クローズアップ現代 メニューへ移動 メインコンテンツへ移動
2020年7月30日(木)

資料館が…慰霊碑が…“歴史”が消えていく

資料館が…慰霊碑が…“歴史”が消えていく

朽ち果てる戦没者の慰霊碑…。倒壊の危険のある碑が全国に数多くあることが国の調査で明らかに。多くの戦友を目の前で失った99歳の元軍人は、自ら建立した碑を撤去し「戦争のことは忘れられるのでは」と苦悩をにじませる。戦争に関する遺品を収集してきた地方の資料館では、入館者の減少などで閉鎖が相次ぐ。こうした中で、ネットオークションには軍服や軍帽などの戦争遺品が出回り、身に着けて楽しむ動きも。戦争体験者が少なくなり、遺品も散逸する中、どのように事実を知り、伝えるのか。

出演者

  • 吉田裕さん (東京大空襲・戦災資料センター 館長 / 一橋大学名誉教授)
  • 武田真一 (キャスター)

戦後75年 なぜ?閉鎖相次ぐ資料館

前橋市の空襲の被害を伝えてきた民間施設、あたご歴史資料館。4か月前、閉館しました。ここで語り部をしてきた原田恒弘さん、82歳です。

資料館は、原田さんら戦争を知る地元の住民などが資金を出し合い、設立。被害の実態や戦時下の暮らしなど、600点の資料を住民から集め展示してきました。

あたご歴史資料館 語り部 原田恒弘さん(82)
「暑い中、子どもたちも(防空壕(ごう)の)中へ入っていった。するとドカーン、ゴーン、ゴーンと、大変すごい音が聞こえた。ずいぶん大勢の子どもが亡くなっているんだよね。」

入場料は無料で、地元の小中学生などの平和学習の場ともなり、年間500人が訪れていました。

しかし、8人いた語り部は、高齢化で6人が引退。原田さん自身も大病を患い、閉館することを決断したのです。

原田恒弘さん
「私も頑張れるだけ頑張ったのですが、もはやこれは限界ではないかと。もうこれ以上は支えきれないというのが、悲しいながら、本当に悲しいんですけどね。」

行き場失う“戦争遺品”

行政が運営する公立の施設でも、資料の受け入れや保管の課題に直面しています。
空襲の熱で溶けた瓶、兵士が戦場でつづった日記など、愛知・名古屋 戦争に関する資料館では県民から寄せられた1万4,000点余りを保管しています。ここ数年、こうした“戦争遺品”を引き取ってほしいという依頼が増えています。

学芸員 森杉直子さん
「こちらのお持ちだったご本人様のお話とか、伺っていることは?」

依頼者
「いや全く。亡くなった後、出てきたので。」

遺品にまつわる情報が分からないケースが多く、専門の職員が調査を行っています。しかし、予算が限られているため、2人の職員で年間1,000点ほど寄せられる遺品に対応しています。さらに、収蔵スペースも限界に近づいているため、戦争遺品の引き取りを断らざるを得ないこともあります。

学芸員 森杉直子さん
「人員とか収蔵スペースといったことは、どこの館も抱えている問題だと思う。(資料を受け入れるかどうか)いま以上に選択を強化しないといけない。」

今回、NHKは戦争に関する展示や企画展を行った公立・私立の資料館などにアンケート調査を行い、138の施設から回答を得ました。その結果、84%が施設の維持管理に「課題がある」と答えました。

アンケートより
“入館者が増加しないため、予算の確保が難しくなっている。”
“施設が老朽化しており、修繕費が企画等の運営費を圧迫している。”
“受け入れた資料が未整理のまま、有効に活用できていない。”

こうした中、「戦争遺品の受け入れを断ったことがある」と答えた施設は半数に上りました。

集めた“戦争遺品”が倉庫に…

さらに、歴史認識の溝によって、市民から集めた戦争遺品が活用されないままになっているケースもあります。この倉庫には、東京大空襲の被害を伝える遺品など、5,000点余りの資料や体験者の証言映像が20年近く眠り続けています。

数多くの戦争遺品は、2001年度に東京都が開館する予定だった平和祈念館に展示されるはずでした。ところが、展示内容に旧日本軍の加害に触れる計画があったため、反対する声が上がります。都議会でも、一部の議員が「あまりにも偏った歴史観」「自虐史観に立った展示」などと主張し紛糾。建設計画は1999年に凍結され、遺品は倉庫に保管されたままになっているのです。

