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ハート ネット ピープル

人として

〔写真〕長女、正美が小学校に入学しました。自宅前の桜の前で記念写真をパチリ。僕は入学して、勉強についていけず、集団生活にもなじめないで小学校生活に幻滅した苦い記憶があるので、子どもたちには楽しい学校生活を送ってほしい、と心から思っています。春からはPTAの役員も務めることになりました。こちらも頑張ります。


東日本大震災で被災された方々に、心からお見舞い申し上げます。亡くなられた方のご冥福を、お祈り申し上げます。

今から20年近く前のこと。

僕はある事情を抱え、自分自身のものではない、多額の借金を抱えてしまった。

給料の大半は差し押さえられ、債務者に分配されることになった。家賃も払えず、電気、ガス、水道も止まって生活ができなくなってしまった僕は、何とかアパートの家賃を清算し、とりあえずは当時勤めていた新聞社が借りていた新聞配送用の倉庫で、ゴザを敷いて生活を始めた。

倉庫はトタン屋根で、もちろんトイレも風呂もなく、カギもかからない。倉庫と言えば聞こえはいいが、小さな小屋で、室内の気温が夏は50度近くまで上がり、冬はものすごく寒い。一応、ドアはあるのだが、冬の一時期、ガラスが割れたままになって、雪が舞い込んでいた。

毎月、生活費は300円ほどしか残らない。「会社をやめて違う場所で再出発するしかない」と思いながら、「どうしても、会社はやめたくない」という気持ちが湧きあがる。

そのころ、会社は設立されたばかりのケーブルテレビ会社と組んで、新聞社の機動力を生かしたニュース番組の制作を企画していた。僕は記者という立場にありながら、そのメディアミックス展開の責任者に任命され、その企画の実現に奔走していた。仕事に夢を持っていたし、大きなプロジェクトを任されたことで燃えていた。

夜、小屋でゴザにくるまって、いろいろ考えた。

「この状況は辛い。でも、LDであったことでいじめられ、周囲の無理解によって辛かった子どもの頃より、今の方がよっぽど幸せではないか。あのときは生き地獄だった。今はやりがいのある仕事もあるし、大切な友達もたくさんいる。人生で大切な価値は、金や家じゃない。自分の心だ」

そう思うようにして「どんな状況になっても会社はやめない」「いろいろな面白いことを見つけて、この生活を楽しむ」「どんなに苦しくても、個人から借金はしない」「3年で解決する」と決めて腹をくくった僕は、昼間は新聞社で仕事をして、夜は一週間のうち3日間はその小屋で過ごし、4日間は近くのビジネスホテル兼割烹で、夜遅い時間帯から翌朝まで、皿洗いとフロントのアルバイトをして何とか食べるだけの生活費を捻出した。

本来はアルバイトなど厳禁のはずなのだが、当時の新聞社の社長は、「勤務時間以外にお前が何をやろうと、俺の知ったことじゃない。その代わり、仕事はちゃんとやれよ」と言って下さり、慈愛に満ちた"無視"を貫いて下さった。

この生活は当初の誓い通り、何とか3年で切り抜けたが、逃げずに頑張れたのは、みじめな思いや辛さを感じたとき、必ず子どものころの辛さを思い出し、「あのときの方が絶対に辛かった。あの辛さを乗り越えたのだから、絶対今度も乗り越えられる」と思ったこと。そして、僕がこういう生活をしている理由も聞かず、さり気なく応援してくださった、仲間や友人、そして取材でお世話になった方々の支えだ。

このときのエピソードはいろいろあって書き切れない。真冬に近くの洗車場で裸で身体を洗っていて、ある日、僕が勤める新聞社に「近所の洗車場で身体を洗っている変な人がいる」と通報があって、たまたま僕がその電話に出て「あ、それ、僕です。ご迷惑をかけます」と言った、という笑えない笑い話もあった。

身体を壊して入退院を繰り返したこともあった。このときは記者クラブの事務をしていた"おばちゃん"が、母親のように世話をしてくれた。僕は今もその方を"お母さん"と呼んで慕っている。さり気なく、記者仲間が"励ます会"を開いてくれたこともあった。文化会館に取材に行くと、汚い身なりをしていたのだろう。スタッフの方が、そっとシャワー室のカギを差し出してくれた。あるときは、目が覚めると小屋の前にお弁当が置いてあったこともあった。夜中、フロントをしているホテルを訪ね、本当はわざわざ来てくれたのに「偶然、近くまで来たから」と言って、さり気なく世間話をしてくれる友人もいた。

申し訳ないと思いながら、僕はその好意を受け入れていた。僕の誇りは、どんなに腹が減っても、苦しくても、そうした方々から、絶対に現金を借りなかったことである。本当に"お金"より"心"である。当時、支えて下さった方々は、今も僕のかけがえのない存在である。お陰さまでニュース番組は無事立ち上がり、僕はディレクターとキャスターを務め、この時の経験が今の仕事の基礎となっている。そして、僕がフリーのライターやディレクター、MCとして、今もこの地で仕事ができるのは、あのとき誓った4つの決めごとを守ったからであり、当時から支えてくれた多くの方々に心から感謝している。逃げずによかった、と心から思っている。

