週刊グレトラ日誌

今週のヨーキさんとゆかいな仲間たち

今週のヨーキさん(2016)

2016年02月26日 (金)

今週のヨーキ(12/21~12/27)

12月21日(月)「雲仙普賢岳」

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雨の中の出発になったが、水無川沿いを登山口に向けて歩いている途中に止んでくれた。当初は、仁田峠までは車道を使って登る(片道22キロ)予定だったが、国土地理院の地形図を確認したところ、大野木場からの登山道が仁田峠まで続いていることに気が付いた。ネットで調べると、平成15年に開通した大野木場仁田登山道だと分かった。この道を使えば、普賢岳までの距離がかなり短縮することができる(片道11キロ)。

大野木場の登山口に向かっていると、全ての窓ガラスが無くなっている大野木場小学校前で足が止まった。小学校についての解説があったので読むと、1991年の雲仙普賢岳の噴火で発生した大規模な火砕流の熱風を受けて被災したとあった。人的な被害はなかったのだが、火砕流の直撃ではなくそれから発生した熱風で、ここまで被害を受けるのかと信じられない気持ちだった。

噴火による戦後最大の人的被害は昨年の御嶽山噴火となったが、それまでは雲仙普賢岳の噴火が一番多かった。資料館にも立ち寄り、当時の衝撃的な写真を見て自然と表情が険しくなった。当時、佐賀出身の父親がテレビに釘付けになっているのを見ながら、すごい黒煙をあげている山を思い出した。これから登る山の大事な歴史に触れられてよかった。

大野木場仁田登山道はほとんど利用する登山者がいないのだろう、割と最近できた登山道なのに、予想以上に荒れていた。雨は上がったが、樹林帯の中を歩く登山道はかなり蒸していた。

仁田峠に1時間ほどで到着した。ロープウェーイ乗り場で、先月通行止が解除された登山道があると聞いたので、情報を確認した。標高1,100メートル近くある仁田峠はすでに雲に包まれ、本来なら見えるはずの平成新山は全く見えなかった。普賢神社で挨拶をして、参道のような登山道に進んだ。先程まで蒸していた暖かさはなく、しっかり冬の山の雰囲気だった。

直接普賢岳にいくルートもあったが、もしかしたら次来たときに解除された登山道がまた通行止になってしまうかもしれないと思い、遠回りになるが、風穴や立岩の峰などを回るコースを経由して普賢岳に登ることにした。もしかしたら、間近に平成新山を見ることができるかもしれない。これが棚からぼたもち的な勉強になった。

火山に多い風穴は年間を通して気温湿度が一定で、その環境を利用して、明治時代には絹糸の生産が九州でも盛んになった。というのも、原料となる蚕は温かい環境下では直ぐに孵化してしまうことから、蚕を九州中から預かり、この風穴で冬眠させていたという。また、火山の岩の中に溶岩が冷えたとき正六角形になる「柱状節理」を実際に見たり、高山や亜高山で生息する苔がここ普賢岳の風穴には小さい世界にたくさん生息していることなどを学んだ。(苔好きには嬉しい情報だ)

そこから、標高を徐々に上げながら普賢岳山頂には午後1時に登頂した。ガスガスの山頂で、目の前にあるはずの平成新山のダイナミックな姿は見れなかったが、予期していなかったことを色々知ることができただけでも、この山に来ることができて良かった。下山も同じルートを通って、島原の町に戻った。

途中、中学校の前を通ったときに、子供を連れた親子からサインを求められて対応しているところへ、部活中の中学生が通りかかった。後ろでヒソヒソ話す声が聞こえる。
「有名人!?有名人!?」「テレビに出てる人!?」
親子と別れ歩いていると走って追いかけてくる中学生が
「すいません!テレビに出てませんか?」
と聞かれたので
「はい。出てますよ」
と答えるとゾロゾロと集まり、一人テンションの高い子が「有名人?有名人?有名人?握手してください!!」と連呼をする子が面白かった♪疲れた顔をしていたが、最後は笑顔が戻って、宿についた。さぁ明日は島原湾を漕いで戻るぞ~


