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      <title>ハートネットピープル</title>
      <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/</link>
      <description>NHKの福祉ポータル「ハートをつなごう ハートネット」は、さまざまな個性や環境を持った人たちのハートをつなぐ「場」です。
「ハートネット ピープル」のコーナーでは、全国各地の&quot;ともに生きる&quot;人たちとその活動にスポットを当てて紹介します。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
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      <item>
         <title>別れのとき</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/120210.jpg" width="400" height="300" class="mt-image-none" style="" />
<div class="caption">〔写真〕水上コテージ。そこにあるものは、太陽と海。&hellip;ただ、それだけ。</div><br />

	<p><strong>今回は野上奈津さんからの原稿です。</strong><br />
	<br />
	2011年11月11日。午前3時4分。<br />
	自由と酒を、こよなく愛した父が逝った。<br />
	<br />
	呆気ない最期。<br />
	11月11日の深夜2時、自宅の電話が真夜中の静寂を引き裂くような音で鳴る。電話は、父の入院している病院からだった。<br />
	<br />
	「お父様の具合が急変しました。今すぐにいらっしゃれますか？」<br />
	「勿論、すぐに行きます」<br />
	<br />
	そう答えて電話を切ると、急いで弟の携帯を鳴らす。そして私たち三人は、ほどなく病院の父のベッドを取り囲んだ。<br />
	そこには、その日、夕方見舞ったときに感じられた「生気」が全くないことに気付いた。今、何かが起きている。<br />
	看護師は「それでは、ただいま、医師を呼んで参ります」と言って、白い衣服を着た男を連れてきた。その男は、父の心臓に手をやり、ペンライトで瞳孔を確認し、「11月11日、3時4分、ご臨終です」と言った。<br />
	<br />
	――　ご臨終です　――<br />
	<br />
	私の心臓に、何か鋭いものが音をたてて突き刺さった。<br />
	父の二年間の闘病生活で、私が最も恐れていた言葉。親が先に逝くのは、きっと当たり前のことで驚くべきことじゃない。<br />
	<br />
	けれど私は、どんなかたちでも良いから、父に「生きていて」欲しかった。<br />
	肺炎で苦しそうな父を見ていて、それを望むのは娘のエゴではないかと思い悩みながらも。<br />
	この世の中で、「お父さん」と唯一呼ぶことのできる人間が消えてしまう。「私」という人間の芯を失ってしまうようで、それはどうにも耐えられない残酷な現実だった。<br />
	<br />
	父が息を引き取ったあと、支度が整うと霊安室に移された。<br />
	不思議な気分だった。つい10分前までは息をしていたから「患者」として扱われる。それが、心臓が動きを止めた途端に「人間」から「物体」になるのだ。大切な父の身体を、てきぱきと高級な品物のように扱う看護師の動きを見ていて、こぼれかけた涙が乾いていった。<br />
<div align="center">＊　　　　　　＊　　　　　　＊</div><br />
	自由を愛し、酒を愛した絵描きである父。<br />
	<br />
	父は夏になるたびに、リュックとスーツケース一つでスペインにでかけた。時々、違う国からの消印の葉書が届くときもあったけれど、一ヶ月もすれば帰ってくる。<br />
	（父は、美術の教員でもあった）<br />
	けれど、私が13歳のときに母が亡くなったために、父は多くの自由を犠牲にしなければならなくなった。<br />
	男手一つで私と弟を育てたといってもいい。そのせいもあるのだと思う。父と私は、お互いが相手を支えていることで自分の存在証明も見出すといった、やや共依存的なところがあった。<br />
	<br />
	2009年12月。<br />
	私たち父娘は、モルディブへ旅行に出かけようとしていた。夫もしつこく誘ったのだけど<br />
	「せっかく親子水入らずの旅行なんだからさ。二人でのんびり行っておいでよ」と固く辞退されてしまった。父は夫のことが大好きなのだ。<br />
	「いいか。モルディブなんて、だいたい贅沢が過ぎるぞ。旅費が馬鹿にならん」<br />
	「いいじゃない。だって『青い海に入りたい』って言ったのはお父さんなのよ。だったら、最高の場所だと思う。一生で最後と思えばいいじゃない」<br />
	「じゃ、旅費はきっちり割り勘だぞ。貸した金は必ず返せよ」<br />
	「やった！じゃ、決まりね！」<br />
	<br />
	父は、これまで気軽に安宿を巡る旅をしてきた。確かに私がこのとき旅行先に選んだモルディブのリゾートは、「気安く」行かれる値段ではなかった。私は父に、旅費を借金したくらいなのだから。<br />
	はじめは渋っていた父だったけれど、旅行会社のパンフレットの束を見るうちに気が変わったらしい。<br />
	その後、父がどんなに浮かれていたか。出発の日まで上機嫌だったか。<br />
	成田空港まで送ってくれた夫と撮った写真の笑顔にあらわれている。<br />
	<br />
	ただ。成田を発つその時まで、まさか本当に「最後の旅」になるなんて思いもしなかった。<br />
	リゾートで充分にヴァカンスを楽しんだ私たちは、帰国の日を明日に控えて、プールサイドでランチをとっていた。<br />
	すると、父が突然、頭を抱えて「イタイ、イタイ」と言いだした。膝を抱えてうずくまる。その直後に激しい痙攣がはじまったために、水上飛行機で首都のマーレまで40分かけて搬送された。<br />
	その後一ヶ月近く、父はモルディブの病院に入院するのだけれど、診断された「脳梗塞」がよくなる兆候は全くみえない。<br />
	日本から迎えの医師と看護師が派遣されることになって、2009年も後一日&hellip;という日に、ようやく私たちは日本に帰ることができた。成田空港に着陸した機内から、空港に待機している救急車が見える。先に飛行機から降ろされて、ストレッチャーで運ばれていく父が目に入る。私は身体の力が抜けていくのを感じた。<br />
	<br />
	成田から、高輪の病院に救急搬送されてからの父の人生。<br />
	「これが最後よ」と言った言葉どおりになった。<br />
	急性期の病院で半年間のリハビリを受けたけれど、「胃ろう」の処置を受け、回復は見られなかった。結局は「療養型医療施設」に入院することになる。<br />
	（※胃ろう＝主に経口摂取が困難な患者に対し、人為的に皮膚、胃に穴を開けチューブを設置し水分・栄養を流入させるための処置のこと）<br />
	<br />
	この二年間、私はいつも父の容体を思い。切なくて、心が痛み、憂鬱な気持ちから解放されるということがなかった。<br />
	誤嚥の危険性があるために、口からの食事は避けた方が安全だと主治医は言う。「胃ろう」から、とろみのついた流動食のようなものを流すのだ。けれど、それでは体力が目に見えて落ちていく。<br />
	「家族」として見ていることが辛い。私は「食事がきっかけで死ぬことになっても構いませんから、口から物を食べさせて下さい」と、主治医にかけあった。<br />
	けれど、その思いは本当に父の命を奪いかねないほどの危険な望みだったことを数日後に知ることになる。父は「誤嚥性」の肺炎を起こし、大学病院に救急搬送された。一命を取り留めた父は、一ヶ月ほどの入院の後、「医療型療養施設」に戻ることになる。<br />
	私は、二度と父に口から食事をさせて欲しいと頼むことはなくなった。<br />
	<br />
	もう私には分からなくなった。<br />
	口からは、一切の水も食べ物も採ることはできないのだ。ぼんやりとした意識のなかで、一日中ベッドにいる。ラジオから流れてくる音楽だけが、せめてもの慰めだ。<br />
	「生きる」とは一体、どういうことなのだろうか。<br />
	口から物を採れない父は、ゆっくり、ゆっくりと弱っていく。時折、大きな目を見開いて、何かを私に訴えている。<br />
	<br />
	お父さん、もっと早く楽になりたかったですか？<br />
	私は娘として、わがままでしたか？<br />
	<br />
	この世でただ一人。「お父さん」と呼べる人。どんな姿でも良いから生きていて欲しい。「私」という存在を無条件に認めてくれる人。<br />
	<br />
<div align="center">＊　　　　　　＊　　　　　　＊</div><br />
	結局、はじめに「ヤマ」と言われた夜から<br />
	父が逝ったのは、その三週間後のことだった。<br />
	<br />
	一度目の「急変」の夜のことがよく思い出される。<br />
	父のベッドの足元に簡易ベッドを据えてもらって、父と私と弟と3人で並んで寝た。<br />
	家族三人で、真夜中に狭い空間に身を寄せ合っている。こんな情景はどれだけ久し振りのことだろう。<br />
	最悪の事態のなかで、私は一人「思いがけない幸せ」に浸っていた。胸がいっぱいになって、涙がこぼれそうになった。<br />
	しばらくして目を覚ますと、父のいびきが聞こえてきた。<br />
	「おい、いびきをかいて寝始めたぞ」<br />
	いびきをかいて寝ている父を見ていると、まだまだ「強い生命力」があると感じられたものだ。<br />
	<br />
	<br />
	先日、父の遺品を整理していたら、ノートにメモがしてあった。<br />
	<br />
	「こういう幸せもあるんだなぁ」<br />
	<br />
	「ここは天国だなぁ」<br />
	「酒はもう止めて、この島にきて飲むことにしよう。日本では止める」<br />
	<br />
	「よし、絶対に来年も又、ここに来よう」<br />
	<br />
	なんだ、実はお気に召していたのね。<br />
	そうよ。魂は自由だもの。いつでもモルディブの海に行ってきてね。<br />
	<br />
	<br /></p>
]]></description>
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         <category>com-pass</category>
         <pubDate>Fri, 10 Feb 2012 21:02:20 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>「病気のわたし」とステップ踏んで</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/120201seri.jpg" width="400" height="266" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">[写真]見上げた空「曇天だと嘆く日も、雲の上まで行けば&ldquo;晴れ&rdquo;」</div><br />
<p>心の病気をわずらって以来、わたしは、「音」という「音」が極端に苦手になった。<br />
	突然のクラクションはもちろん、日常にあふれるちょっとした喧噪も。<br />
	それまで大好きだった演劇ですら、「効果音がこわいから」と近づくのをやめてしまった。<br />
	<br />
	だから―<br />
	そのピアノリサイタルに行くことにしたのも、たまたま恩を受けた人に勧められたから。<br />
	わたしは、特にクラシックが好きというわけでもなかったし、なにより、「音」をたのしむべき場所で、自分が何をしていいのかわからなかったのだ。<br />
	<br />
	リサイタル当日。ぎりぎりの時間に起きたわたしは、結局、昼食を食べるひまもなく家を出た。<br />
	会場近くの公園のベンチで、近所のコンビニで買った肉まんにかぶりつく。<br />
	「久々の外出で寒いだろう」と厚着をしていたせいもあったのかもしれない。1月半ばの空気は思いのほか頬にすがすがしく、やわらかな日差しが、ちぢこまっていた体を包んだ。<br />
	<br />
	空を仰いで、目を閉じる。<br />
	世界が、まっしろな光だけになって―わたしは本能のように、「きもちいい」と思った。<br />
	<br />
	年が明けてから、なぜだろう、わたしは妙に焦っていた。<br />
	「新しい年だし、33歳になったし、何か変わらなきゃいけない」―と。<br />
	パソコンに向かって必死で書き物をしたり、難しい本を読んだり―・・・しても、何も変わらなかった。<br />
	だけど、一歩、家から外に出て、陽を浴びているだけで、こんなにも解き放たれたきもちになるなんて。<br />
	「不安」も「迷い」も、どうでもいい―。<br />
	ただ、今、ここに、「わたし」がいる。<br />
	<br />
	<br />
	<br />
	ピアノリサイタルは、こじんまりした会場で行われた。<br />
	まだ学生だという奏者の不慣れなお辞儀に頬を緩め、やがて演奏がはじまった。<br />
	―ダーン。音が弾ける。<br />
	生まれてはじめて目と鼻の先で響いた生のピアノの「音」は、想像以上に大きくて、瞬間、わたしの心臓もはねた。<br />
