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2023年3月8日(水)

東日本大震災から12年 芥川賞作家・佐藤厚志さんと防潮堤の町を行く

東日本大震災から12年 芥川賞作家・佐藤厚志さんと防潮堤の町を行く

津波に襲われた東北沿岸部にできた総延長400kmの防潮堤。芥川賞作家・佐藤厚志さんとともに防潮堤がそびえる町を縦断。岩手・田老地区では14mの防潮堤で巨大津波の再来に備えていました。かつて、日本一美しい漁村とも呼ばれた宮城・雄勝地区では7割を超える人口が流出。さらには、居住が制限される災害危険区域に今もなお取り残される人々が。防潮堤が建設された“新たな沿岸部”に生きる人々の思いに耳を傾けました。

出演者

  • 佐藤 厚志さん (作家)
  • 桑子 真帆 (キャスター)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

防潮堤400キロの旅 芥川賞・佐藤厚志さん

2月、東北の被災地を走る車に、作家・佐藤厚志さんの姿がありました。

芥川賞を受賞した小説、「荒地の家族」。
癒えぬ傷を抱えながらも、懸命に生きる被災地の人たちの姿が描かれています。

物語の中で「防潮堤」は、被災地を象徴する景色としてたびたび登場します。実際の証言や思いを大切にしてきた佐藤さんは、改めて防潮堤のある町と向き合うことにしました。

芥川賞作家 佐藤厚志さん
「実際そこで暮らす人がどういうふうな思いを抱いているかっていうのは、いろんな人の声を聞いていきたい」

防潮堤と生きる

最初に訪れたのは、岩手県沿岸部の小さな町。宮古市田老地区です。震災2年後に防潮堤の建設が始まり、去年完成しました。

佐藤厚志さん
「めちゃくちゃ高いですね」

高さは14.7メートル。被災地の中でも最大級です。

佐藤厚志さん
「なんか町を見ているというよりもコンクリートを見ている感じですね。津波がものすごく大きくて恐怖を与えられたんだなって思います。その恐怖が人にこれを造らせたというか」

田老地区には、東日本大震災の前から防潮堤がありました。古くから何度も、津波で多くの人たちが犠牲となってきました。

今から65年前。高さ10メートルの防潮堤を造り、津波の脅威に備えてきたのです。

しかし、12年前のあの日。

高さ16メートルの津波が防潮堤を乗り越え181人が亡くなりました。そこで、さらに高い防潮堤が造られることになったのです。

今、防潮堤の内側では130世帯ほどが暮らしています。その一角で、震災の6年後に店を再建した人を訪ねました。

田中和七さん。大正時代から続く菓子店を家族で営んでいます。地元、田老の防潮堤をモチーフにしたお菓子が店の名物です。

田中さんの店も、津波で大きな被害を受けました。それでも震災後、ふるさと田老での再建を決断した田中さん。後押ししたのは新しい防潮堤の存在でした。

田中和七さん
「14.7メートルっていう数字が出たときには、東日本大震災のような津波は少しは守れるのかなと自分は思ったんです」

店を再建して6年。徐々に客足も戻り、手応えを感じていました。

ところが2022年。岩手県の発表に、田中さんは衝撃を受けます。

田中和七さん
「うちの店があるところはここですから、もう(浸水域に)入ってますね」

震災と同じ規模の津波が来た場合、波は防潮堤を乗り越え、再建した町が再び浸水するという予測でした。

田中和七さん
「店を建てた場所も危ない。浸水域に入っている。信じたくなかったというのがありますね」

田中さんは今、最も被害が増えるとされる深夜を想定し、地域の仲間と新たな避難計画を立てています。

田中和七さん
「高い防潮堤ができたからって安心しちゃいけない。最悪なことを想定してやってみるというのは、十分意義があることだと私は思います」

津波への恐怖と隣り合わせで生きる、田老の人たち。長年暮らしと共にあった、防潮堤への思いを明かしてくれた人がいました。

震災の語り部をしている小幡実さんです。

語り部 小幡実さん
「これが古い第1防潮堤ですね。生まれた時点でこれがあったわけだから町の一部であり、コンクリートだけどなんか生き物のような、魂があるような、そんなものに近いのかもしれません」

町を守る象徴となっていた防潮堤は、12年前の津波を防ぎ切れず、多くの人が亡くなりました。それでも田老の人たちは、この土地で防潮堤と共に生きる道を選びました。

佐藤厚志さん
「新しい防潮堤も、これから長い年月が過ぎていくとなじんでくるというか」
小幡実さん
「最初ね、圧迫感があるしさ、なんだやーと思ったんです。正直なところ。だけど、田老はこれしか方法がなかったんだなって。やっぱりここは、防潮堤とともに生きていくしかない、そういう宿命の町だったんだなって思いますよ」

