
母ちゃんの思い出

[写真] 先日開かれた、僕のライター生活20周年を祝う会でのスナップ。最後に家族全員でステージに立ち、妻がお礼を述べたあと、小学2年の長男が「今度とも父をよろしくお願いします」とあいさつしました。感謝と感激の一夜でした。「ハートをつなごう」スタッフの皆さんからも祝電を頂きました。嬉しかったです。
僕は、母親のことを、母ちゃんと呼んでいた。
母ちゃんが亡くなって、もう10年になる。結婚の直前だったので、母は4人の孫と会ってない。母ちゃんには、最後の最後まで、心配をかけてしまった。
70歳になった頃から体調を崩し、寝たままが多かった母ちゃん。亡くなる少し前、意識がないまま病院に担ぎ込まれたものの「回復する見込みがある」という医者の言葉を信じて、僕は仕事に戻った。
僕が、母ちゃんが亡くなったことを知ったのは、旅立って3時間も経ってからだった。急な仕事で携帯電話に気づかなかったのだ。
病院に駆けつけたときは、父が遺体に寄り添っていた。
「広宣が来たぞ。会いたかったじゃろ」。そう言って父は、涙をこらえていた。悔しかった。僕を心の底から愛してくれた母ちゃんの最後を、僕は看取ることができなかったのだ。
母ちゃんは、薄れゆく意識の中で「これ以上治療しないでほしい」と言ったという。当時、我が家は経済的にも厳しかった。僕も、ギリギリの状態で生活していた。そのことを心配して、母ちゃんはそう言ったのだ。
最後の最後まで、家族のことを心配していた母ちゃん。そんな優しく、健気だった母ちゃんを想うと、今も心の奥が痛い。
亡くなって数日経ったとき、夢に母ちゃんが現れた。リアルだった。「看取ってあげられんで、ごめんね。ごめんね」泣きながら僕がそう言うと、母ちゃんは「いいよ、いいよ、広ちゃんはええ子じゃけえ」と言って、抱きしめてくれた。
「広ちゃんはええ子じゃ」。この言葉に、何度、救われただろう。
「この子には、勉強しろ、と言わん方がええ」と父に言われ、戸惑っていた母ちゃん。現実に学校に呼び出され、「大橋君には困ったもんですね」と担任に言われるのは、父親ではなく、母ちゃんなのだ。
怒ることもできず、それでいて褒めることもヘタクソだった母ちゃん。学校で先生に注意され、ただただ困っていた母ちゃんに、「ごめんね」と言うと、言葉に詰まって「ええよ、広ちゃんはええ子じゃ」と僕を抱きしめるしかなかった母ちゃん。
そんな母ちゃんの姿に「学校で頑張ればいいんだ」と思いながら、なかなか上手くいかず、いつも僕は焦っていた。勉強も分からないし、学校生活もみんなのように上手くできない。
あるとき、授業参観日のときのこと。僕一人が、手を上げられない。そっと後ろを見ると、母ちゃんが涙ぐんでいるのが見えた。
授業が終わって、母ちゃんが僕の席に走って来ると、泣きながら机の中の掃除を始めた。僕は給食を食べるのも遅くて、残したパンやおかずを、恥ずかしくて机の中に入れていた。
恐らくその残り物が後ろから見えたのだろう。教科書やプリント、ノートを整然と机の中に入れることも極端に苦手だった。何も言わず、泣きながら片付ける母ちゃんの姿に、何とも言えない悲しい思いが込み上げてきたことを、今もはっきりと覚えている。
小学校を卒業するまで、僕は母ちゃんと一緒に寝ていた。友達にいじめられたときも、先生に怒られたときも、僕は母ちゃんに抱きついた。そっと抱きしめてくれる母ちゃんに、僕は安らぎを感じながら、「明日はきっと、勉強も分かるようになっているし、いじめられない自分になっている」と信じていた。
でも、辛い日々は繰り返される。小学校の高学年になったある時期など、毎日の楽しみと言えば、映画とマンガと、夜になって母ちゃんと一緒に寝ることだけ、という状態になっていた。
大人になって、亡くなる1カ月ほど前だろうか。近くで仕事があったので、実家に寄った。ちょうど、生活も仕事も不安定で、心配をかけていたころだ。少し横になって、目が覚めると、母ちゃんが寄り添って僕の顔をじっと見ている。「何だよ」と言う僕に、母ちゃんは「かわいいねえ」と言う。「馬鹿だなあ、俺もう35歳だぞ」と照れる僕に、ニッコリとほほ笑む母ちゃん。あれが、話した最後になってしまった。
何があっても毅然としていた父と、息子の失敗に、いつもオロオロしながらも、最後には抱きしめてくれた母ちゃん。今思えば、バランスが取れていたのかもしれない。思えば、嫌な学校に毎日必死で通っていたのも、母ちゃんに心配をかけたくない、その一心だったような気もする。