12月22日(火)「島原湾復路」

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最後のシーカヤックとなる朝がきた。一昨日の往路で干満の影響は島原湾横断にあまりないと分かったので、今日も干潮の時間帯の朝8時に出発を予定した。往路の時よりも日中は暖かくなりそうだったが、ドライスーツ(よく寒い時期に着ることが多く、完全防水スーツのような感じ)を選択。今日は着るほどの気温ではないが…身体的な理由のため着用することにした。シーカヤックを長時間漕いだことのある人は、経験があるだろう。

夜が明ける前から準備を始めて、8時前に出発準備を整えた。対岸は朝靄の影響で何も見えない。往路の時よりも視界が悪い感じだ。だが、平日のためか海上の船は少ない。とは言え、安心は出来ない。

海上の波風をじっくり見つめ、気持ちを引き締めてカヤックに乗り込んだ。出発から最初の1時間は北風がやや強く、引き潮の潮流と風向きが同じ方向だったため、波も多少強く、流されないように耐える時間が続いた。また、フェリーや高速船の航路と交差するために、緊張の時間となった。1時間が経つと海底の地形が変わったためか、波は穏やかになり、先程までの緊張も少し和らいだ。

広大な海苔養殖の定置網の中を抜けていくと、海苔養殖の船が何隻も海苔の収穫に励んでいた。たらい舟のような専用の舟が、動力を使わずに定置網の中を動き回っているのが見える。また、迷路のような定置網の間を動力船も時間の経過と共に増えていき、再び緊張感が高まった。定置網地帯から、さらに水位が浅くなると、物干しのような養殖地帯が広がる。海底にパドルが届きそうなくらい浅いので、船は少ないが、浅いとシーカヤックの進みは遅くなる。なぜなら、ほぼ止まっている水の上を通ると、水がカヤックの動きに合わせて動き、この時に水深が浅いと海底に接している水も一緒に動くので、海底と動く水の抵抗がカヤックにも伝わり、カヤックの底が海底を引きずりながら漕いでいる感覚になる。なので浅ければ浅いほど、その抵抗は大きくなる。

この時も、物干しのような養殖地帯を抜けて、上陸場所の緑川の河口が近くなるにつれて、潮がさらに引きどんどんカヤックが重くなった。「うわー重ーい!!」とブツブツ独り言を言っていると、前方に海の上で何やら仕事をしている人が多数見えた。どんどん近くなると、アサリやしじみを取るときに使う大きな棒のついたかごを海底に沈めて、棒に体重をかけながら、リズミカルに引いて、海底に隠れている貝を取っていた。すぐ脇には貝を入れるタライが浮かんでいる。仕事に励んでいる地元の漁師さんたちは、僕がシーカヤックに乗って現れたから、キョトンとしていた。

「こんにちわ~」と声をかけると、
「こんちわ!あんたどこからきたの~?」と聞かれたので、
「島原から渡ってきました!」と返すと
「ひょえー!?」て驚かれた。
そりゃそうだと思いながら、さらに進むと一層リズミカルなステップを踏みながら、かごを引くおじさんがいたので、話しかけてみた。
「こんにちわ~アサリが取れるんですか?」と聞くと、
「ハマグリだ~見るかい?」との言葉に大きなタライの中を見せてくれた。
底を満たすほどの色んな種類の貝があったが、実際に商品になるのはほんの少しだと教えてくれた。漁師歴40年というおじさんはハマグリを手に、「昔はこのタライ山盛り採れたけね~色んな貝がとれたらいいけんが…ハマグリしかとれんけん、取りすぎで数が少なくなったけんな~」と教えてくれた。40リットルはあるタライが一回の漁で一杯になったのが、今は底を満たすほどとなった。

「昔はサラリーマンを笑っとったが、今は逆に笑われとるでね~ハッハッハッ」と白い歯を見せながら笑う60歳のおじさん。麦わら帽子をかぶりながら、小麦色に焼けた肌と海に降り注ぐ太陽の日差し、そして、軽快なステップを踏みながら漁をする姿がかっこよかった!