防潮堤と暮らすのは町の宿命だと小幡さんは語る。12年前、津波は防潮堤を超えて町を襲ったが、田中さんも小幡さんも、遺体や家財が流出するのを防いだという側面を強調した。

「防潮堤を辿る旅を終えて」佐藤厚志さん記

人口流出の町で

防潮堤をたどる旅。次に向かったのは宮城県。石巻市雄勝地区です。

佐藤厚志さん
「車窓が全部コンクリートの壁で、まったく湾に沿って走っている感じはしないですね」

震災後、最大9.7メートルの高さの防潮堤が湾を取り囲むように造られた雄勝地区。

市の復興計画では、住民の大半は高台に移転。一方、防潮堤沿いは災害危険区域に指定され、商業施設などの建設は許可されましたが、新たな住居の建設は許可されませんでした。

震災前、4,300人が暮らしていた雄勝地区。湾を囲む山々から流れ出る養分が質の良いホタテやカキなどを育み、漁師町としてにぎわっていました。

しかし、12年前のあの日。海はその姿を変えて押し寄せ、波が町を飲み込みました。

震災後、市は住民を守ろうと新たな防潮堤の建設を決断。しかし、多くの住民が雄勝を離れ、人口は4分の1になってしまったのです。

今も雄勝に残る人はどのような思いでいるのか。防潮堤近くで仕事をする漁師を訪ねました。

佐野内利昭さん。雄勝で生まれ育ち、15歳から漁師として海と共に生きてきました。

佐藤厚志さん
「どうして雄勝に残ったのか」
佐野内利昭さん
「雄勝好きだっていうことと、あと生まれた所でしょ。それと海でしょ。いちばんは海あるからかな」

震災前、68世帯あった佐野内さんの集落。今も残るのは11世帯。そのほとんどが高台に暮らしています。

佐野内利昭さん
「このくらいしか残ってないんだもの。11軒しかないんだよ。結局ここにいた人たちで雄勝を守る感じになっている」
佐野内利昭さん
「これが震災前の雄勝町です」

佐野内さんが大切にしているのは、震災から6年後に手に入れた写真です。自宅の窓から毎日眺めていた雄勝の海が写されています。

佐野内利昭さん
「懐かしくてたまに眺めたりしているからね」
佐野内利昭さん
「こんな高いもの必要なのかな、とは思うよ、見ていて。人が前と同じく、下に住んでいるならば必要かもしれないよ。だけど、全部上(高台)に上がったんだからさ。(住民が)いなくなったんだから、高いのはいらないと思うよ」

要塞のような防潮堤が守っているのは、新しく家の建てられない荒地がほとんどである。高台の区画についても町を出た人も気持ちが変わるかも知れないと、土地の確保を求めたが聞き入れられなかったと悔しさを滲ませた。

「防潮堤を辿る旅を終えて」佐藤厚志さん記

海の見える景色

津波で800人以上が犠牲となった宮城県女川町は、新たな防潮堤を建てず、海の見える景色を選びました。

横山美和子さん
「きれいでしょ。この見慣れた光景が癒されるんだよね。(海の景色は)変わらないもんね、本当に。町並みは変わってもね」

復興から取り残されて…

続いて向かったのは、宮城県南部にある山元町(やまもとちょう)。

佐藤厚志さん
「同じ光景がずっと続いているような感じですね」

山元町は、祖父の実家である亘理町の隣である。陸をむけば荒涼とした平らな草地が広がっていた。

「防潮堤を辿る旅を終えて」佐藤厚志さん記
佐藤厚志さん
「いままで北から防潮堤見てきましたけど、ここの防潮堤が一番人の暮らしと遠いっていうか。すごい距離がある感じ」

防潮堤沿いに続くさら地の一角に、集落が残っていました。そこに、ひときわ目立つ看板がありました。

齋藤順子さん
「いらっしゃいませ」
佐藤厚志さん
「こんにちは。おじゃまします」

齋藤順子さん。この地区でイチゴ農家をしていましたが、津波で施設は全壊。3年前から、同じ場所でパン屋を営んでいます。

齋藤順子さん
「地元でもちょっと楽しい場所あるよーって、言ってもらえる場所があったらいいなと」

齋藤さんが暮らす笠野地区は震災後、245あった世帯が31にまで減りました。

笠野に60年以上暮らす、砂金良宏さん。復興から取り残されたこの地区の厳しい現実を教えてくれました。

町は震災直後、内陸に新たな土地を造成し、沿岸部の人たちを集める復興計画を進めました。そのなかで、笠野地区は災害危険区域に指定されましたが、被災した家を修繕して住むことは許可されました。

