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2021年10月14日(木)

自衛隊アフガニスタン派遣の“深層”
~残された現地協力者はいま

自衛隊アフガニスタン派遣の“深層” ~残された現地協力者はいま

タリバンによるカブール陥落後、急転直下で実施された自衛隊輸送機のアフガニスタン派遣。邦人ひとりが国外に移送された一方で、日本大使館などで働く現地スタッフやその家族など、政府が退避対象とした500人余りのアフガニスタン人はひとりも救い出せずに終わった。彼らの多くはいまも国内に残り、迫害の脅威に晒されている。番組では自衛隊派遣の舞台裏を徹底取材し、テロや紛争の脅威が増す中、海外在留邦人や現地協力者の命をどう守るのかを考える。 ※放送から1週間は「見逃し配信」がご覧になれます。こちらから

出演者

  • 瀬谷ルミ子さん (NPO法人REALs理事長)
  • NHK記者
  • 保里 小百合 (アナウンサー)

検証・自衛隊アフガン派遣 "退避作戦"でなにが

保里:当時、日本政府が退避させられなかった大使館などのアフガニスタン人職員やその家族は500人以上。その後、外交ルートを通じて300人余りが出国し、13日の夜もおよそ50人が成田空港に降り立ちました。しかし、2か月たった今もなお多くの人が取り残され、命の危機にさらされ続けている状況です。
もともとアメリカは、軍を8月31日までに撤退させることを宣言。この日に向けて各国は退避を進めることになりました。しかし、8月15日、イスラム主義勢力のタリバンによって予想を上回る早さで首都カブールが陥落します。政府が自衛隊機の派遣を決定したのは、その8日後の23日。

25日にはカブールに到着しましたが、その翌日、空港周辺で大規模なテロが発生。計画は頓挫し、現地での任務を終えることになりました。

派遣があと1日早ければと、政府関係者も悔やむ結果となった今回の退避計画。私たちが入手した自衛隊派遣を巡る内部資料や証言からは、外務省が描いていた退避のシナリオが次々と崩れていった実態が見えてきました。

崩れたシナリオ

カブール陥落直前に作成されていた、防衛省の資料です。この時点で、外務省が退避の対象としていたのは在留邦人に加えて、大使館やJICAなどの現役のアフガニスタン人職員とその家族、520人。退避には、民間チャーター機を使うとしていました。

一方で、外務省が民間チャーター機が手配できなかった場合、自衛隊への依頼を検討する意向だったことが記されています。

退避は8月18日に完了させ、さらに24日に向けて、大使館の態勢を縮小させる予定だったことが分かりました。

しかし8月15日、外務省の想定をはるかに上回る早さで首都カブールが陥落。退避に利用する予定だった民間チャーター機は、空港の混乱で使用できず。代わりとなるはずだった自衛隊機の派遣も、状況を見極める必要があるとして検討が中断されました。

このとき、大使館は切迫した状況に追い込まれていました。治安を維持していたアメリカから、「もはや安全を保証することはできない」と告げられたのです。

その2日後。大使館の日本人職員は退避を希望する在留邦人がいないことを確認した上で、イギリスの軍用機で全員が国外に退避しました。

なぜ、現地のアフガニスタン人職員を残していったのか。外務省は取材に対し、こう答えています。

<8月31日 ブリーフィングでの外務省説明>

「当然ながら、法人の退避が最大の目標です。外務大臣まできちんとお諮りをした上で、そういうプライオリティー(優先順位)でいくということでやらせていただきました」

取り残されたアフガニスタン人の1人が、取材に応じました。

取り残されたアフガニスタン人 アリさん(仮名)
「これ以上ない苦しい日々です。考えてみて下さい。ひとときも安心できない状況なんです」

日本の大学に留学し、IT技術を学んだアリさん(仮名)。帰国後はその知識を生かして、日本が進めるインフラ整備の事業に協力していました。

アリさん
「タリバンがカブールを制圧すると、他国は強い意志で退避の支援を始めました。しかし日本は時期を逃しました」

このころ、アメリカのみならず、イギリスやフランスなど各国が軍用機を使って、アフガニスタン人の協力者などを次々と退避させていました。こうした中、日本政府の姿勢に疑問の声が上がりました。

