クローズアップ現代

毎週月曜から木曜 総合 午後10:00

Menu
2021年3月3日(水)
原発7キロの喫茶店 ~福島・大熊町 流転と再会の10年~

原発7キロの喫茶店
~福島・大熊町 流転と再会の10年~

町の中心地にあった喫茶店レインボー。再開を望む常連客に背を押され、福島第一原発から7キロに建設中の新しい街で、この春再スタートする。かつては商店の店主や農家、原発作業員など多くの人でにぎわった。マスターの人柄と、なにげない1杯のコーヒーが心のよりどころだった人々は、事故後ばらばらになり、当たり前の日常や人とのつながりを失った。震災から10年のそれぞれの日々、そして喫茶レインボー再開に寄せる思いを見つめる。

※放送から1週間は「見逃し配信」がご覧になれます。こちらから ⇒https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/WV5PLY8R43/

出演者

  • 柳美里さん (作家)
  • 武田真一 (キャスター)

原発7キロの喫茶店 流転と再会の10年

喫茶店があった大熊町は、原発事故のあと放射線量に応じて3つの区域に分けられました。町の中心部は最も線量が高く、帰還困難区域に。

2年前、ようやく避難指示の一部が解除されます。そして、かつて農村地帯だった大川原地区に、新たな町の拠点を建設することになりました。

役場庁舎や住宅地を造成し、ゼロからふるさとを作り直そうとしています。

喫茶店は新しい商業施設の一角を借りて、再開します。マスターの武内一司さん(67歳)です。

喫茶店 店主 武内一司さん
「これがいちばん古いのか、店やったときからだから。40年、この缶使ってる。」

武内さんの店がもともとあった場所は、原発からわずか4キロの町の中心地。喫茶レインボー。大熊の人なら知らない人はいないといわれた、老舗でした。

地元の商店主や農家、そして原発作業員が1杯のコーヒーと会話でくつろぎ、夜はお酒や食事も楽しめる町の貴重な社交場でした。

武内一司さん
「ここ、お店だったところ。」

しかし、かつて喫茶店があった場所は、今はさら地です。

武内一司さん
「来ちゃうと、やっぱり寂しくなる。涙が出るから、どうしても。」

いつ終わるとも知れない避難生活の間に店舗が傷み、解体を余儀なくされたのです。

一時は、店の再開を諦めていた武内さん。その背中を押したのは、かつての常連客の声でした。

武内一司さん
「井戸川さん。いま大熊のほうで、ひとりで生活してる。」

常連の1人、井戸川清一さん。原発事故後各地を転々としていましたが、今は元の家に戻っていました。

「これ井戸川さんの写ってる。」

井戸川清一さん
「土曜日とか、定例会みたいな飲み会をやっていたんです。よくこの写真マスター持っていたな。」

ずっと1人暮らしだった、井戸川さん。毎日のようにレインボーに通い、周りに顔見知りの気配を感じながら静かにコーヒーを楽しみました。

井戸川清一さん
「会話はほとんどしないですよ。ただ『コーヒー』って、(注文を)言うぐらいで。のんびりできるようなところだったね。あって当たり前だったから。いつでもある場所だった。」

10年前、突然奪われたのは当たり前の日常でした。

原発事故の後、井戸川さんは福島県内の避難所で過ごした後、長野に住む姉の元に身を寄せます。慣れない暮らし。朝から酒を飲むようになり、次第に生活は荒れていきます。

井戸川清一さん
「何にも考えないで、ずずら、ずずらって飲んで。もう諦めてたんだか分かんないね。これからの人生。」

心の支えにしていたのが、ふるさとへの帰還。避難生活が1年を過ぎたころ、大熊町に近い福島県・いわき市に移ることを決意します。井戸川さんは、そこで除染の仕事に就きます。ふるさとをなんとか帰還できる場所にしたい。そう願いながら汗を流しました。

そして事故から7年後。大熊町の避難指示の解除に向けた動きが、本格化します。

井戸川清一さん
「やっと戻れるって感じでしたね。それがいちばんのモチベーションになったんでない?」

井戸川さんは、真っ先に大川原地区の自宅に戻ってきました。しかし、周りに知った顔はほとんどありませんでした。

「この辺、家あったんですか?」

井戸川清一さん
「ありましたよ。ここと隣も。」

大熊町の町民は、そのほとんどが避難先での生活再建を選択し、町への帰還を希望する人は9%ほどにとどまっています。実際に戻って暮らしているのは2%。280人ほどです。

井戸川清一さん
「元の生活に戻せって言ったって、無理でしょ。生きがいっていうのも、分かんないな。よりどころ?それもないかも分かんない。考えてないもの。諦めの方が強いかも分かんないね。」

