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強制不妊手術の真実 54年目の証言

記事公開日:2018年03月30日

日本で戦後、「優生保護法」(1948~1996年)という法律のもとで行われていた、障害者への強制不妊手術。2018年1月には、かつて手術を受けさせられた女性が国に損害賠償を求める訴訟を起こすなど、今、当事者が自らの経験を語り、人権を救済してほしいと声を上げる動きがあります。証言をもとに歴史を振り返り、障害のある人の権利について考えます。

「優生保護法」のもと行われた強制不妊手術

戦後、日本ではある法律によって、障害者が子どもを産むことを制限してきました。その法律とは、「優生保護法」。目的は、「不良な子孫の出生を防止する」こと。知的障害や精神障害の人が子どもを産まないよう、優生手術と呼ばれる不妊手術を認めていたのです。

1948年から96年の間に、母体保護目的のものも含めて実施された不妊手術は84万5,000件に上り、そのうち本人の同意を必要としない強制的な優生手術は1万6,000件以上。その7割近くは女性への手術でした。

なぜこうした手術が行われたのか。その始まりは1940年。戦争に向けた国力増強のため、「国民優生法」が成立します。「優生思想」という考えのもと、当時、遺伝すると考えられた障害や病気のある人に不妊手術を促し、国民の質を高めようとしたのです。

その考え方は戦後、「優生保護法」にも引き継がれます。敗戦からの復興を目指すなか、「不良な子孫の出生を防止する」目的で不妊手術が行われました。

さらに、高度経済成長期になると、国は高い生産性を実現するため「人口資質の向上」を目標に掲げ、当時の厚生省は次のような決議を出しました。

「人口構成において、欠陥者の比率を減らし、優秀者の比率を増すように配慮することは、国民の総合的能力向上のための基本的要請である。」

国内外での批判が高まり、ようやく優生保護法が改正されたのは、1996年のことです。しかしその後も、手術を受けた人たちへの、国による謝罪や救済の動きはありませんでした。

不妊手術から54年目の証言

仙台市に暮らす飯塚淳子さん(70歳)は16歳の時、軽度の知的障害を理由に、何も知らされないまま不妊手術を受けました。今の思いを、飯塚さんはこう語ります。

「やっぱりね50何年、その間ずっと悩みながら、誰にもしゃべれないんで、心に秘めながら生きてきたんで。私もいつ死ぬかわからないから、昔のことであっても明らかにしてもらいたい。」

飯塚さんは14歳の時、民生委員に連れられて児童相談所で知能検査を受けます。判定は、軽度の知的障害。その後、障害者施設に入所しました。

飯塚さんが、住み込みで家事手伝いをしていた16歳の時(1963年)のこと。職親(知的障害者の生活・職業指導を引き受ける人)によって県の診療所に連れて行かれ、卵管をしばって妊娠できなくする手術を受けさせられました。

それが子どもを産めなくするための優生手術(不妊手術)であることは、後に知ることになりました。再び子どもを産める体になりたいと医師に相談しましたが、元に戻すことはできませんでした。

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「その日、手術が決まってたかどうかは知らないの、私、何にも聞かされてないから、その後はちょっと覚えてないのね、麻酔かけられたのも覚えてないし、ただ麻酔が切れてそこに水道があって、水飲みたくて飲もうとしたら水飲んじゃだめだよって言われたのは覚えている。」(飯塚さん)

退院後、実家で両親が話しているのを聞き、初めて自分が不妊手術を受けたと知りました。

「自分の人生がもう終わりみたいな感じ、結婚できないとか。戻りたいけど、返せったって元には戻らないんで。」(飯塚さん)