8月19日、自民党の外交部会では議員から外務省に対し、「なぜ日本は自衛隊機を派遣しないのか」という質問が集中。

さらに同じ日、超党派の議員連盟も現地職員を救出するよう政府に要請しました。

要請を提出した 中谷元 元防衛相
「日本人だけよければいいという発想は、非常に残念で寂しいと思いますね。最初は9.11の同時多発テロ事件から始まって、各国がコアリション(有志連合)でタリバン政権を崩壊させて、本当にたくさんの人が関与して現在の国になっていった。やっぱりそこで働いてきた人たちや、日本と関係があった人たちも、やっぱり助けを求めた場合は助けなければならない」

その翌日、外務省と防衛省が事務レベルで協議し、派遣の方針を確認。そして3日後の23日、総理大臣の了承など政府内の調整をへて、自衛隊に対し在外邦人等輸送の命令が下りました。

アメリカ軍の撤退期限は、8日後に迫っていました。

命令の僅か6時間後に出発した自衛隊機。現場には、スピード派遣のしわ寄せが及んでいたことが今回の取材で見えてきました。輸送機3機が相次いで飛び立ったものの、要員の半分程度しか乗せられませんでした。派遣する部隊の規模が固まらないまま計画が動きだし、機材の量が想定より多くなっていたからです。

急きょ用意されたのが、政府専用機。搭乗できなかった隊員を運ぶため、追加で派遣されました。

現地では輸送機の故障も相次ぎました。その場では修理できない事態が生じるなど、綱渡りの任務が続けられていたのです。

今回の任務が、自衛隊にとって極めて異例のものだったことを示す写真があります。盾を傍らに置き、小銃を持って周囲を警戒する隊員。陸上自衛隊の精鋭部隊「中央即応連隊」です。邦人等輸送の任務に、初めて投入されていました。

テロリストの制圧などの訓練を繰り返している、この部隊。万が一の事態に備えていたのです。

自衛隊法では、邦人輸送のための海外派遣は輸送を安全に実施できることが条件になっています。今回、現地が安全だと判断した理由として、政府はアメリカ軍が空港や周辺の安全を確保していること。そして、タリバンが輸送を妨害する動きはないことを挙げていました。

しかし自衛隊の中には、安全が確保されていると言い切れるのか懸念を抱く幹部もいました。

自衛隊幹部・取材メモ
「われわれの頭の中にあったカブールのイメージというのは、空港の周囲に無数の市民が集まり、軍用機を取り囲んで走る映像。あのような状況で邦人の輸送となれば、とてもじゃないが、普通の態勢では安全確保なんてできない。だから、任務を安全に行うために、必要な部隊編成を考えなければいけなかった」

今回派遣された中央即応連隊は、100人余り。部隊全体のおよそ半数を占めました。

自衛隊幹部・取材メモ
「現地の情勢が流動的で、安全かどうか明確に判断する術はない。正直、行くか行かないかは腹決めの世界だった」

アメリカ軍の撤退期限が6日後に迫った、8月25日夜。自衛隊機は、ようやくカブールに到着します。

そして翌26日。日本政府のインフラ事業に携わり退避を希望していたアリさんの元に、外務省から連絡が入りました。

アリさん
「26日の朝のことです。『いますぐ準備して街の中心部に移動してください』との指示でした。集合場所が書かれていたので、急いで向かいました。これでようやく命の危機から救われると思いました」

向かったのは、空港から6キロほど離れたホテル。そこには、外務省が手配したバスが15台ほど並んでいたといいます。

バスに乗る人の名前のリストは、同意の上でタリバン側に渡っていました。アリさんたちにとっては、生死をかけた重い決断でした。しかし、バスが出発した直後のことでした。

アリさん
「乗客の1人がニュースを見て、空港の近くで爆発があったと話しました。20分ほどたつと、救急車のサイレンが聞こえ始め、自分のバスの隣を走っていくのが見えました。退避する最後のチャンスを逃したのではないかと思いました」

後にテロと分かる爆発が起きたのは、空港の南側。自衛隊の拠点から、僅か1.5キロの場所でした。その前後でも発砲や爆発が相次ぎ、隊員たちがコンクリート製のごうの中に身を隠す事態になっていました。