ふるさとに帰っても日常は失われたまま。

井戸川清一さん
「唯一の趣味はこれくらいか。やっぱレインボーの方がうまいね。向こうの方が飲み慣れてっからね、ずっと。」

“居場所をつくりたい” 喫茶店再開への気持ち

もう1人、喫茶レインボーの再開を心待ちにしていた人が、開店準備中の店にやってきました。

常連客の1人、伏見明義さんです。2年前、大熊町に戻り、災害公営住宅で暮らしています。

話題になるのは、仲間の消息。

伏見明義さん
「沢内さんだ。釣りやっているときの写真。残念なことに本当にね。せっかくレインボー始まるっていうのに。」

伏見さんの友人、沢内義清さん。原発事故から3年後、避難先で亡くなりました。

若いころから脊髄の障害で車いす生活だった、沢内さん。レインボーで伏見さんたちとコーヒーを飲む仲間でした。

伏見明義さん
「好きだった。友だちいっぱい集まったりすると、なんとなく落ち着くんでしょ。結構冗談も言う人。『豆2つ3つ多ければいいのに』なんて(武内さんに)言ってたんだ。(コーヒーが)ちょっと薄いってことなんだな。」

沢内さんにとって、事故後の生活は大きな負担でした。埼玉、千葉、福島と避難先を転々とする生活。車いすで長距離移動を強いられた影響もあってか、体調は次第に悪化。ふるさとに帰ることを願いながら、福島市内の病院で亡くなりました。

妻・伏見照さん
「心因性はあるんじゃないかしらね。なんかイライラするっていうような感じかな。自分のところじゃない毎日で。」

伏見明義さん
「事故がなければ、まだまだ長生きしたと思う。」

「そう思いますか?」

伏見明義さん
「思う。」

町の小さな喫茶店。マスターの武内さんが店の再開を本気で考えるようになったのは、震災から5年が過ぎたころのことでした。

喫茶店 店主 武内一司さん
「精神的にやられて亡くなる人がけっこう。俺の同級生も5~6人は亡くなってるけど。」

生活再建の苦しみ、賠償や補償のあり方へのいらだち、ふるさとをなくした喪失感。武内さんは、こうしたストレスが原因ではないかと感じています。

福島県全体でも、震災と原発事故による避難生活の影響などで亡くなる、いわゆる震災関連死はこの10年増え続け2,300人に上っています。

武内一司さん
「事故さえなければ。東電を恨みたい気持ちもあるけど、でも亡くなった人は生き返ってくるわけでもないし。」

よりどころを無くし、生きづらさを抱えて暮らす仲間たち。ささやかでもその居場所を作りたいと、店を再開することにしたのです。

武内一司さん
「人間の絆がけっこう強かったから、ここら辺の人たち。これなければ、何のために生きているのか、分からなくなるよな。(絆を)作りたいっていうより、作らなきゃな。最後の町孝行かな。」

かつての常連客 100年続く梨農家

武内さんが、喫茶レインボーの再開を真っ先に知らせたかった人がいます。

喫茶店 店主 武内一司さん
「関本さんは、もう昔からうちのじいちゃんの頃から付き合ってるのか。じいちゃん、おやじ、俺、ずーっと。」

店の向かいに住んでいた、関本さん一家。古い梨農家でした。600本の梨の木が植えられていた畑は、今は荒れ果てていました。

関本信行さん。誰よりもレインボーの再開を待ちわびながら、4年前、55歳の若さですい臓がんで亡くなりました。

武内一司さん
「俺はノブって呼んでるけど。仲良いというか、半分兄弟みたいな感じだからな。」

「レインボーには?」

武内一司さん
「しょっちゅう来ていたよ。日常だ。水代わりにビールだもん。コーヒーは飲まないの。『ビール!』って言って。」

震災前、農作業が終わるとよく喫茶店に立ち寄った信行さん。家族や子どもの話をして帰るのが、日課でした。

関本さんの家族は今、千葉県に住んでいます。妻の典子さんです。

関本典子さん
「育ててきた梨畑を手放さなければならないというのは、ストレスというか、怒りというか、いろんなものがあったと思います。もちろん悔しいだろうし。悲しいだろうし。」

夫婦は、ブログに家族の歳月をつづってきました。大熊町で4代にわたり、100年続く梨園。震災前は3人の子どもを育てながら、家族みんなで農作業に励みました。

関本典子さん
「家族で1つの目標に向かってやるのが、すごい魅力的だったんです。」

そんな家族が祝い事の時、よく食事をしたのがレインボーでした。

関本典子さん
「家族でレインボー行こうかって言うと、特別感があって。いつもそこに(レインボーは)あるというか。いてくれるというか、安心感がありました。」

原発事故で、先祖代々の土地を失った信行さん。それでも梨の栽培は諦めませんでした。移住先の千葉県で農園を買い取って、梨作りを再開します。初めは困難の連続でした。それでも…。

関本典子さん
「夫に『楽しい?』って聞くと、いつも『楽しい』って言うので。育てていく過程が夫はいちばん好きで、そこに楽しさを見いだせる人だったので。」

一方で信行さんは、たびたびふるさとの大熊に足を運び、畑の様子を見て回りました。ほかの農家が次々と梨の木を伐採していく中、信行さんは残し続けました。しかし、事故から5年がたったころ。

関本典子さん
「これはもうかなりきちゃってますね。」

手入れが届かなくなった大熊の梨の木は、生命力を失っていきました。見えない先行き。悩みを打ち明ける仲間もいない土地。1人で酒を飲む時間だけが増えていきました。それから1年後、がんが見つかりました。