	それでも流れる旋律はうつくしく、「ああ、ピアノってきもちいいんだ・・・」と、ひなたぼっこのつづきのように目を閉じる。<br />
	<br />
	2曲目。一転して、叩きつけるような力強い「音」。<br />
	洪水のように激しく押し寄せてくるそれに、やがて、息がくるしくなった。<br />
	胸が、しめつけられるように痛い。<br />
	鼓動がどんどん速くなっていく。<br />
	<br />
	・・・でも、「いや」じゃなかった。<br />
	<br />
	ドクン―。ドクン―。ここしばらく体験することのなかった緊張感を、わたしは、挑むように受け止める。<br />
	恐怖心すら―「おもしろかった」。<br />
	<br />
	<br />
	<br />
	「病気」になってから―<br />
	わたしは、「自分の病気」を何より優先して、ものごとを決めてきた。<br />
	感情が高ぶると翌日疲れるから、と、泣きたくても、ぐっとこらえた。<br />
	行きたい場所も、人が多そうであれば、あきらめた。<br />
	<br />
	『できることしか、しない』。<br />
	それが、「病気と、うまくつきあうこと」だと思っていた。<br />
	<br />
	だけど今日・・・ずっと避けてきた外出が、久しぶりの肉まんが、ひなたぼっこが、苦手なピアノの「音」が、観客席のひとごみが―<br />
	「病気を意識しすぎるわたし」を、ほどいてくれた。<br />
	<br />
	<br />
	<br />
	プログラムの中のひとつに、クライスラーというヴァイオリニストの曲を、ラフマニノフという音楽家が編曲したというものがあった。<br />
	おおらかな性格だったクライスラーとは正反対に、ラフマニノフは「うつ病」だったのではないかと言われている。<br />
	だけど、ふたりは、とても仲が良く、一緒に数々の演奏会をたのしんだそうだ。<br />
	<br />
	「病気」は、自分の中のひとつの「個性」で、「結論」じゃない。<br />
	わたしも、心の病気を抱えながら・・・<br />
	友だちとはしゃいで、音楽を聴いて、泣いて、笑って、ときに倒れて―<br />
	<br />
	「生きる」ことを、「あそんで」みよう。<br />
	&nbsp;</p>
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/seri/post_580.html</link>
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         <category>seri</category>
         <pubDate>Wed, 01 Feb 2012 11:22:16 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>みんなの福祉　第6章　「福祉ネットワーク」を語る</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/120201machi.jpeg" width="400" height="267" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕夜が明ける。街の灯が陽の光に変わる。雲が晴れる。空が広がる。一日が始まる。深呼吸して今日を生きる。</div><br />
	<p>さて、「福祉ネットワーク」である。良い番組である。と自分でまず堂々といってしまおう。<br />
	自分の番組を語る時、ともすれば正当化と弁明に傾きがちな筆を意識し、結局語り口は小さく縮んでしまいがちだ。自分を語るに等しいわけだから当然難しい。でもそこに過剰に遠慮と卑下を塗り込めたら、かえって不遜、視聴者に失礼である。日本人は自己評価が下手、と言われる。豚児だの愚妻だの言わずに、まず臆面も無く言ってしまおう。良い妻である。もとい、良い番組である。<br />
	<br />
	今、メディア全体を見回した時、「福祉」を冠した番組というのはほとんど皆無である。どう考えるか。<br />
	二面の捉え方が可能で、単純に世の中「福祉」に関心はないからというものと、今や「福祉」は普遍的な課題である以上、とりたてて「福祉」を銘打つことはないというもの。さて、どちらであるか。どちらでもあってどちらでもない。答えはない。あえて言えばこのふたつの捉え方の振幅を縫い合わせるようにして伝えてきたのが「福祉ネットワーク」だ。<br />
	世の関心にも応えたいが、伝えるべきことは、仮に関心薄くともしっかり伝えたい。<br />
	<br />
	「福祉ネットワーク」も時代と共に、実は大きくうねるように変化してきたと私は思う。<br />
	かつては、当時の「福祉」の概念をそのままに反映して、「福祉」といえば障害者であり、高齢者の問題だったから当然番組のテーマはそうした人々、家族、団体の日常や活動を伝えることが多かった。大きな役割であったが、ある意味「福祉」は常に限定的なテーマであり、そこに甘んじた。<br />
	背景にあったのは、日本社会の右肩上がりの経済であり、バブルもあった。「福祉」は湧き立つような景気の周辺にひっそりと息づくしかなかった。<br />
	その中で大きな動きが外からこの国に流れこむ。<br />
	1981年の国際障害者年である。障害者を「福祉」の対象者から社会の一員として位置づけ、具体的な社会変革の行動計画へとつなげた。障害者にとって大きな成果であるばかりでなく、福祉にとっても大きく概念規定を塗り替えさせる力があった。今から30年前のことだ。<br />
	当初はどうしても理念だけが先行しがちだったものの、やがてバリアフリー、ノーマライゼーション、ユニバーサルといった言葉も一般化するようになり、公共の場にはスロープ、手すり、エレベーターの設置が義務付けられ、理念は私たちの前に目に見える具体的な社会の変化として現れてくる。<br />
	流れは加速する。2006年、国連で障害者権利条約が採択。インクルーシブな社会が打ち出されてくる。<br />
	ここまでの変革の特徴的なところはいずれも当事者、障害者たちの発信する声によるものだった。これは障害者自身による、支援の対象者に囲い込まれている社会に対する異議申立てであり、また「支援」のあり方を厳しく問いかけるものだった。さらには日本の持つ体質として、常に外圧でしか変革はもたらされないのかということも日本の福祉の自律が問われた。実際、この国は国際社会のこの動きにあたふたとついていくのが精一杯だったのだ。<br />
	体質で言えば、モンスーン気候の湿った日本の福祉風土は伝統的な慈母温情の美質が故に、このような社会の柱となる「理念」をついに生み出せなかったとも言える。<br />
	<br />
	「福祉ネットワーク」はこうした動きを取り入れながら、その間口を大きく押し広げようとした。「福祉」は限定的な対象にのみ機能するのではなく、この社会の構造そのものを対象としなければならない。<br />
	「福祉」を時代の中心軸に据えてこの社会を撃つ！<br />
	私自身、気負いも含めてよくこう吠えたものだった。<br />
	縮小する福祉ではなく、時代へ、遍在する福祉へ。番組の舵は大きく切られて行った。この時点で、実は「福祉」という用語の意味あいは全く変わった相貌を持っていたのである。<br />
	国際社会の外圧で否応なく障害者福祉の変革に取り組みながら、一方で日本の社会の内圧も膨れ上がった。超高齢社会という圧力である。従来の福祉観で対応できるはずもない。<br />
	そしてバブル以降の経済の際限ない後退の中で、それまで覆い隠されていたこの社会の切実な課題が次々と浮き上がる。<br />
	うつ、自殺、認知症、子育て、貧困。別個に浮かび上がるこうした課題を「福祉ネットワーク」は次々に取り上げた。走りながら考えるようにして、番組を送り出した。みんな怒ったような表情をしていた。なんなんだ、この国の、この社会は。若いディレクターは睨み返すような眼差しで、編集室のモニター画面に向き合っていた。<br />
	個別の課題は、やがて合流し大きな流れになろうとしていた。私たちの前に立ちふさがるのは、私たち自身が選択したこの社会の閉塞だ。誰もが息苦しく暮らさざるをえない装置がこの社会に組み込まれてしまった。「福祉」はそれを防ぐことは出来なかった。チェック出来なかった。社会を見てこなかった。<br />
	そのことに「福祉ネットワーク」はどんな力となり得たのだろうか。個別の課題を個別に語るだけだったのではないか。苦い思いも浮かぶ。<br />
	<br />
	そして、東日本大震災。<br />
	「福祉ネットワーク」が何かを成し得たなどと誰がいえよう。若いディレクターの無力感、非力を嘆くさまは傍で見ていても痛々しかった。それとても被災地のことを思えば何ほどのことがあるのか。できうる全ては関心を持ち続け、伝え続けることしかない。この先何十年も「福祉ネットワーク」は、「福祉」は、被災地から問われていく。そのことに責務として伝えることで応えていかなければならない。<br />
	<br />
	ここまで、福祉の道筋と「福祉ネットワーク」との相関を、なるべく美辞を排して記してきたつもりだが、それでも私はこれは良い番組だと思う。<br />
	ここにはこれからの世代の若い仲間がいる。私も含め、彼等彼女たちは特段福祉の専門家ではない。だからこそ、自分の感性と問題意識は常に検証され続ける。取材対象となる人々から、そして仲間から。<br />
	<br />
	ある年、新たに仲間となるディレクターが歓迎会で抱負を述べた。<br />
	「ディレクターとして、常に弱者の側に立って伝えていきたい」<br />
	少し緊張を浮かべながら語る表情は初々しい。が、先輩は容赦ない。<br />
	「弱者の側に立ちたいと言うあなたは、それでは、ナニモノ？」<br />
	そこにもぐり込む潜在的な強者、支援する側という意識が問われ、新人は立ち往生する。仲間から、そして取材する障害者、高齢者、被災した人々から、くりかえし問いかけられ問い直し、自己検証し、相互批評しながら彼等彼女たちは大きく成長する。<br />
	<br />
	彼等はこの社会のありようをも問い返していくだろう。「福祉の力」を本来の人間の原理として社会システムに組み込んでいくだろう。<br />
	私たち世代が依拠してきた「福祉」とはすでに機能不全なのかも知れない。それは「誰もがやがて結婚し、子供は二人か三人で夫が外で働き、妻は家庭を支える」のを前提にした福祉である。私自身が全くこのモデルなのだ。ところが私の子供世代はすでに全くこのモデルに当てはまらない。娘はまだ独身だし、当分結婚しそうもないし、しないかも知れない。誰か良い人いませんか。それはともかく、福祉モデルが劇的に一世代で変化し、価値観の共有も難しいのに、旧世代は新たな福祉モデルの発想を持ち得ない。これは旧世代では無理だ。<br />
	<br />
	若い世代が創り上げるしかない。若い世代は自分たちの福祉モデルを自分で作り出す。被災地の人々のくらしの再建と同期して、自分たちの問題として自分たちの福祉社会を作り上げる。その時はじめて「福祉」は再定義と再構築がなされるだろう。本来の「みんなの福祉」として。<br />
	「福祉」は課題に後追い対応するだけでなく、何より未来を創り上げる「生きる力」として、あなたと共にある。そのようにして「福祉」の「ネットワーク」は、続いていく。<br />
	<br />
　　　　　　　　　　　千里より一里が遠き春の闇<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　飯田龍太<br />
	&nbsp;</p>
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/machinaga/6_1.html</link>
         <guid>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/machinaga/6_1.html</guid>
         <category>machinaga</category>
         <pubDate>Wed, 01 Feb 2012 10:49:56 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>性暴力被害 第3弾　－性虐待－</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/120130_1.jpg" width="400" height="224" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕左より、今回出演をしてくださったユカリさん、ナミさん、キラさん。「『ハートをつなごう』はいつも見ていて、前回の性暴力被害の回を見て、自分もメールしてみよう、声を出してみようと思った」（ユカリさん）。たくさん寄せられたみなさんの声、こちらでもご覧になれます&rarr;<a href="http://www.nhk.or.jp/heart-net/message/10/10_1_index.html">メッセージボード「性暴力被害」。</a></div><br />
	<br />
	<p>6年間ご覧いただいた「ハートをつなごう」では様々なテーマを取り上げ視聴者の皆さんと一緒に番組を作ってきました。<br />
	<br />
	そうした中で、今回は「性暴力被害」の第3弾、家族からの「性虐待」です。<br />
	毎回怒りとともに言いようのない苦しさを突き付けられてきたテーマですが、今回はそんな中で初めての光景を目にしました。<br />