実は飯塚さんの手術は父親が同意し、書類に判を押していました。なぜ手術を認めたのか。亡くなる直前、父親は一通の手紙を書き残しました。

「やむなく印鑑を押させられたのです。優生保護法に従ってやられたのです。」

21歳の時、結婚。新たな人生を歩み始めます。子どもをあきらめきれなかった飯塚さんは、知人の紹介で養子を迎えました。しかし、実の子どもを産めないことで夫婦の溝が広がっていき、離婚。さらに、手術の後遺症が飯塚さんをおそいます。強い痛みで寝込む日が続き、子どもを施設に預けざるをえませんでした。

「手術されて体が調子悪いなかで子どもの世話があまりできなかったこと、仕事したくてもやっぱり後遺症で痛み止め打ってやってたんで、だから今、悔いが残っているしね。」(飯塚さん)

手術さえ受けていなければ。その苦しみを誰にも打ち明けられないまま、30年の月日が過ぎました。

1996年に優生保護法が改正され、この頃から飯塚さんは、なぜ、自分が不妊手術を受けたのか、調べ始めます。そして2015年、日本弁護士連合会の制度を使い、人権救済を求める訴えを起こしました。

2016年3月には、国連の女性差別撤廃委員会が日本政府に対して勧告を出します。優生保護法の下で強制的に行われた不妊手術に対して、国による補償や謝罪を求めるものでした。

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2016年6月のNHKの取材に対して、厚生労働省は、当時、不妊手術は合法的なものだったと回答しました。

「旧優生保護法において定められていた手続きに反し、違法に優生手術が行われていたとの具体的な情報は承知しておらず、そうしたなかで賠償などを行うことは難しいものと受け止めております。」(厚生労働省)

2016年5月、飯塚さんは東京で開かれた障害者団体の集まりに参加し、自らの体験を語りました。悪性のがんを患い、重い病をおしての登壇でした。

「同じ思いをした人たちに、声を上げてほしい。大勢いるわけだから、泣き寝入りしてたらあれでしょ。やってはならないことなんでね。できれば名乗りでてもらいたい。」(飯塚さん)

飯塚さんが不妊手術を受けて、54年。歴史の闇に埋もれてきた重い現実に、ようやくかすかな光が当たろうとしています。

「優生保護法」は過去のものなのか?

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なぜ、優生保護法がここまで必要とされたのか。生命倫理学を専門とし、優生保護法に詳しい立命館大学教授の松原洋子さんは、こう説明します。

「20世紀、世界的に優生運動が広まり、さまざまな国で障害を持った人を生ませないようにする断種法が制定されました。1970年代ぐらいまでは『障害を持った人は子どもを作らない』という考え方が当たり前とされ、優生手術も当たり前のように行われていたのだと思います。戦後、日本でこれだけ長期にわたって優生保護法が残ったのは、敗戦によって日本民族の危機であるとの考え方が強まったからだと思います。こうした問題は今もあって、障害を持った人、障害を持って生まれてくるかもしれない子どもは、この社会にあってはいけない、いない方がいい存在として見られている。たとえば現在、出生前診断がだいぶ普及をしています。出生前検査を受けようとする方は、やはり、結果によっては中絶と考えている方が比較的多いと思います。」(松原教授)

国は長い間、「当時は合法だった」ことを理由に、謝罪や補償に動くことはありませんでした。しかし2018年1月、飯塚さんと同じように手術を受けた、宮城県の60代の女性が、国に損害賠償を求める訴えを起こし、事態は急速に動き始めました。全国の自治体などに保存されていた資料が次々と発掘され、埋もれてきた事実が少しずつ明らかになってきています。また、超党派の議員連盟が作られ、議員立法による救済を目指す動きもあり、国も実態調査に乗り出す予定です。

社会における障害のある人への考えや対応を改めていくには、まずは私たちが、日本がしてきた事実を知り、今なお苦しんでいる人たちの存在に目を向けることが重要ではないでしょうか。

※この記事はハートネットTV 2016年7月6日(水)放送 「シリーズ 障害のある女性 第2回 本当は産みたかった -強制不妊手術・54年目の証言-」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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