クローズアップ現代 メニューへ移動 メインコンテンツへ移動
2022年2月24日(木)

50年目の独白
~元連合赤軍幹部の償い~

50年目の独白 ~元連合赤軍幹部の償い~

連合赤軍「あさま山荘事件」から今月で50年。
実行犯のひとりが獄中でつづった“最期の手記”が取材班に託されました。
書いたのは身重の妻を含む14人の仲間のリンチ殺人に加担した、吉野雅邦受刑者(73)。
無期懲役を宣告した裁判長から「生き続け、その全存在をかけて罪を償え」との異例の訓戒を受けました。
50年かけて到達した“許されざる罪”への省察とは。

出演者

  • 大谷恭子さん (弁護士)
  • 井上 裕貴 (アナウンサー)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

50年目の"独白" あさま山荘事件 元連合赤軍幹部の償い

井上 裕貴キャスター:
事件が起きた50年前。日本は高度経済成長をおう歌する一方、ベトナム戦争を推し進めるアメリカに追随する政府のあり方に、多くの若者が抗議の声を上げていた時代でした。

あさま山荘事件を引き起こした連合赤軍は、その中でも武力による革命で世の中を変えようとしていました。その組織は、指導者を頂点に幹部、兵士と、軍隊と同じような序列を持ち、吉野受刑者は指導部の末端。従属する立場の兵士の中には妻、みちよさんもいました。29人のうち12人が仲間の手によってリンチの末、亡くなることになります。

幹部の多くが死刑を求刑され、唯一生きて償うことを課された吉野受刑者。半世紀たった今、何を思うのでしょうか。

なぜ事件が起きてしまったのか 吉野受刑者の独白

吉野の身元引受人を務める古畑恒雄さんです。2年前に亡くなった吉野の母親に代わり、実家の管理を任されています。

<吉野の部屋の本棚を見ながら>

身元引受人 弁護士 古畑恒雄さん
「本当に読書家だったなって感じですよね。よく読んだなって跡がみられますね」

世の中を変えたいと考えていたはずの青年がなぜ、凄惨(せいさん)な事件を起こすに至ったのか。

先月、古畑さんの元に病に伏せる吉野から手記が届きました。原稿用紙86枚につづられた独白です。


「自分が正当とみなして選択し、歩んだはずの結果が当初は全く思いもよらない惨憺(さんたん)たるものであった。私にとって最大の悔いは、かつて生涯の伴侶と思い定めた金子みちよを、こともあろうに胎内のわが子もろともに死に至らせてしまったことでした。どこで間違ってしまったのか」

吉野の手記

殺害された妻のみちよさん。2人は同じ大学で出会い、5年の月日を共にしていました。

吉野の幼いころからの親友で、2人をよく知る大泉康雄さんです。

吉野の親友 大泉康雄さん
「『最高の女性だ』みたいなことを言っていましたね。最初に合唱団の打ち上げで飲みに行って、それで親しくなって。あそこまでいっちゃうことが、いまだに信じられない。自分が愛した人だったら、自分の命を張ってでも守らなきゃいけない」

裁判で、死刑を求刑された吉野。しかしリンチは実行したものの、命令は出していないとして、宣告されたのは無期懲役でした。

判決を言い渡した、石丸俊彦裁判長。吉野に対し最後にこう語りかけました。

石丸俊彦裁判長
「神の許す限り生き続け、その全存在をかけて罪を償ってほしい」

なぜ道を踏み外してしまったのか。吉野の償いは、そのきっかけを見つめることから始まっていました。


「特に痛感したのは、私達が革命を目指したことの愚かさです。人々に幸せをもたらす、いわば打出の小槌(こづち)のようなものと捉えていました」

吉野の手記

「総括」による破滅への道

吉野が革命を起こし、社会を変えようとした原点には生い立ちへの"負い目"がありました。財閥系企業の重役を務める父の元で、何不自由ない暮らしを享受していた吉野。

その人生はベトナム戦争に直面し、一転します。


「自分は、アジア人民の血と命とを踏みにじって生きてきた存在ではないのか。なんとか"免罪符"として、反体制運動に献身しなければならない」

吉野が大泉さんへ送った手紙

資本主義側に安住する自分を罪深い人間だと思うようになり、政府への激しい抗議活動に身を投じていきました。

大泉康雄さん
「第1に彼がやろうとしていることは正しいと。まだ貧しい家も多かったし、日本でも社会主義みたいな影響が強かった。"いまよりマシな社会"みたいなことで突き進んでいたのが、当時の状況だった」