	収録は1回目と2回目の同日ということで、2回目ゲストのナミさんには1回目をスタジオの中のモニターでご覧いただき、その後休憩をはさんで2回目の収録のため、セットの席にご案内しました。<br />
	<br />
	するとナミさんは、1回目ゲストのユカリさんに大きく手を差し伸べ&ldquo;ハグ&rdquo;が始まったのです。<br />
	ユカリさんも応え、どれくらい続いたでしょうか、涙を浮かべながらのお二人の&ldquo;ハグ&rdquo;をスタジオ中が見守りました。<br />
	ユカリさんもナミさんも、同じ被害を受け続けた当事者と会うのは初めて、思わず腕が伸びたとおっしゃっていました。<br />
	<br />
	2回目は自助グループに参加しているキラさんも加わり、心の傷とどのように向き合って行ったら良いのか可能性を探りました。<br />
	<br />
	是非ご覧いただければと思います。</p>
	<br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/120130_2.jpg" width="400" height="225" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕小学生から18歳まで父親から性虐待を受けていたユカリさん。「当時は父親から逃れるため、よく近所の公園に行っていました。世界中にひとりだけの気分だった。誰かひとりでも気づいて欲しかった」</div><br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/120130_3jpg.jpg" width="400" height="225" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕4歳から中学生の頃まで、兄から性的虐待を受け続けたナミさん。その後、周りとの人との関係をうまく築けなくなっていったり、うつ状態になったりしたと言います。「今は兄を許そうと思っている自分がいます」</div><br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/120130_4.jpg" width="400" height="225" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕精神科医の小西聖子さん。「発見することが難しい。被害者はなかなか自分のされていることを自覚するのに時間がかかったり、また仮に気づいても言えなかったり。加害者も外からわかるかと言えばそうではないことが多い。非常に見えにくいのです」</div><br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/120130_5.jpg" width="400" height="225" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕小林美佳さんはナミさんから「自分と同じような体験をした人がいるのかずっと体験談を読みたいと思っていたので、小林さんの本の存在は大きかった」と言われていました。小林さんはハートネットピープルでも連載をしてくれています。<a href="http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/micatsuki/index.html">「みかつき別館」。</a></div><br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/120130_6.jpg" width="400" height="225" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕過去に兄と父親から性虐待を受けた経験を持つキラさん（右）。大人になり結婚してから、調子を崩して精神科を受診したときに、過去に家族とのあいだにあったことが関係していると先生から指摘をされました。それがきっかけで、自助サークルに参加するように。</div><br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/120130_7.jpg" width="400" height="225" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕「収録の休憩時間になって、今日みなさんの話を聞いていたため、自分の体にすごく力が入っりっぱなしだったことに気づいた」とソニンさん。「でもそれを小西先生に言ったら『彼女たちは、ずーっとその状態が続いているんですよ』と言われて、ああ、そうなのか、と」</div><br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/120130_8.jpg" width="400" height="225" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕周りの人は何ができる？　という話になったときのこと。キラさん「私は主人にひととおり話をしているのですが、『俺はなにがあってもお前の味方だから』と言ってくれたのが嬉しかったです」。</div><br />
	<a href="http://www.nhk.or.jp/heart-net/hearttv/">■ハートをつなごう放送のご案内「性暴力被害第3弾」 （1月30日、31日）</a> &nbsp;<br />
</p>
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/sakurai/post_579.html</link>
         <guid>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/sakurai/post_579.html</guid>
         <category>sakurai</category>
         <pubDate>Mon, 30 Jan 2012 11:10:24 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>頑丈な命綱</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/okada120125_2.jpg" width="400" height="299" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕娘が撮った写真です。野口健さんが登るような高い山ではありませんが、子どもが小さかった頃登ったことのある、この地域ではなじみの山々です。</div><br />
<p><strong>今回は岡田彩さんのお母さん、岡田くめ子さんからの原稿です。</strong><br />
	<br />
	<br />
	この間、娘とコンサートを聴きに行った。久しぶりにいつもと違った風を心に吹きこまれたようでリフレッシュができた。<br />
	会場を出て人がいなくなった帰り道で私はようやく娘にこらえていたコンサートの感動をしゃべり始めた。それは病気の特性か、娘は人が大勢いるところで私に話しかけられるのを嫌がるからだ。<br />
	私：「最後の歌、良かったね！」<br />
	娘：「うん！　私もいい曲だなと思った」<br />
	私はこのとき、娘と同じ感覚を共有できたことが嬉しかった。<br />
	が、だんだん話をしているうちに、内容が噛み合わなくなってきた。おかしいなと思い、よくよく話を聞いてみると、私が言っている最後の曲はアンコール前の舞台の最後の曲のことだったが、娘の最後の曲はアンコール曲のことだった。<br />
	「最後」の捉え方の違い。そしてまた感動の違い。<br />
	人の本当の思いはたくさんの言葉の中からようやくわかることを知った瞬間だった。<br />
	<br />
	そういえば以前にもこんなことがあった。それは娘が発病してしばらく経った頃、登山家の野口健さんの講演を娘と一緒に聞きに行った時のこと。<br />
	『目標を達成する事だけが成功ではない』といった野口健さんの言葉が私の心に強く残った。<br />
	危ないと感じながらも無理をして登り続け、仮に登頂しても生きて帰れなかったら何もならないからだ。<br />
	だから、目標を達成しても成功とは言いきれない。危険を感じたら途中で引き返す勇気と判断力、その時の状況をしっかりつかんだ行動が後々の成功に繋がる。<br />
	そんな野口健さんの講演の中から、<br />
	娘の病気が再発につながらないために、またゆっくりでもいいから確実に回復してほしいと願う私の気持ちにぴったりマッチした言葉だった。<br />
	一方、娘が心に残った言葉は、『どんな方法でも良いから歩みだしてさえいれば夢は必ず叶う』だった。<br />
	野口健さんはすでにネパール側からエベレストに登頂を達成し、今度は、次の目標として中国側からエベレストに登頂する夢を色々な問題を乗り越え何十年もかけてやっと叶えることができたことを語った。そんな生き方に娘は感動したのだと思う。<br />
	20歳で発病し、これからという時期に自分の夢と希望を失った娘にとっては、明るい兆しの言葉だったのだろう。<br />
	同じ講演を聞いても、それぞれの立場や思いの違いで印象に残ることが違う。捉え方もそれぞれに違う。<br />
	やはり、いつの世も子どもは将来の夢を追い求め、親は安全で確実な方法にひかれがちである。<br />
	しかし、この二つの思いは、成功にたどり着くためにはどちらも必要なことと思う。野口健さんはこれらをうまく絡み合わせることで、きっと、成功に繋がる頑丈な太い命綱を縒ることができたのだろう。<br />
	「ゆっくりでもいい、確実に登って行く。危ない時は一旦引き返し、天候が回復し落ち着いてきたらまた登る。目標を持って歩み出せば夢は絶対に叶えられる。」<br />
	私は、このような考え方こそ病気にとってとても大切なことと思う。<br />
	そして、子どもの気持ちと親の気持ちは違うものだけれど、どちらも同じく大切なもの。ひとつにして頑丈な命綱を縒りたいものだ。</p>
	<br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/120125okada_1.jpg" width="280" height="373" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕「菜の花」　先日、私の友達から春の訪れの写真が届きました。今年は、降水量が少なく気温も低かったため花が発育不足で小さいみたいです。でも、春はゆっくりと確実に近づいていますね。</div><br />]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/aya/post_578.html</link>
         <guid>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/aya/post_578.html</guid>
         <category>aya</category>
         <pubDate>Wed, 25 Jan 2012 13:49:20 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>希望</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/120125mica.jpg" width="400" height="300" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕北海道の高校生が、別れ際にくれました。「小林さん、月好きですよね？」と。<br />
	いい大人が、高校生を目の前に泣いてしまいました。宝物です。</div><br />
	<p>
また「ハートをつなごう」の性暴力被害特集の番組収録がありました。<br />
	「性虐待」がテーマです。<br />
	<br />
	収録の前日、高校生の女の子が「小林美佳さんですか？」とメールをくれました。<br />
	父親の性虐待から逃れるために、家出をしてきたといいます。<br />
	駆け込みの宿泊先を探そうかと提案したところ、「私のメールにつきあってください」という返事がありました。<br />
	夜になって町を歩いていたら、おじさんに声をかけられ、「家も外も一緒！」同じように怖さを覚えてしまったというメールから始まり、「学校に行くと、みんなは夢や希望がいっぱいで、でも自分はそう思えない」という話など、<br />
	そこから数時間、ネットカフェに入ったという彼女とチャットでお話をしていました。<br />
	ひとまず、地方のおばあちゃんの家に行くことで彼女も納得してくれ、明け方まで、お話をしていました。<br />
	途中、彼女は写メを送ってくれました。「これが私！」と。<br />
	そこには、お友達とポーズをとった、都会の高校生という笑顔いっぱいの女の子が写っていました。<br />
<div align="center">＊　　　　　　＊　　　　　　＊</div><br />
	私には、私の活動を支えてくれている大事な宝物のような、存在があります。<br />
	それは、ある40名の10代の女の子たちです。<br />
	<br />
	彼女たちには、性虐待などを受けてきた過去がありました。<br />
	<br />
