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2022年1月13日(木)
いまだから語れる“あの日” 阪神・淡路大震災 語り部“新世代”の27年

いまだから語れる“あの日”
阪神・淡路大震災 語り部“新世代”の27年

阪神・淡路大震災当時、子どもだった世代が震災体験を語り始めている。7歳の自分をおいて逝った両親を「恨んできた」という男性。この冬、学校で初めて震災体験を話す。弟2人の焼死体を目にし、その後弟の存在を「隠し続けてきた」という男性は、語り部となり消防団の活動に力を入れている。あの日に生まれた男性は、生きる意味を探し続けてきた27年間を語る。悲しみと向き合いながら、懸命に語り継ごうとする人たちを追う。

出演者

  • 和合亮一さん (詩人)
  • 井上 裕貴 (アナウンサー) 、 保里 小百合 (アナウンサー)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

いまだから語れる"あの日" 阪神・淡路大震災 27年

保里:6,400人以上の犠牲者を出した、阪神・淡路大震災。震災の教訓を伝える記事や動画を以下のリンクからお伝えしています。

井上:あれから27年。当時の体験を語り継ぐ「語り部」は高齢化が進んでいます。神戸大学などが行った調査では、語り部の75%が60代以上であることが分かりました。

保里:こうした中、震災の教訓を次世代に伝えるために動きだしたのが、若い世代です。当時まだ幼い子どもで、目の前で親やきょうだいを亡くした人、家を失った人、それぞれが心に深い傷を負いました。27年間、あの日の記憶と向き合うことに葛藤を抱えてきた人も少なくありません。

井上:みずからのことばで語り始めた、新世代の語り部たちを追いました。

亡き両親を"恨んだ"日も 阪神・淡路大震災 27年

滋賀県甲賀(こうか)市にある、全寮制の中高一貫校。学校職員の前田健太さん(34)です。この冬みずからの震災体験について、初めて人前で語ることを決意しました。

長年震災を語らず、学校での講演も断り続けてきたのにはある理由がありました。

前田さんは7歳のときに、震災で両親を亡くしました。父・隆さんと、母・昌子さん。いつも笑顔の絶えない家庭でした。

前田健太さん
「お父さんとお母さんのことは、大好きでしたね。お父さんとお母さんが仲良くて、絶対ご飯をみんなで一緒に食べる。当たり前のことでしたけど、その当たり前というのが、すごく幸せだったんだなと感じます」

27年前の、あの日の朝。西宮市の自宅の2階で目を覚ました前田さん。辺りを見回すと、隣で寝ていたはずの両親がいないことに気付きました。

前田健太さん
「ママ、パパと声をかけたけどいなくて、そこでちょっとパニックになった」

前田さんは、偶然通りかかった消防隊によって救助されます。そしてその日の昼前、崩れた1階から両親が運び出されました。

前田健太さん
「死ぬはずないやんって。なんで死ななあかんのというのは、率直な思いでしたね。もう考えられなかったです。怖くて、怖かったですね。」

残されたのは、3人のきょうだい。前田さんと一緒に救助された兄の秀和さんと、震災当時、離れて暮らしていた姉の優子さんです。

高校生だった兄や姉は、親代わりとなって接してくれました。しかし、両親への思いは募っていきます。

前田健太さん
「会いたいし、もっと一緒に遊びたかったし、甘えたかったし、という思いが本当に強くて、自分が死んだら(両親に)会えるんじゃないか。自殺したら会えるんじゃないかな。お父さんとお母さんのところに行けるんじゃないかな」

両親のいない授業参観や、友達が家族で歩いている姿を見ることが苦痛になっていった前田さん。両親への思いは、次第にある感情へと変化していったといいます。

前田健太さん
「みんなにとって当たり前のものが、ぼくにとってない。お父さんとお母さんがみんなにはいるのに、僕は両方ともいない。気付いたときには恨みというか、なんできょうだい3人おいていきなり逝っちゃったのっていう。恨みというか、許せないという感情ですかね。こっちはこんなにつらい思いしているのに、なんで逝ったんという思いが」

こうした気持ちを兄や姉にも話せず、ひとり抱え込んできました。

5年前に結婚した前田さん。気持ちに変化が訪れる出来事がありました。自分が親になって初めて、子どもを置いて亡くなった両親の無念さに思いをはせることができたといいます。

