クローズアップ現代 メニューへ移動 メインコンテンツへ移動
2023年4月4日(火)

坂本龍一 最期まで音楽と共に

坂本龍一 最期まで音楽と共に

音楽家の坂本龍一さんが71歳で亡くなりました。4月4日、映画「戦場のメリークリスマス」で共演した北野武さんが、クロ現のカメラの前で坂本さんへの思いを語りました。音楽グループ「YMO」のメンバーとして活躍し、アカデミー賞など数々受賞した坂本さん。世界を見つめ、音楽と共にあった坂本さんは“時代”に何を伝えようとしていたのか―。がんとの闘病を続けていた坂本さんが、NHKの「509スタジオ」で名曲を演奏した舞台裏など、貴重な映像とインタビューで迫りました。

出演者

  • 北野 武さん (映画監督)
  • 桑子真帆 (キャスター)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

坂本龍一さん 最期まで音楽と共に

桑子 真帆キャスター
「ここがあの収録が行われた…」
佐渡岳利エグゼクティブ・プロデューサー
「そうですね。まさにこんな感じですね。もうちょっと手前だったかなピアノが」

生前、坂本さんが愛したというNHKの509スタジオ。死が迫り来る中で、最後にコンサートを収録した場所です。

桑子 真帆キャスター
「なぜこのスタジオを選ばれたんですか?」
佐渡岳利エグゼクティブ・プロデューサー
「響きがすごくいいということで、坂本さんはここで何回も演奏しているんですけど、特別な響きだといつもおっしゃっていた」

病によって長時間の演奏ができないため、収録は1日に数曲ずつ8日間かけて行われました。その日々を間近で見ていた佐渡岳利エグゼクティブ・プロデューサーは、ピアノに向かう坂本さんの姿が今も忘れられないといいます。

佐渡岳利エグゼクティブ・プロデューサー
「ご本人が弾く時は、みんな周りも含めてすごく緊張感が出ますけど、どちらかというとぱっと近寄って座って、本能のままにどんどん弾くという感じ。僕も1音たりとも見逃せない、聴き逃がせない、という感じでした」
♪The Last Emperor/1987年

数々の名曲を生み出してきた坂本さん。コンサートのために選んだのは、みずからの音楽人生の軌跡ともいえる13曲です。

1987年に手がけ、代表曲の1つとなった映画「ラストエンペラー」のテーマ。

♪Aqua/1998年

1998年、娘のために作曲したという「Aqua」。

坂本さんが追求したのは、ピアノ1つで今できる”自分の音”を表現することだったといいます。

佐渡岳利エグゼクティブ・プロデューサー
「例えば『東風』はYMOのためにつくったデジタルなサウンドでね。そこをピアノで置き換えた時に『ちょっと違うけど、これはまたすばらしいな』と思う瞬間が結構あった」

坂本さんが26歳の時、細野晴臣さん、高橋幸宏さんと共に結成したYMO=イエロー・マジック・オーケストラ。コンピューターやシンセサイザーなどを使い新たなジャンルを開拓する中、生み出した1曲が「東風」でした。

それから、およそ半世紀。坂本さんは、人生の集大成にこの曲をピアノで表現しようとしたのです。

♪Tong Poo/1978年
坂本龍一さん
「もともとシンセサイザーとか、バンドありきでつくったものをピアノソロでまとめるのが、1人しかいない、手も10本しかないので結構難しい時もあるわけです。ただ自分の曲を自分で表すにはピアノぐらいしか弾けないので、ピアノが一番身近にダイレクトに表現できる楽器。それを弾いているだけなんで。ピアニストとしては本当にひどいですよ。ひどいレベルなんで。ただ自分の音楽を表しているので…というエクスキューズ(言い訳)があるかな」

