
「苦手」は「得意」でカバー
改めてではあるが、1999年に文部省(現文部科学省)が取りまとめた、学習障害(LD)の定義を紹介したい。
「学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を指すものである」とある。
この定義で大事なのはこのあとの部分で、「学習障害は、その原因として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されるが、視覚障害、聴覚障害、知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因が直接の原因となるものではない」と続く。
つまりは、本人の努力不足や親のしつけ、教育法、先生の指導法などに、その原因はない、ということである。ここを特に親や先生たちがしっかり認識してないと、本人だけでなく周囲も苦しくなるし、二次障害を引き起こす要因にもなりかねない。
僕は、今までの人生を振り返ってきたときに、本当にこのLDとの戦いだった、と思う。小学校のとき、どうやっても算数ができない。分からない。周りの友達が分かるのが、本当に不思議で仕方なかった。あと、数学的な思考能力が必要なものは全く駄目だった。
LDという概念もなかった時代ではあるが、自分は算数が苦手、という意識は常にあった。だから、なるべく計算や難しい推論は避けて成長してきたように思う。
中学、高校、大学と進むに従って苦手な教科は段々少なくなって行ったこともあるが、日々やらなければならない状態でも、親や先生方がそれを強要しなかったお陰と、以前も書いた周囲の方々のサポートによって、なるべく避けることができたのだ。
しかし、その成長の過程で、僕が見出したもの、それは読書、マンガ、映画による三位一体の媒体から受けた「物語の面白さ」だった。物語に夢中になり、やがて自分でもそれを考えていくことで、僕は自分の中に芽生えた様々な思考をひとつに紡いでいく「構成力」や「集中力」を身に付けてきたように思う。これらは、本来なら自分にとっては「苦手」のひとつであった部分とも思える。
日々、自分の苦手に振り回されるわずらわしさを極力少なくしながら、自分の「好きなもの」「得意なもの」から有意義なものを学び、力を付けていく。今思えば、僕がやってきたことは、こういうものだったのだと思う。
その結果、現在の僕は「苦手」な部分を「得意」な部分でカバーしている。だが、そこにはもちろん、様々な方々のサポートがあってこそ、だ。
例えば、出版社から原稿執筆の依頼があったとき。●●について、2400文字で、などの依頼がある。僕は、どんな取材依頼でも、2400文字以内に原稿をまとめる自信はあるし、内容にはよるが、大体時間にして1時間もあればまとめることができる。
しかし、パソコンの画面上に2400文字のフォーマットを作ることが苦手だ。何文字×何文字が2400文字になるのか、よく分からない。そのフォーマットづくりの方が、原稿執筆よりも時間がかかる。
そこで、編集部の担当者は、僕のために完璧なフォーマットを作ってくれ、メールで送ってくれる。そこに文字を当てはめれば、ちょうどいい具合になるのだ。あるとき、僕は編集長に言った。「他にもライターはたくさんいるのに、僕だけのためにフォーマットを作っているのでしょう。すみません」。すると編集長はこう言ったのだ。
「フォーマットなんか、誰でも作れます。でも、グッと来る文章が書けるライターさんは、なかなかいないんですよ」。僕は嬉しくて、涙が出そうになった。
他にも、イベントのとき、僕はイスの数をいつも正確に数えられなくて、よく失敗する。でも最近はイスの数などはアルバイトの方にお願いして、自分はステージの上の演出に集中するようにしている。要は、イスの数よりは、どんなイベントにしてお客様に喜んでいただくか、そこが僕の勝負所だと思うからだ。
イベントやテレビ番組のシナリオ書き、演出をしているときでも、場面転換やCMが入るタイミングなどが分からないときはある。でもそんなときも長年の経験からか、何となく指示した時間やタイミングに誤差は何故かほとんどなく、多少の誤差があってもスタッフのサポートで難なくクリアできる。
あるとき「僕はLDを克服できたのかも」と思ったことがあったが、専門家の方に聞くと、それは「克服したのではなく、苦手をカバーしようとしてきた経験の積み重ねによるものでしょう。ここまで来れば無理に数学的な考えをしなくても、十分カバーはできていると思います」ということだった。
やはり、得意なもの、好きなものを持ち、それを伸ばすことが如何に大切か。そこに苦手を必要以上に意識しないことが如何に大切か。
ただし、誤解がないように書いておくが、「苦手」は放っておけばよい、ということでもない、と思う。得意を伸ばしていく一方で、苦手を改善していく努力は必要だ。ただし、その人が苦痛に感じないスキルで、慎重に進めていく必要はあると思う。