前田健太さん
「親の気持ちに立ったときに、間違えていたんだなとすごく思いました。両親のことを考えると、つらかっただろうな、悔しかっただろうなとすごく思いますし、恨みに近い思いというのを抱いていた自分が申し訳なかった。それは両親に対して、すごく思います」

そしてこの冬、勤務する学校から依頼を受け、みずからの体験を語ることを決意したのです。

前田健太さん
「この体験ってなかなか人にはできない体験ですので、それを生かしたい、伝えたいという思いに変わってきています。それはお父さんとお母さんからのメッセージでもあるのかなとすごく感じます」

"自分しかできないことを" 語り部"新世代"の思い

神戸の街は今、復興を遂げ、ビルが建ち並ぶようになりました。当時を物語る震災遺構は、地震で被害を受けた神戸港の岸壁など僅かです。

「自分のきょうだいのような犠牲は二度と出したくない」。その思いを胸に、語り部の活動をしている人もいます。震災当時7歳だった、柴田大輔さんです。

柴田大輔さん
「タンスも倒れて2階が落ちている。その下敷き状態です。弟2人もその中で埋まっていたんですけれども、弟2人が亡くなってしまいました。僕は今1人になってしまったので、きょうだいというのは本当にうらやましいなと」

柴田大輔さん
「弟2人の写真になります」

亡くなったのは当時3歳の宏亮君と、1歳の知幸君。あの日、崩れた家の中から宏亮君の泣き声が聞こえてきたといいます。

柴田大輔さん
「いつもの泣いている声と違うから、泣き声が。尋常じゃない泣き方しとるから。ただ1時間弱ぐらいで、ほんと声が無くなってしまった」

両親と共に助け出された柴田さん。2週間後、火災で焼けた自宅の跡で弟たちの遺体を目の当たりにしました。

柴田大輔さん
「次男のほうが半分残っていたんです、顔が。半分骨で、半分顔まだ残っているままだったんで、ほんま自分の中で衝撃やった」

脳裏に焼き付いた弟たちの最期。その後、柴田さんは弟がいたことを周囲に隠すようになりました。

柴田大輔さん
「弟2人亡くなったというのは、僕も言いたくない部分もあった。受け入れたくない部分があったから、だからひとりっ子で通しとこうと自分の中では思って。それで『ずっとひとりっ子』と言うてね」

29歳で結婚した柴田さん。妻と出会った当初、「自分はひとりっ子」だとうそをついたこともありました。転機となったのは、地元・神戸の語り部グループに声をかけられたことでした。弟の死について語ることに大きな不安を抱いていましたが、周囲の反応を見て心境が変化したといいます。

柴田大輔さん
「最初、語り部は怖かった、ある意味。どういうふうにしゃべったらいいんだと。自分の経験を言うたら聞いてくれたので、共感してくれるんかなというのもあったし、そこから急に僕もパッと変わって、しゃべるようになった」

柴田大輔さん
「僕もこれは語り部で一番言うことなんですけれども、日頃から防災の意識をもっていただきたい。それはなにかというと、日頃から家族で防災の話をする。きょうも家帰ってからでもいいので、家族と話し合って」

「弟の死を経験した自分にしかできないことがあるはずだ」。今、柴田さんは「二度と同じ悲しみを生みたくない」と、消防団の活動にも力を入れています。

震災の当日に生まれ、そのことの意味を考え続けてきた人もいます。中村翼さん、26歳です。

中村翼さん
「1995年の1月17日が僕の誕生日です。びっくりした?当時、僕は生まれる(予定日の)1週間前の日だったそうです。そのときにお父さんはお母さんに覆いかぶさりました。おなかを守るために」

近所の人の助けで病院に運ばれ、多くのスタッフが見守る中、中村さんは誕生します。成長の様子は、毎年のようにテレビや新聞で報じられました。しかし、みずからは震災の記憶がない中村さん。6,400人以上の人が亡くなった日に生まれた自分は何をすべきなのか、悩み続けてきました。

中村翼さん
「こんな状況に、たくさんの人が亡くなった日になんで生まれてきて、どういうふうに自分が今後生きていけばいいのかという思い。すべてが答えが見つからないまま過ごしていた感じですね」

