まで暮らし続けたい

記事公開日:2019年04月17日

険しい九州山地の山ふところにある、宮崎県児湯郡木城町中之又。ここで暮らすおよそ50人の8割近くが高齢者という、いわゆる「限界集落」です。この場所で小さな介護施設を営んでいるのが、介護福祉士の中武千草さん。「お年寄りがふるさとで最期を迎えられるように」との思いからでした。限界集落で生きる人々の理想と現実を見つめました。

自然豊かな地に立つ「かぐら宿」

2018年11月の昼下がり。介護ホーム「かぐら宿」から明るい歌声が聞こえてきます。

画像(かぐら宿で歌う入居者たち)

かぐら宿は、空き家を改装して作られた有料老人ホーム。体が衰えたり、認知症になったりして介護が必要になった高齢者6人が入居しています。

画像

介護福祉士 中武千草さん

かぐら宿を運営するのは、介護福祉士の中武千草さん(63)。中之又ではまだまだ若手です。
料理には、地元で採れた野菜や山の幸をふんだんに使っています。大根に人参、しいたけ。食材の多くは、地域住民からのおすそ分けです。

画像(かぐら宿の食事風景)

「山のもん、なんでも好き」(入居者)
「ごちそう食べさせてくれるのが一番楽しい」(入居者)

ここでは12人が交代で24時間態勢を組み、入居者のケアに当たっています。最も近い診療所でも車で1時間。何か急なことが起こっても、ただ救急車を待つ、というわけにはいきません。

「吐いたとか、ああいうときにはこっちでは対応できんからですね。動かされる場合には、私の車で走って、途中から救急車に引き取ってもらってって形じゃないと遅くなるもんですから」(千草さん)

かぐら宿では、豊かな自然環境とは裏腹に、緊張感を持った対応が求められます。

限界集落でもここで最期を迎えたい

千草さんと利用者が近所を散歩していると、昔からの知人が声をかけてきました。

知人「こんにちは。どこ行くん?」
知人「みっちゃん元気がいいが!」

このあたりはかつては「銀座通り」と呼ばれ、旅館やパチンコ屋もありました。

画像(昭和20年代の中之又地区)

昭和20年代から30年代のはじめにかけて、鉱山で栄えた中之又地区。最盛期にはおよそ800人が暮らしていました。しかし、昭和33年に鉱山が閉じたあとは、急激に人口が流出し、過疎化が進んでいきました。

集落の衰退を食い止めたい。そう考えた千草さんが平成7年から始めたのが「山村留学」の受け入れです。当時、全国の過疎地で行われていた活性化策に眼をつけました。都市部の小学生を中之又の家庭で預かり、地域の小学校に通ってもらう取り組みです。

画像(神楽を教わる山村留学生たち)

子どもたちは、都会ではなかなか味わえない自然の遊びを体験したり、郷土芸能の「神楽」を地元の住民から教えてもらったりして、お互いに交流を深めていきました。しかし、児童数の減少は食い止められず、平成21年、中之又小学校は閉校。「山村留学」の受け入れも終わりました。やがて「限界集落」と呼ばれる状況になった中之又。医療も福祉も整っていない環境では暮らしを保てず、ふるさとを離れる高齢者が増えていきました。

そうしたなか、千草さんが地域のあり方を見つめ直す転機がありました。

画像(千草さんと母・文代さん)

共に暮らしてきた母親をふるさとで看取れなかったことです。母・文代さんが最期のときを過ごしたのは、遠く離れた町の病院でした。

「中之又から病院は遠いものだから知った人がいないし、もともと人見知りだったから。ずっと『自分のところに帰りたい』ってよく言ってた」(千草さん)

「中之又に帰りたい」と何度もつぶやいた文代さん。
しかし、その願いが叶うことはなく、病院の一室で亡くなりました。中之又で最期を迎えられるような、そういうところができないか。千草さんは考えました。

「みんながすぐ声をかけてくれるとかね、村の人が『なんか採れた』ってなったら持ってきてくれるとか、そういう中で声をかけていけばね、認知症の状態でも、日常生活も案外楽しくやっていけるんじゃないか、ぐらいに思ってたんですね。だからここに、ちっちゃくてもいいから施設が欲しいなって思ったの」(千草さん)

そこで8年前、地域の空き家を使って千草さんが立ち上げたのが「介護ホームかぐら宿」です。
介護人材の不足が一番の課題でしたが、家族や親戚に資格をとってもらい、なんとか確保。今もスタッフの多くは、身内や以前からの知り合いです。