おじさんの姿に見とれていると、「そろそろ行かんと渡れんくなるよ~」と言われ、ハッとして漕ぐとかなり引いてしまっていた。辺りを見回すと、ハマグリ漁をしている辺りだけ、海底に砂がたまっているために、干潮になると海底が現れるようだ。
「ありがとうございました!」と頭を下げて漕ぎ出したが…直ぐにカヤックの底が海底を擦ってしまい、乗ったままでは進めなくなってしまった。
「ダメかぁ~」と言って、潔くカヤックから下りた。初めて海を横断中にカヤックから下りて、カヤックを歩いて引きずることになった。予期せぬところで、歩くことになったため、予定の到着時間を超えてしまったが、海の上での漁師さんとの立ち話はいい思い出となった。

100メートルほど引きずり、再び深くなった所でカヤックに飛び乗り、急げーと漕ぎ始めたが、さらに予期せぬことが。引き潮のため、川の水位が下がり、満潮なら流れていないはずの川がいい感じに流れていた。約1キロほど川の流れをさかのぼることになった。この流れが島原湾往復で一番強い流れとなってしまった。

結局、予定よりも30分ほど遅れて、3時間半で再び熊本県に戻ってきた。上陸地点にはサポートの友人夫婦やSOUTHERN WORKSの方がすでに待っていてくれた。その他にもたくさんの応援の人たちもいて、皆さん笑顔で迎えられ、最後のシーカヤックを無事にやり遂げたことを実感した。去年は最後のシーカヤックでかなり苦戦したため、最後の最後まで気を抜けなかったが、これで、ようやく海の不安から解放されて歩くことができそうだ♪

津軽海峡横断から始まったシーカヤックも両親や友人、知人、シーカヤックをレンタルしてくれたショップの皆様の手厚いサポートによって実現し、無事に達成することが出来ました。本当にありがとうございました!ゴールまで4座、500キロだ~!


12月23日(水)「休みなしは無理かぁ~」

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6時半の出発時間に間に合うように合わせた目覚ましが5時に鳴り響いた。5分おきにセットした目覚ましを、鳴り響くたびに消した。毎日出発時間をNHK撮影スタッフに連絡しているのだが…最後の目覚ましを消した時にはすでに5時半を過ぎていて、予定の出発に間に合わないと判断して、直ぐに「おはようございます。すいません。30分遅れます」と連絡した。直ぐに「おはよう。了解」と返ってくる。

朝食を食べて、荷物を準備していると、いつものようにキビキビと動けない。ベッドに何度も座り込んでしまった。お腹がグルグル鳴ったので、トイレに駆け込むと、朝起きて直ぐに詰め込んだからか、下痢気味だった。「はぁ…」とため息をつきながら、なんとか出発時間に間に合わせようと準備を整えたが、全身の気だるさと疲れが溜ると出てくる頭痛が強くなった。直ぐに頭痛薬を飲んだ。7時まで少し時間があったので、ちょっとだけ寝ようと思って、ゴロリ…爆睡してしまった!気付いたら8時近くになっていた。

今日の天気は一日中雨…距離はジャスト60キロ!今日まで20日間休まずに歩いて走って登って漕いできた。このまま一気にゴールまでと威勢よく九州に入ったが、僕の体は正直者のようだ。寝ながらスケジュール表を見て、「よし休もう!」そう潔く決断すると全身がすうっと楽になった。スタッフや予約した宿泊先に直ぐに宿泊日の変更を連絡した。久しぶりに一日中部屋でのんびりと過ごした。


12月24日(木)「快調60キロ!」

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予定していなかった休養は、今日の60キロという長い行程に当然のことながらいい影響を与えてくれた。朝方までの雨でまだ湿度が高い7時過ぎに球磨川沿いのあさぎり町に向けて出発、途中五木村に抜けるために、800メートルを超える峠越えが60キロの前半に控えている。