直後に報告を受けた防衛省では、衝撃が走ったといいます。

防衛省関係者・取材メモ
「動揺は計り知れなかった。派遣の前提となっていた輸送の安全が揺らぎかねなかった」

テロの発生でタリバンの統制が強まり、アフガニスタン人の出国が難しくなりました。

自衛隊は、翌27日に日本人女性1人の輸送をもって、任務を事実上終了。500人以上の現地職員や、その家族は退避させることができませんでした。

現地に取り残されたアリさん。家族と離れ、迫害の恐怖におびえながら居場所を転々としています。

アリさん
「自宅にいる妻と娘から、タリバンが私を探しに来たと聞きました。ですから自宅に帰ることは、絶対にできません。これ以上耐えられません」

"失敗"の本質とは

保里:諸外国はどのように退避に動いたのか。各国、状況が違うため、単純な比較はできませんが、まずデンマークは、去年から退避対象となる現地協力者のリストを作成していました。韓国は、テロが起きる前日に協力者を空港まで移送しました。一方オランダは、およそ1,900人を退避させたものの、一部の協力者が残され、外相が辞任に追い込まれました。

そして日本は、日本人1人の退避にとどまりましたが、菅前総理は先月の会見で、「今回のオペレーションの最大の目標は邦人を保護することだった。そういう意味ではよかったと思っている」と述べています。

今夜はアフガニスタンで外交官としても勤務されました、瀬谷ルミ子さんにお越しいただいています。よろしくお願いいたします。
瀬谷さん、日本は外務省によりますと、8月に入って現地職員の退避計画を策定したということですが、この一連の動きをどう受けとめていますか。

瀬谷ルミ子さん (NPO法人 REALs理事長)

瀬谷さん:今も残された日本関係者のアフガニスタン人に退避の活動を続けているのは評価できますし、ぜひ続けてほしいと思っています。同時に今回、計画段階でそもそも現地協力者に生じるリスクというものを想定せず、その人たちを退避計画に含めていなかったというところがやはり計画時点で現地の危機管理の見積もりの甘さが出ている部分かと思います。
日本もアフガニスタンでおよそ7,000億円を投じて復興支援をしてきていますが、それには国益が絡む部分もあり、それが現地でどのようなリスクを生じ得るのかということも含めて、現地で退避計画及び、想定したリスクヘッジをするべきところがあったと思っています。

保里:今後に向けて生かしていかなければいけないところですよね。そして今回の自衛隊の派遣を巡る動きを取材しています、南井記者にも聞きます。南井さんは今回の退避作戦で見えてきた課題というのは何だと考えていますか。

南井遼太郎記者(社会部):まずは、現地の情勢を正確に分析できていなかったことが挙げられます。カブールが陥落したとき、日本の大使や防衛駐在官はローテーション勤務のため、アフガニスタンにいませんでした。防衛駐在官は防衛省から出向していて、今回のような緊急時には特に現地で各国の軍の関係者などと情報をやり取りすることが求められます。こうしたことからも見立ての不十分さがあったと感じます。
また、自衛隊による在外邦人等輸送の任務は今回が5回目でしたが、過去4回とは危険性の認識が全く違ったと話す防衛省関係者もいます。急転直下の派遣となったことで、輸送の安全の見極めがおろそかになっていなかったかという点も検証すべき課題だと感じます。

保里:迅速な判断、そして安全の確保。一見すると相反するこの難しい課題を両立しなければいけないということなんですね。

南井:自衛隊は、海外派遣の要件が他国より厳しく設定されています。早さと安全の両方を満たす必要があるからこそ、より精緻な治安情勢の分析と、それに基づく計画や準備が必要だったはずですが、取材からはそこに課題があったことが浮き彫りになりました。
防衛省、自衛隊は、今回の任務を受けて情報収集能力の強化、そして命令を受けたときにスムーズに部隊を派遣するための準備などについて検討を始めています。どうすれば緊急時に日本人や協力者の命を守ることができるのか、可能なかぎり情報を開示し、開かれた場での検証を求めたいと思います。

保里:現地に残された500人以上に対しては、徐々に国外への退避が進むなど、外交を通じた支援が続けられている状況ですが、新たな問題も見えてきています。それは今、日本政府の支援の対象となっていない人たちの存在です。

取り残されたアフガニスタン人 立ちはだかる壁

長年、JICAの職員などとしてアフガニスタンで活動してきた、福岡大学の林裕さんです。

今、林さんの元には、当時の同僚など過去に日本と関わりがあった人たちから助けを求める連絡が頻繁に寄せられています。

福岡大学 林裕准教授
「大丈夫?」

(話)助けを求めるアフガニスタン人
「タリバンは家の前に立っていて、1~2時間過ごして帰っていく」

林裕准教授
「子どもと妻を窓に近づけてはならないよ」

出国を希望する人たちの名前を、独自にまとめた資料です。林さんが調べただけでも、その数は300人に上りました。

外務省に提出し、支援を求めましたが、返ってきたのは「対象にはできない」という回答でした。支援の対象には、線引きがあるというのです。

林裕准教授
「日本は現職か現職じゃないかということで切ってしまったので、本当に1か月違いで今回リストに載らなかった人たちだったり、あるいは20年弱働いてきて、数年前に契約終了、解雇になっている人たち、その人たちがリストから外されている」

