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2021年8月18日(水)

シリーズ 終わらない戦争①
問われる空襲被害者の戦後補償

シリーズ 終わらない戦争① 問われる空襲被害者の戦後補償

国家総動員体制で遂行された日本の戦争。東京や大阪の大空襲などで犠牲になった民間人は80万人にのぼるが、これまで国は民間被害者への補償を避け続けてきた。また国は被害の実態解明も行わず、犠牲者の名前や人数は今も正確には分かっていない。せめて犠牲者の名前だけでも明らかにしようと調査に乗り出す動きも始まっているが、関係者は高齢化し、思うように進んでいない。なぜ民間人への補償は行われてこなかったのか。空襲被害者たちは今何を求めているのか。

※放送から1週間は「見逃し配信」がご覧になれます。こちらから

出演者

  • 吉田裕さん (一橋大学名誉教授 東京大空襲・戦災資料センター館長)
  • 井上 裕貴 (アナウンサー)

シリーズ終わらない戦争 問われる空襲被害者の戦後補償

井上:終戦から76年。18日、19日の放送では「シリーズ 終わらない戦争」と題して、今も残る戦争の傷あとについて考えていきます。
きょうは、民間人が受けた被害や、犠牲の補償問題です。先の戦争では日本人だけで80万人の民間人が犠牲になったとされ、さらに数多くの人が体に障害を負いました。しかし国は、その正確な数や一人一人の名前などは調べず、そうした人への補償を避け続けてきました。一方、亡くなったり、障害を負った軍人や軍属などには戦後、60兆円に上る補償が行われてきました。

なぜ国は、民間人への補償や調査を行ってこなかったのでしょうか。

空襲で被害を受けた民間人 忘れられた戦後補償

空襲による被害で、人生を大きく変えられた人がいます。安野輝子さん、82歳です。

空襲で片足を失い、76年間、不自由な暮らしを強いられてきました。

失った左足の傷痕を見つめる安野輝子さん
「傷ついてね、もうしょっちゅうやから。かわいそうやねん、この子は。まだいま、ばんそうこう少ないほう」

鹿児島県に住んでいた、安野さん。空襲に遭ったのは6歳のときでした。家で遊んでいたところ、爆弾の破片が左足を直撃。一瞬にして、ひざから下を失いました。

小学校の卒業写真です。みずからの下半身を、黒く塗りつぶしていました。

安野輝子さん
「私は普通になりたい。いつも普通を望んでいた。人並みではないから」

足の障害が原因で、中学校に通えなかった安野さん。13歳で洋裁の仕事を始め、長年、自宅に籠もる生活を続けざるをえませんでした。

戦争を始めた国が、一人一人の被害に責任を持って向き合ってほしいと訴えています。

安野輝子さん
「議員の皆さま、100名近く(手紙を)出しました。そこにあるポストに夜中2時ころに入れに行ったこともある。私たちには時間がありません」

<全国戦災傷害者連絡会の活動 1972年~>

「街頭署名運動です」

安野さんたち空襲被害者が補償や調査を求めて活動を始めたのは、およそ50年前。

「私は爆弾で負傷いたしました。私の、この顔を見てください」

封印していたつらい記憶を告白し、国や世論に訴えてきました。しかし国は、「民間人とは雇用関係がなかった」などとして、訴えを一貫して退けてきました。国会には補償するための法案が14回提出されましたが、すべて廃案に終わりました。

安野輝子さん
「『気の毒やったね』、『残念やったね』とは言うても、みんな『戦争やからしょうがない』って言う。やっぱりこの国は、命を大切にする国じゃないんやなと思って」

ことし、救済を求める被害者たちの期待が、かつてなく高まっていました。空襲被害者などの救済を目指す、超党派の議員連盟の会合です。

戦後75年の節目を機に、活動が活発化。戦後初めて、与野党の垣根を越えて「救済法案」を取りまとめたのです。

空襲で障害が残った人などに、50万円を給付。国の責任で、被害の実態調査や追悼施設の設置を行うことも盛り込まれています。

超党派空襲議員連盟 会長 河村建夫衆院議員
「きょう本格的に、この問題を自民党として取り上げるべく、幹事長のもとへ、このあと要請に行く。まさに『戦後の総決算この時にあれ』という思いで取り組んでまいりたい」

