
フレッシュマン諸君「福祉とは何だ?」
春の盛りだ。わが家の小さな庭もフレッシュな緑の生命力であふれている。春はまさにフレッシュマンの季節である。この春巣立ったフレッシュマン諸君も新しい環境になじみ始めた頃だろう。
さて、そこで問題です。
「福祉って何でしょう?」
唐突である。いきなりである。先制攻撃である。人生はいきなりの連続だ。それはともかく答えてくださいね。ハイ、どうぞっ! チッチッチッ。
ブッブー、タイムアップ、時間切れです。
答えられないものだね。「福祉」という言葉は誰もが知ってはいても、何故その意味は答えられないのだろう。
「福祉」、となると何か立派な正しいことを言わねばならないと思ってしまう、何故か身構えて気楽に答えられない、といったことがありませんか。さらに言えば「何か変なことを言うとマズイ」といった感覚もなくはないですな。
もっと気楽に自由に「福祉」について語りませんか。だから最初の質問も「福祉とは、ソモいったい何であるのか」といったいかめしいソクラテス的設問を排し、キミのガールフレンドが背後から忍び寄り、さっとキミの目を両の手でふさぐと「ワッ!だーれだ?」といったニュアンスで「福祉ってなあーんだ?」と聞いてるつもり。
ついでに言うと、この女の子背後接近の「だーれだ?」のシチュエーションはいかにもありそうで、現実にはまず無いな。見たことあるか。こんなの。もうひとつの、長い浜辺の両端から男女が走り寄り、その真ん中でガッシと抱き合うやクルクルと愛の回転をするというシチュエーションと同じで、私は絶対にあり得ないと、ここで力を込めて断言したい。仮に自分がそういった「だーれだ?」を経験したら、そうだな「エー?誰かなー?エート、うふ、ボクー、わからないー」 自分がアイスクリームのように溶けていくような気がする。私の青春は不毛だった。
もとい、テーマは「福祉」である。
よく小中学生と話すと、「障害のある人はかわいそう」という声を聞く。フム、素朴にして素直。これもあり、だよね。でも、こんな発言があると親や先生は少々慌てる。「そんなこといったらいけません」 小声でたしなめたりする。 でもさ、少なくとも他人に思いを寄せるというのはとても大切なことだから、ここから始めるという手があるぞ。何しろ一番の敵は無関心だからね。さあ、ここから考えよう。未来は君たちの手にある。
「障害のある人はかわいそう」 仮にそう思う人がいたとして、何故かわいそうだと思うのかな。障害があるから?不自由だから? では、障害のある人は自分のことをかわいそうだと思っているのだろうか。聞いてみたことあるだろうか。きちんと聞いたら答えてくれるはずだ。
そしてもうひとつ、キミ自身はこれまで、「かわいそう」だったことは一度もなかっただろうか。そしてこれからも。
こんな風に丹念に思考をたどっていくと、何かぼんやりと見えてくるものがある。考えよう。福祉は難しくない。
「障害のある人をかわいそうと思ってはいけません」という正解だけで済ませてしまうから、「福祉」が語りにくく、わかりにくくなる。正解というのは、上から降ってくるのではない。大切なのは正解を求める幾通りものプロセスのはずだ。
そのプロセスのひとつをたどるとこんな風に見えてくる。
「かわいそう」というのはとりあえず、自分は含まれていないのだな。これが問題のひとつ。では自分の中で「かわいそう」と思わせてしまうものは何か。そんな風に考えが進んで、かわいそうと思わせるもの、それは実は 障害者や障害ではなく、キミや私の立っている側の問題かもなあ、と思えるのならいいところに来ているのかもしれない。
作家の井上ひさしさんはこんな風にいっておるぞ。
「生きることは借りを作ること」
生きることは借りを返すこと」
深いな。井上ひさし先生、これって「福祉」ですよねえ。
さて、フレッシュマン諸君! 今日も君たちが流れる雲を見上げ、「ヨシッ」と生き生きと自分らしく春風の中に踏み出していくのなら、そこにはきっと「福祉の見えざる手」が働いているのに違いない。
いやあ、今回は偉そうで自分で書いていて居心地が悪い。気恥ずかしいね。マ、おじさんだからね。スマンスマン。 勘弁な。
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