辛いこともあった。最も辛かったのは、健康だった母親が僕のことで心痛のあまり寝込んでしまい、そのまま体調を崩して亡くなってしまったことだ。享年70歳。あまりに若かった。「僕のせいで、最愛の母親が死んだ」という思いは、あまりに辛く、長く僕を苦しめた。

さすがに辛いことが続くと、逃げだしたくなる。「もういやだ。全て逃げ出して、知らない土地に行こう」。そう決めたとき、発生したのが阪神大震災である。僕は猛烈に「現地に行きたい。何かしたい」という思いにかられ、当時、会員だった国際医療ボランティア団体の一員として、医師、看護師とともに被災地に行き、数日間、活動をさせて頂いた。

神戸から帰ってきたとき、リーダーが「大橋君の家まで送るよ」と言われ、交通手段もなく、仕方なく小屋まで送ってもらったら、皆さん「え! ここで生活しているの!」と驚き、寝具はゴザしかなかったので、毛布や布団など、余った救援物資を頂いたことがあった。あれは恥ずかしかったが、今では笑い話のひとつだ。

あれから17年。神戸での体験は、僕は一生忘れないだろう。車が入れない小高い丘にあった小さな避難所に、薬箱を持って、歩いて届けた。あの丘の上から見た神戸の街の惨状は、今も目に焼き付いて離れない。小さな薬箱に、涙で感謝をして下さった被災者の方々の顔も、絶対に忘れられない。ある避難所で聞いた、家族を突然失った女性の言葉に、かける言葉もなかった。「被災者の方々に比べれば、俺の現状なんて、大したことない」と思い、それが、その後の僕の頑張る源になったのだ。

今回の大震災発生以来、僕はテレビでその惨状や厳しい現状を見て、心を痛めながらも、なぜか阪神大震災のときのような胸をかきむしられるような思いにはならずにいた。目の前の仕事に追われながら、日常を送るのが精一杯で、真剣に震災や被災地の方々のことを考えると、そんな日々を送っている自分が申し訳ないように感じていた。

そんなとき、僕の迷いを打ち破ったのは、息子と、震災以降に僕が関わったイベントで、東京から来られたゲストの言葉である。息子は「父さん、今度は行かないの? 行くべきじゃないの?」と言う。「今回は無理かな」と言う僕に、「どうして? いつも神戸のときのことを、あんなに話すじゃない。行くべきだよ」と迫る。

そして、ゲストの方の言葉。「関東は夜も暗く、自粛ムードもあって、雰囲気も暗いんです。山口県に来て、まちも人も明るくて、安心して励まされました」

僕はあのとき、自分が苦しいからこそ、苦しい人の気持ちを考えると、いてもたってもいられない気持ちになったのだ。息子の言葉を聞いて、あのときの気持ちが蘇ってきた。そして、ゲストの方の言葉に、ひとすじの明るさを感じた。同じ国内で、未曾有の大惨事が起きている。もちろん、そこに配慮し、できる努力をするのは当然だ。しかし、西日本まで過剰な自粛をすると、経済が回らなくなり、復興への元気をも、日本が失ってしまう。

僕たちが、元気であること。しっかりと日常を過ごすこと。そしてその元気を、被災地に贈ること。被災地に元気を贈る術を考え、実行すること。これが大切なのだ、と思うようになった。では、今の僕にできることは何か。あのときのように、すぐに駆け付けることはできないが、きっとできることが、きっとあるはずだ。

あのとき、薬箱を持って行ったときの、被災者の方の笑顔が鮮明に蘇ってくる。僕の昔の状況など、被災者の方々に比べれば足元にも及ばないが、僕が苦しいとき、何よりの支えは"人"の"想い"だった。それは、いじめや無理解で苦しんだ子どものころも、借金や母の死で苦しんだ青年時代も変わらない。人の気持ちを和らげるのは、人しかいない。かつての経験を踏まえ、現在の僕が"人として"できることを、今、具体的に考えている。

コメント

最近連絡ないから心配してました。お元気で!!

ご苦労されたのですね。
でも夢と信念があったから、何とか乗り切れたのだろうと思います。

言葉では簡単に、辛い思いを語ることはできても、辛いことの背景にあるその重みも伝える表現力が必要なんだということが、読み込んでいるうちに伝わってきました。

すごくわかりやすい文章で、リアルに想像して動画のようにフィルムが回っている感覚になりました。

兵@田

私も、苦しい時・つらい時、周囲の人の心がとてもあたたかく感じる事があります。私の家族・支援者・恩師・親戚・知人など、本当に心の支えになりました。また、私も、阪神大震災の時、被災地に、老眼鏡とマスクを配りに、ボランティアで行った事を、思い出しました。

先日、大橋広宣さんの講演をお聞きしました。泣きました。大橋さんが、中学校時代、「校長先生が、ぼくの手をとって、-1+6 の計算を教えてくれたんですよ。」というお話をされたところから、涙が止まらなくなりました。一人の誠実な教師が、一人の子をなんとかしてあげようという気持ちで接してあげている姿がありありと浮かんできて、そのときの大橋さんのうれしかったという思いも伝わってきて・・・泣けて泣けてしかたなかったです。もっともっとお話をお聴きしたかったです。これから、毎日、少しずつ、このホームページを読ませていただきます。すばらしい講演をありがとうございました。大橋さんにお会いできてよかったです。

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