	そしてその経験を、彼女たちは大人や周囲に話すことができませんでした。<br />
	たぶん、「話してもいい」と思える環境に出会わなかったことと、自らに起こっていたことが何であったのか、それを自覚したときにはもう、大きな支配と抑圧の時間が過ぎたあとだったからだと思います。<br />
	<br />
	私は彼女らの背景を知らず、その40人の前で、自分の性暴力被害について話をしました。<br />
	話している途中、彼女たちの表情を見て、彼女たちそれぞれに、私の被害と重ね合わせる経験があることが&hellip;なぜだか&hellip;わかりました。<br />
	<br />
	話を終えると、彼女たちがそれまで溜めてきた経験や思いがあふれて、私に向けて表現されました。<br />
	ところが、<br />
	その表現は、決して直接的なものではありませんでした。<br />
	「私も思うところがあって、・・・幸せになれない気がしているけれど、小林さんはどうやって克服したのですか？」<br />
	「どうしたら、立ち直れますか？」<br />
	といったように、つらかった経験を話すのではなく、もがき苦しんだ先に何があるのかを求めている、打ち明けることに慣れていない、そんな印象でした。<br />
	<br />
	閉ざされた空間でつらかった時間を過ごし、社会に出るには経済的にも自立が難しいはずの彼女たちが、なんらかの方法でその空間から脱し、私の目の前にいることは、どれだけ大きな力を振り絞っての結果なのか、その力の大きさを伝えました。<br />
	<br />
	そのとき、彼女たちは、涙を見せました。<br />
	<br />
	こんな私でも、10代の彼女たちから見れば、「大人」なのです。<br />
	それまでいた環境に、彼女たち苦しみや力を見ようとする大人がいなかったことを、彼女たちが教えてくれました。<br />
	いつも漠然と、何かがあるに違いないと言い聞かせこの活動をしていた私は、そのとき初めて、私が守り、作り上げなければいけないものが見えました。<br />
	<br />
	いまでも、外で活動をして力を使い果たすたびに、「もう無理～」と感じるたびに、彼女たちの顔が目に浮かびます。<br />
	私を信じ、少しでも希望を託してくれた彼女たちの存在は、私のお守りで、何よりの活力源なのです。<br />
	<br />
	<br />
	また別の10代の人たちとの出会いもありました。<br />
	2012年、最初のお休みに、北海道のある高校に行きました。<br />
	その高校の、ある部活動の顧問の先生からメールをいただいたことがきっかけです。<br />
	「小林さんの話が聞きたい」<br />
	という生徒からの申し出があったということでした。<br />
	<br />
	同年代の方々からの被害の声が届く、という話を中心に、性暴力について、話しました。<br />
	私の話が終わると、性暴力については初めて考え、その存在をどう受け止めるかと考えこんでいた彼らでしたが、<br />
	「見てから帰ってほしいです」と、自分たちの部室を見せてくれました。<br />
	「ちらかってる～」と言うその部室には、彼らが「今」を大切にし、毎日を過ごし、何かを生み出す希望のあとがたくさんありました。<br />
	そこで、<br />
	自分たちが毎日見ている自然の風景を壮大だと話し、<br />
	自分たちの住む町が大好きだと話し、<br />
	自分の部活の友達を「家族だよ」と言いました。<br />
	「なにか問題があれば、みんなで話し合うんです。勉強も一緒。恋話も！」<br />
	そして、<br />
	「同い年の子の話は、すごくつらかったです。<br />
	だって、他人事じゃないって思えたから。友達として、自分のこととして、何かできるのかな」<br />
	と。<br />
	<br />
	<br />
	北海道の空港に向かう途中、一面真っ白の雪景色を見ながら、私は、これまで出会った、さまざまな10代の方たちを思い出しました。<br />
	<br />
	<br />
	彼らはみんな、「希望」という言葉を発しました。<br />
	私は、それを臆していたことに気が付いたのです。<br />
	諦めることを知らなかったり妥協するまでの時間を重ねていないことで、未来がよいものだと信じる力を持てる。それが彼らの何よりの強みなのかもしれません。<br />
	<br />
	私がこれまで出会ってきた、多くの性暴力被害者たちや、支援者たちは、「理解」と「信頼」のある社会を求めていると教えてくれました。<br />
	けれどもその「理解」と「信頼」には、ほんの少し「あきらめ」のようなニュアンスも含まれているのではないか。私は10代の方たちと出会ってそんなことを思い、ハッとしました。<br />
	周囲に求める「理解」と「信頼」の前に、<br />
	自分が築けるかもしれない「夢」と「希望」があると。<br />
	忘れていたことを思い出させてもらったような気持ちになりました。<br />
	<br />
	でもだからこそ、こうも言えます。<br />
	性虐待は、その夢や希望をゆるがす暴力です。<br />
	絶対ダメでしょう・・・。<br />
<div align="center">＊　　　　　　＊　　　　　　＊</div>
	<br />
	ネットカフェにいたあの高校生は、おばあちゃんのお家に行けたかなぁ・・・<br />
	そんなことを心配しながら、NHKに赴いた小林でした。<br />
	ハートをつなごう、ぜひ見てみてください。<br />
	<br />
<a href="http://www.nhk.or.jp/heart-net/hearttv/">■ハートをつなごう「性暴力被害第3弾」
（1月30日、31日放送）</a>
	&nbsp;</p>
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/micatsuki/post_577.html</link>
         <guid>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/micatsuki/post_577.html</guid>
         <category>micatsuki</category>
         <pubDate>Wed, 25 Jan 2012 13:25:29 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>新学期はキビシイ</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/120118_1.jpg" width="400" height="300" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕サッカーを楽しむ三兄弟</div><br />
<p>年末は、三男が酷い風邪をひいたのを契機に、連続して家族5人が風邪をひいて、それはもう大変だった。<br />
	家族の複数が倒れたり、特に夫婦でともに倒れると、ほんとにキビシイ状態になるんだと、身にしみた年末だった。それでも新年とともに全員が快復基調になり、一気にいつもの回遊魚状態に戻っていたのだけれど・・・。<br />
	<br />
	新学期は、やっぱり厳しかった（現在もだけれど）。特に中学1年の二男。毎晩遅くまで眠れず、そのせいもあってか、毎朝、なかなか起きれなくて。何時までには野球部の朝練に行かねばならない、などのコダワリがキツくて、目覚めた時間が決定的に間に合わないときにはパニック状態になってしまう。登校までが戦争状態。奥さんが学校の先生と連絡を取り合い、なんとか送り出し、学校側でも「さりげなく」受け入れてもらったり。そんな状態でなんとか登校し、帰宅すると、もう二男は心身疲労状態で、夕方にはばたっと眠ってしまう。夜の寝起きには、睡眠リズムの乱れから、些細なことで怒りパニックになるようなことが続いている。<br />
	わたしが夜、帰宅すると、玄関に入る前から（古い日本家屋の）柱にくぎを打ちつけるような音と振動が聞こえる。家に入ると二男がパニックの挙句に、和室の柱にひたすら頭を打ち付けているような状態。1時間、2時間と続くこともある。ひたすら、パニックにつきあい、なんとかリカバリするきっかけを、とらえては、風呂に入り温まり、食事をして、夜遅くに眠るような感じ。<br />
	これに三男が、毎朝の保育所しぶりと、毎晩の寝入り困難と。<br />
	長男、二男の距離感がつかめないような感じからくる衝突と。<br />
	<br />
	発達障害や、保健福祉、メンタルヘルスなど、奥さんと、わたしと、様々な勉強をつづけ、経験を重ね、考えて、予測して、そんなこともあるさ、と認めて・・・<br />
	でも、ナマモノなんだなあ。知識も経験も覚悟も、通じないときは、どうしようもない。<br />
	<br />
	「わが家は発達障害がマジョリティ」とは、奥さんが1年前に心理関係の書籍に寄稿した際のタイトル。そう、こんな状態でもなんとか、なーんとか、やっていけているんだから、よしとしよう。</p><br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/120118_2.jpg" width="280" height="373" class="mt-image-none" style="" />
<div class="caption">〔写真〕レジ前でバッタリ倒れこむ三男（もちろん、わざと）</div>
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/sasamoris/post_576.html</link>
         <guid>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/sasamoris/post_576.html</guid>
         <category>sasamoris</category>
         <pubDate>Wed, 18 Jan 2012 11:43:34 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>日々の暮らしの中で</title>
         <description><![CDATA[<strong>Salaさんから届いた10～12月のレポートです。</strong><br />
<br /><img alt="" src="/heart-blog/image/sara0111_1.jpg" width="400" height="279" class="mt-image-none" style="" />
	<div class="caption">〔写真〕雲の大きな流れに心を奪われる。</div><br />
<p>
	東日本大震災から目まぐるしく日々は移ろい、秋から冬に季節は変わっていく。仙台で地震にあい、避難所生活もしたが、今は何事もなかったようにではなく、確かに乗り越えてこれたという実感がある。あんな地震が起きるなんて思いもしなかった。人とつながることの重要性を学んだ。あの地震で、人々の心は一つになれた。<br />
	<br />
	10月中旬、寒空の中、仙台ダルクにおもむく。仙台ダルクには薬物依存のメンバーが生活をしている。スタッフのつとむさんと鈴木さんが出迎えてくれて、1時半からメンバーのミーティングが始まった。スタッフの鈴木さんが司会をし、始めは名前と気分、体調を話し、一通り話終えたら、テーマを決めて話し合った。この日のテーマは「金欠」だった。メンバーは、お金があると薬物に走ってしまうので、逆にお金はなくてもそこそこに生活できればいいと話していた。現実逃避は誰だってしたくなる。そのくらい現実は厳しい。でも、それを薬物以外でやる。何気ない毎日の生活や仲間がいることのありがたみを感じることや、その仲間たちとの触れ合い、語り合いなど、弱さでつながりをもつこと。問題を抱えているのが自分だけではないとわかると、安心して生きられるのではないだろうか。最後の感想で、それぞれが自分を語る力を持っていて素晴らしいと伝えた。</p>
	<br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/sara0111_2.jpg" width="270" height="386" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕仙台ダルク・スタッフのつとむさん、鈴木さんと私のスリーショット。</div><br />
<p>10月2回目の震災当事者研究ではテーマを出した本人が自らの力で問題をホワイトボードに書き表していて、自分の状況を把握していた。たいていの仲間は、把握しきれていないパターンがほとんどだから、私は感心してしまった。人間関係のトラブルだった。どうやら、友人のAくんがBくんに不愉快な思いをさせて怒らせてしまったらしく、3人で行くはずのコンサートをどうしたらいいのかというものだった。仲間たちからは質問が飛び交い、みんなで考えあぐねた。人の心は思い通りいかないもので、今は時間をおいた方がいいと、私は伝えた。<br />
	<br />
	次の日からまた仕事だった。夕方、部屋に一人ぽつんとたたずんでいると、好きな古着に囲まれていることに気付き、嬉しくなる。好きな人、もの、こと、場所があると、人は生きやすくなる。自分の力を発揮しやすい。私はその生活を実現しつつある。「安心して自分と向き合っていい」と、声がした。私は心と身辺の整理をし始める。すると、周りが見えてきて、やるべきことがクリアになっていく。できることが増えていく。いい方向に向かっていた。でも、人間だもの、悩まないわけがない。迷いがでてきて、アドバイザーのもとへ行く。<br />