音と向き合い続けた人生

坂本さんが初めてピアノに触れたのは3歳のころ。およそ70年、音と真摯に向き合い続けた人生でした。

10代からバッハやドビュッシーなどのクラシック音楽にひかれた坂本さん。

♪TECHNOPOLIS/1980年

東京芸大で作曲理論を学んだあと、ポップス界のミュージシャンと組んだのがYMOでした。

坂本龍一さん
「YMOのときは自分を曲げているんだと思ったことも正直あるんだけど、いまわりと整理してみると、自分というのはいろんな自分がある。いろんな状況の自分っていうのがあって、これが自分だっていう100%の自分なんてどこにもなくて、いつもこうやって知らない人と向かい合ってる自分があったり、両親と一緒にいるときの自分があったり、YMOのときはこの2人と一緒にいる自分がある。そういうときに出てくる音楽があったりする。1人のときは1人だけでいる自分がいて、そこはちょっと違うんだけど」
1983年放送 YOU より

坂本さんは、コンピューターやシンセサイザーを駆使し、テクノポップという新しい音楽ジャンルを築きました。

YMO時代から歌詞の英訳などで親交のあったピーター・バラカンさんは、坂本さんを次のように評しています。

YMOのマネージメントなど担当 ピーター・バラカンさん
「坂本龍一は誰も世界で作らないような自分だけの音を次々と作っていた人。それが僕の耳には東洋的な音に聞こえた。日本的な音に聞こえた。まったくそういうことを意識していないと(坂本さんは)言っていました。彼は完全に西洋音楽を作っているつもりでいるって話していた。本当にユニークな音をいっぱい作っていて、それが彼の一番の功績かどうかは難しいですけど、かなり大きいと思います」

そして、坂本さんの音楽は映画の世界へと広がっていきます。

映画「ラストエンペラー」でアカデミー賞作曲賞とグラミー賞を獲得。国際的な評価を不動のものとしたのです。

北野武さんが語る 盟友・坂本龍一さん

代表作「戦場のメリークリスマス」で坂本さんと共演した北野武さん。2023年4月4日に行ったインタビューで坂本さんと出会った時のことを語りました。

北野武さん
「“教授”なんていわれてYMOで作曲家だから。おいらの世代でピアノやるなんていうのはいい家の子に間違いなくて。うちは下町の貧乏な家だから、ピアノを弾いてるなんてとんでもない人だと思ってたんだけど。おもしろいのは、ラロトンガ島ってニュージーランドから3時間くらいかかる誰も知らない島に取材陣がたまに来るとお土産を持ってくるわけ。うなぎを持ってきてくれた人がいるのね。で、日本食に飢えてるわけ。で、俺と周りの人が全部食っちゃったの。そこに坂本龍一ちゃんが帰ってきて『うなぎ?うなぎあったの?俺の分は?』って言って、みな食っちゃったって言ったら涙ぐんで怒ってたから、意外に普通の人だなって思って大笑いしたことあるけど」

今も忘れられないのは、坂本さんが手がけた「戦場のメリークリスマス」の曲を聴いた瞬間でした。

北野武さん
「大島さんが映画の音楽を坂本龍一がやるんだっていうから、ああ、龍一ちゃんがつけるんだって。そんなにイメージがなかったんだけど、オープニングのテーマ聴いた時にすげえな、これって思って。やっぱりいい映画っていうのは音楽がいつまでも見事に残っていて、『戦場のメリークリスマス』の坂本龍一のあの作曲は驚いたっていうか、やっぱり才能があるっていうか、“教授”っていわれるだけのことはあるなと思ったけど」
桑子 真帆キャスター
「共に世界を舞台に活躍される中で、坂本さんの存在って武さんの中で特別なものだったのでしょうか」
北野武さん
「やっぱりなんていうんだろう、ある部分誇りに思うよね。他の国のオリンピックのテーマやったり、ギリシャとかに映画祭で行くと関係者が来て、『坂本さんに作曲してもらった曲がある』とかうわさはいっぱい聞いて、相変わらずすごいなと思う」