出発してから、3キロほど歩き、急峻な谷間を抜ける県道25号線に入った。恐る恐る走り出す…体の動きが鈍ければ、今日の60キロはかなりタフな時間となる。しかし、自分の体は予想に反して、序盤から動きが良かった。ちょこちょこと走り始めて直ぐに、この感じなら五木村までの30キロは走れそうだと思った。それで今日は半分走って半分歩く作戦にした。

60キロとなると、日のある内に目的地に着くためには半分位は走らないといけないのだが、大抵は走りきれずに半分以上歩くことになる。長い峠までの上り坂もほとんど走ることが出来て、五木村には予定通りに昼に着いた。通りがかりの人から「この先にうまいうどん屋がありますよ」と教えてもらい、向かってみることに。うどん好きの社長さんが全国を食べ歩き、その中から気に入ったというふわふわもちもちの伊勢の麺を使って、甘口の5つの具材から取っただし汁と合わせた「五勢うどん」を食べた。

うどん屋は副業のようで、本業は山うにとうふ(とうふの味噌漬け)の製造のようだ。教えてもらった通りの美味いうどんを食べ終えて、山うにとうふの直売所を覗くと、なんと撮影スタッフが試食に夢中になっていた。うどんを食べながら「いつもなら撮影に来るのになぁ~」と思っていたら、山うにとうふ!?なんだ!?と興味にかられて、ふらっと入ったらあまりに美味しくて、美味い美味いと撮影スタッフ全員で試食に夢中になったようだ。そして、手にはたくさんの山うにとうふを持って、嬉しそうに会計に並んでいた。実家に送ろう!自宅に送ろう!と言いながらたくさん買っていた。当然のように僕も「美味いよ!お土産にいいよ!」の言葉に誘われて、実家やお世話になった人に送った。おにぎりに乗せて焼おにぎりにしたらかなり旨そうだ♪

お腹も満たされたあとは、あさぎり町に向けてひたすら歩いた。午後は基本的に歩きがメインだったが、ペースは衰えず、夕方には懐かしいあさぎり町に到着した。去年も泊まった駅前の宿に入ると、僕の姿を見て女将さんたちは予想通り驚いていた。僕も覚えていたが、たくさんの人が泊まる宿の女将さんたちが覚えてくれていたことが嬉しかった。ゴールが先伸ばしになったが、昨日の休養は正解だったようだ♪明日は懐かしい景色を見ながら、昨年麓を歩いた時に「いい山だな~」と見上げた市房山に登る。


12月25日(金)「えぇ山や~」

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去年もお世話になったあさぎり町の宿を7時過ぎに出発。昨晩の針灸治療の影響か…スタートは体が重かった。しかし、太陽が高くなるにつれて徐々に解消された。

朝靄の奥に、一際高い三角頭の市房山が見える。去年とまったく同じルートで市房山の麓、湯山の集落を目指した。漢字が同じというだけで、親近感がわいた熊本県の水上(みずかみ)村を抜けて、ダム湖を回ると、吊り橋からそそり立つ「九州の屋根」とも言われる市房山の険しい山並みが目前に迫った。去年はその麓を歩きながら「市房山って言うんだ~九州にもこんな険しい山があるんだぁ~いい山だな~」と見上げながら宮崎県に抜けた。まさか、その山に再び同じ道を歩いて登りに来ることになるとは、不思議な感じだが、気持ちが沸き立った。

登山口に向かう前にちょっと腹ごしらえーということで、去年も立ち寄ったお蕎麦屋さんへ。ここの蕎麦がとても美味しかったので、またあの味をという思いで向かった。昨年は春の装いをしていた店はすっかり冬の装いになっていた。頼んだのはそば三昧、温かいきのこそばとおろしそば、ざるそばの3つだ。ペロリと食べて、登山口へと走った。