	<br />
	アドバイザーは、「ちゃんとグランディング(地に足をつける)した方がいい」と言ってくれた。私は自分が今ここに存在し、どう感じているかを大事にしようと思った。私は「心ここに在らず」状態で、ふわふわしているときがある。そういう風に浮わついているときは、相手に言われたことをくよくよ悩んだり、自分にダメ出ししまくったり。ありのままの自分を受け入れ、あるがままの思いを認めてあげられたらいいのに、それができない。理想もあって、向上心もある。なりたい将来の夢もある。だからこそ、良いところはもっと自分を褒めてあげ、自信をもつこと、悪いところは認め、変えていく勇気をもとうと思った。<br />
	12月1回目の震災当事者研究は、仲間の提案で、どんな人や場所と関わっているかを、みんなでホワイトボードに書いていった。病院、クリニックなどの施設や、行きつけのカフェ、店、ボランティア仲間や恩師など、様々な人や場所が書かれた。それから、気になるものを説明してもらい、情報を交換し合った。みんな和気あいあいとして、いろんなつながりがあるのを知り、楽しかった。</p>	<br />
	<img alt="" src="/heart-blog/image/sara0111_3.jpg" width="400" height="281" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕震災当事者研究で当事者自身がホワイトボードに問題を書き表している様子。</div><br />
<p>あっという間に、12月もクリスマスを迎え、過ぎていく。何気に幸せだと感じるのは、愛されていると感じるから。家族、友人、仲間、先生、アドバイザーなど、みんなが私を見守っていてくれる。私の手帳に「生きているだけで十分、充分幸せなんだよ」という言葉がある。その言葉を思い出すと泣きたくなる。以前、当事者の仲間が送ってくれたものに、小児がんの子供たちの本があった。私は心が壊れそうになるので、少ししか読めなかったが、小さい子供たちが懸命に生きようとする姿、思いが伝わってきた。世の中には生きたくても生きられない子供たち、人たちがいる。この命は神から与えられたもの。だから、精一杯生きたい。そして、この命のバトンを未来につなげていきたい。世界では未だに戦争、テロ、飢餓、伝染病、その他もろもろ、そして、今回の東日本大震災でも、多くの大切な命が消えゆく中で、今生きていること、生かされていることが奇跡みたい。私は愛する人を愛し、愛され、いつもあの星のように輝いていたい。いつか光に還るまで。愛する人と共に。</p>
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/sala/post_575.html</link>
         <guid>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/sala/post_575.html</guid>
         <category>sala</category>
         <pubDate>Wed, 11 Jan 2012 10:16:59 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>どん底からのプレゼント</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/seri_ph_111227.jpg" width="400" height="266" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">[写真]冬の公園「剥がれ落ちた木の皮&hellip;まるでハートを描いているみたい」</div><br />
<p>
	生まれてはじめて&ldquo;講演&rdquo;なるものの依頼を受けた。<br />
	きっかけは、年明けの朝日新聞に掲載された「そこから」という記事。<br />
	&ldquo;どん底を体験した人たちの『そこ（底）から』の人生を描く&rdquo;というのがテーマで、わたしは、両親の愛情を感じられなかった幼少期、家出、体を売って生きた日々を告白した。<br />
	それを読み、声をかけてくださったのが、大阪府豊中市の教育委員会だ。企画書を送ってもらいタイトルを見ると、こう記されていた。<br />
	『こどもたちの未来を見つめて』<br />
	・・・「どん底人生」から、えらい飛躍だ。</p>
<p>
	勢いで引き受けてしまったものの、日が近づくにつれ不安になった。<br />
	何を話せばいいんだろう。<br />
	わたしには「こども」はいないし、今後も作る予定はない。<br />
	胸を張れるような「正しい」こども時代を過ごしたわけでもない、「立派な親」としての経験もないわたしが、「こどもの未来」を語る資格なんて、どこにあるというんだろう。</p>
<p>
	それでも、ただひとつ、「こども」というキーワードで、伝えたかったことを思い出した。<br />
	「アダルトチルドレン」。<br />
	&ldquo;機能不全家族&rdquo;の中で育ち「こども」らしいこども時代を送ることができなかった「こども」のこと。それゆえ「おとな」になってからも、心に傷や歪みを抱えている人―つまり、わたしだ。</p>
<p>
	行き当たったものの自信はなかった。こんな個人的なテーマでいいんだろうか。<br />
	アダルトチルドレンは、病院で診断される疾患名ではない。心に傷を負ったと言っても、目に見える暴力やネグレクトが行われたわけじゃないことも多い。<br />
	―だから、どうしても、思ってしまう。<br />
	&ldquo;自分よりつらい思いをしている人は大勢いるんだから、自分なんかが「つらい」なんて言っちゃいけない&rdquo;―と。<br />
	だけど講演の告知をし、全国から寄せられたアダルトチルドレンの方々からのメールを読んでいたら、そんな迷いは吹き飛んだ。</p>
<p>
	&ldquo;転んで血を流していたのに、一緒にいた父親に「トラブルを起こしたくてわざと転んだんだろう」と激怒され、「そのとおりです」と土下座するしかなかった人&rdquo;<br />
	&ldquo;母親と祖父母、両方からそれぞれの悪口を聞かされ、「自分が聞かなければ」と受け止めているうちに、人間が怖くなり、自分をも醜いと思うようになってしまった人&rdquo;<br />
	&ldquo;必死で母の望む「いい子」を演じたのに、「背中が別れた旦那にそっくり」と一蹴され、自分がわからなくなった人&rdquo;</p>
<p>
	目に見える暴力はなくても、心は、たしかに傷ついている。<br />
	目に見えないからこそ―・・・口に出そう。機会をもらえたわたしが。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	講演がはじまると、その席に座る多くが教育に携わる人たちだった。<br />
	かたい色のスーツを着込んだ男性を見ると、かつてわたしを罵倒した父を思い出し、厄介者扱いした教師たちの姿と重なり、反射的に心が怯む。<br />
	それでも、ぽつり、ぽつり、出ない声をしぼり出した。<br />
	「失敗作」と言われた幼少期。「死にたいなら今すぐ死ね」と父に浴槽に顔を沈められた高校時代。16歳、わたしは「生きるため」に家を出た。「食べるため」に体を売った。<br />
	そんな話を―あの頃は敵だとしか思えなかった「おとな」たちがきいている。前のめりで、しんけんなまなざしで。<br />
	ふと気づくと、目の端に、ブログを通じて来てくれた&ldquo;生きづらさ&rdquo;を抱える人たちの姿も映った。</p>
<p>
	「こども」だったころ―<br />
	わたしにとって、両親だけが&ldquo;世界のすべて&rdquo;だった。<br />
	否定され、世界中から「いらない」と言われた気持ちになった。<br />
	やがて、学校という&ldquo;社会&rdquo;からもはみだし、自分が生きていける場所なんて、この世にないのだと絶望した。</p>
<p>
	だけど、ちがう。<br />
	この世界には、こんなにもさまざまな人間がいる。<br />
	&ldquo;正解&rdquo;以外の答えを選んでも、生きていける未来は、ちゃんとある。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	講演が終わると、しかし2～3日して、またおさまっていた「うつ」がおそってきた。這いつくばるように精神科に行き、話しながら、涙があふれる。<br />
	理由はわかっていた。わたしは、「誰かの役に立つことをしている間」は、自分にも生きている意味があるように感じられる。だけどそれがなくなった途端、何の価値もないような気がして、不安の底に叩き落とされる。これも存在を否定されつづけた&ldquo;アダルトチルドレン&rdquo;のなごりだ。<br />
	だから、夫に何度も「必要だ」と言ってもらって、自分を「いらない人間なんかじゃないんだよ」と肯定してあげなければいけない。<br />
	そう泣きじゃくりながら説明するわたしに、だけど、医師は微笑んだ。</p>
<p>
	「&ldquo;いらない自分&rdquo;も、受け入れちゃ、いけませんか」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	おおきな宿題を受け取ったまま―もうすぐ今年が終わる。<br />
	年が明ければ、33回目の誕生日だ。</p>
<p>
	わたしは、まだ、32年しか生きていない。<br />
	だけど、32年も、生きのびた。</p>
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/seri/post_574.html</link>
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         <category>seri</category>
         <pubDate>Tue, 27 Dec 2011 09:25:58 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>みんなの福祉　第五章　幸福をつくる</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/machinaga111221.jpg" width="400" height="300" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕横浜クリスマスはみなとの全館点灯で彩られる。飾り付けられたイルミネーションではない。ビルの社員やホテル滞在者、マンション住民が一年に一度、部屋の明かりを点灯する。思いを込めて。眺めるカップル、家族は言葉を呑み込み、想いよ、届けと、ただ静かに見つめる今年の全館点灯（撮影・2010年12月24日）</div><br />
	<br />
<p>前章で、ブータン国王の語る「幸福」について記した。<br />
	ヒマラヤ山麓の小国ブータンの若き国王が説く心豊かな「幸福」に、私達はしみじみと心打たれ、繁栄の陰で何か大切なものを置き忘れてきたことに気づいた。<br />
	微笑ましく若々しい新婚国王夫妻がタラップの人となり、多くの共感を巻き起こしてブータンに帰国すると、今度は入れ替わるように内閣府が国民の豊かさを示す「幸福度指標」の試案を公表した。気恥ずかしいようなタイミングである。<br />
	なんでも、「経済社会状況」「心身の健康」そして「家族や地域での関係性」の三つを指標の柱とするのだそうだ。<br />
	まあ、悪いことではないのだけれどもねえ。お上から幸福についての指標を出されてもなあ。だからどうしろ、というのだ。良い指標なら、「汝ら幸福であるはずである」という御託宣なんだろうし、悪い指標なら「もっと奮励努力せよ」ということになるのではあるまいか。単に私がひねくれているだけかも知れない。<br />
	ついでにいえば、ブータンの「国民総幸福」というコンセプトには実は切実な背景が横たわる。中国とインドという大国に挟まれた危ういパワーバランスの中、独立国としての命運をかけて打ち出した「幸福」であり、決して牧歌的な幸せを謳っているわけではないことは肝に銘じておきたい。<br />
	<br />
	さて、「幸福」である。<br />
	幸福を語るのも、福祉を語るのと同じように難しい。そこにはそれぞれの経済や健康は言うに及ばず、思い、思い込み、幻想、価値観に人生観などなど、ありとあらゆる要素がからみつく。<br />
	ただ確実に言えるのは、ひとつだけの幸福などあるはずはなく、また、あなた一人だけの「幸福」というのもありえない、ということだ。世の中であなた一人だけが、あなたの思う「幸福」な状況だとする。それを客観的には「不幸」というのだ。<br />
	<br />
	だからとりあえず内閣府の「幸福度指標」を手にとってみよう。<br />
	とすると「経済社会状況」と「健康」というのはよく働き、お酒を控え、ということなのだろうが、リストラと生活習慣上のリスクはなかなか自分でコントロールは難しい。となると三番目の「家族や地域での関係性」である。家族といってもすでに子供は巣立って、あとの選択は糟糠（そうこう）の奥さんとの関係性をどうするのか、という各論になるだろうが、ここにはナイショの選択肢もないことはないが、これは夢ではあっても現実的ではなく、イヤ、現実をさらに悪化させる公算が強く、消去法の末に私たちが取組むことが出来るのは「地域の関係性」なのである。回りくどいな。<br />