先日、僕の友人3人が発起人となって、僕のライター生活20周年を祝うパーティーを開いて下さった。80人もの方々が集まって頂き、温かい雰囲気の中で心からの祝福、激励を頂いて感激したが、最後に僕の家族全員がステージに上がり、妻があいさつした。
「大橋広宣のために、ありがとうございます。皆様方と御縁を頂き、主人は本当に幸せ者です。これから、歴史に残る仕事を、家族一丸となって、必ずやり遂げてみせます」。泣きながらあいさつする妻の姿を見ながら、机を片付ける母ちゃんの姿を、何故か思い出した。
「母ちゃん、メチャクチャ心配かけたけど、またいい家族に恵まれたよ。俺、何とか頑張れそうだわ」。その日、空に向かって、僕は母ちゃんに報告し「歴史に残る仕事が何か」を真剣に考えてみた。




大橋様
家族:親子はかけがえのない、関係ですよね。
読みながら、泣きました。
私が大橋さんのお母様のようになれるのか、なりたいし、ならなければの思いも。
(未診断-2月にグレー判定の5歳♂の母です)
こちらのサイトを知ってから、先日来、笹森さん御一家のお姿や、大橋さんの努力の経緯を支えに、なんとか頑張りたいと思っていますが、まだまだ受容に至らず、頑張りたいという気持ちと裏腹に落ち込んで泣いてばかり。
家族が頑張る・支えるのは、勿論ベースです。
よく解っています。
私は、(本人を含む)その“家族”を支える行政の手や支援がもっともっと拡充して欲しい。
発達障碍がほとんど知られなかった、そんなものがあることすら誰も判らなかった時代、当たり前のように家族がそれをフォローしてきた。
もの凄い苦難と戦いながらです。
そうゆうものがある、確実にある、そしていま、“かなりの確率で、存在する”と分かってきた時代、これからは、逆に「当たり前のように」行政からの支援、社会的な認知を得られる時代になって欲しい。
いまがまだ過渡期であっても、いずれそうゆう時代になるという、希望が欲しいです。
発達障碍と解って、親がまず考えるのは、子供がいずれ自活出来るかどうか、です。
自分達が先に逝くのは当然。
でも、残された子供は・・・?
障碍の有無にかかわらず、子を持つ親は皆、そう考え、そして更により高度な生活環境を“与えたい”と思うからこそ、手厚い教育環境を提供する為に、稼ぎ、さまざまに働き、動く。
障碍があればそれはもっともっと基本的なところを目指します。
いい学校?いい会社?よいお給料?そんなものではなく、そう、まさに言葉通り「自活出来るかどうか」。
その為に療育だ、施設だ、etc・・・。
行政の支援が得られない、特性の強くない・けれども確実に支援の必要な子供やひと。
本人の努力は勿論重要です。
でも、その努力を支え・活かせる大きな力(国)が欲しい。
少子化が問題です。
その少ししかいない貴重な子供に、確実に居るのです。もう、判っているんです。
あとは、整備を急ぐだけなんです。
大橋さんのお母様を本当に尊敬します。
でも、そんな苦難を歩む母親を、もう作らないで欲しいというのが、私の思いです。
お母様の、息子を守る(信じる)心の強さを物凄く感じ、大変胸が熱くなりました。
私には、自閉症の小三の息子がいます。
今も悩みがあり、良い策を探し検索していた所、こちらのブログに出会いました。
私は、お母様の様にそこまで深く息子を愛せているだろうか・・・。
これから先もずっと、息子を守っていける力はあるのだろうか・・・。
息子は今、幸せなのだろうか・・・。
毎日、不安でいっぱいです。
小学6年生の男子の母です。
1年前担任の先生から指摘され(先生のお嬢さんが発達障害をお持ちで重なる部分があると)検査を受け結果はグレーゾーン。
私なりに色々調べADHD傾向?と思っていましたが医師から「素因があれば今からアスペルガーが出て来るかも」と。
まだ診断は出ておらず、覚悟も決まらなく気持が不安です。
家庭では「ちょっと癇癪持ちで落ち着かない子、でも末っ子だし甘えているのかな」ぐらいにしか思っていませんでした。
躾けなくてはと事細かに言い続けました。
クラスメートと上手くいかない時も「集団生活だからルールを守ろうね」「皆も我慢してるのだから我慢しようね」と言い聞かせました(実は言い放って自分がすっきりしていただけでした)
もっとしてやらなければならない事があったのに・・・情けない母。
抱きしめることも嫌がる年齢になり「あなたはいい子だ」というメッセージをどう伝えたら?と日々格闘中です。(機嫌のいい時は「ありがとう」と返事。機嫌の悪い時は「思ってもないくせに」と返事。)
「母ちゃんの思い出」を読み泣けて泣けてしょうがありませんでした。