少年時代に東京大空襲を体験し、祈念館のために証言に応じた作家の早乙女勝元さんです。

作家 早乙女勝元さん(88)
「絶対にあってはならないこと。建設計画を決めたのは東京都。その東京都が集めた資料ですよね、都民から。誰しもそこへ預ければ、自分が持っているよりも有効に伝わるだろうと思えばこそ、自分の一番大事なものを出そうと。東京都はその心情を十分に理解しているのか、いないのか。」

今回、東京都はNHKのインタビューには応じられないとしたうえで、「議会で議論が止まっているので、都が主体的に動くことはできない」と答えています。

ネットに出回る“戦争遺品”

今、ネットには戦争遺品が出回り、趣味として購入する人たちも。

「気をつけ。立て銃(つつ)!」

旧日本軍の本物の軍服を着て、歴史を追体験しているとするグループです。大学生や会社員など、10人ほどが参加しています。

参加者
「本物は脚絆(きゃはん)とズボンですね。(手帖も)本物です。」

「当時のもので、さびまくってますけどね。」

参加者
「(ネットで)“日本軍”で調べるだけで、勲章、靴、帽子、服、ほとんど全部出てくる。」

参加者(20代男性)
「貴重なもので何遊んでいるんだと、そういう考えの人もいるということは頭に入れて。でも自分は、あくまでこれは服として見ている。だから普通に使って、使いつぶすというか、そういうこともあります。」

戦争の歴史をどのように知り伝えていくのか。専門家とともに考えていきます。

戦争の記憶 どうつなぐ

一橋大学名誉教授の吉田裕さんは、兵士の日記や体験記などから戦場の現実について研究してきました。現在は東京大空襲・戦災資料センターの館長を務めています。この施設は、東京都の平和祈念館の建設が進まない中、体験者らが寄付を募り建設しました。

東京大空襲・戦災資料センター 館長
一橋大学 名誉教授 吉田裕さん
「これは、ご自分が娘さんを背負って避難している最中に娘さんが亡くなられた。赤ちゃんが着ていた着物ですね。(東京都の)平和祈念館がなかなかうまくいかないので、こちらで展示することになった遺品。」

武田
「まずお伺いしますが、東京都が計画していた平和祈念館、歴史認識の溝によって凍結されて、結果として戦争体験者から集めた遺品や証言が生かせないという事態になっていますけれども。」

吉田裕さん
「かつての戦争の性格をどう考えるか。あるいは死者・戦没者をどういうかたちで追悼するか。こういう点を巡って、十分なコンセンサスができていなかった。先延ばしにする、棚上げにする。そのまま75年の月日が流れて、今日のこういう状況に至っている。」

武田
「各地の資料館は今、非常に厳しい状況に置かれています。130余りの施設が回答を寄せていただいた今回のアンケートですけれども、『施設の老朽化』が77件。『運営費が十分でない』が57件。また、『人員確保ができない』などが課題として上がっていました。」

吉田裕さん
「兵士の書いた体験記、従軍日記、そういうものをきちんと収集して管理していく(公的な)施設が、残念ながら日本にはない。その代わりを果たしてきたのが各地の資料館、記念館だと思いますので、本来ならば国がやるべき事柄を代行してきたという面がある。それがおそらく、ここ数年の間に急速に失われていく。戦争体験を次の世代に継承していくことを考えた場合、非常に大きな支障をきたす。」

武田
「インターネットで購入した戦争遺品を身に付けていた、若者たちの姿もありましたけれども。」

吉田裕さん
「ショックですね、やっぱりね。無残な死を遂げた兵士たちの記憶が、それなりに戦後の日本の社会の中に息づいていたので、日本軍の兵士の軍服を着て、武器を持ってゲームを楽しむことを、はばかられるような文化はあったと思うんです。それが崩れてきているんじゃないかという意味では、非常に象徴的な出来事かもしれない。」