	<br />
	関係性とは何か。つながり、絆、支え合い、とも言える。使われすぎてだいぶ擦り切れはじめたこの言葉のフワフワとした軽さを、孤立と無関心を突き破って、くらしの現実にしっかりとつなぎとめる錨を私たちは手にしなければならない。<br />
	<br />
	ここからは「地域の関係性」の小さな物語。錨につなぎとめられたある幸福の指標の物語だ。<br />
	<br />
	三浦半島の半ば、横須賀に隣り合わせて馬堀海岸がある。駅頭に降り立つと半島海洋気候の陽光は確かに輝きが違う。蛍光灯の下の青白い思考がこの時点で、サーカディアンリズム（体内時計）がリセットされるようにゆるやかに解きほぐされていく。<br />
	海岸段丘を登りつめた住宅団地の一角に、シャローム浦上台という障害者支援施設がある。そこの開設10周年記念式典に招かれたのである。<br />
	出迎えてくれた施設の人の車で施設に向かう。道筋は住宅の軒をかすめ、いくつものカドを曲がり、車同士のすれ違いはドアミラーをたたんで行き交う。<br />
	「ここはほんと道幅はないし坂道だし入り組んでいますからねえ。迎えに行かないと訪問者は確実に迷います」と迷いなくハンドルさばきをしながら職員の人が説明する。<br />
	「デイサービスに通う人で、毎日朝夕、何台ものマイクロバスがこの道を行き交うのですからねえ、私が住民だったら、エライ迷惑です」<br />
	そう笑って話す職員に、実はこの施設の10年の地域での関係性、歴史が集約されていた。<br />
	住宅街の道筋をヨイショと通り抜けるとそこがこの施設の入り口だ。<br />
	<br />
	シャローム浦上台。18歳以上の常時介護を必要とし居宅での生活が困難な障害のある人の入所施設であり、短期入所、デイサービス、相談支援もあわせて行なっている障害者支援施設である。鉄筋3階建て、南イタリアのヴィラがモチーフで、だから壁のベースカラーは、ホワイトミルキーベージュ、と職員の人はやや胸張って教えてくれた。あ、うちのオムカイさんの家と同じ壁の色、となぜか言えなかった私。<br />
	<br />
	この地はもともと神奈川県の民生住宅があったところだった。その跡地をどうするか、県の方から今の施設の社会福祉法人に福祉施設を作らないかという話が舞い込んだ。平成10年の暮頃である。さて、どうするか。建設するにはなにより、地元住民の同意が必要だ。当時この地には高速道路のインターチェンジ建設の計画もあり、建設予定地近くには「高速道路建設反対」の立て看板があった。準備にあたる福祉法人の担当者は身構えた。その看板に並んで「障害者施設建設反対」の看板が立てられるのではないか、と。行政も、覚悟した。この手の話はどこでもひどく難航するものだ。担当者は不安の中、資料を揃え住民説明会に臨んだ。<br />
	結論から言えば、スンナリと事は運んだ。二ヶ月で6回の説明会と話し合い。当時を知る人は和気あいあいと同意まで進んだという。施設の母体はキリスト系法人だから、担当者は思わず、これは神のおこし給うた奇跡、とつぶやいたと記録にはある。<br />
	<br />
	何が起きたのか。地元の京浜団地は昭和30年代半ばから40年代に造成された住宅団地である。シーサイドの垢抜けたイメージの団地は世代も代わり、歳月にじわりと高齢化が進んだ。これから先の団地のくらしの漠然とした不安が住民だれもに滲んでいた。<br />
	施設建設の話が舞い込んだのが、平成11年の春。説明会や話し合いの場に足を運んだのは町内会長のほか、団地の主婦たちも加わった。いいじゃない。新しいお仲間、歓迎だわ。生活者の確かな感覚は、まずもって新たなお隣さんがやってくるというワクワクする感覚に近かったらしい。団地にまた新しい風が吹き、賑やかになる、と。<br />
	もちろん、言うほどスンナリ行ったわけでもないだろう。その過程には住民と施設双方の理解と努力、信頼へのきめ細かい話し合いがあったはずだ。かつて、民生住宅の一室にあった障害者の親の会と町内会の交流の経験も役立った。<br />
	<br />
	地域との話し合いをすすめる中、施設の側も変化した。<br />
	法人は元々は高齢者施設の運営が中心だった。それがこの浦上台での経験は、新たな理念にと大きく舵を切らせた。<br />
	それは「地域福祉」である。すべての福祉、それが高齢者であろうと障害者であろうと、すべては地域福祉であるべきだ、と。<br />
	そして10年。<br />
	<br />
	記念式典には多彩な人々が招かれた。10年前に共に尽力した県、民生委員、各地の施設関係者、設計事務所の人、社協、障害者とその家族、そして町内会長を始めとする地域住民がそれぞれマイクを握った。<br />
	毎日のようにタオルたたみのボランティアに通う町内の女性。施設の植え込みの剪定を一手に引き受けるのは地域の老人クラブのメンバーだ。剪定に集まっては、作業が終わると今度は施設の地域交流ホールでおしゃべりする。<br />
	10年の歳月は、地域福祉とか共生とか言うしかめつらしい単語を超え、当たり前のくらしの中に成熟し溶け込んでいる。<br />
	住民は、今ここは障害者支援施設だけでなく地域支援施設、地域の福祉拠点となっている、とスピーチを結んだ。<br />
	<br />
	「地域」の現実は、実は甘くない。都市のベッドタウンに「地域」は無いに等しく、激しい人口移動は地域を育てない。地方にあっては、「地域」は過疎と財源難の中、疲弊にあえぐしかなく、現実には「地域」は幸福と言うより、不幸に傾きかけている。<br />
	地域との関係性をどうするか。住民自身がどう動くか。そも、住民が地域の主人公として自分の暮らしを見つめ直せるか。<br />
	「幸福」はつくれるのか。<br />
	<br />
	今、住宅街を縫うように通うデイサービスの車に、住民は道をあけながら笑顔で手を振り、障害のある人々と挨拶を交わすという。<br />
	「地域福祉」という指標を掲げた半島の住宅団地の「幸福」を創り上げるまでの物語。</p>
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/machinaga/post_573.html</link>
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         <category>machinaga</category>
         <pubDate>Wed, 21 Dec 2011 20:53:42 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>大人になってからも、人は変われる</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/sasamori111221_2.jpg" width="400" height="300" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕『水木しげるロード』で、キャラクターと記念撮影。兄さんズも背が伸びた。</div><br />
	<br />
	<p>
	12月11日（日）に、島根県で開催された『発達障がい支援フォーラム 2011』に、ご縁があって、初めて夫婦講演させていただきました。<br />
	とてもいい経験をさせていただいたと思っています。機会を与えていただいた関係者の皆さま、参加いただいた皆さまに感謝しております。<br />
	<br />
	わたしたちが今回の講演でお話ししたキーワードは「大人になってからでも、人は変われる」です。<br />
	大人になってから発達障害の診断を受ける方も増えてきたと思います。診断を受けて区切り、ということではなく、診断を受けてからが大事ということ。これについて、奥さんは「殻から剥がされたカタツムリ」という表現をしていました。カタツムリが殻から剥がされたからと言って、ナメクジとして生きていくことはできない。けれど、剥がされた殻はもう、もとには戻らない。<br />
	これを発達障害という診断を受けた自分が、診断を受けていなかったころの自分には決して戻れない。けれども、自分は自分以外の生き方もできない、ということの喩（たと）えとして表現したものでした。<br />
	<br />
	「発達障害は、発達できない障害では決してない。生涯を通じて発達しつづけるもの」と。また、障害受容は決して簡単なことではなく、いったん受容したように思えても、揺れ戻しのように落ち込むこともあって、決して右肩上がりではない。けれど、それこそ「生涯を通じての受容」になるんだろう、というようなことをお話しさせていただきました。<br />
	それは、わたし自身も感じていることです。<br />
	<br />
	今回は家族5人で島根県に行きました。講演が終わってから、長時間移動や待機に頑張ってくれた息子たちへのねぎらいも込めて、境港市の『水木しげるロード』に立ち寄りました。親子で馴染みのある妖怪キャラクターにあふれた通りには、もうみんなで大興奮な感じでした。5人そろって歩くと、もう本当に「ぞろぞろ」という感じで、観光スタッフの方に撮影いただいた写真は、久しぶりの家族5人写真になりました。写真を見て、兄さんズの背丈が、両親に近づいたことに改めてびっくりしたのでした。</p><br />
<img alt="" src="/heart-blog/image/sasamori111221_1.jpg" width="400" height="300" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕縁結び「出雲大社」の前で兄さんズのショット。ご縁を大切にしていきたい。</div><br />
	
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/sasamoris/post_572.html</link>
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         <category>sasamoris</category>
         <pubDate>Wed, 21 Dec 2011 20:45:54 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>理解の探究 －大切－</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/111215.jpg" width="400" height="309" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕私は、月が大好きです。12月10日の皆既月食。ぼやっと眺めながら、この原稿を書いていました。ちょうど、今回登場した友人から「皆既月食だよ～」と電話が。。。</div><br />
<p>
久しぶりに、友人と食事に行きました。<br />
	私がとっても頼りにしている友人です。お互いの予定がなかなか合わなくて会えずにいたのですが、やっと、でした。<br />
	その友人とは、いつもいろんな話をします。<br />
	話の中で、いつだったか、友人が<br />
	「セックスなんてそんなに重要なことじゃないよ」と言ったことがありました。もちろん、私の被害のことは知っています。<br />
	そんなドライなお友達です(笑)。<br />
	<br />
	私にとっては、いろんな意味で重要なことなんだけど・・・という言葉を飲み込んだのを覚えています。<br />
	<br />
	その日の私は、愚痴ばかり言った気がします。<br />
	「事件のことをほじくり返して話すたびにしんどい」とか。<br />
	<br />
	ふと私が「被害のこと、皆もう私が平気だと思ってるのかなぁ&hellip;忘れちゃうの？　重要じゃないから平気なの？」と漏らすと<br />
	<br />
	友人は、<br />
	「なんで&hellip;その話今？」と、<br />
	一服しにお店を出て行ってしまいました。<br />
	<br />
	戻って来た友人は、泣いていたようでした。<br />
	<br />
	「『重要じゃない』って言ったの、覚えてるよ。<br />
	美佳ちゃんにそう言ったときのこと、すごく覚えてる。」<br />
	<br />
	と、ウルウルした目で友人は言いました。<br />
	「ドライだもんねー」<br />
	と私が茶化すと、<br />
	「違う。違うけど、あのときの自分の気持ちははっきり覚えてるけど、説明できない。あぁ言わないといられなかった・・・」<br />
	と、まじめな顔になりました。<br />
	<br />
	「だって、<br />
	美佳ちゃんは、目の前にいるんだもの。<br />
	悔しくて悲しくても、今もその時も、美佳ちゃんは目の前にいて、美佳ちゃんなんだもの。<br />
	平気だなんて、忘れるなんて、本当に近くにいてそんなことできる人、いるわけない。<br />
	いたら、そんなの、おかしいよ！」<br />
	<br />
	そう言って、友人はまた涙をこらえていました。<br />
	その表情を見て、いつもドライで冷静で動じることのないと思っていた友人のことを私は何もわかっていなかったと気付かされました。<br />
	私は&hellip;<br />
	私に起きた事件だとばかり思っていました。私の中だけにある記憶や事実が、私の大切なひとを苦しめていることに、10年以上も気づくことができませんでした。<br />
	<br />
	当時私を支えてくれたひとの苦しみは、事件当時に私を支えてくれていた恋人・しんちゃん（詳しくは本をどうぞ（笑））の話から、知ることができていたかもしれません。<br />