しかし、東大紛争で多くの検挙者が出たのを境に、学生運動は衰退に向かいます。運動に参加した学生の多くは、時期が来ると就職し、経済成長を支える企業戦士になっていきました。

このままでは何も変わらない。吉野は過激派組織に加わり、武力によって社会を変えることを志向していきます。

元メンバーの1人である岩田平治さんは、一心に組織に殉じようとする吉野の姿を覚えています。

元連合赤軍兵士 岩田平治さん
「本当に真面目にそういうものを突き詰めていくというか、真っ先駆けて自分が革命をやらなきゃいけないという格好で」

あさま山荘事件のちょうど1年前、権力を打倒するためとして吉野らは散弾銃とライフルを強奪。そして山岳地帯にアジトを築き、別の過激派組織と合流します。

このとき結成されたのが「連合赤軍」です。森恒夫と永田洋子の2人の指導者を頂点とした総勢29人の組織で、吉野は幹部の末席に名を連ねました。その吉野を心配し、兵士の一員に加わったのが妻のみちよさんでした。


「本格的な遊撃戦争の時代が到来しました。『鉄砲を握れ!』鉄砲こそ最も重要な殲(せん)滅戦の武器である」

吉野が大泉さんへ送った手紙 1971年10月19日

革命を実行するために指導者2人が求めたこと。それは、何が起きても動じない精神的に強い兵士でした。

元兵士が描いた、アジト内部の様子です。毎晩、問題があるとされたメンバーが名指しされ、弱さを自己批判するよう求められました。

「総括」と呼ばれたこの行為。ここから1か月半に及ぶ破滅への道が始まります。

1971年12月27日。1人が総括にかけられました。「兵士の自覚が足りない」。そう糾弾され、仲間どうしで初めて暴力が振るわれました。総括の援助になると暴力が正当化されたのです。

岩田平治さん
「思い切り殴りましたね。(同志の)弱いものをたたき出すと同時に、自分自身の弱さも克服しなければいけないと、その時は本当に真剣に考えて殴った」

4日後の大みそか。一方的に顔面を殴られ続けた23歳の男性が亡くなりました。最初の死者でした。率先して暴行に加わった幹部の吉野。実は後戻りできない訳がありました。

この年の8月、吉野は永田らの命を受け、警察のスパイと疑われた同志2人を殺害。その功績が認められ、幹部に昇格していたのです。


「自分の頭で考えると非組織的、反革命的になってしまうと思いこみ、思考停止を決意。独裁的地位にあった両名を、下から支え、祭り上げ、その手足と化して、下部メンバーに君臨していたことは間違いない」

吉野の手記

止まらない「総括」。年が変わった1972年1月1日には、兵士として落ち着きがないと、集団で300回以上殴打された21歳の男性が失血死。

同じ日、自己中心的だと縛り上げ、雪山に放置された22歳の女性が凍死。彼らの死は、精神的な弱さによる「敗北死」とされました。

このころ、アジトに合流した元兵士の植垣康博さんです。

元連合赤軍兵士 植垣康博さん
「びっくりしたよね。これは大変なところへ来てしまったなと。上からの指示通りに行動することを求められていた。僕ら兵隊はもっぱら」

また、元兵士の岩田平治さんは、3人が死亡した時点で逃亡しましたが、指導者が下す方針が間違っているとまでは思い至らなかったといいます。

岩田平治さん
「当然違和感はあるんですけども、そういうものに参加しているので、いや幹部たちも『殺すつもりで殺したんじゃないよ』と。本当にめまぐるしく状況がそういう形になっていく中で、ろくにものを考えることもできなかった」

そして1972年1月25日。妊娠8か月の妻・みちよさんがターゲットになったとき、吉野は周囲と同調するしかなくなっていました。

「私は山に来るべきでなかった」。みちよさんはそう言い残し、暴行を受けて10日後、おなかの子どもと共に亡くなりました。


「私が、組織、指導者に隷従するに至った経緯を振り返ると、自主、自立の精神の欠如に気付きます。もともと、自己肯定感が希薄で、"滅私"を心懸ける傾向が強く、結局、組織にとって、使い勝手のよい駒となり果てたのです」