去年まで10年以上にわたってJICAで働いてきた男性は、外務省からは何の連絡もなく、支援の対象外になっているとは思いもよらなかったといいます。

アブドラさん(仮名)
「数年しか働いていない人が退避できて、私が退避できないとは思いませんでした。日本人と共に働いてきた私たちを、忘れないでほしいです」

日本にいるアフガニスタン人の間でも、日本政府の支援がないことに失望が広がっています。JICAのプロジェクトの一環として日本で学んでいる、アシールさん(仮名)。祖国に残してきた妻を、出国させたいと考えています。

アシールさん(仮名)
「日本に来る時に、妻がお守りとして渡してくれたコーランです。孤独を感じる時や苦しい時、これを読むと心が落ち着きます」

支援が期待できないため、自力での出国を計画しています。

アフガニスタンが接する国との国境は、タリバンが権力を掌握後、相次いで封鎖されました。唯一開いているのは、パキスタンとの国境。しかし、安全面が懸念されるというのです。

アシールさん
「どんな状況?」

(話)妻
「問題は山積みよ。国境を超える時、タリバンもパキスタン側も、気分次第で通過を許可する時としない時があるの」

現在、パキスタンとの国境には、自力での退避を求める人が殺到。ビザなどの書類がそろっていても、通過できる保証はありません。

アシールさん
「今後アフガニスタンで生きていくのは、極めて困難です。今あるわずかな望みにかけるしかありません」

救いの手を差し伸べるには

保里:瀬谷さん、今支援の対象に入っていない現地の人たち、どんな状況に追い込まれているのでしょうか。

瀬谷さん:殺害や投獄、そして強制的な結婚のおそれがあり、命の危険にさらされて、毎日居場所を変えて潜伏生活を送っている人たちがたくさんいます。連日、そういう方からSOSが届きます。それまで当たり前だった音楽ですとか映画関係者、それ以外のジャーナリストなども、今それが自分の命を脅かす原因となっている。
私が今支援をしている20歳のミュージシャンの若者からも14日に連絡が来たのですが、彼はタリバンの処刑リストに名前が載っている。もし退避するチャーター機に乗れないのであれば、姉と母だけでも助けてほしい、自分が死んでも家族を救ってくれという連絡でした。
そのほかにも幼いころに地雷で両足を失った女性活動家で、そんな中でも身を立てて社会のために尽くしてきた方も、その活動のためにタリバンから追われていまして、つい先日もタリバンが自宅にやってきて暴力を振るわれたと。見せしめに処刑すると言われたと。そこを命からがら逃げた。今では子どもたちが恐怖でこの数日間食事もとれず、夜も眠れない、そんな生活を送っています。

保里:有志での支援というのも限界に来ていると思うのですが、今、現状必要なのは資金であって、そしてクラウドファンディングも瀬谷さんは行っているとのことですが、どんな思いを込めているのでしょうか。

瀬谷さん:現地の女性たちや活動家が、危険を承知で自分たちの声を世界に届けてほしいと連日連絡をくれます。彼女たちは女性の権利、命を守るためにデモに参加して、それでも開始直後にタリバンが銃を乱射して命の危険に遭う。そして3名、女性が亡くなった。それでも次の日に自分たちの声、存在を消されないために現地でまた声を上げる。そういう生活を繰り返しています。ですので、私としてはそういう人たちの声をしっかり届ける。日本にいる私たちが何もできない傍観者であるのではなくて、私たちが資金なり、その声を受信するということが現地の人たちの命を今まさに救う。そういう極限の状態にアフガニスタンがあるということを知っていただき、ぜひ行動してもらいたいと思っています。現地でも、その人たちもできればアフガニスタンにいつか戻りたい。なので、アフガニスタンをいつかその人たちが帰れる国にする。そのために今、タリバンが行っている暴力にはきちんと注視しながら現地の声や復興を世界に届ける。その両輪が必要だと思っています。

保里:ありがとうございました。


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