内部文書と証言で浮かびあがる 補償を阻む壁

なぜ国は、これまで空襲被害者の調査や補償を避け続けてきたのか。広島や長崎の被爆者への補償を巡る議論に、その理由を知る手がかりがありました。

1970年代から厚生大臣のもと、被爆者に補償すべきか検討した懇談会の議事録が残されていました。

当時、認定されていた被爆者は37万人余り。補償が空襲被害者などにも波及し、財政負担が増すことを懸念していました。

田中二郎 元最高裁判事
「どこまで国として世話をしてやらなければならないかという観点から考えるべき問題で、戦争によって、多かれ少なかれだれでも被害を受けている。それを、みんな国に賠償をしろ、補償しろと言ったのでは、国としても成り立っていかない」

橋本龍太郎 厚生大臣(当時)
「一般戦災による犠牲者からは、なぜ原爆だけ手厚くするんだ。私たちだって同じだという声が非常に強くあり、国家補償ということばに対しては非常に神経を使ってまいりました」

懇談会では民間人の戦争被害について、「戦争による一般の犠牲として国民が等しく受忍しなければならない」として、国は補償する義務はないと結論づけました。

一方で、被爆者の健康被害は空襲被害などとは異なる「特別の犠牲」だとして、救済措置を講ずるべきだとしました。

1990年代以降、新たな問題が補償の議論に影響を与えます。アジアの民間人から上がった、日本に補償を求める声です。

元厚生労働大臣の、長妻昭さん。民間人を含む救済法では、直近の「シベリア特措法(2010年)」に関わりました。

救済の対象は戦後、シベリアなどで強制労働を課された民間人も含む抑留者たち。法案の検討過程では「空襲被害者にとどまらず、アジアの民間人にまで補償しなければならなくなる」という懸念も強かったといいます。

元厚生労働大臣 長妻昭衆院議員
「やはり海外に対して波及すると、もう収拾がつかなくなる、寝た子を起こすと。だから出来るかぎり、限定、限定、限定をする」

シベリア抑留者には労苦を慰藉(いしゃ)するために給付金などの措置をとったものの、国の責任を認める補償という形はとりませんでした。

長妻昭衆院議員
「そもそも、あの戦争というのは国として正しかったのか、間違っていたのか。その総括が一切ないまま、補償というのはできないので。なかなかそれが実現できないという、この構造自体じくじたる思いはあります」

空襲で被害を受けた民間人 忘れられた戦後補償

6月。成立の期待が高まっていた空襲被害者の救済法案は、結局国会に提出されませんでした。

超党派空襲議員連盟 会長 河村建夫衆院議員
「自民党も組織政党でありますから、手順をちゃんと踏んでいかなきゃいけない。残念ながらこの国会の日程的に、この法案を提出、成立させるまでの時間がない」

自民・公明両党は法案提出に向け、党内の合意に至りませんでした。ことしもまた、補償の壁を越えることはできなかったのです。

戦後76年、失われていく残された時間。安野さんたち空襲被害者の痛みは、今もなお置き去りにされたままです。

安野輝子さん
「ことしも法案、成立しませんでした。戦後76年もたって、まだ空襲被害者は見捨てられたままです」

安野輝子さん
「私たちにかまってくれないというか、虫けら同然に扱われてきたんやな。せやけど、この国に生まれてよかったって思わせてほしい」

届かなかった空襲被害者の訴え 戦後補償を阻む"壁"

井上:ここからは、一橋大学名誉教授の吉田裕(ゆたか)さんとお伝えしていきます。吉田さん、戦後日本、どうして民間人に対する補償ができなかったのでしょうか。

吉田裕さん (一橋大学 名誉教授)

吉田さん:地方や行政の中に、「受忍論」が根深く存在するということがあります。同時に、国民の中にも「戦争だから、戦争なんだから犠牲者が出るのはやむをえない」、あるいは「すべては戦争のせいで諦めるしかないんだ」という考え方がかなり強く存在します。
戦後の日本社会の場合は、あの悲惨な戦争を二度と繰り返してはならないという点で幅広い合意が形成されたわけです。しかし、そのことは戦争の性格や戦争の責任という問題に踏み込まないということを暗黙の前提にして、幅広い合意が形成されたという面があるのです。
つまり、議論をせずに先送りにしてきたことがたくさんある。その1つが、国家の国民に対する責任という問題だと思います。

井上:こちらをご覧ください。空襲被害者などの民間人は補償されてこなかった一方で、特別に救済措置を取られた人たちもいます。

広島、長崎の被爆者や、シベリア抑留の被害者などです。先月、原爆の被害を巡っては、投下直後に降ったと言われる「黒い雨」に関して、76年たってようやく救済措置が認められる人たちもいました。
戦争被害を救済するかしないか。これまで国が繰り返してきた「線引き」について、吉田さんはどう考えますか。