吉野の手記

「全存在をかけて償え」石丸俊彦裁判長の思いとは

あれから50年。親友の大泉康雄さんは、吉野が逮捕されて間もないころから手紙のやり取りをしてきました。犯した罪と向き合うことは、吉野にとって容易ではなかったといいます。

大泉康雄さん
「当初は、まだまだ自分に下された罪は(指導者の)永田被告なんかに押しつけた部分があるから」

吉野は罪の重さは認識しながらも、組織や指導者に責任を転嫁していたのです。


「当時の客観的状況は、私が彼女を庇(かば)ったり助けようとすれば、私もまた、命を失う結果に至ったのは確実でした」

吉野が大泉さんへ送った手紙

そんな吉野を変えた人物がいました。法廷で全存在をかけて償えと語りかけた裁判長、石丸俊彦さんです。

吉野に宛てた手紙は、およそ40通。他人を愛しなさい、自分を愛しなさいと、2007年に82歳で亡くなるまで諭し続けていました。

身元引受人 弁護士 古畑恒雄さん
「本人(吉野受刑者)に宛てて出したクリスマスカードとか、誕生日のカードとか、お手紙とか、そうしたものです」
古畑恒雄さん
「これは、吉野君が社会復帰した時には、この腕時計をつけて働いてほしいと(石丸裁判長から)贈られた物です」
古畑恒雄さん
「(石丸裁判長は)金子みちよさんのお墓にお参りに行っている。そしてそこで泣いたって書いてあるんですね」

なぜ裁判長は、そこまで吉野を気にかけ、支えようとしたのか。

不思議に思い、石丸さんに尋ねた大泉さん。本人から、その真意がつづられた手紙を受け取っていました。


「私は吉野君に自己をみています」

石丸元裁判長の手紙

1944年、19歳の石丸さんは滅私奉公し、天皇に命をささげると陸軍士官学校に入学。卒業後、ビルマ戦線に従軍しました。

迎えた敗戦。大義を信じて疑わなかった石丸さんが目にしたのは、罪もない人々のおびただしい数の犠牲でした。


「革命はいかなるイデオロギー、哲学でもってしても、弱者には無用である。このことを私は先の戦争から学びました。私の願いは平凡な万人の平凡な生です」

石丸元裁判長の手紙

石丸さんのことばを受け、吉野に変化が生じていったといいます。

大泉康雄さん
「後期になるにしたがって、自分の罪の意識が重くなってきている。自分の関わり方、要するに実質的に殺したのは自分じゃないかっていう」

事件から40年がたつころには、自分はどうすべきだったのかをつづるようになっていました。


「みちよは『ねぇ、組織をやめて2人で喫茶店をやらない?そうしよう、ね』と誘ってきた」

吉野が大泉さんへ送った手紙 2014年3月30日

「初めてプレゼントしたブローチを大切に山の中まで持ってきていた」

吉野が大泉さんへ送った手紙 2014年4月30日

「なぜもっと素直に自分の気持ちや感情を言葉にして伝え、彼女の思いをくみ取り、尊重しえなかったのか」

吉野が大泉さんへ送った手紙 2014年10月26日

なぜ自分は間違ってしまったのか。事件から50年たってたどりついた吉野の一つの答えです。


「人を愛するためにまず必要なのは、自分の存在を肯定的に捉え、自分の足でしっかりと立ち歩む姿勢を保つことではないか。かつての私のように自分を疎(おろそ)かにし、他人や組織に従属し、自分を失うような状態では人を対等な人格として尊重できず、相手の立場や心情を思いやることはできない、と思えるためです」

吉野の手記

吉野と同じ刑務所に服役していた男性によると、吉野は高齢受刑者の介助を率先して行い、時折何かに祈るような表情を浮かべていたといいます。

服役していた男性
「目立ちますよね。だって刑廊を歩きながら、体の不自由な人の腕を抱えながら寄り添って歩く姿というのはなかなかね。そうしなきゃいけない自分っていうのもあるんだと思う」

先月、みちよさんの兄から取材班に送られてきたメールです。


「若くして命を絶たれた子を想いながら世を去っていった両親、いかばかりかと。守るべき人間を守らず、あの残酷な死に追いやった人間として今でも最悪で許さざるの人間であるとの認識はかわりません」