	だけど、<br />
	私が事件にあったことを知った上で知り合う人もまた、私に起きた過去の事件のことで心を痛めているなんて想像をしたことがありませんでした。<br />
	<br />
	友人は、私に会う度にセットのように被害のことを思い出し、それでも私とバカ話をして、私の愚痴につきあってくれて、時には性暴力について、私の活動について一生懸命考えて助言してくれたりして・・・<br />
	だけど、そのことが「苦しい」なんて、少しも言いませんでした。<br />
	ただ一言、「美佳ちゃんの事件のこと、考えたら15秒で泣ける」と。いまでも、と話してくれました。<br />
	<br />
	<br />
	理解って、なんだろう。<br />
	最近、被害者の支援の場で「理解」という言葉が飛び交っています。<br />
	<br />
	痛みを解ることでもなければ、<br />
	成り代わることでもない<br />
	相手を思いやるとかでもなく、<br />
	大切に思っているかどうか。たったそれだけのことなのかもしれません。<br />
	<br />
	うまく表せないのですが、<br />
	ある大学に講演に行ったときのことです。<br />
	「被害にあったことを友人に打ち明けられたことがあります。私は何もできなくて、今、小林さんの話を聞きながら、話している小林さんの姿を見ながら、その友人のことをずっと思い出していました。私は、何もできなかった気がして&hellip;これからでも伝えていいのでしょうか」<br />
	と、質問をしてくれた学生がいました。<br />
	正解がわからなくて、私は友人の話をしました。<br />
	<br />
	友人の涙と表情と言葉すべてを。<br />
	<br />
	その学生さんは、涙を見せながら、自分と照らし合わせるように聞いてくれていました。<br />
	<br />
	何かのヒントになったかわからないけれど、<br />
	それぞれの関係の中で、自然な方法で表現できることが、ベストなのだと思います。<br />
	その学生さんに、何かのヒントをくれたのは、私ではなく私の友人です。<br />
	<br />
	友だちを大切に思う人<br />
	私を大切に思ってくれる友人<br />
	<br />
	に、私は出会い、それを知る機会をもらいました。<br />
	<br />
	そしてそこに、私は「理解」を得ているように感じています。<br />
	<br />
	理解って？<br />
	の答えは、むずかしい。<br />
	ふとしたときに「これがそうかも」と感じることがあります。<br />
	そのひとつひとつを、私はできるだけ皆さんにお伝えしていきたいと思っています。<br />
	勝手に理解の探究シリーズを設けましょう（笑）<br />
	<br />
	<br />
	でも・・・この話を友人に伝えたら、<br />
	「それ（たぶん、大切のこと）は、理解とは違うよ」<br />
	とばっさり。<br />
	やっぱり・・・ドライだあぁ・・・。<br />
	<br />
	<br />
	<br />
	おまけ：<br />
	最後に入れようかどうしようか迷った原稿です。ちなみに、上の文の「友人」とは別の友人です（＾＾）<br />
	　　　　<br />
	<br />
	先日、友人の結婚式に出席しました。<br />
	<br />
	「新郎新婦の入場です♪」　と<br />
	会場の照明が落ち、入場の曲が流れて来ました。<br />
	<br />
	「わぁー」<br />
	という歓声が聞こえた頃、私の目の前は真っ暗になり、とたんに頭の中に嫌な臭いが充満します。<br />
	私の心臓は、バクバクと打ち、身体がゆらゆらと揺れて、「助けて」という気持ちでいっぱいになる。<br />
	<br />
	あーまた&hellip;と、がっかりな気持ちになります。<br />
	<br />
	もうフラッシュバックなのか、自分でもわからなくなっていますが、私には、こういうことが付きまとうようになりました。<br />
	<br />
	こんなことには慣れました。なくそうと思うと苦しいので、「またかぁ」と受け止めてはいるつもりです。<br />
	ただ、大好きなお友達の結婚式です。<br />
	「おめでとう」の言葉を発することができなかったり、涙があふれてきたりします。<br />
	<br />
	<br />
	この恐怖は、いつまでつきまとうのでしょう。<br />
	&nbsp;</p>]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/micatsuki/post_571.html</link>
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         <category>micatsuki</category>
         <pubDate>Thu, 15 Dec 2011 13:36:16 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>生きづらさのパーティー</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/seri_ph_111207.jpg" width="400" height="266" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">[写真]なみだの雫みたいな雨粒「すべりおち、ひとつに重なり、水たまりになって、青空を映そう」</div><br />
10月の「ハートネットピープル」で、&ldquo;死にたい&rdquo;と明かす前。<br />
わたしは、突如襲いかかってきた「うつ」の中で、ひとり「死ぬ方法」を考えていた。</p>
<p>
	誰にも何も言わなかった。仲の良い友だちにも。夫にすらも。<br />
	たすけてほしいわけじゃなかった。<br />
	ひきとめられるのも、それを裏切ることしかできないのも、いやだった。</p>
<p>
	だから、わたしは、真夜中にひっそりインターネットで、自殺に使えそうな道具を注文した。<br />
	数日後、手元に届いたそれを夫にばれないように押し入れに隠し、「あとはうまくその機会を作るだけだ」と決意した翌日。<br />
	携帯電話に、久しぶりの友人からメールが届いた。</p>
<p>
	仕事を介して知り合った、同じように「生きづらさ」を抱えている女性。<br />
	出会った瞬間から、わたしは彼女に深い共感をおぼえていたのだけど、仕事上のつきあいからはじまったその関係に、わたしはどこか遠慮があった。<br />
	社交辞令かもしれない彼女に、寄りかかりすぎてはいけない、と。<br />
	だけど、久しぶりのメールには、こんなふうに書かれていた。<br />
	「しんどそうだけど無事かな？　私、おととい32歳になったよー」<br />
	・・・びっくりした。<br />
	「ピープル」では、前向きなエッセイを公開していたはずなのに。<br />
	そしてなにより―<br />
	本当はすこしだけ、同じ「ものを書く人間」である彼女には、伝えようかと頭によぎっていたから―。</p>
<p>
	「うまくしゃべれるかな」―と、わたしはしつこいほどに前置きをして、メールをつづった。本当は&ldquo;かなり危ない状態&rdquo;であること。会いたいけど、会ったらがっかりされるかもしれないと不安なこと。私がつづる。<br />
	「こういうとき、友だちが少ないから、どうしていいかわからなくて・・・」メールを読んだ彼女は、1分も経たないうちに返事をくれた。<br />
	「会いに行く」<br />
	そして、つけくわえた。<br />
	「私も友だち少ないから、どう接したらいいかわからないけど(笑)」</p>
<p>
	数日後、彼女は忙しい仕事の合間をぬって駆けつけてくれた。<br />
	午前中、わたしは彼女のためにバースデーケーキを買いに行った。自分は死のうとしているくせに、彼女がこの世に誕生したことがうれしかった。<br />
	ケーキを食べて、いろんなことを話した。必死で話した。<br />
	自殺しようとしていたことも。そのために・・・かつて巷で噂になった固形燃料を、今、手元に持っていることも。</p>
<p>
	別れ際、あくしゅをした。ぎゅっと握った。その手は冷たく骨ばっていて―<br />
	お互い冷え性だな・・・と。こんなほそっこい手で、この世とつながる糸をにぎりしめているんだなあと思ったら、胸がいっぱいになった。<br />
	家についた彼女が「ただいま」のメールをくれた。<br />
	わたしは、彼女と別れてから考えていたことを―・・・はじめて自分から、お誘いの言葉を返信した。<br />
	「よければ、今度、バーベキューをしない？―あの燃料で」</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	翌日のことだった。<br />
	以前「ピープル」の&ldquo;<a href="http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/seri/post_408.html">同じ空の下－「統合失調症」の先輩</a>&rdquo;で書いた、統合失調症を抱える先輩と、突然会うことになった。<br />
	一緒に食事をしながら、そういえば、エッセイを書いた1年半ほど前は、先輩は人と会うことすら息苦しそうだったことを思い出す。<br />
	わたしは、ふと思いついて、バーベキューのお誘いをしてみた。すると、思いがけない言葉が返ってきた。<br />
	「それって・・・あの話が現実になるやん！」<br />
	ぴんとこず、首をかしげていると、彼はつづけた。<br />
	「セリがハートネットに書いてくれたんだよ。俺も、緑の中でメシを食いたいって」<br />
	そうだ。わたしはあのときのエッセイのしめくくりに、先輩の言葉を借りて、こう書いたのだ。</p>
<p>
	～わたしは、彼に、天気のいい日に、緑の中をおもいきり歩いてほしい。<br />
	おいしいものを食べて、「おいしいね」と一緒にしあわせを感じたい。<br />
	誰の目も気にせずに。～</p>
<p>
	そうして―<br />
	「自殺」のために購入されたはずのそれは、「夢」をかなえる存在に、生まれ変わった。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	1か月後、バーベキューが開催されることになった。<br />
	私、夫、先輩、友人、4人中3人が実は雨女（男）という不利な状況下。しかも週間予報では完全な雨マーク。にもかかわらず、奇跡的に空は晴れた。<br />
	遠方のため遅れた友人を待つ間、奮発して買った大きなピクニックシートを広げ、ハロウィンを先取りした仮装を身にまとい笑いあう。<br />
	わたしたちを、いったい誰が病人だと思っただろう。</p>
<p>
	しばらくして、友人が到着した。<br />
	さあいよいよスタートだ、と、腰を落ち着けたその瞬間。しかし待っていたかのように、大粒の雨がわたしたちを直撃した。<br />
	「どうしよう」4人が無言でさぐりあう。「やろう」男前な彼女が決断し、燃料を入れたコンロに鍋を乗せた。<br />
	サンドウィッチをほおばる。ぼたんっ。膝に、頭に、容赦なく雨が落ちてくる。仮装のためのカボチャ帽子を雨除けにかぶり、鍋の様子をうかがうが、いっこうに温まる気配もない。<br />
	昔のわたしなら、予想とは違う状況にパニックになっていたかもしれない。だけど、こみあげてきたのは笑いだった。<br />
	「・・・わたしも・・・夢が、かなったかも」<br />
	みんなが不思議そうにこっちを見る。わたしが言う。<br />
	「大人になってからは、『どしゃぶりの中で走る』とかしてないなーと思ってたから」<br />
	友人が、冗談めかして笑った。「雨の中、うおおおって抱き合ったり？」<br />
	先輩がまじめくさった顔で訊く。「じゃあ、走るか？」<br />
	ヌレネズミのような顔で笑って、わたしたちはさすがに撤収を決めた。</p>
<p>
	家に帰り、文明の利器「カセットコンロ」で続きをした。<br />
	ふう、と、あたたまって白くなった息を吐き出しながら、ふいに友人が言った。<br />
	「最近・・・生きるのが、ちょっとしんどいかも・・・」</p>
<p>
	もしも、今日、晴れていたら―<br />
	緑の中で、何の問題もなくバーベキューをして、笑っていたら―<br />
	彼女は、その言葉を、発することができただろうか・・・。</p>
<p>
	雨が降ってよかった。<br />
	わたしが自殺の道具を買ってしまってよかった。<br />
	「死にたい」と、思ってよかった。</p>
<p>
	&nbsp;</p>
<p>
	思いがけず8個も入っていた固形燃料は、まだ7つ残りがある。<br />
	もしも、また誰かが、生きることがつらくなったら―<br />
	・・・バーベキューをしよう。</p>
<p>
	"「死にたい」から生まれたパーティー"を、何度もくりかえして、雨上がりを一緒に待とう。</p>
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/seri/post_570.html</link>
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         <category>seri</category>
         <pubDate>Wed, 07 Dec 2011 11:00:21 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>導かれるままに</title>