地元・神戸の大学に進学。防災を学ぶ道を選びました。そこで出会ったのが、語り部の活動でした。

中村翼さん
「当然、街の中は建物が倒壊する、火事は起こる、もうパニックの状態。窓から父親は見ながら『怖い怖い』と焦りを感じてた。被害が増加していく中で、懸命に生まれてきた自分の命の尊さというもの、僕自身も感じていますし、皆さんも大事にしていただきたいと思います」

多くの人の助けで与えられた自分の命。その体験を伝えていくことが使命だと考えるようになったといいます。

中村翼さん
「震災の日に生まれたというこの事実が、僕でしかないのかなと。僕に与えられた使命なんじゃないかと。この活動も語り部で話すという機会も途絶えさせるつもりもまったくないですし、僕がいける限り、話せる限りであれば話そうかなと思っているので」

"いまだから語れる" 震災 27年 亡き両親へ

一時は、亡くなった両親を恨んでいたという前田健太さん。震災の体験を初めて語る3日前、どうしても事前に話したいと考えていた人がいました。父親代わりとなって自分を育ててくれた10歳年上の兄、秀和さんです。

前田健太さん
「きょうは震災の話をしたいなと思って、突撃というか来たんやけど」

前田健太さん
「恨むっていうことば、ちょっとヘビーな感じやけど」

秀和さん
「それはなんで僕をおいて先に逝ったんと思ってた」

前田健太さん
「単純にパパとママさえおれば、こんな生活せんかったやん、となるとパパとママに対しての恨みっていうとあれやけど」

秀和さん
「外にガーって発散せんかったから大丈夫なんやろうってずっと思ってた」

前田健太さん
「大丈夫のように装ってたね」

秀和さん
「ええ子を装ってた。でも濃い7年やったで」

前田健太さん
「全然覚えてない」

秀和さん
「まあ覚えてないだろうけど」

兄の秀和さんが口にしたのは、前田さんが両親と過ごした7年間の日々でした。

秀和さん
「それまでに普通やったら10何年、20何年、30何年かけてかける愛情を、この7年にぎゅっと凝縮した感じ。だからある意味よかったなと思う」

前田健太さん
「でも全然記憶ないで」

秀和さん
「まあないだろうけどな。だから今の健太の基礎をつくっているのは、もうその愛情やと思うよ。それは感謝せないかんな」

前田健太さん
「27年かかって、やっとしゃべれた。僕の中ではすっきりしたというか、思っていたこと言えていい機会だったかなと思います」

両親やきょうだいの愛情に支えられ、今の自分がある。生徒たちに伝えるべきことを、夜遅くまで考え続けていました。

迎えた初めての講演の日。

前田健太さん
「きのうは全然寝られなかったです」

語る相手は、一緒に過ごしてきた学校の生徒たち。兄の秀和さんも徳島から駆けつけました。

前田健太さん
「この写真なんですが、これ実際の当時の僕の家です。この窓から寝巻きのまま、はだしで出ました。本当に寒くて、でも何が起こったか分からないし、誰が言ったか覚えてないですけれど、『ここにいるのお父さんとお母さんよ』と言われて、そんなわけないと。現実を受け入れられないのと、心の感情がついていかないので、正直パニックになっていました」

前田健太さん
「仮設(住宅)に住むことになってきょうだい3人で住むことになったんですけど、きょうだい3人をおいて死んでいった両親に対して、恨みという感情が僕自身生まれました。2人死ななかったらこんな思いする必要もなかったし、なんで一緒に死んじゃったん。この27年間たって、正直今でも思い出すとしんどいときもあります」

前田健太さん
「でも娘ができたときに、不謹慎ですけど想像してみたことがありまして、僕が今までずっと両親に対して嫌いとか恨んでたという思いが、そういう感情を持っていたことに対して2人に対して申し訳ないなという思いがすごく芽生えました。本当に2人に対して感謝の思いしかないなと、そういう感情になりました」

最後に前田さんは親元を離れ、寮で暮らす生徒たちに伝えたいことがありました。

前田健太さん
「家に帰ったら誰かいますよね。帰れない子も電話したら親御さん電話に出てくれますよね。実はそれって当たり前じゃなくて、僕はそれができませんでした。ですので、そういう自分たち、今離れて生活してますけれども、目に見えないところで親御さん、きょうだい、みんなのこと思ってくれています。その人たちに帰ったときにひと言、感謝の気持ちは伝えてほしいなと思います」