みちよさんの兄からのメール

73歳を迎えた吉野。去年10月、病に倒れました。先週、面会に訪れた身元引受人の古畑さんに今の心境を語っています。

古畑恒雄さん
「あっという間に50年たってしまったと。しかし今後も被害者や遺族のことを考えながらしょく罪の気持ちを持って勤めたいと言っておりました」

弁護士の大谷恭子さんに聞く

<スタジオトーク>

井上 裕貴キャスター:きょうのゲストは、弁護士の大谷恭子さんです。
石丸裁判長が吉野受刑者に対して「全存在をかけて償え」と言った意味ですが、改めて大谷さんはどう考えますか。

スタジオゲスト
大谷恭子さん(弁護士)
元連合赤軍指導者・永田洋子の弁護を担当
一連の事件や当時の学生運動に詳しい

大谷さん:とても重いことばだと思います。そしてVTRも見て改めて思ったのですが、石丸裁判長が吉野さんに「自分を見た」ということまで思ってくださっていたということを初めて知りました。やはり過酷な体験をビルマでなさったのかなと思います。それが、彼をしてやはり吉野さんに人間としての感性、人間性を取り戻せと、生きて人間としての尊厳を取り戻せと、その作業を課したんだと私はきょう改めて思いました。

判決を改めて読ませていただくと、すごく長い700ページに及ぶ判決なのですが、その中で石丸裁判長がいちばん言いたかったことは、やはり「君たちの誤りは人間としての感性を奪ったことだよ」と。そしてそれを、例えば反革命だとか日和見主義という形でそのことばを発することさえ許さない環境の中で、「こんなことになってしまったんだよ、それに気付くべきだ」ということを判決の中でも言っている。しかも、「人間としての感性を取り戻す黄金の橋を渡り損ねた」とまで表現なさっているんです。

石丸裁判長にとってみたら人間の感性が、人間としての尊厳、これを取り戻す作業がどれだけ大変なのかということを分かったがゆえに、それを生涯かけて取り戻す作業を私は課したんだと思います。

井上:50年という実際長い時間ですけれども、手記から実際メッセージが届いていると思います。どこまで今届いていると思いますか。

大谷さん:私は、彼はとても難しい立場だと思っています。それは石丸裁判長もお気付きだったと思うのですが、加害者としての立場と被害者遺族、妻と胎児であれ子どもを殺害してしまったという二重の立場を持っている人間がどこまでしょく罪にたどりつくかということは、裁判長がおっしゃった「全存在をかけて生涯償え」ということばに表されているようにとっても大変なことだよと。

でも、「君ならできるはずだ」というふうに課したことを、みちよさんが「ねえ、喫茶店でもやろうよ」と発してくれたということにたどりつつあるんだろうなと思って見ています。

井上:償いの過程の中で、手記の中でも「祈り」ということに触れていると思いますけれども、「社会を変え得るのは怒りの行動や少数者の突出した行動ではなく、声を発しえない民の願いであり祈り」と。

実際、石丸さんがかけ続けた「祈り」というのはどういう意味だと思いますか。

大谷さん:今回手記も読ませていただいて、裁判長が刑が確定したあとにギフトカードとはいえ声を発し続けるということはとても異例なことなんですよ。やはり自分が生を与えた、命を与えた人間がちゃんとやってくれているだろうかということにすごく関心を持ち続けた。

私が驚いたのは、みちよさんの墓参りまでしていると。生を与えた人に対する父親の気持ちにまでなったのではないかと思うぐらいの石丸さんの気持ちが、「祈り」ということばで出たんだと思います。

まさに「祈り」とは、人間としての感性、これを取り戻す作業だよと。人間としての感性がどうなっているということを彼に質問をし続け、そして吉野君もそこに向かいつつ日々頑張っているんだなと感じています。

井上:おっしゃっている感性だったり、個の尊厳、これを取り戻すためにはどんなことが大切でしょうか。

大谷さん:これは、内省だけでは決して届かない。人間と人間としての関わりがあって初めて自分としての感情がどうなのか、自分としてちゃんと相手に伝わったかどうかということは、人間どうしの関わりの中でしか生まれないし、育まれないと思っています。

石丸裁判長も、まさか50年にわたって長期の拘束が続くとは思ってなかったと思います。私は、彼がちゃんと社会に復帰して、人間としての関わりを回復する中で取り戻すことができるものだと感じています。

井上:ありがとうございました。


見逃し配信はこちらから ※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

関連キーワード