99歳 戦友の慰霊碑を…

今、戦没者を悼む慰霊の場も相次いで失われています。
かつて戦場だったフィリピンに慰霊碑を建てた、元軍人の松本實さん、99歳です。

松本實さん(99)
「これは一番最初に作った慰霊碑です。リモンの峠です。」

45年前、生き残った戦友とともに建てた慰霊碑。しかし今、訪れるのは松本さんだけになっているといいます。
松本さんが従軍したフィリピン・レイテ島。所属していた第1師団は、1万3,000人のうち9割以上が亡くなりました。

松本實さん
「見捨ててしまったということが、私として一番いまだに頭に残っている。もう目の前で(戦友が)やられても、収容することができない。戦死者を穴を掘って埋めて(他へ)移るのが本当なんでしょうが、どんどん砲弾が落ちてきますので、そんなこと(埋葬)はできない。」

90歳を超えてからも毎年、慰霊碑へのお参りを続けてきた松本さん。去年(2019年)12月、フィリピンに向かっていました。戦友が命を落としていった、かつての戦場。今回訪れた目的は、慰霊碑を撤去し、一つの区切りをつけるためでした。24歳で終戦を迎えた松本さん。死んでいった仲間のことを思い続けた、戦後75年の歳月でした。

松本實さん
「私は、慰霊碑である以上、みっともないところに置いておくのはいやです。何も書いてない、ただの棒をぼーんと置いておいたり、そういうことはちょっと情けないと思う。本当に寂しいですが、しょうがないですね。もう一代、次になったら、全部戦争のこと忘れられるんじゃないかと。」

この3年で、少なくとも海外にある27の碑が撤去されています。

慰霊碑を守れない…

思いを込めた慰霊碑が維持できない。戦没者の遺族にとっても、切実な問題となっています。

遺族
「これが親父です。フィリピンで(飛行機が)落とされて。」

フィリピンで犠牲になった52万人を慰霊する比島観音。戦没者の遺骨の多くが戻らなかったため、遺族は慰霊碑を訪れ、父とのつながりを感じてきたといいます。しかし、2年前に遺族や戦友の会が高齢のため解散。維持管理が難しくなっているのです。
遺族の亀井亘さん、77歳です。

亀井亘さん(77)
「うちの親父はこの人ですね。34歳で戦死しているからね。」

唯一残る、父・正美さんの写真。2人の子どもを残し、フィリピン・ルソン島で戦死。遺骨も戻ってきませんでした。

亀井亘さん
「慰霊しかない、できることは。残ったものはそれしかない、できることは。(親父は)無念だったと思いますよ。そういうところで命を落とすことは。心残りだったと思いますね。」

父を失った戦後の苦労を分かち合うことができたのも、慰霊碑のおかげでした。慰霊碑が縁で多くの遺児たちとつながり、支え合ってきました。

遺児
「就職もできなかった?」

「銀行なんか受けられなかった。」

「絶対だめだった、片親はね。」

「片親だから、だめだと。」

「不公平だと思ったな。」

遺族の会が解散後、慰霊碑の管理に当たるのは亀井さんら80歳前後の遺児たち。しかし、限界が近づいていると感じています。

亀井亘さん
「本当にできるなら、1年でも2年でも続けたい気持ちは十分に持っている。3年先まで大丈夫と、そういう言葉が、今の体力とか健康状態を思うと、自分の口からなかなか(言えない)。そういう気持ちはあっても体が動いていかない。残念だけどしょうがない。」

“戦場の死”と慰霊碑

武田
「あの慰霊碑というのは、ただ単に亡くなった方々の御霊(みたま)に手を合わせる場所だけではなくて、いかにあの戦争が悲惨だったかということを、そこに封じ込めるといいますか。」

東京大空襲・戦災資料センター 館長
一橋大学 名誉教授 吉田裕さん
「日本軍の兵士の死にざま、死のありようが、非常に無残な死の累積だったわけで、例えば戦病死や餓死で亡くなっている方がおそらく過半数。そういう戦争を戦ったわけですね。そのなかで特に生き残った方、戦友の方々はその現実を見ている。それに対する強い思いがある。遺族の思いを考えてみますと、外地にある遺骨の半分ぐらいしか収集できていない状況がある。そこから来る非常に大きな喪失感のようなものを感じます。その思いが、各地の慰霊碑、追悼碑に込められているんじゃないかと思います。」