         <description><![CDATA[<strong>Salaさんの仙台での生活、震災当事者研究の活動、その続きです。</strong><br />
<br />
		<img alt="" src="/heart-blog/image/sara03-01.jpg" width="400" height="281" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕雲間から光が射し込んでいる瞬間</div><br />
<p>毎日、吐き続け、立ち止まり、座り込んでは死ぬことを思った。飛び降りたくなっていた。夜中の２時に向谷地さんや仲間にSOSを出す。この日はなんとか朝方に休むことができた。だが、次の日、私は悪霊に取りつかれる。悪霊の妨害に耐えきれず、今度はお祓いができる神官の先生にSOSを出し、急いでお祓いを頼む。苦しさのあまり、何度も祈った。生きることは苦しみをともなう。でも、私はみんなの支えの中で生きている。決して一人じゃない。自分を信じた。数日後、お祓いと引っ越しをし、心機一転、新しい環境に身をおく。仕事も始め、一歩一歩歩みだした。仕事は清掃業だ。挨拶や、声かけをし、言霊を大事にした。明るくて、温かい愛の言霊は、人を幸せな気持ちにさせる。職場で関わる人とのコミュニケーションは大切だった。月に2回ある震災当事者研究も順調に進んでいた。この日は、仙台になじめない仲間の研究だった。仲間から出たのは、なじめないなら無理しなくてもいいのではないかと、ピアサポートセンターそら(就労支援事業所)に行って、仲間と話してみたらいいのではないかという案だった。一人で抱え込まずに、人とつながっていって欲しいと思った。<br />
	<br />
	そんなある日の夜中、幻聴の声がした。「おまえなんか誰も助けねえよ」「おまえなんか生きてたって意味ねえんだよ」と。心が震えた。涙が溢れた。幼い頃の、大人になってからの心の傷がうずいた。悲しみでいっぱいになった。でも、私には信じる人がいた。だから、負けない。非難、中傷はずっとされてきた。その度に心震わせ、涙を流し、ずっとこらえてきた。でも、「どんなあなたでも、愛していますよ」と、温かい声もあり、私は人の愛にも触れてきた。目に見えない存在と会話するようになって、早9年もの歳月が流れていた。悪霊に取りつかれて以来、よくなってきたと思ったのに、また声が多くなって、非現実的な世界とつながっていった。夜もほとんど眠れず、仕事のためにセットした目覚ましが鳴る10分前にやっと眠れたり、2～3時間しか寝れない日が続いた。そんな中で仕事をしていた。<br />
	<br />
	二週間ぶりに震災当事者研究に参加した。がむしゃらに頑張りすぎてしまう仲間の研究だった。いろんな案が出て盛り上がった。カラオケでストレス発散は一番効果がありそうだった。こまめに吐き出すといいだろう。夜はイベントに行った。音楽仲間に会って話したり、音楽を聴きながら躍っていた。私なんかを愛してくれるの？<br />
	仲間たちは私に笑いかけ、手をつないだり、ハグしたり、だっこしてくれた。それから、やっと東京に行き、自分を支えてくれているうちの二人に会った。一人は、神官の先生で、話を聞いてくれ、アドバイスしてくれた。もう一人は、私が通っている東洋医学の先生で、私を元気づけようと、いっぱい温かい声をかけてくれ、ハグしてくれた。診療後、外に出て、小雨の中、泣き出した。私を愛してくれている人達がいる。もし私が自分の体を傷付けていたら、きっと私のことを思って悲しんだろう。傷付けてこなくてよかったと、帰りの電車でも涙をこらえられなかった。</p>
	<br />
	<img alt="" src="/heart-blog/image/sara03-02.jpg" width="400" height="281" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕アディクションフォーラムで向谷地さんと仲間たちと講演中。</div><br />
	<p>仙台に戻ってきて平常通り仕事に行く。私を信じ、愛してくれている人たちがいてくれるのに歩みを止めるわけにはいかない。部屋に帰ってきて、今まで苦しいときに支え続けてくれた人たちを思い、声を上げて泣いた。私も苦しかったが、きっと周りにいて支えてくれた人たちも辛かっただろう。私なんかのせいで辛い思いをさせてきたのだと思うと、涙が止まらなかった。みんなのおかげで生きてこれた。私、まだ生きていたい&hellip;。でも、今度は幻聴5人に「死んで欲しい」と言われ、自分の力では耐えられなくなって、向谷地さんにまたSOSを出す。生きるハードルが高いと泣きじゃくった。向谷地さんは仲間とつながるようにと言った。私は自分の抱えているものが重くて、仲間がつぶれてしまうかもしれないと伝えたら、実験してみるようにとのことだった。私はとりあえず仲間と連絡を取った。いつの間にか、一人で淋しくしていたはずなのに、仲間がそばにいなくても、心が<br />
	つながってるように感じられた。仲間の一人は「大好きです」とメールをしてくれ、現実とのつながりを感じ、心がホッとした。ありがとう。<br />
	<br />
	10月29日は、仙台ダルク主催のアディクションフォーラムがあった。3時から、向谷地さんと私と仲間たちは講演だった。ステージに上がって、大震災と依存症の話をした。私は大震災で避難所生活したことや、淋しさ、悲しみ、不安、恐怖心、生きる苦しみで、幻聴を呼んでしまい、幻聴に依存している経緯があることを話した。私にある淋しさや愛されたいという思いが、幻聴と共鳴してしまっていた。幻聴に消えて欲しいとばかり思っていたが、本当に変わらなければいけなかったのは私自身だった。いつまでもふらついていてはだめだ。自分の足でしっかり立てるようにならなければ。私にはやりたいこと、守りたいものがある。私には時間がない。ここでの学びを確認したら前に進む。また歩み出す。未来に焦点を合わせていく。<br />
	<br />
	神様、私はこの地球(ほし)で何ができるでしょうか？<br />
	おじいさんは「人と共に歩みなさい」と言ってくれた。人と自然に触れ合い、静寂と音の世界に酔いしれ、人生をクリアにしていく。何一つとして無駄なことはない。私は今生きている。生きるって素晴らしいこと。この地球(ほし)で愛と調和の世界を創造していく。この地上で愛を広めるんだ。神よ、私の行く道を照らし続けて。光の射す方へ。</p><img alt="" src="/heart-blog/image/sara03-03.jpg" width="400" height="281" class="mt-image-none" style="" />
<div class="caption">〔写真〕震災当事者研究の様子</div><br />
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/sala/post_569.html</link>
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         <category>sala</category>
         <pubDate>Wed, 30 Nov 2011 13:40:53 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>HIV第4弾 「HIV/エイズの30年」</title>
         <description><![CDATA[<img alt="" src="/heart-blog/image/111128_1.jpg" width="400" height="225" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕日本におけるHIV／エイズのこれまでの歴史を知り、語り合う今回のHIV第4弾。スタジオにはその日毎のゲストの他、生島嗣さん（<a href="http://www.ptokyo.com/"target="_blank">ぷれいす東京</a>）、高久陽介さん（<a href="http://www.janpplus.jp/"target="_blank">日本HIV陽性者ネットワークJaNP＋</a>）、武田飛呂城さん（<a href="http://www.j-cdsm.org/"target="_blank">日本慢性疾患セルフマネジメント協会</a>）、市川誠一さん（<a href="http://www.nagoya-cu.ac.jp/nurse/"target="_blank">名古屋市立大学看護学部</a>教授）が出演してくださいました。　※リンクをクリックするとNHKサイトを離れます。</div><br />
	<p>世界で初めてのエイズ症例がアメリカで報告されてから30年、日本でHIV／エイズという病気がどのように受け止められてきたのか、3日間にわたって歴史を紐解き考えました。<br />
	薬害エイズ裁判で東京原告団の一員だった大平勝美さんや、ゲイである自身のセクシュアリティーも明らかにし患者会・講演活動を続けてきた長谷川博史さんらと話し合いましたが、感染経路の違いはあっても薬害エイズ被害者も性感染の人たちも同じHIV陽性者だという考えに立っての戦いだったという大平さんの言葉、忘れられません。<br />
	かつてはエイズパニックと言う言葉も生まれるほどの社会混乱を引き起こしたHIV／エイズですが、医療面では、服薬など医療とのつながりがあれば、現在では感染が分かる前とほとんど変わらない日常生活を送れるほど進歩がありました。<br />
	その一方で、HIV／エイズとセクシュアリティーと言う二重の語りづらさを抱えていることで、声をあげにくい人たちも歴然と居る事実を知りました。<br />
	3日目の放送では、ゲイコミュニティーでの取り組みをヒントに、今後HIV/エイズとどのように向き合って行ったら良いのかも話し合っています。<br />
	是非ご覧になって、そして一緒に考えていただけたらと思っています。</p><br />
	<img alt="" src="/heart-blog/image/111128_2.jpg" width="400" height="217" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕薬害エイズ裁判　東京原告団の一員であり、HIV陽性者の就労環境向上などにとり組む社会福祉法人「<a href="http://www.habatakifukushi.jp/"target="_blank">はばたき福祉事業団</a>」の活動もずっと続けてこられた大平勝美さん。※リンクをクリックするとNHKサイトを離れます。</div><br />
	<img alt="" src="/heart-blog/image/111128_3.jpg" width="400" height="217" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕日本のエイズ診療の草分け。ねぎし内科診療所の根岸昌功さん。</div><br />
	<img alt="" src="/heart-blog/image/111128_4.jpg" width="400" height="217" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕1992年、HIV感染を知り、93年以降活動を続けてきた長谷川博史さん。　2002年に日本のHIV陽性者ネットワーク「ジャンププラス（JaNP+）」を立ち上げ、現在も代表を務めている。</div><br />
	<img alt="" src="/heart-blog/image/111128_5.jpg" width="400" height="217" class="mt-image-none" style="" /><div class="caption">〔写真〕新宿のバーのマスター、大塚隆史さん。89年にパートナーをエイズで亡くしている。</div>
	<br /><img alt="" src="/heart-blog/image/111128_6.jpg" width="400" height="217" class="mt-image-none" style="" />
<div class="caption">〔写真〕ハートをつなごうMC3人。石田衣良さんは80年代半ば、当時のパニックじみた報道のことをよく覚えていると言います。</div><br />
	<p>＊今回の「ハートをつなごう　HIV第4弾」の放送に合わせ、NHKサイト「虹色」でもHIV/エイズの歴史を知るきっかけとなるドキュメンタリー映画についての記事を掲載しています！　ぜひお読みください！　<a href="http://www.nhk.or.jp/heart-net/lgbt/">虹色-LGBT特設サイト-</a><br />
</p>
]]></description>
         <link>http://www.nhk.or.jp/heart-blog/people/sakurai/hiv4_hiv30.html</link>
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         <category>sakurai</category>
         <pubDate>Mon, 28 Nov 2011 10:12:30 +0900</pubDate>
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