前田健太さん
「今まで避けてた、触れないようにしてた胸のつっかえが取れた。少し取れたのかな。閉ざしていたところを、自分で開けることができたのかなと。僕はこのタイミングで27年かかった。かかったというか、27年目にして一歩踏み出せたと思います」

いまだから語れる"あの日" 阪神・淡路大震災 27年

井上:福島県在住の詩人、和合亮一さんに伺っていきます。和合さんは神戸にもたびたび足を運んで、詩の朗読をなどを通して心に傷を負った人たちとも交流してきました。和合さん、長年語れなかった気持ちを初めて人前で語った前田さんの一歩、どんな意味があったと思いますか。

和合亮一さん (詩人)

和合さん:本当に大きな喪失を抱えていらっしゃるお気持ちがすごく伝わってきましたけれども、扉を開いた瞬間というか、もちろん開けない方もたくさんいらっしゃると思うんですよ。それはそれでよいと思うんですが、この扉を開いた瞬間と立ち会わせていただいたなという感覚がします。
私、阪神・淡路大震災を経験した方に「震災は骨が記憶している」ということを聞いたことがあって非常に印象深くて。体が覚えていて、地震のこと、震災のことをきのうのことのように思い出すというお話だったと思うんですが、今回の前田さんのお話を伺っていても「目覚め」を感じますね。ずっと心の中に目覚めがあって、それをただ事実を話すのではなくて、事実と事実がつながっていって、そこに真実が見えるというか、その中で生き直そうという気持ちというのでしょうか。それがすごく伝わってきて、福島で生きている私自身、涙が出そうになる瞬間がたくさんありました。ご覧になっている方々も同じ気持ちだと思います。

井上:そうした語りを今、私たちが聞く意味というのはどんなことを見いだしますか。

和合さん:この10年の間にいろんなことを経験しました。震災も、東日本のあとにも熊本や北海道もありましたし、そして今、コロナで苦しんでいます。私たちはものすごい痛みを実は抱えていて、それはことばにできない、言い表せない痛み、そして孤独、不安を抱えています。傷口が開いたままかもしれないけれど、開いたままでもいいんだよという気持ちというんでしょうか。孤独を分かち合うというか、傷を分かち合うというか、痛みを分かち合うというか、それが実は今の私たちの暮らしになおざりにしてきているのではないかなと改めて感じました。
私はずっと講演活動をしていて、自分も語り部の一人なのかなと思いながら話をしているんですけど、それがいちばん分かり合える時って涙が出てくるんです。そして、呼吸が通じ合うような気持ちがするんです。皆さんの語りの様子を見ていて、いわゆる共時性というのでしょうか、気持ちと気持ちがつながるその瞬間が事実と事実のつながる本当の真実が見えたような気がして、心がすごく引かれていく思いをいたしました。

井上:語り部の皆さんは事実だけでなく、何を語っているのだと思いますか。

和合さん:自分の人生だったり命だったり、そして現在だと思うんです。それを託すことで、その話の中に聞いている方々もつながっていって、自分の人生と命と現在を通い合わせることができる。つまり対話であり、キャッチボールであり、コミュニケーションであり、お互いが分かち合うときが今来ているのではないかなと。この時代、このときにおいてそう思うことがたくさんありますね。

保里:そして今、震災の記憶を風化させないために震災を経験していない若い人たちも動き始めているんです。神戸を拠点に活動している、15歳から24歳の35人の語り部グループです。

被災した人の話を聞いて、震災の経験や教訓を講演やSNSなどで伝える活動をしています。経験していない人も一生懸命伝えようとしている動き、和合さんはどんなふうにご覧になりますか。

和合さん:まず語るということと、語らないということと2つあったとして、経験する、経験しないではなくて、語るか語らないかだと思うんです。語るということがその人の事実になっていくし、そういう意味では歳月が過ぎていくとどんどん忘れていってしまう、風化してしまうこともあるかもしれないけれども、そこに耳を向けてくださった方々に話しかける意味というか、若い方々が自分で経験していなくても、人生と命と現在をそこに託して語ることに、その先にある耳に親しく思いを伝えることができるのではないかなと思うんです。伝えるというのは、その前に耳があればきちんと伝えられる。そのことを分かってもらいたいなとすごく思いました。


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