僕自身、自分の目標や目的がはっきりした時点で、自信を持って苦手な計算にも挑戦している。正直、苦手と格闘していた時代にはそんな気持ちを持つことは難しかったと思う。
僕は、LDである自分、そこと戦ってきた自分自身が、大好きである。今では苦しんできた歴史そのものが愛おしいし、自分の誇りでもある。
これは学習障害云々だけではないと思うが、自己肯定感を持ち、自己否定感を極力少なくすることが、本当に大切だと思う。




はじめてお便りいたします。わたしは、現在キリスト教の牧師として働いているものです。わたしは、2007年3月、精神科にうつ病のため入院していたときに心理検査を受け、広汎性発達障害と算数障害との診断を受けました。算数障害については、小学4年生の時に学校で知能検査があり、算数障害があることを当時の担任教師の机の上においてあった書類で見つけました。本人には、公表してもらえませんでしたが、なんとなく雰囲気でわかりました。
それまでのわたしの成績は、5段階評価のオール1か2で、3は小学3年の3学期に1つあっただけでした。小学校の担任はわたしに、「君の成績は1か2どちらかをつけておけば間違いない。箸にも棒にもかからないからね。」と言われ続けてきました。わたしはそれが何を意味するのか、さっぱり分からなかったのですが、今から考えてみると、悪い?意味で、担任の手を患わさなかったのかなと勝手に解釈しています。
中学でも同じでした。担任からクラスの皆の前で「なまけもの!」呼ばわりされ、いじめの標的にされました。いくら社会科が出来ても、数学ができないとクラスの存在感(市民権)が与えられない感じでした。
高校に入り、数学はやはり出来ませんでした。他の成績はいいのに、なぜ数学だけができないのか?とクラスメイトに不思議がられました。テストも普通にやったら、赤点、限りなく0点に近い成績しかとれません。しかし担任(教頭先生、3年間同じ担任でした)は、追試のテストを他の生徒とは別問題にしてくださり、10段階の3(最低の成績)で通してくれました。そのときの「君は他の科目が出来るのだからそちらを伸ばせばよい」というコメントは今でも忘れることはできません。
今の仕事では、毎月役員会で会計報告がありますが、その数字は分かっても、それが何を意味するのか、年間の統計報告書を作成しても予算の作り方は見当もつかず、決算をそのまま引き移したようなものしかできません。パソコンのエクセルというソフトを操れる人は、天才ですね。
人間の能力は、不思議なもので苦手なものを他の能力がちゃんとカバーしてうまくできていると思います。だから、生きていて面白いのかもしれません。そんなふうに改めて実感できたのは、心理検査の結果を受けてからです。生き方の処方箋が示されたのですから、それを有効に利用していこうと思います。
私も数学は苦手でした。でも、漢字が得意で漢字検定3級があったり、1度、英語で5を取った事もあります。今、職業訓練に行っていますが、できる事もあれば、できない事もあります、練習や訓練しても、出来ないものは、本当に苦手なものとして、認識するようにしています。練習して、伸ばせるものは、伸ばして、できないものが多少あっても、いいと思っています。
前略 大橋広宣 様
大橋広宣様の文章も・・・・
コメントされておられます牧師様の
文章も とても わかりやすく・・・・
温かみのある 名文・美文であります。
愚僧は思うのです。
分かりやすい 温かい 「御文」の
書ける御方は とても高度の数学
的能力の持主であると。
計算能力よりも 文章の組み立て
能力の方が 数百倍 複雑であり
困難であります。
愚僧は 情報技術(コンピューター)
を学んでおりましたが
わかりやすい文章とは・・・・・
素晴らしいプログラムと同じことで
あります。
大橋広宣様は とても素晴らしい
能力を御持ちであります。 合唱おじさん
河村さん、トコルナさん、合唱おじさんさん、コメントありがとうございました。返事がちょっと遅れてすみません。
やっぱり、相手に認められ、具体的に褒められること、大事ですよね。
「君はこんなところが得意なんだから、ここをこうすればいいよ」なんて言われると、意欲も湧いてきます。
逆にマイナス点ばかり指摘されたら、正直、やってられないですよね。
河村さん、お互いに数学で苦労してきたみたいで…。学校時代の話、僕とよく似ていて、すごく共感しました。
「人生の処方箋が示された」とのことですが、僕も自分が学習障害だとわかったときは心の底から嬉しかったです。
「だから、人生は面白い」。その通りです。
トコルナさん、「できないことが多少あっても、いい」その通りだと思います。
できないことがある、ということは、その分、他人とも関われるチャンスも多いし、自分を知るうえでも大切なことなんだ、と最近つくづく思います。
合唱おじさんさんの文章そのものが、「具体的にほめる」ことになっていて、とっても嬉しかったです。これからもがんばります。