吉田さん:民間人にも補償をしろという世論は、これは非常に根強く存在してきました。そのたびに、その時々の政権、政府は内外の世論とか財政状況とか、関連する民間団体の大小とか、そういうものを考慮しながら、いわば場当たり的に小出しに救済措置を出してきた。
あくまで「受忍論」が前提にありますので、統一した基準がないまま場当たり的に対応してきたということですね。その結果、救済措置の対象となる人とならない人との間に、分断を生む結果にもつながってしまったということになります。

井上:今回の法案では給付金、50万円とされていますが、被害者の皆さんが求めているのはお金だけの問題ではないということですよね。

吉田さん:被害者の方が求めているのは、何よりも政府が責任を認めるということですね。それから、彼らを突き動かしているのは死者に対する強い思いであり、同時に悲惨な空襲体験が風化していくことに対する怒りにあるわけです。その気持ちをくみとる必要があると思います。

井上:一方で戦時中、日本と同じ枢軸国だったドイツやイタリア、状況が違います。軍人と民間人は区別なく補償されてきました。
例えば、ドイツでは「住宅地や工場などへの空襲による被害」なども対象になっています。また、イタリアも「国が当然持つべき感謝の念と、連帯の意を表すための補償」という理念を法律で掲げています。

吉田さん、この軍人と民間人を区別しない、補償するという考え方、どうして生まれたのでしょうか。

吉田さん:欧米の場合は、国民全体を戦争に巻き込む総力戦としての第一次世界大戦を経験しています。このため、国民の犠牲に対して国家がどういう形で報いていくのかという議論、試行錯誤を積み重ねてきたわけです。
日本の場合は、戦争の責任に関する国民的な議論がないままに経済復興、高度成長の時代になだれ込んでいった。その結果、国民に対する国家の責任が非常に明確に確立されているドイツと、国家の責任という観念が非常に希薄な日本との違いがうまれてしまったのだと思います。

井上:国家の考え方が全然違いますが、せめて戦争被害の実態調査だけでも行うということは難しいのでしょうか。

吉田さん:国の今までの基本的な考え方は、実態調査と補償はワンセットであるということです。しかし、内外の戦争体験世代が急速に減る中で、補償の対象となる戦争体験者自体は大幅に減少しているわけです。補償と調査をセットで考える必要は必ずしもなくなってきて、柔軟な対応が求められる、そういう時代に入ってきていると思います。

井上:戦後から76年がたった今、被害の実態調査も時間との戦いと言える厳しい現実が見えてきました。

せめて犠牲者の名前だけでも… 埋もれた空襲被害者の実態

76年前、大阪空襲で母親と弟を亡くした伊賀孝子さん。89歳です。国による調査が行われない中、みずから空襲による被害を調べ、記録してきました。

当時の警察の調べで、死者・行方不明者がおよそ1万5,000人とされる大阪空襲。伊賀さんの母、志よさんと弟の三郎さんは焼い弾に襲われ、亡くなりました。残されたのは、この写真1枚だけです。

空襲の後、伊賀さんは学校を中退。亡くなった母の代わりに家事や妹の世話を1人で担いました。

伊賀孝子さん
「あんまり考えると泣けてくるから、できるだけそっとしてある。いまでも母がおってくれたらなって思い出すときがありますねんけどね」

「せめて犠牲者の名前だけでも残したい」、伊賀さんは40年前から遺族や寺を訪ね歩き、独自に調べてきました。

伊賀孝子さん
「これは私がずっと書いてきたんです。"声なき声"ですわね。名前だけでもと思って一生懸命」

集めた名前は、およそ6,000人分。名前を記録することでしか、犠牲になった一人一人の生きた証しを残すことはできないと考えています。

伊賀孝子さん
「みんな悔しさは持っていたと思います。みんな、それぞれ人生があったんですよね、たくさんのね」

伊賀孝子さん
「遺族の人は、ここへ来るのは亡くなった身内の人に、ここへ来れば会えるという思いで来てるんですね」

名簿は、大阪府などが出資して作られた施設に引き継がれ、展示されています。

しかし、被害者や遺族の高齢化が進む中、新たに確認される名前は年に10人ほどにとどまっています。

国による調査が進まない中、動き出した自治体もあります。空襲で7,000人以上が犠牲になったとされる、神戸市です。

神戸市 業務改革課 杉森荘太担当課長
「神戸空襲、戦災を忘れないようにということで、後世に語りつないでいくためにも」

10年前から市民団体と共に、名簿作りを始めました。まず行ったのは、広報誌での市民への情報提供の呼びかけです。

さらに全国の都道府県など、100近くの自治体に協力を要請。各地にいる遺族の存在を、新たに確認しました。それでも市は、特定できていない犠牲者は5,000人以上いるとみています。