かぐら宿は家族にとっても大きな支えに

地元に介護施設ができたことは、入居者の「家族」にとっても、大きな支えとなっています。中武福男(90)さんの妻は、かぐら宿に6年前から入居しています。

画像(中武福男さんと妻・スエさん)

山や畑での仕事に加えて民生委員も務める忙しい福男さんを、妻のスエさんはずっと支えてきました。

「あれは優しかったですよ。ちょっと気の強い女じゃけど、よう愛してくれましたわ。(スエさんが)一生懸命頑張ってくれたからよかった。年が2つ上じゃからよう分かってくれたから」(福男さん)

この日、福男さんは息子と2人で、畑で採れた人参をスエさんに届けに、かぐら宿を訪ねました。

画像(中武福男さんと妻・スエさん)

スエさん「おいしいがね。」
福男さん「おいしかった。」

妻と離れ、息子との2人暮らしになって早6年。身の回りのことは自分で行ってきましたが、次第に苦労も多くなってきました。運転免許も返納したので、外へ出かけるためには、息子の助けが必要です。
今後もふるさとで暮らし続けたいと思う一方で、いつまで生活を保てるのか。先の見えない日々が続いています。

新たな助け合いの仕組み

ふるさとの将来を案じ、新たな試みを始めた人がいます。かぐら宿を切り盛りする千草さんの夫、春男さん(65)です。

画像(「たすけあい鹿倉」の看板を掲げ持つ春男さん)

「たすけあい鹿倉」

住民同士の助け合いの「組織化」を目指す試みです。日々の暮らしで何か困りごとを抱える住民に対して、他の元気な住民が有償で助ける、というのが基本的な仕組みです。
この日、春男さんが向かったのは、夫婦で暮らす濱砂八重子さん(81)のお宅。町へ買い物に行くための運転の代行を頼まれていました。

画像(八重子さん夫婦の買い物の手助けをする春男さん

中之又から山道を下ること1時間あまり。町のショッピングモールで、八重子さんは大量の商品をまとめて購入。春男さんは、荷物を車まで運ぶのも手助けします。この活動を始めて1年。今のところ、助ける側を担っているのは、春男さん夫婦だけ。それでもできる限り続けていく覚悟です。

「最後までもがきたいですよね。なんとかせんと。自分が中之又に住みたいから、しているのかもしれませんけどね。人を巻き込んで、巻き込もうとしているのかもしれませんね」(春男さん)

中之又の豊かさを廃れさせないために

秋が深まり、中之又がもっとも活気づく季節がやってきました。
郷土芸能の神楽の練習日。中之又に若者たちの姿がありました。かつて千草さんが取り組んだ「山村留学」に参加し、中之又を“第二のふるさと”と慕うようになった若者たちです。

画像(かつて山村留学に参加していた若者たち)

「毎年来てます。高校のときは2年間これんかった。あとは全部。取りつかれてます」(若者)
「みんなが、クリスマスや正月を迎えるのと同じ感じだと思いますね」(若者)

中之又の人々は、およそ500年前から代々、神楽を受け継いできました。指導にも熱が入ります。

地元の人「3回目で開く!」
若者「ああそうか。ここも次からですか?」

画像(神楽を練習する若者たち)

「遅くなっても駆けつけてくれるから、これが嬉しいのよね。絶対やめちゃいかんね!」(千草さん)

画像(神楽当日の様子)

12月8日、中之又神楽の本番です。夜を徹して、33の演目を土地の神々に捧げます。多くの人が集まり、賑わいを見せました。

「こういう山の中においても、町以上な豊かさというか、そういうものを感じているところがありますね。発展していって大きいことをしようとかじゃなくて、廃れさせない、諦めずにぼつぼつやっていきたいっていうのが、これからのずっと目標です」(千草さん)

中之又神楽から2週間。かぐら宿で一人の女性が息をひきとりました。ふるさとで迎えた穏やかな最期でした。

画像(入居者と過ごす千草さん)

「ここに私たちがおるっちゃから、最期まで楽しくやっていけたらなって。心の寄りどころじゃないけど、いつか何かあったときにはって思ってくだされば、それだけで十分と思います」(千草さん)

たとえ「限界集落」と呼ばれても、ここで暮らし続けたい。そう願う中之又の人々の模索は続きます。

※この記事はハートネットTV 2019年1月30日放送「最期まで、ふるさとで~“限界集落”で暮らし続けるということ~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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