僕の実家は広島で会社を経営していて、僕は幼い頃から颯爽と飛び回る父の姿に憧れて、将来は自分も社長になりたいと思って育ちました。ただ僕は次男なので後を継ぐことはできないと知り、だったら自分で会社をやると決め、高一のときには将来に備えてゴルフを始めたり、いろいろなビジネスの構想を練ったりするようになっていました。
22歳のときに留学先のカナダで日本人観光客向けに革ジャンのイージーオーダーを始めたのが僕の最初の事業でした。その仕事を始めたきっかけは父が脳梗塞で倒れたことでした。父が回復しなければ勉強を続けることはできないし、そのとき初めて親が自分にかけてくれた愛情を知ったんです。
そのビジネスは思わぬヒットになりました。でも汗水流してお金を手にしたって言うよりは、たまたま当たっただけのことです。勉強でもそういう感覚ってあると思うんですけど、コツコツやって取った90点とヤマが当たったときの90点って達成感が違いますよね。いきなり革ジャンのビジネスで成功したのは、ヤマが当たっただけっていう感覚だったんです。そう思って自分を裸にしていくと、ビジネスの知識も何もない。やっぱりまず会社に入って仕事をゼロから覚えようって思ったんです。
それで日本に戻って大学を卒業し、3年だけ働こうと期限を決めて就職活動をしたんです。将来自分で商社みたいな会社をやりたいと思っていたので、業種は商社に絞りました。しかも若手でも即戦力として、海外にどんどん行かせてもらえるチャンスができるだけ速く回ってくるところが良い。そう考えると、大手よりは中堅で実力を買ってくれるようなところに入りたいと思ったんです。
落ちるとは思ってなかったので受けたのは2社だけです。当時は英語が喋れる人が少なかったですから、英語力とカナダで身につけた社交性という二つの武器を持って、とにかく自己アピールをしました。加えて日本人の規律正しさとのバランスを持っていたつもりでしたけど、相手からしたら「生意気だな」と思われたかも知れないですね。当時就職活動ってみんな紺色のスーツで行くんですけど、僕はグレーと白のタータンチェックのスーツで行ったりしましたからね。
それで商社に採用され、3年で独立すると決めてはいましたけど、仕事をする以上は社長になろうと思って入りました。完全に矛盾していますけど、そう思わないと仕事に身が入らないし本質は見えてこないですからね。入社後、僕はとても良い部署に配置してもらえました。日本の機械をヨーロッパに売っている花形部署で、入社半年でヨーロッパの8カ国に出張させてもらったりと、様々な経験をさせてもらいました。
このときの課長はすごく頭の切れる方で、僕にとって最初で最後の上司なんです。非常に論理的な考え方をされる方で、なおかつ判断が速く、僕に仕事を任せてくれるし、怒るし、褒めるし、何かあれば守ってくれる。尊敬できるとても良い上司でしたね。
入社3年目にさしかかるときに海外赴任の話が持ち上がりました。それだと予定より会社に長く居過ぎちゃうこともあって、退職して会社を立ち上げることにしました。それがちょうどバブルがはじけた時期だったんです。
僕以外にも「いつかは自分の会社を」って思っている先輩たちは結構多かったのですが、いったん不動産投資に失敗すると、コンサバティブになって「いまは独立するときじゃない」「起業したいけどもう少し待った方が良いよね」っていう雰囲気が蔓延していたんです。だから僕が「独立する」と言ったら「今辞めるの?アホじゃないの?」って言われましたし、親や親戚なんかも大反対でしたけど、だからこそ僕はチャンスだと思ったんです。みんなが成功しているときに出ていったって、後から後から成功者がそんなには出るはずがないですからね。逆にみんながやらないときの方がチャンスがある。だからもう辞めようと決めたんです。
1991年に、海外でブランドを探して代理店契約を結び日本で売る輸入バッグ販売の会社を設立しました。25歳のときです。当初は仕事が楽しくて楽しくて、業績も伸びて社員もどんどん増やしていくことができました。ところが、ブランドが売れるようになると、「年間5億円買うからうちとやろう」と大手が出てくるわけです。そういうことなら自社のオリジナルブランドを立ち上げようということで、設立から3年経った94年にバッグに特化したブランド「サマンサタバサ」を立ち上げたんです。
それからまた3年が過ぎた97年の4月、僕は31歳になっていましたが、最大の危機を迎えました。4月に消費税率の引き上げが実施されると、もう全くものが売れなくなったんです。気がつくと銀行からの借入れ金が4億5千万円、メーカーさんへの未払いが8000万円という、当時の我が社の規模としては危機的な状況に陥ってしまったんです。いつ潰れてもおかしくない状態でした。