杉森荘太担当課長
「お亡くなりになる方、またご遺族ですら高齢化の中で正確性というところ、その辺りが難しくなっている」

埋もれてきた犠牲 朝鮮の人たちの戦争

犠牲者の特定が特に困難なのが、朝鮮の人たちです。

在日朝鮮人の遺族
「きょうの追悼集会を契機に、朝鮮人空襲犠牲者の存在を1人でも多く確認できるよう」

ことし、大阪で空襲で犠牲となった朝鮮の人たちの追悼集会が、戦後初めて開かれました。

日本の植民地支配のもと、多くの朝鮮の人たちが日本人と同じような名前に変えました。海を渡ってきた朝鮮の人たち。戦時中、日本にはおよそ200万人がいたとされます。

慰霊碑などに名前が残されていても元の名前ではないことがあるため、本人を特定することが難しいのです。

朝鮮の人たちの中には、長年、戦争の被害を口にすることさえできなかった人もいます。チョン・マルソンさん88歳です。朝鮮半島出身の母親と、きょうだい3人を空襲で亡くしました。

チョン・マルソンさん
「母親と兄と、すぐ下の妹と一番下の弟と、4人が亡くなってた」

被害を明かしてこなかったチョンさんの家族の名前は、慰霊碑には刻まれてきませんでした。

戦後、経済的に困窮する中、学校にも通えず15歳で結婚したチョンさん。差別を恐れて、本名を隠して暮らしてきました。働いていた工場では在日朝鮮人だとうわさされ、たびたび嫌がらせを受けてきたといいます。

チョン・マルソンさん
「会社で言われたことがある、『臭い臭い』って。すごく悔しいし、涙を流したこともあります」

戦後、空襲の体験やみずからのルーツを語らずに生きてきたチョンさん。空襲による家族の犠牲は、埋もれ続けてきたのです。

チョン・マルソンさん
「やっぱり根本は、朝鮮人やということを隠したかったいうのと違うやろか。あの戦争さえなかったらと思う」

戦後76年 終わらない戦争 戦後補償がつきつけた課題

井上:近い将来、この戦争当事者の皆さんに頼れなくなるわけですが、そういった中で実態調査も含めて、どう引き継いでいけばいいのでしょうか。

吉田さん:全国の「空襲を記録する会」など民間の活動等々の中で、非常に貴重な空襲体験が文字の形で、あるいは絵の形で、それから証言映像という形でたくさん残されています。それ自体は非常に貴重な国民的財産だと思うのです。問題はこうした貴重な財産を管理し、公開する仕組みが十分にできていないということで、このままでは貴重な記録が散逸してしまう可能性があるということです。改めて、公的な支援がどうしても必要な段階に来ている。その岐路に立たされていると考えます。

井上:また、犠牲者の特定について戦後、口を閉ざしてきた方も多くいらっしゃいますが、そういった中で朝鮮の人たちの存在というのはどう見ましたか。

吉田さん:毎年開催される全国戦没者追悼式の中では、先の大戦で死亡した310万人の日本人の戦没者が追悼の対象となっているわけです。しかし、この310万人の中には当時、日本人であった植民地の人たちが含まれているわけですね。そのことを日本人は忘れてしまったのではないかと。空襲の体験を記録する場合でも、植民地出身者の存在、その思いをくみ上げるような努力が必要だと思います。

井上:最後に吉田さん、この戦後補償問題、皆さんにはどう受け止めてもらいたいですか。

吉田さん:体験者や当事者たちの直接の証言に耳を傾けながらこの問題を議論できる、今が最後の機会だと思います。同時に、私たち戦後生まれは戦争の歴史の直接の当事者ではないわけです。しかし、戦争の歴史に戦後の日本社会がどう向き合ってきたかという問題では、私たち自身も当事者である。戦争や戦後の歴史に向き合うことは、これからの日本の国際社会の中での立ち位置を考える上でも欠かせず、私たちがどのような国のかたちを求めていくのか、まさに今の問題につながる行為。私たちの戦争や戦後への向き合い方を常に検証していく、そういう努力が求められていると思います。

井上:ありがとうございました。

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