武田
「慰霊碑を建てた元兵士の松本さんが、自ら慰霊碑を撤去すると。次の世代になったら戦争のことが忘れられてしまうんじゃないかとおっしゃっていましたが、どうご覧になりましたか?」

吉田裕さん
「非常に印象的な、心に刺さるご発言でしたね。ああいう体験をきちんと次の世代に伝えていくという面で、『何が自分にできるか』を感じさせる発言でした。」

“戦争遺品”どう守り 伝える

戦争の体験、記憶が風化していく中、次の世代にどう引き継ぐのか。4か月前に閉館した前橋市のあたご歴史資料館では、今、語り部の原田さんや市の担当者などが集まって、資料の目録作りを進めています。

あたご歴史資料館 語り部 原田恒弘さん
「おそらく死んだ仲間のことを思ってね、大事に悲しい思い出とともに(遺品を)持ってきたのではないか。」

前橋市は、市民の思いが込められた戦争遺品の散逸を防ぐために、すべて引き取ることを決めました。

前橋市 文化国際課 課長 田中力さん
「資料一つ一つが後世に伝えるべき貴重なものだという認識はあります。今後、(前橋)空襲について、市民に知っていただくような取り組みはしていきたい。」

今後、資料をどう活用していくのか。市は歴史家や宗教関係者など、さまざまな立場の人を集めた検討会を設置し、議論を始めました。

前橋市の検討会 座長 手島仁さん
「官民連携して、一つの場で大きなまとまりで発信する、語り伝えることが必要だと。」

私立博物館を運営する 町田錦一郎さん
「一人一人の兵士の方々は、みんな家族のため郷土のため出征した。」

展示施設の整備や必要な経費などについて、今後検討を重ね、今年度中に提言をまとめる予定です。

手島仁さん
「戦争を議論する場合には、考え方、立場、戦争観の違いがあって、ともするとそれが政治問題化して議論がうまく進まないこともあるので、いろんな立場は理解したうえで議論の共有化をはかって、なるべく透明性があって市民の方に公開して、そういう中で議論することを心がけている。」

戦争の記憶 どうつなぐ

武田
「前橋市の取り組みは、どうご覧になりますか?」

東京大空襲・戦災資料センター 館長
一橋大学 名誉教授 吉田裕さん
「非常にモデルになるケースだと思います。戦争の性格、侵略戦争とか自衛戦争とか、それから戦死者の追悼の仕方、こういうことを巡っては、まだ意見の対立があると思うんですけれど。まず議論しやすい、合意がつくりやすいところからオープンな形で議論を進めていくことが重要だと思うので、資料をきちんと保存して次の世代に伝えていくこと自体は合意ができると思うんですね。それをああいうオープンな形で、いろんな方の意見を聞きながら進めていくというのは、非常に大切な、重要な試みだと思います。」

武田
「今、私たちができること、何を知るべきなのか、何をすればいいのか。」

吉田裕さん
「単なる知識として戦争の時代について知識を学ぶだけではなくて、そこを生きてきた人たちに対する共感といいますか、そういう気持ちを培っていくことが重要ではないかと思います。一人一人の戦没者に、死者に、顔があり名前があり人生があって、その死を悼む遺族がいて、生き残ってきた方々もさまざまな思いを持ちながら75年を生きてきた。そういう状況に対する想像力、それを培っていくということ。」

武田
「そこに生きた人たちの生々しい感覚みたいなものを、大切にして伝えていく、感じ取っていく。」

吉田裕さん
「それがないと、日本人の戦没者だけじゃなくて、アメリカ軍の戦死者、中国軍の戦死者、戦渦に巻き込まれて亡くなったアジアの人々、それに対する想像力も広がらないと思うんですね。そういう意味での個別性を重視して、自分の問題として受け止めてもらう。どういう工夫ができるか求められている。迫られている。」

今回の取材で心を揺さぶられたのは、戦争体験者が語った「次の世代になったら、戦争のことは忘れられてしまう」ということばでした。私の祖父も戦争で命を落としました。ただ、詳しいことは知らずにこれまで来ました。

戦争の記憶をどう次の世代につないでいくか。みずからの問題として考えていきたいと思います。


■NHKプラス 「#戦後75年」プレイリストはこちら

#戦後75年 プレイリスト

関連キーワード