本文へメインメニューへ
ここから本文です

ハート ネット ピープル

コミュニケーションの力

[写真]夏の雲。圧倒的な量感がありながら、手招きしているようだ。自然はいつも自分の気持ちを映すもの。

ショーン・コネリーが、片方の眉をスッと上げて「フム」とか「ホウ」といった表情をする。あれ、いいなあ。いかにも思慮深く、渋い。あれが年を重ねた男の色気というものだ。
何とか、あの片方の眉だけ、スッとあげる表情をマスターできないものか。いろいろ練習を重ねたが、これが出来ない。
私がすると同時に両方の眉がぐっとあがってしまい、どうみても「あら、ビックリ」の顔なのだ。マ、軽薄なのも、我が人生としよう。

表情、仕種というのもヒトの持つコミュニケーションの力だ。
「IT時代のコミュニケーションを考える」というシンポジュームに参加した。今、企業ではITは欠かせない。それは飛躍的な効率とスピードをもたらした。でも同時に、ジワリジワリとヒトにそのしわ寄せが及んだ。
日がなパソコンに向かっての仕事。連絡はメール。同じ室内の同僚にもメールする毎日。
そんな日常の風景に経営者が危うさを嗅ぎ取る。ヒトとヒトの間に何か隙間が出てしまっているのではないか。それだけではない、今、企業にとって一番求められる独創的な発想が生まれてこないのではないか。
その経営者は用向きがあるときはわざわざ、出向いていくという。
「対面すると、用件だけでなく、実にたくさんの情報を交わすことが出来ます。人柄、熱意、疲れてないか、不満はないか。それがメールだとすべてそぎ落とされてしまう」
雑談が大事なのだという。一直線の効率の中にあえてよどみを作る。脇道を通ってみる。行き交う会話の中でしか、新しい発想は生まれてこないと、その経営者は言う。
「無駄口たたいてないで、さっさと仕事!」の時代ではなくなっている。

これも先日のETVワイド「30代のうつ」では、うつに悩むエンジニアがこう言った。
「以前は設計図を囲んでエンジニア達が、頭を寄せ合って侃々諤々(かんかんがくがく)の議論があった。今は各自のパソコンに送られてくる設計図に意見があればメールする。そのうち私自身、何をやっているのか手応えのない世界にさまよい出たような気がする」

ITが悪いわけではない。それに振り回されるようにして、私たちヒトとヒトとがつながるコミュニケーションが希薄になってしまっている。今改めてハートをつないでいくコミュニケーションをどう取り戻すのか。

[写真]私の夏休み。親子で夫婦でコミュニケーションの時。なぜか私は愛犬マロンとばかり。

かつては、誰もがコミュニケーションの達人だった。
子供がまだ幼かったとき、幼稚園から帰ってくる子供は飛び込むようにして自宅に駆け込む。「お母さん、あのね、あのね」
幼い子供の世界は毎日が新しいことの連続だ。母親に言いたいことは山ほどある。でもあまりにたくさんでどれから言ったらいいのかわからない。「あのね、あのね」の連発は、あふれる思いがほとばしる蛇口だ。
「あらまあ、どうしたの」台所で洗い物をしている母親は、子供に顔を向けてほほえんで、いつになく興奮している子供の園服がすっかり泥だらけなのに気づく。
「あらあら、お砂場で遊んだのね」子供はそう言われて、言いたいことのスイッチがたちまちにはいる。
「そうそう、お砂場。ヨシコちゃんとトンネル作ったよ」子供は母親に言いたいことを当てられてうれしくて仕方がない。
母親は感づく。ヨシコちゃん? これまで聞いたこと無い名前だ。ハハーン、
「ね、ヨシコちゃんって新しいお友達?」
「そうだよ、大阪から引っ越してきたんだって。言葉がちょっと違うんだよ」
エプロンをしっかとつかんで見上げる子供の瞳は輝き、言いたいことは次々に繰り出され、幼い会話はつきることはない。