泣きながら読ませていただきました。
我が息子も、アスペルガーと診断されて早5年が経ちました。発達障害が分かるまで悶々とした時を過ごし、息子の子育てをあきらめ会話すらさけていました。広宣さんのお母様はすごいですね。子供を信じて、じっと見守り・・・・。
私も、息子がアスペルガーと分かってからは、一所懸命に今までの時を取り戻すように頑張りました。今は、パニックもほとんど起さなくなり、現在は大学に通っています。一時は、大学になんて行けないと思っていました。しかし、中学・高校・塾と、広宣さんと同じように先生に恵まれ、希望した大学に行くことができました。今でも息子のことが心配で、眠れぬ夜もあります。でも、息子も人よりゆっくりでしょうが人間関係を学び、傷つき喜びながら成長していくのでしょうね。いつか、広宣さんのような素敵な奥様があらわれてくれるのを願いながら・・・・。
これからも素晴らしいご活躍をなさってください。いつも、勇気をくださりありがとうございます。
「母ちゃんの思い出」に、たくさんのコメントを頂き、ありがとうございました。
コメントを下さった方以外にも、直接、電話やメールで様々な感想を頂きました。
母ちゃんの想いに、たくさんの方から共感を頂いたことが、とっても嬉しいです。母ちゃんも喜んでいると思います。
すぐに皆さんに返信したかったのですが、何度も何度もコメントを読み返すうち、僕も感激してしまって・・・何だか気軽に返信するのも、もったいないような気がして・・・どうお返しすればいいのかな・・・なんて、ずっと思っていて、返信するのがとっても遅くなってしまいました。
すみません。
あれから、また母ちゃんのことを思い出して、文章を書いてみました。近く、「母ちゃんの思い出2」が掲載されると思いますので、是非、またコメントを書いてください。
さて、ゆちさん、コメントありがとうございます。「けれども確実に支援の必要な子供やひと」のために、何ができるのか。その環境づくりのために、僕がやらなければならないことは、何だろう?
僕自身、正直、支援がないと、生活できません。それは、頼る、ということとは、違うような気がしてます。何か、抜本的に意識を変えることが必要なのかもしれません。難しいですが・・・。
かめちゃんさん、コメントありがとうございます。「泣けて泣けてしょうがありませんでした」とのこと。ありがうございます。是非、真正面からほめて、抱きしめてあげてください。絶対、遅くないと思いますよ。最初は恥ずかしい、と言うかもしれませんが、子どもさんは絶対に嬉しいはずです。子どもにとって、母ちゃんの「丸み」と「優しさ」は、絶対的なものだと思います。
のいちごさん、コメントありがとうございます。
確かに、僕は、傷つき、喜び、少しずつ成長してきたように思います。今もその過程にあるとは思います。僕は、恋愛も不器用でした。でも、今の妻に巡り合えたことに、感謝しています。
不思議なんですが、母が亡くなった直後に、妻と会えたのです。それも、妻は母の若いころにそっくりで、親戚は結婚式のときに驚いていました。こんなこともあるんだ、と思い、そしてその不思議な縁に、有難いと、心から思っています。
頑張っていれば、縁は必ずあるんだ、と確信しました。
すみません。書ききれませんでした。
ふうふうたんぽぽさん、コメント、ありがとうございます。
お母さんが悩んでいること、迷っていること自体が、愛情だと思います。
心から想っているからこそ、悩んで苦しんで、考えているんですもの。
子どもさんは、きっと、そんなお母さんの想いを、気持ちで感じてくれると、思います。
僕は、オロオロしながら、どう僕に接すればいいか分からず、最後は「広ちゃんは、ええ子じゃ」としか言えず、抱きしめていた母ちゃんが、大好きでした。何か言いたいけど言えない・・・涙顔で、いつも悩んでいて、僕を見るときに、ちょっと困った顔をする母ちゃん。
「どうかした?」と聞くと、すぐに笑顔になって、「ううん、何でもないよ」と答えていた母ちゃん。「何でもないけがない。あれは、僕のことで悩んでいたんだ」と僕は気付いていました。
でも、僕のことを考えてくれている母ちゃんが、僕は大好きだったし、「心配かけたくない」と子ども心にずっと思っていました。
そんな想いが、今も心に残っているからこそ、現在、頑張れているのかな、と思います。
ブログ読ませていただきました。感動しました。私の母も大橋さんと同い年ですが、これからは母に感謝に生きたいとおもいます。大橋さんにも感謝してます。www