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ヘレン・ケラーが伝えたかったこと 第2回 私は天使ではない

記事公開日:2018年09月21日

今年はヘレン・ケラー没後50年。87歳になるまで、社会活動家として活躍したヘレンには、「三重苦の聖女」「現代の奇跡」「神がつかわした天使」といったさまざまな称賛の言葉が捧げられました。しかし、ヘレンが望んだのは、過大な賛辞ではなく、障害者が見下されることなく、感傷の対象にされるのでもなく、同じ人間として分け隔てられることのない社会でした。今回は、そんな思いを抱き続けたヘレンの姿をご紹介します。

称賛する人たちの無理解

ヘレン・ケラーは、八歳の頃から、「盲ろうの身でありながら、言葉を理解し、本を読み、文章を書く、奇跡の少女」として、全米中に知られるようになりました。ヘレンが23歳のときに、「わたしの生涯(The Story of My Life)」という自伝を発表すると、その名声は国際的にも高まり、やがて著作は世界50か国で翻訳されました。

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子ども時代を中心に著された初の自伝『わたしの生涯』

ハーバード大学女子部を優秀な成績で卒業し、母語である英語はもちろん、外国語のフランス語、ドイツ語、古典語のラテン語、ギリシャ語をマスターし、文学、歴史、哲学の教養に通じ、ハーバード大学の俊才たちと社会問題を論じる姿は、人知を超えた存在であるかのように新聞で大々的に報じられました。

地方公演に行くと、地元の記者は、「ヘレンはピアノの名手である」「明日の天気を予知する」「目が見えなくても色彩の区別がつく」などと、根も葉もないことまで書き連ねました。

ヘレンは、そのような人々の扱いに違和感も抱いていましたが、自分に与えられた使命として、大学卒業後は、原稿の執筆や講演の依頼に応じ、障害者の権利擁護のための社会改革を求めていくことになりました。

一部の新聞記者たちは、ヘレンが自分の人生を語るのではなく、社会の課題を指摘する発言を始めると、手のひらを返すように批判するようになりました。「発達面で障害のあるヘレンは判断力に問題がある」「ヘレンは自分で考える能力はなく、意見はすべて吹き込まれたものに過ぎない」と、悪口を並び立てられることもありました。

ヘレンは「社会をより良きものにしたい」と願うアメリカ市民のひとりであることを世間に知ってほしいと思っていましたが、社会の多くの人々が求めていたのは、ヘレンが神の恩寵によって障害を克服した奇跡の少女のままであり続けることでした。

38歳のときには、「救済(Deliverance)」というタイトルのハリウッド映画で主演を務めることになりました。この映画では、世界を解放に導こうとするヘレンのメッセージが描かれるはずでしたが、ヘレンは恋に身を焦がす乙女の役を演じさせられたり、ヘルメット姿で小型飛行機に乗せられたりと、本来の趣旨とは異なる冒険活劇のような演出に振り回されることになりました。

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へレンが主演したハリウッド映画「救済」のポスター

ラストシーンは、白馬にまたがるへレンが、ラッパを吹き鳴らしながら、その後ろにドタバタ行進する障害者たちを従えていくというこっけいなもので、興行的には失敗に終わりました。「この映画は自分の理想を伝えるものではなく、自分を侮辱するためにつくられたのではないか」と思うほど、へレンは失望感を味わいました。

ヘレンは、新聞記者にしても、ハリウッドの映画監督にしても、自分を称賛しようとする人たちがかならずしも自分の理解者ではないことを思い知らされました。

一方で、ハリウッド映画と同じエンターテインメントの世界でしたが、40歳のときに経済的な困窮から契約したヴォードビル(寄席興行)の舞台では、まったく異なる経験をすることになりました。

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ヴォードビルの舞台衣装を着るヘレン(左)とサリバン(右) 写真:GettyImages