繰り返された当たり前の光景。でもここにはコミュニケーションの要素が全部詰まっている。まず関心を示す。共感する。そして子供の園服に、想像力を働かせ、子供の世界を発見する。
関心、共感、想像、発見。みんなそうして子供を育て、また子供は育っていった。相手の立場に関心を持ち想像し、共感する。当たり前のことがなぜ希薄になってしまったのだろう。
誰もが持っているあの光景に立ち戻ろう。

「あなた、今日も遅いんですか」
「ウン」
「お食事はいらないんですね」
「ウン」
「あまり遅くなったら、食べるものありませんからね」
「ウン」

コミュニケーションの危機は夫婦の危機でもある。

コメント

マロンちゃん、かわいいですね♪
お子さん達が小さい頃、
町永さんはこの優しい笑顔で、お子さん達をだっこしてたんでしょうね。
おっさんの子育てでコメントした私です。
レスありがとうございました。
とても嬉しくて、にこにこしながら読みましたよ。
今ハゲタカの再放送を見ながら、書いてます。
私も以前所属していた会社という組織、
思い出しました。
社屋の中だけが社会、大げさに言うと全世界で、一日の大半を社屋の中で過ごしていた日々…。
時間に追われても、常に冷静を装い余裕があるかの様に笑っていました。
だけど、
本当は誰とも話したくなかったです。
もし今も会社員だったら、メールのみの連絡をしているかもしれません。
コミュニケーションって、
上に立つ人が心を開いて受け止めてくれなければ、成り立たないと思うのです。
子育てしていて、疲れてイライラしてくると、
子供と同じ精神年齢まで幼くなってしまうことがあります。
あ”~3歳になってる、私は大人で母親だよ!と自分を取り戻しています。
5歳のお姉ちゃんが、まだよちよち歩きの頃、
公園に行く途中の道で、満開の桜が風に揺られて、ひらひら散っていました。
きゃ~っと喜びながら、沢山降る花びらの中、
くるくる回る娘を見ながら、涙がこぼれました。
私は、この子を産まなければ、
私が子供の頃感じた美しい風景を、
こんな風に思い出すことはなかったんだ。
あの社屋の窓から見た隣のビルには、
四季なんかなかった…。
そんな思いが頭の中を駆けめぐりました。
毎日競い合うようにしゃべる子供達の話を、
これから沢山聞いていこうと思います。
この子達が人の話を聞いてもらえる心地よさを体感したら、人の話を聞いてあげられる人になれる気がします。

ままは大変さ、さん。
私も「ハゲタカ」を見ました。日本の経済社会の現実の中で、でもやっぱり最後には人間としてのつながりの中で組織もヒトも、再生して行く物語、そのあたりが救いであり、ドラマのねらいでもあったのでしょう。
子育てという一番の人間的な営みになぜ、深いため息がついて回るのか。
私も私なりに子育てに関わったつもりですが、やはりそこは男親、私の奥さんからすれば、「いいとこ取り」の子育てで、本当のつらい思いは専業主婦の奥さん任せだったのです。懺悔!
でも子育て支援って、いったい何が出来るのでしょうかねえ。
「可愛いですね、おいくつ」なんて声をかけるときもありますが、そこには
「子育て、大変ですね、でも、未来を託すみんなの子ですからね。応援してますよ」
といった思いを言外に込めているつもりなんですがね。きれい事過ぎるかな。

お子さんの話をたくさん聞いてさし上げてくださいね。
大きくなった子供の中で、そんな親子の体験は、きっと生き続けるはずです。

無精ひげのわが息子を見ながら、そのはずだよな、とつぶやいています。

コミニケーションの力を信じていたいと思います。誰もがその達人であった頃にもどればうつも自殺者も少なくなるのではないでしようか。
うつの掲示板でぼろぼろになっている人たちの叫びを慰める励ます書き込みは少なくて、誰か励ます慰める書き込みをしていかないととても危険ではないかと思います。

コミニュケーション、私はあいさつがその入口になるのではと思います。「おはよう」・「こんにちは」・「ありがとう」など、コミニュケーション・夫婦の危機も小さなあいさつで乗り越えることができるかもしれません。特に「ありがとう」ということばは妙薬と思います。書かせていただいてありがとうございます。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://cgi2.nhk.or.jp/cgiblog/tb.cgi/3030