坂本さんが亡くなった今、武さんはどんな思いでいるのか心境を聞きました。

桑子 真帆キャスター
「悔やまれることがあるとすると…」
北野武さん:
「やっぱり『戦メリ』が終わった後に、俺の監督で龍一ちゃんの音楽で1本作りたかったっていうのは…」
桑子 真帆キャスター
「今、声をかけられたらどんな言葉をかけられますか?」
北野武さん:
「おもしろかったし、やることやったよなって感じはあるよね。まだやり残した部分はいっぱいあるけど、それなりにおいらはやったろって。まあ、俺はまた別だろうけど、龍一ちゃんはちゃんと作品として残ってるから、いい作品を残したし、いいじゃないのっていう。だから、悲しいことだけど、まだ龍一ちゃんはいっぱいいろんな仕事できたはずだけど、人間はいつか区切りが来るし、そういう時に『まあ、いいか』というとこじゃないかなと思うけどね」
「戦場のメリークリスマス」(1983)より
♪Merry Chiristmas Mr.Lawrence

新たな試みで生み出した最後のアルバム

9年前、坂本さんに大きな転機が訪れます。中咽頭がんと診断されたのです。

坂本龍一さん
「やっぱりショックでした。やはりそれは深くいろいろなことを考えざるを得ない。本当にあとどのくらい残されているか分からない時間が、もう限られた時間だから、やっぱり十ある中で一つ二つ、本当にやりたいことだけやろうと大きく変わった」

このころ、坂本さんは新たな試みを始めました。街の雑踏など日常の何気ない音を集め、音楽を生み出そうとしていたのです。

坂本龍一さん
「僕たちは24時間ほとんど音に囲まれて生きていますけれども、生存にあまり必要ない音は無視している。ゴーって音も通りの音も、同等の存在理由があって、それは人間が勝手にいいとか悪いとか決めている。それはやめて公平に音を聞いたほうがいい。そういう態度をとって音に接すると、いかにふだん自分というものが固定化されたフィルターによって檻(おり)に閉じ込められてるか、ということが見えてくる」

2023年1月に発表された坂本さんの最後のアルバムです。病状が悪化する中での心情が記されていました。


大きな手術をして長い入院の末、新しい仮住まいの家に「帰って」きた。
ふとシンセサイザーに手を触れてみた。
何を作ろうなどという意識はなく、ただ「音」を浴びたかった。
その日以降、折々に、日記を書くようにスケッチを録音していった。

アルバム「12」より引用
アルバム「12」より
♪20220304
坂本龍一さん
「それは本当に病気との闘いの合間に、自分の心の平安を求めてかいていたスケッチなので。もちろん入院している間は病室では曲はつくれないけど、雨の音を聞いたりとか景色を眺めたりとかしながら。退院して帰ってきてそのたびに体力がガクッと落ちて、少し回復してきてちょっとつくってみたいという気持ちにまで回復したら、たくさんスケッチをかいてました。やっぱり自分のための日記のようなスケッチをしたのが、とても自分としては薬になってるというか、とてもよかったなと思う」

坂本さんの音楽は次の世代へ

桑子 真帆キャスター:
坂本さんが残した音楽や言葉が、国境や世代を越えて多くの人の心に響き続けているのはなぜなのか。それは、坂本さんが自身の心の内とまっすぐ向き合い、音楽としての表現を追求し続けたからではないかと感じました。坂本さんが残したものは、次の世代にどう受け継がれていくのでしょうか。

東日本大震災以来、東北に足繁く通っていた坂本さん。その活動の一つが、子どもたちと結成した東北ユースオーケストラでした。

2017年に放送した「クローズアップ現代プラス」。子どもたちと携帯電話を使ってユニークな試みを行う様子が残されています。

坂本龍一さん
「どうやってやろうかな。わっと拍手があって、何か演奏してくれるかな、とお客は静かにして待っています。そういう緊張の一瞬のときに、うっかり誰かの携帯が鳴っちゃったという設定。おもしろいね、はい、みんな…」

スマホという日常の音も音楽として楽しむ。音楽の持つ自由さを若い世代に伝えました。

坂本龍一さん
「世界にはいろんな音楽と言っても1つの音楽ではなく、ほんとにさまざまな音楽があるわけだし、知らないことがたくさんある。それはやはり感じとってほしいですね。あの子たちを見ていると、日本の将来はもしかしたら大丈夫かなっていうね、気になるぐらいにとてもそこには希望がある気がしますね」
見逃し配信はこちらから ※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

この記事の注目キーワード
エンタメ

関連キーワード