「あんたは夢を見るのかい?」「いくらあれば暮らしていけるの?」「幽霊はいると思ってる?」「牛の胃袋がふたつあるのはなぜか知ってるかい?」。観客たちの遠慮のない質問にヘレンがユーモラスな答えを返すと、会場は拍手と笑い声に包まれ、そのどよめきがヘレンにも伝わってきました。ヘレンは「どの世界よりもおもしろい」「人生を知る機会をくれた」と興奮しました。

かつてハーバード大学女子部では、ヘレンが質問にいくと、どう対応していいのかわからず、しどろもどろになって逃げ出してしまう教授もいましたが、ヴォードビルの観客たちは、やんちゃで、いたずら好きなヘレンのありのままの姿を愛してくれました。

ヘレンは、障害者に対する偏見だけではなく、自身の神話による偏見とも戦い続けなくてはなりませんでした。そんなヘレンに、市井の人々が、人と心を通わすための知恵とその喜びを授けてくれることになったのです。

慈善ではなく機会を

ヘレンは障害者を特別視しない社会を夢見ていました。それは周囲の人々と自分との間に心理的な壁が作られることを恐れたため、だけではありませんでした。ヘレンが社会に伝えたかったのは、自分と同じように目が見えない人や、耳が聞こえない人であっても、本質は何も変わらず、教育を施し、働く場を与えれば、社会の一員として、障害のない人と同等になれる可能性があるということでした。

あるとき、ヘレンに共感を寄せる外国の要人が、「自分の国では、障害者の幸せを考えて、盲人を一か所に集めて、盲人村をつくった」と打ち明けたことがありました。ヘレンの賛同を期待してのことでしたが、ヘレンは「盲人は囚人ですか? それとも伝染病患者ですか?」と批判し、そのような考え方を改めさせました。

いまでは当たり前のノーマライゼーションの考え方ですが、ヘレンが活躍した20世紀初頭の欧米社会では、障害者に憐れみを施すことこそが重要だと考えられ、同じ社会でともに生きることをめざそうとはしませんでした。

しかし、ヘレンは「盲人に必要なのは慈善ではなく、機会なのだ」と考えていました。盲人団体から寄付活動の先頭に立つように求められると、障害者の「苦悩」よりも、「自立可能性」を強調しました。

「私たちは甘やかされたいとは思っていない・・・・・盲人が作ったからと言って、役に立ちそうもない、つまらないものを買うのは少しもよいことではない・・・・例えば、盲人の代表的製品として通用しているビーズ玉ですが、少し指導をして、美しい図案を渡してあげれば、目の見える人以上の美しい製品が作れることを知ってほしいのです」(『わたしの生涯』)と、障害者の可能性への理解を求めました。

本当にやっかいな障害は、目が見えないことでも、耳が聞こえないことでもなく、両目が見えても真実を見ようとしない、両耳が聞こえても人の話を聞こうとしない、頑迷な心であるというのが、ヘレンの持論でした。

ヘレンは50歳になってから外国を訪問するようになりました。どの国でも歓迎の嵐がわき起こりましたが、自分が聖なる天使などでないのは、ヘレン自身が一番良くわかっていました。ヘレンは、自分のことよりも、「あなたたちの周りにいる障害者にこそ目を向けてほしい」と語りかけました。

ヘレンは、つねに私たちが気づかない心の扉を開いてくれる優れた導き手でした。ありのままの姿で、どれだけ多くのことをなし得るかを、そして、ごくふつうの日常がどれだけ輝きに満ちているかを人々に示し続けました。その魅力は永遠に失われることのないものだと思います。

参照:『わたしの生涯』(ヘレン・ケラー著 岩橋武夫訳)、『愛と光への旅 ヘレン・ケラーとアン・サリヴァン』(ジョゼフ・P・ラッシュ著 中村妙子訳)、『ヘレン・ケラーの急進的な生活 「奇跡の人」神話と社会主義運動』(キム・E・ニールセン著 中村善達訳)、『青い鳥のうた ヘレン・ケラーと日本』(岩橋英行)

執筆者:Webライター 木下真

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