関本典子さん
「町を歩いても誰かしら(知り合いが)いるとか、そういうのはないですね。一緒に何かやったり、集まったりとか。その環境がなくなったのは、いちばん大きいかもしれないですね。」

信行さん亡き後、家族は大熊の梨の木をすべて切り倒し、千葉の畑も諦めました。

関本典子さん
「いっぱい泣きましたから、もう涙出てこないぐらい。残念って言えば、残念ですよね。しょうがないって言えばしょうがないし。時々ふと思うんです。私なんでここにいるんだろう。農業ってそれがなくなると、生きていく土台がなくなっちゃう気がして。なんか、ふらふらと、安定しないというか。」

日常を奪われたあの日から 少しずつ動き始めている日々

3月1日。レインボーのかつての常連客に、うれしい知らせが届きました。

マスターの武内さんが、本格的な開店を前に店をお披露目したいと声をかけたのです。親しい友を亡くした伏見さんや、ふるさとに戻ってきた井戸川さんも呼ばれました。

皆で、10年ぶりに飲む1杯のコーヒー。

関本典子さん
「おいしい。」

井戸川清一さん
「やっぱこの味だよな。思い出す。」

この日、梨農家の典子さんからマスターの武内さんに、うれしい知らせがありました。典子さんの長男の元樹さん(20歳)が、移住先の千葉で祖父からせんていの技術を習い始めました。

元樹さん
「お父さんが千葉に来てまで梨やろうって思って来た感じなので、簡単に農家を止めるわけにはいかないなって。」

元樹さんは、父が守り続けた梨作りをいつか継ぎたいというのです。

原発事故で奪われた日常。それぞれの日々は少しずつ動き始めています。

『ひと事ではない』 福島に思いを寄せる

武田:福島県・南相馬市在住で、作家の柳美里さんにお越しいただきました。原発事故でちりぢりになった人たちが10年たって、ようやく懐かしい場所を1つだけ取り戻すことができた。どうご覧になりましたか。

ゲスト柳美里さん (作家)

柳さん:やっぱり人って魂を皆1人ずつ抱えていて、魂が“孤絶”した状態では生きるのが苦しくなると思うんです。ですから武内さんがレインボーという、かつてあった小さな場所だけど、そこを訪れれば知った顔に会えたり、変わらない味のコーヒーを飲めたりする、よりどころとなる場所ができたということは私もすごくうれしいです。

柳美里さんは、福島のラジオ局で被災者600人の声を聞き続けてきました。

3年前には、南相馬市で書店とカフェをオープンしました。

柳さん:いろんな方がいらっしゃるんです。さきほどコーヒー豆をもっといっぱい入れればいいのにって常連の方が武内さんに言ってましたが、皆さん割と率直に言うので。『ちょっと、ぬるくねえか?』、『もっと熱くしてくんろ』って言ったり、言われたり、そういう交流ですね。そういう場所があると心のゆとりが生まれる。心の“のりしろ”というか、人生の“のりしろ”が生まれると。やっぱり、人の“今”があるのは長い過去がある。梨農家の方も、4代100年続いたとおっしゃっていましたが、自分の家族、父母だけではなくて、祖父母や会ったことがない前の先祖、たくさんの死者と連なって“今”、いるわけですよね。過去があって、現在があって、未来があるという。その線を切断されたのではないかなと思います。レインボーという場所に訪れる常連客との過去は人のつながりも含めた過去なので、そこを寸断されてしまった。関係を断ち切られただけではなくて、根っこから抜かれてしまった。だから皆さん、生きがいを問われても見つからないというふうに、よりどころも今は考えないようにしているとおっしゃるのは、人とのつながりを含めた過去が奪われたということだと思います。

武田:3月11日が近づくと、福島のことや津波の被災地のことも思いをはせる機会が多くはなるのですが、どんどん日常から薄れていってしまうのではないかという危機感を私自身も感じることがあります。

柳さん:すごく好きな日本語のことばで、『ひと事ではない』ということばがあります。私は『ひと事ではない』と思って、思いを寄せていただければなと思ってます。

武田:『ひと事ではない』と、思いを寄せる。

柳さん:“日常”というのはすごく特別な時間ではない、特別な空間ではないけれども、人の人生の大半は特別なことが起きないありふれた日々で成り立っているわけです。そういうものを奪われた。福島と、遠い地域にも日常がある。原発の周辺地域にも日常がある。けれども、その日常が新型コロナウイルスのパンデミックによって、皆さんひび割れている。会いたい人に会えない。したいことができないという思いを皆さん抱えている中で、福島の原発事故によって会いたい人に会えなくなってしまった、帰りたい場所に帰れなくなってしまった人の気持ちと、“痛苦”によってつながることができるのではないかなと。私は、人は『他者の痛みを悼む』ことができるという、それはすばらしい特性だと思います。想像することができる。悼む心を持ち、悼む体を持っているというところで福島のことを感じて、思っていただきたいなと思ってます。

※柳美里さんロングインタビュー
ウェブ記事公開中