そのため砂金さんは、浸水した自宅の修復を決めたのです。

佐藤厚志さん
「ここに残られた大きい理由はあるんですか?」
砂金良宏さん
「母は当時82歳だったんですけど、おふくろの精神的なもの(負担)を少しでも取り除きたい、という部分で早くまず落ち着きたい」

他にも、住宅ローンの支払いがある人や、家族や仕事の事情で笠野に残る決断をした人もいます。しかし、震災後の混乱の中で思わぬ事態が起きていました。

町の復興計画には、「防潮堤」と「かさ上げした県道」を新たに建設し、二重で津波を食い止める「多重防御」も含まれていたのです。そのため笠野地区の一部は、防潮堤とかさ上げ県道の間に取り残されることになったのです。

砂金良宏さん
「なんとか変更のお願いを、住んでる方々みんなして、町に要請していこうとやったんですけど、なかなか変更というのは難しい。最終的には蓋を開けたらもう完全に、本当に残されるような、遮断されるようなイメージにはなった」

パン屋を営む齋藤さん。住む人が減り続ける笠野で新たにキャンプ場を始め、多くの人が集える場を作ろうとしています。

利用者の多くは、同じ津波被災地から訪れる人たち。

「自分は(宮城県)名取からきました」
「(名取の)閖上ですね。全部流されましたね。一生ここで住むんだ、って考えづらい場所。そこでお店やろうかな、自分で、って勇気がいりますよね。勇気をもらいますよね。そしたら応援したくなりますよね」

津波で流され何も残らなかった場所。荒れ地だからこその価値が生まれていました。

齋藤順子さん
「何もないところなのでそれを逆手に。だから星もきれいだし、朝日も一番最初に当たって」
佐藤厚志さん
「本当にいいところ」

元には戻れない。その事実を噛みしめながらも、大切な日常を日々積み重ねてきた先の、一見立て直したように見える今の暮らしがある。震災から十二年経つ。節目でも何でもない。東日本大震災の経験は置かれた場所で一人ひとり全く違う。どれだけその感情を掬(すく)おうとしても、指の間からこぼれてしまう気がした。

「防潮堤を辿る旅を終えて」佐藤厚志さん記

“防潮堤のある風景” この町で生きる意味

桑子 真帆キャスター:
ここからは、実際に旅をされた佐藤厚志さんに伺っていきます。
本当にたくさんの方に出会っていろんな話を聞かれたと思いますが、特に印象に残っている人や話、風景はありますか。

ゲスト
佐藤厚志さん(芥川賞作家)
小説「荒地の家族」が今年1月 芥川賞を受賞

佐藤さん:
いちばん印象的だったのは、最初にお邪魔した田老地区の菓子店の奥さんが、「ようやく感情を取り戻してきた。震災直後は、まひして何も感じられなかった」とおっしゃっていて、ようやく時間がたって泣いたり笑ったりする感情を味わうことができたというお話をしていて、流れた時間を感じさせてすごく印象的でした。

桑子:
佐藤さんには旅を終えて感じられたことをつづっていただきましたが、防潮堤に対する印象は変わりましたか。

佐藤さん:
最初はあまりの高さに違和感を覚えることもありましたが、家族や自分の商売を考えたときに頼るものというか、一緒に生きていかなくちゃいけないものとして受け入れられているのだなと感じました。
あとは、本当だったら海の近くに暮らしている人は海を見て日常を過ごしたいという思いはあるし、複雑な思いも一緒に抱いているというのは強く伝わってきました。

佐藤さん:
「荒地の家族」という作品の中では、主人公が経験した震災の跡に立って防潮堤を見ると、半ば生と死を分けるようなものとして海と陸を隔てている印象もある。
そのように表現しましたが、何もない場所に、何もなくなってしまった場所に、また何か人の営みを作って立ち上がろうとするのは、この広い場所を見渡すと本当に一部ですが、そこが光というか、小さな希望かなと思いました。土地というのはやはり人が住むことで、何か営みを作ることで特徴づけられていくというところがあるので、そこに僕はすごく希望を感じました。

桑子:
佐藤さんご自身も仙台のご出身で、この地で生きる作家として、どのような書き方をしていかれますか。

佐藤さん:
今、この作品は現時点で振り返った時の風景なので、また5年後、10年後どういう風景が見えるか、その時になってみないと分からないですが、その時に見える風景や思いを拾いたいな、と思っています。震災、被災地、なかなか関心を持ちづらい人の間に立って、そこに橋を渡せるような仕事が、作品を書くことができればいいと思っています。

桑子:
東北の被災地の防潮堤は今年度でほぼ完成します。防潮堤のある風景が日常として定着していくことになります。

その中で心に留めたいのが、佐藤さんの言葉を借りると「防潮堤は人々の恐怖から作られたものだ」ということです。このことが投げかけていることに、私たちは目を向けていきたいと思います。

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