市房山の見た目のイメージは「ずずず~くっ!」と言う感じだ。まぁ緩やかに登り始める斜面が、途中から突然斜度がきつくなるように見える。

キャンプ場から登山道は始まり、4合目にある市房神社までは参道を歩く。鳥居をくぐり、参道に入ってしばらく登ると色んな種類の木があるなか、一際図太い杉木が参道沿いに現れた。最初に現れた杉の巨木は幹回りが7メートル超え!根元に市房杉と書いてあった。どんどん登っていくと市房杉は参道にそって立ち並び、存在感に何度も圧倒させられた。それもそのはず、最大で幹回りが8メートル超えの市房杉は1,200年前の奈良時代に植えられたとあった。したがって、市房杉の巨木たちは1,200年の時が経過した今も、1度も動かずに、目まぐるしく変わってきた日本の歴史や自然環境を何も言わずに見守ってきたのだ。そう考えると、益々参道を歩きながら、1,200年の時が刻まれた市房杉たちに敬意と感動を覚えた。思わず巨木に抱きついたが、温かく優しい感じがした。

4合目市房神社まで巨木は続き、4合目から先は急に傾斜がきつくなり、本格的な登山道になった。市房神社で、市房杉の巨木との出会いの感謝などを伝えて、久しぶりの手応えのある急登に僕のテンションも上がった。

8合目まで、イメージの「くっ!」という急登は続いた。8合目から先は徐々に視界も開けてきて、ゆったりと登った。チラホラと山頂らしきピークが手前から見えた。9合目を過ぎて、さぁ山頂だぁ~と立ったら、実はニセのピークだった。本当の山頂はその奥にあった。ちょっとガクッとしたが、眺めは最高だった。眼下の湯山の集落が足元に見えて、本当に一気に登ってきたんだと実感した。まさに見た目通りの山だ。

それからすぐに山頂に立った。険しい山だったが、思いがけない1,200年の時を刻んだ市房杉の巨木との出会いもあり、本当に登ることが出来て良かったと感慨深くなった。

山頂には冷たい風が吹き付ける中、多数の応援の方もいて、ゴールが日一日と近づくにつれ、皆さんからの声も大きくなっている。僕も自然と手に力が入った。山頂から西米良村方面に下山を始めると、そこから先は宮崎県になる。再び戻って来た。

宮崎県側の市房山の印象は穏やかな雰囲気となった。しゃくなげの群生地が印象的で、7合目からは林道に出たり入ったりしながら、2時間ほどで下山。一足先に夜を向かえる西米良に6時前に到着した。長い1日ではあったが、心地よい充実か漂っていた。


12月26日(土)「西日本一のダム」

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谷間の小さな村、西米良村を7時過ぎに出発した。わずか100メートルほどで、家が一軒もなくなった。その変わりように、思わず笑ってしまった。

静かに流れる一ッ瀬川に青空と急峻な山々が写りこんでいた。目的地の木城町まで、直線距離ではかなり近いのだが、急峻な谷間を抜ける一ッ瀬川沿いを歩くので、距離は50キロを超える。意外と交通量の多い国道を歩くこと4時間、大きなダム湖に出た。

公衆トイレのある建物には宮崎が昭和40年代までは水力王国だったという解説が看板に書かれていた。さらに、宮崎県には27箇所ものダムがあり、そのなかでも一ッ瀬川にある一ッ瀬ダムは西日本一の大きさを誇るそうだ。また、昭和40代までは、水力発電だけで宮崎県全域の電力を100%賄い、さらに北九州にも送電していたということにも驚いた。昭和50年代以降は産業の発展や家庭の電機化が急激に進んだため、水力発電だけでは賄えきれなくなり、原子力発電に切り替わっていったそうだ。現在は宮崎県の60%以上は原子力発電に頼らざるをえなくなっていることを知り、自分達がどれだけ、原子力発電に依存してきたかがわかった。

アーチ式のダムは本来の川底が見えないくらいの高さだった。ダムを去った後もくねくね道は続いた。見上げれば、青空と気持ちのいい山並みが美しかった。しかし、ちょっと谷を覗き込むと信じられない景色が!!それは止めどなく続く、ゴミのポイ捨てた。偶然ではなく意図的なものであろうゴミばかり、一気にきれいだな~と思っていた気持ちが冷めた。

本当に日本は美しいのか…よく見れば資源になるものばかり、自然界の植物たちがゴミを見えないように隠してしまう光景は皮肉だろう。ゴミである前には資源だったものばかり、本来運ばれるべき場所に運ばれてもらいたいし、自分達も自然を守るためにも、ゴミ問題にしっかりと向き合わないていけないのだろう。


12月27日(日)「お鈴様」

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おはようございます!一昨日、再び宮崎県に戻ってきてから、季節外れの温かさなのか、宮崎県は元々冬は温かいのか、日中は歩いていても汗ばむ気温だ。今日も朝晩は冷え込むが、日中は温かくなるとのこと尾鈴山へこれから向かう僕にとっては大変ありがたい。

尾鈴山に登るのは、もちろん今回が初めて。事前に山について調べてみると、名前の由来が面白いと思った。「遥か昔、時々山から麓に下りてきて牧場に現れる白馬がいたそうだ。村人ははその馬を見ては誰の馬なのか不思議に思っていた。そんなある日、その馬に乗って山から下りてくるのが、山の神様だったことを知った。神様は麓の神社に度々訪れていたらしく、その時に白馬に乗ってきた。白馬には鈴がついていて、村人は『お鈴様』と呼んで親しんだという。」と言う伝説があったことが由来とも言われているそうだ。白馬に会えるか分からないが、山の名前の由来というものは実に様々だと思う。

尾鈴山へは木城町からの往復となり、登山前後は片道23キロのロードがある。まあまあタフな1日だ。下山後はほとんど走れないと考えていたので、宿を出発してからすぐに走り始めた。最初は調子も良かったが、登山口目前で、急に軽い頭痛と寒気がした。疲れが出たのだろうと、すぐに薬を飲んだ。薬が効き始めるまでは、しばらく我慢の時間となった。

尾鈴山へは主に2つの登山道があるが、今回は山頂まで最短距離となる急登コースを登る。薬が効くまでは、急登好きの僕らしくない足取りだったが、効きはじめたらいつも通りに登れるようになった。さすが急登コース、頑張れば頑張った分だけ、どんどん標高が上がり、登山道の「一合目」の看板が目安になりモチベーションも上がった。

1時間足らずで、山頂手前の展望所に着いた。尾鈴山はほとんど展望がない山と知られるが、限られた展望は特別感があり、登山する人に感動を与えてくれる。少し霞んでいたが、海まで見えた。昔は海から帰ってくるときに高い山を目印にしたそうだが、尾鈴山もまた海に出る人たちの灯台となったようだ。

景色を眺めていると、山頂からざわめく声が聞こえる。山頂直前の尾鈴神社でお礼と挨拶を伝えてから、林に囲まれた山頂に出た。狭いスペースにたくさんの応援の方々が。皆さんの笑顔で少し疲れた表情の僕も自然と笑顔になった。驚くことに、大人に混じって小さな子供が数人いた。聞くとまだ4才や5才だという。僕はたまげてしまった!なぜなら、今自分が登ってきた急登を、まだ4才や5才の子供たちが登ってこれたという事実を直面して、スゴすぎて信じられなかった。たくさんの大人に囲まれて、少し恥ずかしそうだが笑顔が可愛かった。僕は自分の挑戦よりも、子供たちが成し遂げたことの方がスゴいチャレンジだと思った。

山頂で、集まってくれた人たちと一緒に写真を撮って、下山を始めた。下山は皆さんの笑顔で元気を充電できたおかげで、あっという間にかけ降りた。僕にとっては、山頂で待つ人たちは時に灯台となる。

投稿時間:18:30 | カテゴリ:今週のヨーキさん(2016)


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